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えむあんどえむず  作者: 帝
2/7

○○○発進!

「それで、ご用件は? もしかしてうちの被保護者が何か?」


 ティーカップの置かれたテーブルを挟んで向かい合った摩耶に、優雅に微笑みながらマリスが問い掛けた。真姫は二階の自室に居る。


「これで悠君……堀内悠希君を助けてあげて下さい。なんとか金融機関を回って集めました。アメリカドルで二百万ドルあります」


 膝の上のアタッシェケースをテーブルに置き、


「どうか、お願いしますっ!」


 絞り出すように言うと、摩耶は頭を下げた。


「……どうして私に? こんな、ただの一般市民に」


 優雅な態度は崩さずに、ダージリンの芳香を楽しみながら一口飲んだマリスは、摩耶の言葉を待った。


「失礼ながら調べさせて頂きました、レディ・ジョーカー……それとも、理事長とお呼びした方が?」


「っと、そこまでで。それを知ってるのは大したものだけど、そこから先には進まない方がいいとだけ言っておくわ」


 摩耶の言葉を遮ったマリスは、苦笑しながらカップをソーサーに置いた。


「それは、わかっています。悠君がこんな事にならなければ、あなたとは一生話をする事も無かったんじゃないかと思いますし……でも、他に頼れる人がいないんです!」


 顔を真赤にし、身体を小刻みに震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼす摩耶を見て小さく溜息をつくと、


「詳しく話してみなさい。真姫! あなたも来て!」


 マリスは二階の自室に居た真姫を大声で呼び寄せた。


「お茶、淹れ直しましょうね」 



 真姫も交え、淹れ直されたティーカップを置いたテーブルを囲み、摩耶から更に詳しい話を訊く。


「修学旅行のコースで、インドからパキスタンの史跡を巡るというコースを堀内君……あの、もうここからは、いつもの呼び方にさせて貰いますね」


「ああ、うん。話し易いようにどうぞ」


「あ、はい……」


 マリスと真姫に向けた視線を戻し、一息つくと摩耶は話を続ける。


「それで、殆どの参加者はインドとパキスタンの都市近郊の史跡だけのコースだったんですが、歴史とかが好きな悠君は、オプションのモヘンジョダロ遺跡をセレクトしまして……軍隊から護衛も出るということなので、彼に押し切られたというか丸め込まれたというか……」


「なるほど。で、そこで誘拐された、と」


「え……誘拐?」


 ここまで事の成り行きを見守っていた真姫が、マリスの誘拐という言葉に反応した。


「はい。気の毒ですが護衛の方は全員死亡。悠君はどこかに連れ去られて、反政府ゲリラからパキスタン政府に、身代金の要求をする犯行声明の映像が送られたんです」


「確かその映像はネットにも流されてたわね。それにしても二百万ドル……政府要人でも大企業に所属しているわけでもない、高校生の身代金としては考えられない額ね」


「その理由なんですが、実は……」


「ん、わかってるわよ。堀内君の家へ要求してるんじゃなくて、摩耶さん、あなたによね?」  


「あ……そう、です」


 おっとりした雰囲気のクラスメイトの堀内悠希とは何度か話した事がある。ゲームや本や歴史好きの、特に目立つところも無い少年であり、家は比較的裕福なようだが、身代金誘拐などと結びつくほどでは無かったと思う。


 そして神野摩耶には、噂の域を出ないレベルだが色々と逸話があり、その一つが生徒会の予算を運用し、各部活道や生徒会の費用を捻出しているという物だが、これは全くの真実だった。

 ただ運用とは言っても、実際には休み時間や放課後に生徒会室でネット(回線ではなく、場所)を利用しているだけであり、学校側から出ている予算に手を付けたり損失を出した事は無い。そして、この運用で高校生にしてはあり得ない額の利益を稼ぎ出しているのだった。


 もう一つの噂というか、一部の熱狂的なファンの男子生徒が否定しているのが、摩耶と堀内悠希が同棲しているという物で、こちらも真実で互いの両親公認という状況だった。しかも、交際から同棲に至る流れは摩耶の申し出からだという……。


