私立星鳳学園
雛壇型に席が並ぶ教室内。大半の生徒が、教師が説明をしながらホワイトボードに書き込む内容をノートに書き写している中、窓際の席に座る一人の女生徒だけは、時折ホワイトボードに視線を向けるだけで、机上に開かれた本のページを高速で捲っていた。それは読んでいるというよりは見ているだけの動作である。
百六十センチ程度の身長で少し痩せ型、メタルフレームの眼鏡を掛け、髪はストレートのセミロングという、整っているが目立たない風貌の少女は、完全に教室内の風景に溶け込んでいる。
物静かな雰囲気とは裏腹な鋭い視線を向ける本は「囲碁世界」という月刊誌で、誌名の通り囲碁界の動向や棋士のピックアップ、タイトル戦などの結果や棋譜等の内容の専門誌で、読んでいる少女自身も棋士である。
藤堂真姫六段。十六歳、高校二年生にして女流名人、女流本因坊、女流棋聖の女流三冠のタイトルを保持している実力者である。
将棋と違って囲碁の棋士に女流プロというのは存在しないので、この場合の三冠は囲碁界でも女性棋士のみが参加できるタイトル戦の冠位という事になる。
真姫は小学生時代からジュニアの大会で頭角を現し、中学二年の時にプロ・アマ混合戦の大会で優勝し、特例で試験を受けて合格してプロになった。
中学生女子であり、通常の院生という下部組織の経験無しにプロになった、変わり種の棋士の真姫の誕生は、当時はマスコミでも大きく取り上げられた。
その後のタイトル獲得等の活躍もあって、本人は固辞したが囲碁の普及のためと懇願されたので、テレビや雑誌の取材を受けたことも少なからずあった。CMへの出演だけは断固として拒否したが……。
左手首の腕時計で時間を確認し、そろそろ授業が終わりかと思った真姫が読み終えた本から視線を外し、ふと窓の外を見ると、
(あれは……生徒会長の神野さん?)
長身で艶やかな長い黒髪の美少女、一学年上の高等部生徒会長の神野摩耶が、バッグを抱えて正門から外へ駆け出していくのが眼に入った。
何が? と思う内にチャイムが鳴り、教師が授業終了を告げて退出すると、生徒達も三々五々、ノートや教科書を片付けて教室を出て行く。
授業終了前に校外に出ていった神野摩耶の行動が気になったが、特に会話をした事がある間柄でも無いので、小さく息をつくと真姫も帰り支度を始めた。
単位制の学校なので一応自分のクラスという物はあるが、朝夕にホームルームを行うような決まりは無い。伝達事項がある場合は放送か正門近くにある掲示板に発表され、登録してあれば電子メールでも情報を受信できる。
真姫が今日受ける授業は終わったので、荷物をまとめて立ち上がったところで、
「真姫、お昼ご飯一緒しない?」
一応のクラスメイトである広末桜から声が掛かった。
ショートヘアーで日焼けした活発そうな印象の桜は、見た目通りのスポーツ少女で陸上部に所属。百メートル走の県内記録保持者で、大会には大学や実業団のスカウトが訪れて、桜の走りに注目している。
「えっと、今日は駅前に行かなきゃならなくて……駅方向なら付き合うけど」
「ああ、指導? なら駅前で、ご飯だけ一緒しよっ」
事情を承知している桜は言うが早いか真姫の腕を取り、笑顔で教室の外へ向けて歩き出した。
真姫と桜が通う星鳳学園は、私立の単位制の幼稚園から大学院までの一貫校で、多摩川を挟んで東京都と反対側の神奈川県川崎市にある。経営者である理事長は、時折指示を出す以外は運営を理事会と職員に任せ、学校行事等には姿を現さない。
入学試験は一切無く、年間の授業料は決して安くはないが、希望者は全て受け入れる方針を取っている。幼稚園から高等部まで制服があるが、着用は強制ではない。
授業料が高い反面、特に学業や運動等で優秀な者には授業料免除や、返済不要な奨学金制度も充実している。卒業生が所属したり起ち上げた企業や個人からも数多く出資されているのだが、これはイメージアップと在校生を囲い込みたいという青田買いの思惑もある。
