真姫の目
「第一エンジン始動」
「了解。第一エンジン始動します」
計器チェックをするマリスの声に応えた、機体に搭載されたミカの分身とも言える子機システムが、艦内から繋がれたケーブルの電力でエンジンを始動する。
ジェットタービンの音を響かせ、アイドリングを開始した異様な姿を持つ真っ黒な飛行機ヴォイドは、
「エンジン出力安定。第二エンジンも始動します。外部ケーブルをパージ。スタート位置まで後退します」
ケーブルが外れて艦内に収容されると、逆推進を絞ってゆっくりと艦首方向に後退していく。
マリスが設計、制作したステルス機ヴォイドは、全長も全幅も現用機と比べるとかなり小さく、機体上部に扁平した四角い吸気口を持つ、高圧吸着させた水素を燃料に使用するエンジンを二基搭載する。排気口も四角い、空中で高機動を発揮できる二次元ノズルである。
そのエンジンを挟むように、内側に傾けられた二枚の尾翼。これはレーダー波を反らしてステルス効果を上げる為である。
一見すると翼が無いように見えるが、これは格納時や巡航時は、前進式の可変翼を機体と平行にしているからで、離着陸時や高機動時は機体と直角まで展開できる。
コックピット下部にも可変式のカナード翼があり、これらと電子制御された操縦系の組み合わせで、従来の航空機には出来なかった驚異的な空中機動が可能となった。
アトラトルと同じく、素材自体がレーダーに捕らえられにくくステルス効果のある、超セラミック・カーボンコンポジットで構成された機体は強度が高く、燃料にはケロシンではなく、高圧吸着した水素を使う事もあって恐ろしく軽量で、機体下面のエアノズルと二次元ノズルを下方噴射することにより、V/STOL(垂直、短距離)離着陸が可能な設計になっている。
武装は搭載していないが、機銃を積めるスペースは確保されている。ステルス性を考慮してミサイル他用のパイロンは無いが、胴体下面に縦二列、横四列、計八基のウェポンベイがある。中央の縦二列、横二列のウェポンベイは大型多目的ベイとしても使用可能になっている。
資材を持った乗員達が艦外に出てくるとハッチが閉じ、艦の前後で作業が開始される。
ヴォイドがセイルの直前の位置で停止すると、コックピットの右下に立っている、マリスが不在の間、艦を任せる鈴木に、
「じゃあ、あとは頼んだわね。なるべく早く帰るつもりだけど」
と、ウィンクしながら語りかけた。
「了解です。後ほど合流地点で」
鈴木は芝居掛かった敬礼をすると、機の前方で作業をしていた者達と共にセイルから艦内に入り、
「全員、艦内に入りました。それでは、グッドラック!」
通信でフライトの安全を祈る言葉を伝えてきた。
後方には、ポリマー被覆を灼かないように設置された簡易整流板。前方の閉じられたハッチ上には、軽金属で組んだ骨組みに、金属メッシュを固定した即席のスキージャンプ。VTOLを使わずに、離陸時に消費する分の燃費を稼ぐつもりだが、計算上は強度が持つはずである……。
「さぁ、行くわよ真姫。ちょっと苦しいけど、我慢してね」
「了解……」
複座コックピットの前席、ガンナーシートに座る真姫にひと声掛け、計器チェックを終えた後席のパイロットシートに座るマリスは、離陸準備に入る。
「ミカ、後進全速!」
「了解」
マリスはミカからの返信を確認すると、前進式の可変翼を最大展開。カナードも展開し、二次元ノズルを下方へ。機体下面のエアノズル始動。スロットルをアイドルからテイクオフ位置に。
「ヴォイド発進!」
ブレーキをリリースすると強烈な加速Gが掛かり、離陸時の機体の浮力を少しでも増すように、風上に全速で後進するアトラトルから、短い滑走でふわりと浮かび上がるようにヴォイドは飛翔した。
重量に耐えられなかったか下面噴射に吹き飛ばされたか、直後に、即席のスキージャンプはバラバラになって吹き飛んだ。
「離陸成功。通信終了!」
マリスが言い残し、ヴォイドが高度を上げていくと、薄暮の空にその姿が溶け込むように消えた。