「あ、あの雑誌の記事……」


 ここで真姫の脳裏に閃いたのが、数ヶ月前の写真週刊誌の「最年少取締役」という見出しのページで、いかにも着慣れないスーツを着た、戸惑った表情の堀内悠希に、輝くような笑顔のドレス姿の摩耶が、腕を絡めている姿が写った、とあるゲーム会社の株主のパーティーの取材記事だった。

 真姫の反応に小さく頷いた摩耶は、


「それで、どういう経緯で日本の写真週刊誌の記事が現地に伝わったのかは不明ですが、ともかく悠君がゲリラに捕らえられて身代金が要求されたという訳です。私はただ、悠君の好きなゲームメーカーの株を、株主優待のために買ってただけなのに……」


 さらっと、とんでもない事を言いながら膝の上で手をぎゅっと握り締め、体を震わせながら言葉を続ける。


「でも、パキスタン政府はテロリストに従う事はしないと、勾留場所の捜索と軍による救出を計画していますが状況は芳しくなく、日本政府も外国での事なので……でも、ゲリラは三日後までに身代金を渡さないと悠君を……お願いします! レディ・ジョーカーっ!」


「ちょっ! その名前はダメって言ったでしょ!?」


 普段は悠然とした態度を崩さないマリスが、明らかに動揺してテーブル越しに摩耶の口を抑える様子に、


「えー……なに、その変な名前。あ、そういえばネット囲碁でもジョーカーだったっけ」


 冷ややかな視線を送りながら真姫が呆れたように言った。


「あはははは……本当はジョーカーじゃなくて中国の女禍のつもりだったんだけどね」


 冷や汗を流しながら乾いた笑いをするマリスは、真姫からの指摘がよほどショックだったのか、一度がっくりと顔を下げたが、気を取り直したように摩耶に向き合い、


「摩耶さん、堀内君の事はなんとかします。私の方で現金を用意する時間が無いから、このお金は使わせて貰うけど……はい、これ」


 夕食時から着ていた和服の袂から、細長いメモ帳のような物と万年筆を取り出して何かを書き込み、ページを千切って摩耶に渡した。


「え……あの、これは?」


「高校生が無駄遣いするんじゃないの。あと、式には出られないと思うから、先に御祝儀だけ渡しておくわ」


「なっ! ご、御祝儀って……わ、私と悠君は、そんなんじゃ。私の方が年上だし……」


「足りなかった? でも、堀内くんと結婚するんでしょ?」


「っ! け、けっこ……」


 全身真っ赤になった摩耶はマリスから受け取った紙片を取り落とし、にやけながら両手で頬を抑える。

 摩耶が落とした紙片を拾い上げた真姫は、そこに書かれていた文字を見て一瞬くらっと目眩がした。それは額面二百五十万ドルと記入されている小切手だった……。



「然るべきところから頂くから、心配しないで」


 正気を取り戻した摩耶が必死に小切手を返そうとするが、こう言ってマリスは受け取らなかった。


 その後、マリスは三十分ほどの間に数ヶ所に数ヶ国語で電話をしたり、ノートパソコンでメールを送ったりした。


「後は連絡待ちね。さ、真姫、出掛けるわよ」


「え、なんで私も? それに五日後に対局よ?」


 真姫がマリスに頼んで行っていた仮想戦の、高木六段との本当の対局が五日後に控えている。


「計算上は余裕だから、お願いっ! あなたの『眼』が必要になると思うの」


 両手を合わせて頭を下げるマリスに、


「……仕方ないなぁ。クラスメイトのためだしね」


 大きくため息を付きながら真姫は承諾した。


「ありがとう! 大好きよっ、真姫!」


「いや、あの、うん……」


 抱きしめてくるマリスにささやかな抵抗の素振りを真姫は示したが、照れ臭さを我慢して自分も背中に手を回す。


(こういうストレートな感情表現には慣れないなぁ……)


 やがて、どちらからともなく手を離すと、


「さ、支度しましょう。着替えを少しと身の回りの物程度で十分だから」


「ん。わかった」


 そう言い交わして、二人はそれぞれの自室のある二階へ向かった。 



 和装からウェスタンシャツと、大胆に短くカットしたジーンズに着替えて髪も下ろした、見るからにヤンキー娘といった格好になったマリスと部屋着のままの真姫は、小さめのスーツケースに衣類その他を荷造りすると、半地下のガレージに向かう。