校則に沿って停学はあるが、授業料を払っている限りは学校側から退学を勧告されることは無い。その校則は基本的には国内法を遵守していれば良いという程度の物であり、これに反すれば校則ではなく法によって罰せられるという事になる。
単位制なので組み立てによっては、毎日フルタイムで授業を受ける必要も無い。これは平日に対局の予定が入る事のある真姫のような人間にとっては、不必要な欠席をしないで済む助けになる。
日本の国内法に従って運営されているので、留年の回数が嵩めば退学になる事もあるが、本人にその気があれば、提携している海外の学校に学籍を移しての継続学習や研究、日本では難しい飛び級による学位や修士、博士号の獲取得もサポートされている。
多摩川沿いから、かなり広い範囲で歪んだ「田」の字のような学園の敷地が広がり、「田」を四分割した「口」の各辺を接するような形にトラムの路線が敷設され、生徒や職員、路線から百メートル以内の住人には無料で利用できる様になっている。
トラムの停留所からバスに乗り継いで、二人は川崎駅前のファーストフードの店に入った。
細身だが体育会系の桜は中々の健啖家で、ハンバーガーのセットに追加でフィッシュバーガーを平らげて一息ついた。特に少食という訳ではないが、真姫はチーズバーガーとポテトのセットとウーロン茶だけでお腹いっぱいだ。
デザートのアップルパイに手を付けたところで、桜が真姫に話しかける。
「そういえばね、うちのクラスの修学旅行に行ってる連中が、帰国予定日になっても帰ってこないんだって」
真姫や桜のクラス、とは言っても入学式や学園祭などの行事の際の団体という程度の意味しかないのだが、修学旅行は四つのコースから選択でき、行き先も人数も期間もバラバラである。
桜は国内の沖縄で十日間、真姫はアメリカ西海岸で二週間のコース。出発は秋になってからである。
桜が言ったクラスメイトの修学旅行とはインドとパキスタンの史跡を巡るコースで、選択した生徒達は二週間前に出発している。
「インドとかは、良く飛行機の発着が遅れるみたいだから……」
「だといいんだけどねー」
真姫の言葉にそう返した桜は、アップルパイを食べ終わると、カップに残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
笑顔で手を振る桜と別れ、真姫は近くのビルの三階にある個人経営の碁会所に向かった。経営者の主人から、地元在住のプロに是非という事で利用者への指導を頼まれたからだ。
「こんにちは……」
扉を開けて、八分入りくらいの碁会所に真姫が入ると、
「いらっしゃい、先生。今日も宜しくお願いします」
碁会所の主人が人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。
真姫の存在に気づいた対局中では無かった利用者が、早速指導を受けようと近づいて来た。
(仕方ないんだけど、年上の男の人に先生って呼ばれるのには慣れないなぁ……)
曖昧な笑顔を浮かべて、最初に声を掛けられた初老の男性に促されるままに盤の前に座る。
プロ棋士の真姫にとって、指導による収入以外は素人(アマチュアの段位所持者も何人かはいるが)との対局のメリットは少ないと最初のうちは思っていたが、たまにプロでは考えられないような一手を打ち込んできたりするので、今ではスケジュールの許す限る指導に出向くことにしている。逆に、プロ同士の研究会には殆ど参加したことがない。
三時間ほどで指導碁を終え、書店で新刊をジャンル問わずに眺めた後、駅と学校との大体中間点に自宅があるのでバスではなく徒歩で帰ることにした真姫が、途中にある商店街を通り過ぎようとすると、
「おじさん、これまけてぇ」
トレーナーにデニムのミニスカートにエプロンにサンダルという服装に、今時あまり見かけない買い物かごを腕から下げた女性が、語尾にハートが浮かぶような甘い声で八百屋の店主に言い寄っている。