セイルから出て来た鈴木達は、ばらばらになって飛び散った、金属の骨組みやメッシュを艦上や海上から出来る限り拾い集め、艦内に戻って各自が配置につくと、
「急速潜航。合流地点へ」
鈴木の操艦で深度五十に潜航。パキスタン沖十キロの、海上レーダーや巡視艇の哨戒網の中という、危険な地点の海中への移動を開始する。
離陸した後にヴォイドが消えたように見えたのは、飛行が安定した時点で作動させた、背景同調迷彩システムによるものである。
これは機体表面を覆うバイオ素材の生体膜で、カメレオンの皮膚のように周囲の景色に合わせて迷彩を施す。しかし、設計上の性能ではアトラトルはマッハ三まで出せるが、この生体膜が熱で死滅してしまうので、最高速はマッハ二までに抑えられる。
もっとも、同乗している真姫はパイロット訓練を受けたりしている訳ではないので、元から超音速巡航などは出来ないが……。
高度九千で水平飛行に。カナードを収納、可変翼を機体と並行位置に戻して時速約千キロで巡航に入ると、数分で予定地点の手前の空域に到達した。
「さぁて、これから曲芸飛行に入るけど、真姫、頼むわよ」
「うん……やってみる」
これからマリスが行う飛行は曲芸とも言えない、自殺行為に近いものである。
「行くわよ……エンジンカット」
エンジンを切ったヴォイドは、可変翼を最大角に開いて滑空しながら、少しずつ高度を下げる。
ヴォイドのようなCCV(Control Configured Vehicle)と呼ばれる高機動機体は、飛行安定性を犠牲にして運動性能を向上させているが、これは電子制御やエンジンの推力というアシストが無ければ、まともに飛ばないことを意味する。
エンジンを切っても、内蔵のバッテリーで電子制御によるコントロールは働いているが、エンジンの推力と二次元ノズルによる推進方向制御は無い状態だ。
「……もうすぐ高度三千。真姫、用意」
「……了解」
サイドスティック式の操縦桿と、フットペダルに全神経を集中し、
「高度三千。水平飛行に移る」
マリスは絞り出すように言いながら、降下を制御する。
航海中に受信した事前情報で調べておいた、堀内悠希が勾留されているらしい山岳地帯の中の峡谷上空を通過したヴォイドは、大型多目的ウェポンベイに搭載したバッテリーでエンジンを再始動。高度を上げて安定した飛行に戻る。
「どう、真姫?」
「多分、わかった。もう一回で確実」
真姫は滑空中ずっと、機体下面のカメラから、ヘルメットのバイザーに投影される目的地の映像を、その眼で見続けていた。
山岳ゲリラの集落は、衛星などからの探査から発見されないように偽装されているが、視認可能な高度で真姫に生活光を発見してもらうために、無謀な無動力滑空降下をしたのだった。
「了解。同じコースで、もう一回上空を飛ぶから」
真姫の言葉を聞いたマリスはヴォイドを旋回させ、一度目と同じコース、同じ高度からエンジンを切って、同じ降下率で滑空しながら目的地上空へ侵入する。夜間飛行であり、制御を失った機体でなくても神業のような操縦テクニックである。
目標上空を通過し、再びエンジンを始動して高度を上げた機内で、
「どうだった?」
「間違いない。場所は特定できた」
マリスからの問い掛けに真姫が自身を持って応えた。
目標地点から直線距離で五キロほどの、渓谷地帯の奥まった場所に、V/STOL機の強味を活かして機体を滑り込ませて着陸させる。
着陸時の騒音だけはステルス機でもどうにもならないが、それでも操縦技術を駆使して極力少ないエンジンやエアノズルの噴射で済ませ、マリスはヴォイドを着陸させた。
機外に降りたマリスは、乗降用のハシゴでガンナーシートの脇に登ると、身を乗り入れるようにして真姫の持つタブレット端末に表示される地図に見入った。
「ここで間違いない?」
「うん。光の発生源が同じで揺らぎがあったから。人が生活している場所に特有の現象」
航行中に受信した情報で特定していた場所だが、既に放棄されていて偽装のために照明だけ灯しているという可能性は否定出来ないので、無謀な滑空降下と真姫の「眼」で確証を得たかったのだ。