 ガレージに三台停めてある車のうちの一台、一見すると公道は走れないのでは無いかと思える、オープンホイールの小じんまりとした車、ケーターハム・スーパーセブンの申し訳程度のトランクスペースに、スーツケースを置いた。

 狭いシートに真姫と共に座ったマリスは、エンジンを始動すると、胸のポケットからカードリモコンを取り出して操作した。

 ガレージのシャッターが開くのかと思っていた真姫は、床下から機械音が聞こえたかと思ったら床が沈み込んで行くのに驚いた、というか呆れていた。


「いつの間にこんな物を……」


「こんな事もあろうかと、って言うと格好良いかしら?」


 ため息混じりの真姫の言葉に、あっけらかんとマリスが応じている間に床の下降は止まった。頭上を見上げると十メートルくらいは下がったようだ。


 ライトを点灯させると滑らかな動作でギアを入れ、行く手に伸びる緩やかな下り坂の通路へ向けてゆっくり発進させる。通路の幅は上下左右共に四メートルほどである。


「あ、飲酒運転……」


夕食に、軽く飲んでいた酒の事を思い出した真姫が、運転するマリスの顔を見ながら呟いた。


「大丈夫よ。公道じゃないから」


誤魔化すように微笑みながら、マリスはスーパーセブンを走らせる。


 約五分ほどのドライブで、積み上げられた大量の資材や工作機械、大型車両や重機が複数の光源で照らし出される、大型船が建造出来そうな巨大な工場のような場所に乗り入れた。



「……地下道だけじゃなくて、こんな物まで造ってたの?」


 周囲の様子を見渡しながら、呆れたように真姫が言った。


「いやいやいや。地下道は確かに自宅の地下まで延ばしたけど、ここは元々あった施設を利用しているだけよ?」


「地下道は掘ったんだ……」


「あははは……」


 運転しながらのマリスの説明によると、この場所は戦時中に建設された秘密ドックで、戦局悪化の際に都内某所からこの場所まで繋がっている地下道を使い、潜水艦で要人を国外に脱出させる計画のための施設だったらしい。

 結局、戦局の推移の中で脱出用の潜水艦の建造は計画倒れになり、元々極秘扱いで一部の人間しか知らなかったこの場所は、都内の入口近くで塞がれた地下道と共に存在を忘れ去られる事になった。

 そんな忘れ去られた施設の存在を、ひょんな事からマリスは知ることになる。



 とある諍いを発端として、祖父のフィリップが出資している企業の株や不動産をマリスが買収した。嫌がらせというレベルを遥かに超える、グループ企業の経営が危なくなるくらいに……その買収した物件の中に海外の学校、後に真姫が通う星鳳学園も入っていた。


 為替品目以外の買収物件は、実物の価値を確認するために各地を巡り、当然ながら星鳳学園にも視察に訪れた。そこで数多くの書類を確認すると共に、学園内を見て廻った。


 学生達があまり立ち入らないような、校舎裏の緑地帯の林の中で偶然に、土と落ち葉に半ば埋もれるように、錆びついた取っ手付きの金属製の蓋を見つけた。その場から離れたマリスは登記簿や建築計画の書類で確かめたが、蓋の用途は不明だった。


 その日の深夜、工具や照明器具、念のために登山用品なども用意して学校に潜入したマリスは、蓋を開けて下りた先に、巨大な施設を発見したのだった。この時に利用した入り口は現在は閉鎖され、痕跡も消されている。


 マリスが地下施設内を調べると、現在は朽ちて使用できなくなっている物もあったが、各方向に延びる地下道と出入り口を多数発見した。


 大学の工学部が使っている工場棟に、大型車両も通過できる地下道が延びているのを確認したマリスは、本格的にこの施設を利用する事を検討し始め、内部の更なる確認と補強や改築、運び込む工作機器や資材などをあれこれ思案しながらこの日は外に出た。