声と服装だけ見ればどこの若奥さんかと思うところだが、見れば映画にでも出てきそうな金髪美女だった。
カラフルなシュシュでポニーテールにまとめられた、軽くウェーブのかかったシャンパン・ゴールドの髪、吸い込まれそうなエメラルド・グリーンの瞳、日本人と比べれば白いが純粋な白人よりは温かみのある色合いの肌、そして身体のラインが出にくいサイズが大きめのトレーナー越しにも、メリハリの効いたプロポーションなのが伺える。ミニスカートから伸びたすらりと長い脚線は、まるで彫刻のようだ。
顔が小さく全身のバランスが良いので身長は高くも低くも見えるが、良く見ればサンダルのヒールを含めても身長は百七十センチも無さそうで、真姫より少し高い程度だ。
「もー、しょうがないなマリちゃんは。よし、じゃあ小松菜はおまけしちゃおうかな」
「やたっ。だからおじさん大好きっ!」
軽く抱きつかれた八百屋の店主は相好を崩しながら、小松菜と他の購入品をまとめて袋に入れた。
「それじゃおじさん、またねぇ」
「毎度あり。マリちゃん、又来なよ」
威勢のいい声に送られた美女は、
「うん。いい買い物だった……あら真姫、偶然ね。いま帰り?」
真姫に気づくと声を掛けた。
「……どうせ気づいてたんでしょ? 荷物、少し持つわ」
「あら、ありがとう。じゃあ帰りましょうか」
同性でも思わず魅了されそうな笑みを浮かべる美女、マリス・ミリオンは真姫の同居人であり、現在は亡くなった両親に代わっての保護者でもある女性だ。
真姫の両親は地方出身者同士の駆け落ち同然の学生結婚で、お互いと子供の真姫以外には親類と呼べる存在は殆ど無かった。
両親ともに若くして優秀な研究者で何冊かの著作もあり、将来は大学か研究機関に迎えられるだろうと前途有望だったのだが、真姫が中学二年の時に不意な交通事故で亡くなってしまった。
天涯孤独になってしまった真姫は、気丈に一人で両親の葬儀を済ませると、親切心からではあるが施設に入るように薦める担任教師の言葉を頑として拒否し、数日前に合格したプロ棋士で生計を立てる事を決意する。
父親が幼い娘に様々な遊びを教える中で、初めて囲碁を打ったその日に稀有な才能に気づき、娘にせがまれるままに相手を続けた。
真姫自身も対局を積み重ねたり、様々な本での研究をしながら出場した数々の大会で勝利し、当然のようにプロへの道を選んだ。この時点で高校進学は全く頭に無かった。
そんな真姫の元に現れたのが一面識も無い美貌の外国人女性、マリスだった。
「はじめまして、藤堂真姫さん。私はマリス・ミリオン。あなたの保護者になりに来ました」
外見からは想像が出来ない流暢な発音で日本語を喋り、丁寧な物腰で生前の両親の知り合いという事でお悔やみを言ってくれた見知らぬ金髪美女の、満面の笑顔での爆弾発言にカッとしそうになったが、悪意からでは無いというのは読み取れたので気を鎮めた。仮に真姫を引き取っても莫大な遺産とかがあるわけでは無いのだから。
「せっかくですが、自力で生活していこうと思ってます。両親のために祈って頂いてありがとうございました」
無表情で淡々と言う真姫に、
「その考えは本当に立派だと思うけど、保護者無しの中学生には、ちょっとした事でも面倒が多いわよ。その辺りは、わかってる?」
と、マリスは笑顔を崩さずに問い掛けた。
「それは……わかっているつもりです」
決意が揺らぐ事は無いが、マリスの言う事は真姫に理解できる。成人していない、保護者も保証人もいない人間が生活していくには、世の中は色々と面倒に出来ているのだ。
「んー、面倒な事が多いのはわかっているみたいだけど、その辺は理屈じゃないわよね。多分、同じ境遇になったら、私もあなたと近い考え方をすると思うから……だから、余計に放っておけないのよね」