「眼」と呼ばれる能力、それは真姫の棋士としての武器でもある「写真的記憶能力」の事を示している。物心ついた時から眼で見た情景を、真姫は全て記憶している。授業中にノートを取らず、黒板を見るだけで済ませていたのはこのためである。
この能力の弊害に「思い出したくない記憶」を忘れられないという物があるのだが、真姫の場合は記憶の引き出しに仕舞い込んで、必要な時だけ記憶を引き出す事が可能になっている。両親の死という悲しい記憶を、思い出したくない時にはそっとしておく事が出来るのは幸運だった。
棋士になると決めた時から、真姫は本やネットなど流通している棋譜を。プロになってからは棋士の総本山である日本棋院に保存されている古い棋譜までを片っ端から閲覧し、映像として残されている対局も観て研究を重ねた。その甲斐あって勝率は実に七割を超え、しかも同じ対局相手には負けた事が無かった。
マリスとの生活を始めて仮想対局をするようになると、初対戦の相手との勝率も上がってきた。現在は男女問わず、一番対戦したくない、女流以外のタイトルに最も近い棋士として認識されるようになっていた。
しかしマリスは、真姫の「眼」を囲碁だけに使わせるようなことはせず、学校が休みで対局の無い時には、国内外を問わずにあちこちに連れ回した。
主に博物館や美術館、名所や史跡で感性や見識を高めるのが目的だったが、同時に美術品や遺物、ブランド品などの贋物も見せた。これは一度見ておけば真姫が騙される事が無いからだ。
どういう訳か、博物館でも美術館でも、マリスは関係者や専門家しか入れない領域まで立ち入る事を許され、同行する真姫にも数多くの秘蔵品の閲覧を許された。
後に、これはマリスの思惑で、何か琴線に触れる物があればという部分と、能力を活かして他の道、例えば一度見れば違いに一瞬で気がつくので鑑定家へ、という道筋を作っていたという事がわかった。既に並以上の棋士として活躍してはいるが、人生の可能性を少なくする事は無いと思ったのだ。
ただ、能力を見込んで、各所から収蔵品の場所の問い合わせや、本当に鑑定の依頼が度々来るようになったのは良かったのかどうか……。
このマリスの思いに真姫が反発する事は無く、逆に記憶力だけで取得可能な資格試験などを、時間の許す限り片っ端から受験した。
論文と面談の対策だけマリスにしてもらい、狭き門である司法試験も受けて予備試験も本試験も合格してしまったのだが、十ヶ月の実務修習には対局を休まないと参加出来ないので、合格しただけで済ませるという勿体無い事もしていたりする。
「ありがとう。じゃあ堀内君を迎えに行ってくるから、少し待っててね」
笑顔で言ったマリスは、ボタンを操作してキャノピーを閉じると、開放された状態の大型多目的ウェポンベイから、大きな荷物を二つ取り出す。
一つを地面に下ろし、もう一つの、一メートルほどの筒状の物を右肩に担ぎ、下側にあるハンドルを握ってヴォイドの三メートルほど上に狙いをつけ、人差し指でハンドルに付いているレバーを引いた。
ポンっと鈍い音を立てて、圧搾空気で打ち出された物が花が咲く様にヴォイドの上で開き、全体に覆い被さった。
覆い被さった物から延びたケーブルを持ってヴォイドの下に入ったマリスは、ウェポンベイの中のバッテリーにケーブルを繋ぐ。すると機体に被せられた物の色が周囲の景色に溶け込んだ。
これはヴォイドの機体表面と同じ、背景同調迷彩システムの素材で出来たシートだが、エンジンを切ってあると本体のシステムが使用できないので、外部電源にケーブルを繋いで作動させている。
パイロットスーツを脱いで、軍放出品の黒いタクティカルウェアの上下にダナーのワークシューズを履き、ベルトループに大型の刃物の革製のシースを通すと、夜闇の中でも目立つ綺麗な金髪を隠すために、黒いニットキャップを被ったマリスは、置いてあった荷物、アルミフレームの大型バックパックを背負うと、星明りしか無い山岳地帯へ向けて駆け出した。