 自身で研究中だったり計画中だったりする物を形にする為の施設、なるべく広く、途中経過が他者の目に触れない場所という条件でマリスは探し回ってた。

 無人島やヨーロッパの廃城などが候補になったが、研究、開発に必要な大量の水と電力を賄える場所、ある程度の人員を確保できるなどの条件を考えると難しい。


(ここは理想的ね……)


 思わず、マリスは笑みを漏らす。


 翌日から必要な物の手配をしながら、理事会の議案に工場棟の増改築を提出し、学内の計画として工事を開始した。


 増改築の工事と同時進行で、元々、重量のある鋼材などを直接搬入できるようになっている工場棟内の、一見すると行き止まりになっている場所に、油圧でスライドする、地下施設内へ車両が乗り入れられゲートが秘密裏に造られる。


 学校の近くに一戸建ての家を購入したマリスは、その家の真下まで新規の地下道を掘削すると共に、今後利用する予定の幾つかを除いて、元々存在した地下道と出入り口を封鎖し、書類等も精査して施設に繋がりそうな物は全て抹消した。


 一年以上を掛けて内装を整備し、クレーンなどを増設。各種工作機器に溶鉱炉、カーボンやセラミックの焼成窯も設置された。元々のこのドックの目的だった造船、修理の施設、外部に繋がる地下水路と水門も設計を新たに整備された。


 ここまでの作業は、マリスが大学の学食で偶然を装って親しくなった学生や大学院生に、相応の金額とレポートの要点指導などを報酬に提示し、秘密厳守を条件に手伝いを依頼した。


 重機の操縦が出来る人間が数人居たので、どうしても人の手が入らなければならない部分以外は機械の力を利用したので、かなりの規模の工事や搬入と設置にも関わらず、動員した人数は総勢で三十名程度である。

 この時に参加してくれたメンバーとは、報酬に満足してくれた事もあって現在も協力関係にあり、事が起きれば働いてくれるどころか、この施設に入り浸りになっている者まで居る。



 あちこちでトラックやフォークリフトが忙しく走り回る中を、すり抜けるようにして到着した場所は、かなり大きいプールのような、コンクリートの囲いの上に繋がる階段の脇だった。


 スーパーセブンを停めて、トランクスペースから荷物を下ろしているマリスに、


「こんばんは、マリスさん、真姫さん。これが物資のリスト。搬入作業は順調です」


 声を掛けてきたのは、たまに二人の住む家に顔を出す大学生の鈴木だった。年下の真姫に対しても、いつも丁寧な態度で接してくれている。

 ヘルメットを被った鈴木は二人に愛想の良い笑顔で軽く頭を下げ、マリスにタブレット端末を差し出すと、


「部屋の前に運んでおきますね」


 そう言って両手に二人のスーツケースを持つと、身軽に階段を上がっていった。

 鈴木の素早い行動に、おいてけぼりにされたようになった二人は、互いの顔を見合わせて同時に苦笑すると、並んで階段に向けて歩き出した。



 階段を上がりきった先、縦百メートル、横五十メートルくらいのコンクリートの囲いの中に、翼の無い航空機のような威容が、スポットライトに照らし出されていた。


 全長は四十メートルくらい。全体にほっそりとしたフォルムで、後部に行くほど幅が広がり、後端の両サイドに推進器らしい構造が見える。

 コンクリートの囲いの中、下側から金属のリフトに支えられたそれの上部に、クレーンで次々と物資が運び込まれている。


「あれがアトラトル。あれに乗って行くのよ」


「アトラトルって……確か槍投げ機?」


 真姫の疑問の言葉は、コンテナの搬入に続いて運ばれてきた、アトラトル以上に異様な外見の荷物を見て遮られた。


「……飛行機?」


 自信なさげに真姫が呟く。

 囲いの中に鎮座しているそれと同様に、細長いフォルム自体はジェット戦闘機のようだが、見た目には翼に該当する部分が無かった。それに全長は、せいぜい十メートル。全幅は四メートル程度。知っている範囲の機体と比べるとサイズが小さ過ぎる。


「あれね。仮称はヴォイド。目的地が内陸なので、開発中の機体だけど引っ張り出すことにしたの。開発中とは言っても、数度の試験飛行は済ませてあるから大丈夫」


「良くわからないけど、飛行機があるんなら、あれで現地まで行けばいいんじゃないの?」


「あー、無理無理」


 真姫の疑問に、ぱたぱたと手を振りながらマリスが応える。


「旅客機ほど航続距離が無いし、空中給油も出来ない。その上、領空侵犯になるわけだしね」


 魅力的な笑顔でウィンクしながら、さらっと非合法活動を宣言されてどうリアクションしようかと思うが、クラスメイトのピンチとなれば、やむを得ないだろうか……?