自分の決意を頭から否定しない、形の良い唇に人差し指を当てて思案する眼の前の女性に、真姫は少しだけ親近感を抱いた。
「会ったばかりの私に言われても信用出来ないかもしれないけど、別にあなたを束縛する気は無くて、成人するまで雑事に煩わされずに済むようにしてあげたいだけなの。でも、あなたの決意は堅い……という事で、わかりやすく勝負で決めましょうか。そうね、あなたの得意な囲碁で」
「……本気、ですか?」
すっ、と眼を細め、真姫は真っ直ぐに視線を送る。他の人間が同じ場所に居合わせれば威圧感を感じるのではないかという程だが、マリスは柳に風と笑顔のまま受け流す。
「ええ、勿論。それとも、自信が無いかしら? 私は他の物でもいいんだけど、それだとこちらが一方的に有利になるし……」
後に、マリスのこの言葉は全くの真実だとわかるのだが、この時は見くびられたという感覚しか無かった真姫は、
「わかりました、お受けします。私が勝ったら、二度と私の前には顔を出さないで下さい」
トップの腕前では無いが、自信を持っている囲碁での挑戦に冷静さを欠いていたのだった。対局自体を断る事も出来たのだから……。
持ち時間はお互い一時間と申し合わせた。対局用の時計等は無いので目安としての時間でしか無いが。
碁盤を用意し、座布団に座った真姫は、
「先番をどうぞ」
と言いながら、マリスに黒石の入った容器、碁笥を渡した。
「あら、握りじゃなくていいのね。それじゃあ遠慮なく」
通常の棋士同士の対局では、握りと言って碁笥に手を入れて石を掴み取り、石の数が偶数か奇数かで先番を決める。しかし、プロが指導する時などの実力差がある場合は、指導される側が有利になる先番である黒石を使って打ち始めるのが一般的である。
碁笥を受け取るマリスを見つめながら、
(私の知る限り、外国人の有力棋士にマリス・ミリオンという人物は居ない……)
記憶の引き出しを確かめると、真姫は白石の入った碁笥を自分の脇に置いた。
囲碁は東洋の頭脳ゲームではあるが欧米でも人気が高く、実力のある棋士が大勢いる。それでも女性棋士は男性に比べれば多くはないし、マリスのような目立つ容姿だったら注目されないわけがない。
「それでは、お願いします」
「お願いします……」
基本が椅子での生活になる欧米人には難しいはずの正座をし、綺麗に背筋が伸びたまま礼をするマリスには風格さえ漂っている。
そんな仕草に一瞬見とれていた真姫の眼前で、パチっと心地の良い音を立てて黒石が打ち込まれたのは盤の中央、天元と呼ばれる場所への初手。かつては多く使われた手ではあるが、近年では不利とされる。
この時、真姫の脳裏に浮かび上がる光景が合った。それは一年ほど前に、インターネット囲碁で対局した相手の初手だった。その対局で真姫は敗戦したのだ。
(あの時の対戦相手、JOKERって名前だったけど……)
囲碁や将棋が好きな者は、プロ棋士が対局で使う戦法を真似る事が良くある。初手の天元打ちは流行遅れなので、盤を挟んでの対局でもネット碁でもベテランや実力者があまり使うことは無くなっていた。使う場合は実験的な意味か、相手を下に見ている場合等である。
対局を挑んだ時の言葉から、マリスは真姫が実力のある棋士なのを知っている筈なので、下に見られているという事は無いと思う。しかし、もしもあの時の相手が眼の前にいる人物と同一だとして、初手に天元を選んで打ち込んできたのだとしたら……最初から侮る気は無かったが、自分の中の引き出しの全てを使って戦う事を改めて決意する。
盤面に視線を注いだままの真姫は掛けていた眼鏡を取り、碁笥から掴み出した白石を打ち込んだ。
そして二時間後、囲碁を始めてからこの日まで無かった、あり得ないような大敗を真姫は喫したのだった。
買い物をした商店街から徒歩で十分程度の場所、交差点の角地にある、半地下のガレージがある二階建ての一軒家が、マリスと真姫の現在の住まいだ。
一階の玄関を入って右手に洗面所と浴室、奥に客間。左手にダイニングキッチンと広いリビング。二階にはそれぞれの部屋とクローゼットや収納庫がある。
帰宅した真姫は自室で部屋着のブラウスとスカートに着替え、三十分程で宿題を終えると一階に降りて、リビングのソファではなくカーペットの敷かれた床に座布団を置いて座り、碁盤に向き合っていた。
その隣ではマリスが行儀悪くあぐらをかいて、大画面テレビに向かってゲーム機のコントローラーを握っている。プレイしているのはFPSという種類のゲームで、補足されたエネミーがあっという間に屠られていく。
音は真姫の思考の邪魔にならないようにスピーカーから出さず、右耳だけに付けているインナーイヤーヘッドホンから聞いている。
「黒、6の七……」
真姫が呟きながら黒石を打つと、
「んー……白、5の六」
ゲーム画面からは全く眼を離さずに、マリスが口で白石を打ち込む場所を示す。
「黒、1の十四」
「白、2の十二」
「黒、5の十七」
「白、8の十四」
中盤以降、マリスの白有利で進んだ局面が、この一手でほぼ確定になった。
この後、起死回生の手を数分間探したが、
「……黒、5の十七」
負けの目数を少なくするだけの手を打ち、真姫は投了した。
学校などの日常生活があるので、実に一週間に渡った対局は白のマリスの二目半勝ちで決着となった。
これは真姫の次の対戦相手、前女流名人である高木六段の棋譜や見聞きした性格等からマリスが想定した仮想対局である。後は今回の棋譜を参考に対応策をじっくり練り上げるのだ。
「あら、もうこんな時間。お腹減ったでしょ? すぐご飯に……っと、その前に、真姫、三日前の東証のユーロの終値、いくらだった?」
「……百三十円」
「ありがとう」
真姫と短いやり取りをすると、ゲームとテレビの電源をオフにしたマリスは、ソファの前のテーブルに置かれた携帯電話を手に取りながら、これもテーブルに置いてあったノートパソコンを開くと起動させた。
ノートパソコンの画面を見ながらキーを叩いて入力しつつ、英語、続いて中国語で通話をし終わったマリスは、
「よっし。今度こそ、ご飯の支度しちゃうわね」
笑顔で真姫に言うと立ち上がり、キッチンへ歩いていった。
食卓には、平目の薄造りに縁側の西京焼き、小松菜のおひたしに蛤の吸い物という純和風の料理が並ぶ。
食事をする真姫と食卓を挟んで座るマリスは、和装に髪を結い上げた姿で、備前焼の徳利から注がれた秋田の清酒、新政を口に運んでいる。その仕草には、なんとも言えず風情と、同性の真姫から見ても色気があった。
(まだまだ謎の多い人だなぁ……)
二年以上マリスとの同居生活を続ける真姫だが、聞けばなんでも答えてはくれるが、仕事にしろ趣味にしろ表層をなぞっているという程度の感触しか無く、手痛い敗戦をした出会いの囲碁の対局を含めて、全く底が見えない人物だった。
どうして自分の保護者に、という点に関しては、実はマリスの母親のマリー・クレールからの要請だったという事を、同居を承諾した時点で教えてもらっていた。
マリスの母親のマリーは学生時代に、留学先のインドで真姫の両親と知り合って友人関係になった。本当は自分が面倒を見たいのだが、様々な面で現在住んでいるアメリカを離れる事が出来ず、かといって日本から移住してもらうのも問題があるだろうと考え、娘に自分の代わりを頼んだのだった。
ただ、日本の法律では国籍を持たない人間が姻戚関係を結べないので、懇意にしている弁護士に真姫の後見人になってもらい、保護者としての諸々の雑務を、マリーの代わりにマリスが行うという形になった。
新生活を始めて暫く経ってから訪れたアメリカで出会ったマリーは、成人しているマリスという娘がいるとは信じられない程の、初々しさすら感じられる美貌で、ちょっと現実離れした印象の、物語に出てくるお姫様そのままな女性だった。
西海岸にあるマリスの実家である豪邸(別邸で、本邸は東海岸)で、初めて出会ったマリーは駆け寄ると、