「まあ、いいけどね……で、すぐに出発?」


「んー、物資搬入は殆ど終わったから、諸々の調整を含めてあと一時間ってところかしらね。とりあえずは艦の中を案内するわね」


 そう言いながら真姫の手を取って歩き出そうとしたところで、フルカウリングのバイクに乗ったライダーが、


「マリスさん、お待たせしました」


 マリスに走り寄りながら声を掛けた。


 エンジンを切り、ヘルメットのシールドを跳ね上げてメガネを外し、ヘルメットを取って、やや小太り気味な顔にメガネを掛け直した。


「御要望の品ですけど、本当にいいんですか? 製作者の方は趣味で作ったけど、重くて引けないって言ってましたよ」


 と、ゴルフバッグのような物を渡しながら、少し困ったような笑顔で言った。

 眼鏡の青年、加藤の言葉を聞きながら、マリスは受け取ったバッグの中身を引っ張り出して確認しながら、


「オッケェーイ……凄くいい品だわ。ありがとうね加藤くん。これ、代金と君への手間賃」


 物凄く満足そうな笑顔でバッグに中身を戻すと、ヒップポケットの財布から、無造作に紙幣を取り出して手渡した。


「毎度どうも。これでバイクのローンの支払いができます」


 屈託なく笑う加藤は物資調達のエキスパートで、どんな物でも依頼を受ければ「教えると有り難みが無くなる」という、謎のルートで必ず入手してくる。


 ヘルメットを被り直し、立ち去ろうとする加藤に、


「相変わらずの見事な手腕だけど、良かったら私の専属にならない? 高給優遇するわよ」


 と、マリスが声を掛けた。


「有り難いお言葉なんですが、好きで趣味的にやっている事でして。それに……」


「それに?」


「彼女とデートする時間が無くなりますので」


 ヘルメットに覆われて目元しか見えないが、明らかに苦笑しつつ加藤が言った。

 一瞬、キョトンとしたマリスは、


「……あっはははは! りょーかい。じゃあ、またお願いするときには宜しくね。ローン費用とデート代が必要な時には、遠慮なく君から声掛けて」


 ひとしきり笑った後にそう声を掛け、手を降った。


「はい。それでは失礼します」


 軽く手を降った加藤は、エンジンを掛けると、見事なアクセルターンで方向を変えて走り去った。



 外壁から延ばされている通路を渡り、艦首部から少し後方上部にある、低いセイルのハッチからハシゴを降りて艦内に入る。


 頭上に繋がっているハシゴを挟んで前方が、モニターや操縦装置に囲まれたキャプテンシート。シート左右の低い階段を降り、キャプテンシートの前に二列に並んだシートが有る。室内全体はワンボックスの軽自動車程度の容積しかない狭さの、これがブリッジの全容だ。


「キャプテン・オン・ザ・ブリッジ」


 柔らかい女性の声が、スピーカーから聞こえてきた。


「ご苦労様ミカ。調子はどう?」


「はい、ミス・マリス。物資の搬入は終了。機器類も問題ありません。充電が完了すれば出港可能です」


 マリスからの問い掛けに、スピーカーからの女性の声が応えた。


「真姫、紹介するわね。この艦のほぼ全てを管理しているミカよ。ミカ、こちらは真姫。艦内で私に次ぐ権限を与えるので登録を」


「わかりました。ミス・マキ、これから宜しくお願い致します」


「あ、はい。宜しくお願いします、ミカ、さん?」


「敬称は必要ありません。どうぞミカとお呼び下さい。そして艦内の事でしたら、なんなりとお申し付け下さい」


 ミカにそう言われて戸惑う真姫に、


「ミカはね、この艦に搭載されたコンピューターの、管理、制御用のAI。でも普通の概念のAIは超えた存在よ。もうちょっとしたら、人間を超えるかもねしれないわ」


 スピーカー越しとはいえ、その自然な受け答えがとてもAIによる対応だとは真姫には思えなかった。

 キャプテンシートに座ったマリスは、モニターに表示されたデータを目で追いながら、


「当分私はここに詰めっ放しになるから、艦長室はあなたが自由に使いなさい。ドアの電子キーは、私とあなた以外では開かないように設定しておくから。さて、ちょっと他の場所の案内もするわね」