「辛かったでしょう……私の事、お母さんって呼んでくれていいのよ?」
涙を流しながら真姫を両腕で引き寄せ、豊かなバストに顔を埋める形で力いっぱい抱きしめた。
延々泣き続けるマリーの腕の中で、暫く抵抗を続けた真姫の動きが鈍くなってきているのに気が付き、マリスと使用人が慌てて引き剥がしにかかる……。
邸の主でマリスの祖父であり、マリーの父親のフィリップはフランスの貴族の三男で、アメリカに移り住んでゼロから事業を興して成功を収め、各界に影響を及ぼすようにになるほどの地位に上り詰めた、立志伝中の人物である。共に苦労を分かち合った妻のミレーヌは、十年前に他界している。
老境に差し掛かっているフィリップだが、眼光鋭く立派な髭を蓄えた顔には皺も少なく、長身の背筋は真っ直ぐ伸びて健康面に不安は無い。むしろ周囲が困惑するくらい精力的に仕事をこなしている。
フィリップは蓄財には全く興味が無く、経営する企業や個人として研究や福祉、芸術方面への寄付や投資をすると共に、税制面が許す限り自分への報酬は減らして社員への報酬を増やしている。
しかし、自宅に人を招かなくてはならない事も少なくないので、ある程度の広さと調度とセキュリティへ金をかけるのには妥協しているが、それでも私生活は実に質素である。
娘のマリーの個人的な感情で関係の出来た真姫に対し、
「マキ、マリーが娘と思う君は、私にとっても孫と同じだ。なんでも遠慮なく相談しなさい」
そう言いながら手を握るフィリップは、非常に好意的に迎えてくれた。
しかし……、
「……それと、もう一人の孫をよろしく頼む。ふらふらと、どこかに行ってしまわないように」
敢えてマリスの方は見ず、ここにいない誰かの事を話すようにフィリップが言った。
黙って成り行きを見守っていたマリスの眉が、フィリップの言葉を聞いてピクッと動いた。
「お父様ったら、またそんな事を言って。二人が来るまで、まだかまだかって落ち着かなかったのに」
「なっ!? そ、それはマキをだな……」
それまで平静を装っていたらしいフィリップが、マリーの言葉で慌てふためく。どうやら図星だったようだ。
マリーは終始、笑顔で真姫の世話を焼いてくれたのだが、フィリップとマリスのギスギスした雰囲気は終わりを見せる事が無く、一夜明けた朝食の席で、
「マキが成人したら、一緒にこの家に帰ってきなさい」
「お断りです」
この一言が引き金になって大口論に発展した。
真姫の手を引いて玄関に走り出したマリスを、
「またいらっしゃいね。マキも」
食後のティーカップを手に、穏やかな笑顔でマリーが送り出した。
「ええい、話はまだ終わっていないぞ!」
激昂して立ち上がったフィリップを尻目に、この展開を見越していたのか、マリーの指示でまとめられていた手荷物が積まれ、エンジンが掛けられた車、実家のガレージに置いてあったマリスのシェルビー・コブラ427に飛び乗ると、使用人たちが整然と見送りをする中、軽く手を挙げて返礼するとタイヤスモークを上げながら猛然と発進させた。
しかしフィリップもただ見送るなんて事はせず、
「待ちなさい!」
こちらもエンジンがアイドリングされていた、アメリカで限定発売されたBMW ALPINA B12に乗り込んで発進させる。それをフィリップのボディーガードが、映画などで良くFBIや軍関係者が使用しているダッジのSUV ナイトロ数台に分乗して慌てて後を追う。
この後のカーチェイスは周囲を巻き込んでの大騒ぎに発展し、二人が帰国するのに大変に難儀する事になるのだが、それはまた別の話……。
夕食を終え、丁寧に淹れられた玉露を飲み終えた真姫が自室に戻ろうとすると、玄関のチャイムが鳴った。
「夜分にすいません。神野と申します……」
「……生徒会長?」
ドアホンのカメラに写っていたのは、アルミのアタッシェケースを抱えた黒髪の美少女。星鳳学園高等部生徒会長の神野摩耶だった。