 そう言うと立ち上がり、真姫を促す。


 

 キャプテンシートを挟んだハシゴの後方にはドアがあり、狭いがキャプテン専用の個室、艦長室になっている。艦長室のドアの前には、鈴木が運んだ二人のスーツケースが置いてあった。


 ハシゴをさらに降り、艦後方へのドアを通ると二十メートル程の通路がある。ドアは浸水を想定してある厚く重い水密仕様だが、通路は天井は低いが一般的に想像する潜水艦とは違って、最低限のパイプ類以外は剥き出しになっていないので、非常にすっきりとした造りになっている。


 通路の左右に三室ずつ並んだ乗員用の個室。奥に進んで右側に調理室と食堂。左側に外科手術も可能な医務室。突き当りが上方に開放部のある、物資搬入口兼ヴォイドの格納庫。


 最下層の艦首部には、ソナーやセンサーが集中している。ブリッジの真下に位置する場所には、文字通り艦の頭脳と言えるコンピューターブロック。艦底のカーゴルームを挟み、後部にエネルギー区画、その左右に独立した形で、電磁推進器区画がある。


 艦内の施設の説明を一通り受け、真姫はブリッジ後方の艦長室に入った。一応、個室ではあるが、ちょっと広めのユニットバス程度のサイズの部屋である。

 艦内通話装置を兼ねたスピーカーに、壁面埋込み型の多目的モニター、上段がベッドになったクローゼットに折りたたみ式のテーブル、洗面設備とシャワーだけの浴室と、狭いが機能的な造りになっている。



 セイルのハッチを自ら閉じてブリッジに戻ったマリスは、前方のシートに二名の乗員が座っているのを確認する。主操舵手のシートには鈴木が、左の副操舵手のシートには電子機器に詳しい大学生の山田が着席している。


 自分もキャプテンシートに腰を下ろしたマリスは、


「プールへ注水開始。水位が規定に達したらリフトオフ」


 施設内を制御下にしているミカに命じる。


「了解。注水開始します」


 囲いの側面や底からポンプによって急速に流し込まれた水は、やがて艦の喫水に達する。


「規定水位に達しました。固定リフトをオフします」


 ミカの声に続き、艦体各所にあるリフトの固定が解除され、油圧で下降していく。これで完全に水に浮いた状態になった。


「リフト収納されました。発進準備完了」


「潜行。ゲート開放」


 鈴木と山田が配置には付いているが、現在のコントロールは全てマリスのキャプテンシートから行われている。ゆっくりとその身を水中に没するアトラトル。と同時に艦前方の多摩川に繋がる水路へのゲートが開く。


「ゲート開放しました」


「じゃあ行くわよ、ミカ。試験後悔が処女航海になっちゃって申し訳ないけど。前進、両舷最微速」


「了解。最微速、発進します」


 ほんの一瞬、動き出したという感じはしたが、まだ最微速ではあるが水の抵抗を感じさせない、実に滑らかな推進である。


「水路を抜けました。ゲート閉鎖」


 視認は勿論出来ないが、ミカからのアナウンスで多摩川の本流に出た事を確認。ここで慣熟のために操舵を鈴木に渡す。


「河口に出たら深度十、速度二十ノットに。浦賀水道を抜けるまでは周囲の警戒をしつつ、深度と速度を維持」


「了解。深度と速度を維持します」


 マリスの指示に従い、高性能のパッシブソナーで周囲の艦艇の位置などを解析し、ガラス越しに外の風景を見ているように、概念図として表示しているモニターで確認しながら、鈴木はミカのサポートを受けて旅客船や商船、漁船を余裕を持って回避しながら浦賀水道を目指す。

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