3年前
―3年前―
非常に困ったことになってしまった。
会社から来月から1年、東南アジアの方で勤務してくれと言われてしまったのだ。
絶対に海外出張には行かないと宣言していたのにこの有様である。
別に嫁や子供がいるわけでもない。家族が引き止めるわけでもない。だが、俺にはこの日本を離れられないわけがあるのだ。
盆栽である。一口に盆栽といってもそれは多種多様であり、大きさ、種類、樹齢、樹形様々な要素が相まってそれぞれ、その盆栽1本にしかない愛嬌や美しさがある。
俺が所有するこれらの盆栽、数にして108鉢はそれぞれ全てがオンリーワンなかけがえのない鉢なのだ。
そして、勿論だがそれらの大半は自分がこまめに手入れをしなければその美しい形がすぐに崩れてしまう。更に言えばちょっとしたことで病気になってしまうこともある。
なのに、それらを置いて海外へ行けだと?会社はバカなのか?
せめてまだ、気候が日本とまったく同じ国なら盆栽を総動員して行くという手立てもあるのだが、東南アジアは気候的に絶対に無理である。
「いっそ、気候的に一緒なら出張先が異世界のほうがマシだな…」
いい年をして思わずバカな言葉が口から出た。
「どうしても行かなければいけないならもう会社辞めようかな」
誰かに預ける当てが全くないわけではないが、こいつらを毎日見られなくなるのは何よりも耐え難い苦痛である。大体盆栽に使うために金を稼いでいたようなものなのにその盆栽を愛でることが出来なくなるのなら本末転倒である。辞めるのが正しい選択だ。
「よし、次は五郎丸だ!」
少しだけもやっとした気分を切り替えるためにそう口にして108ある中でも一番のお気に入り、樹齢200年を越えるイチイの木、五郎丸を鉢から持ち上げた。
それはいつ見ても見事な直幹、美しく配置された枝ぶり、200年燃え続けているような鮮やかな緑、200年変わらぬ姿であり続ける貫禄、その全長40センチに盆栽の美しさ全てが凝縮されたような最高の一品である。
この盆栽には間違いなく俺以上の価値があると断言してもいい。そう言い切って良いほどの一品だ。
あぁ、もう本当に最高の一品だ。こいつの前では周りが全て霞んで見える。景色にいたっては霞んでどころか歪んで見える。
歪むって何?これどういうこと?景色が歪むし、足元がやたらとふわふわしているんだけど!どころか浮いてるし!
歪んだ景色が虹色に変わっていく、宇宙の真ん中に浮かんでいるような流されているような不思議な感覚に包まれる。
何がなんだかわからない、どんな危機的状況かもわからない、だがこの手に抱えた盆栽だけは絶対に落とさん!死んでも離さん!
五郎丸(盆栽)は俺が守る!
変な感覚がようやく終わる。地に足が着いた感覚がそこにはあった。
だが、五郎丸を持った感覚がなかった。
「五郎丸!」
俺は辺りを急いで見渡す、そこはテレビで目にする中世に立てられた教会のような雰囲気の建物であり、見た事のない20メートルはありそうな神っぽい巨大な像が俺を見下ろしており、見渡す俺を様々な服や鎧を着込んだ金髪白人マッチョ男性が取り囲んでいた。
多分ここは異世界だ。でもそんなことより五郎丸だ。
「おい、盆栽!盆栽はどこだ!」
[化け物だ!]
[巫女が化け物を召喚したぞ!]
駄目だ!この白人たちは見た目のわりに英語とか喋ってくれない!完全に俺にはわからない異界の言葉だ!しかも何か怒りながら捲くし立てている!
全然わからないがもしかして五郎丸は俺たちが召喚したんだから所有権は俺たちのものだとかそういう類の言葉じゃないのか?
あり得るな、素晴らしすぎる盆栽、五郎丸を召喚したまではいいが手違いで持ち主の俺まで一緒に召喚してしまったと。所有権を主張されては困ると言っていると見て間違いない。
[殺せ!]
[殺してしまえ!]
殺気立った白人が叫びながら槍を突きつけてきた。どうやら所有権を例え俺を殺してでも奪いたいらしい。確かに五郎丸(盆栽)はそこまでの魅力がある。
俺は抵抗する意思がないことを示すため両腕を上げた。
「落ち着いてくれ、俺は所有権を主張するつもりはない。だが、お前ら絶対世話の仕方とかわからないだろ?結構あるんだ。世話のわからない外人が素晴らしい盆栽を買って駄目にする悲しい事件が…。だからせめて俺を殺すなら世話の仕方を伝えさせてからにしてくれないか?」
盆栽を愛する真摯な思いは言葉が通じなくとも伝わるはずである。相手にも盆栽を愛する心があるなら。
[刺せ!]
身体中のいたるところに何かが刺さった感触がした。駄目だこいつら盆栽を愛する心がなかった。せめて芽摘みのポイントだけでも伝えたかった…な…。
あれ?気のせいかあんまり痛くない?なんかグリグリされている感じはあるけど全然痛くない。もしかして、ただの脅しだった?よくわからない。よくわからないが俺が彼らに伝えることは一つだ。
「聞いてくれ芽摘みの方法なんだが」
俺が口を開くと目の前にいた白人が腰を抜かし倒れた。予想外の出来事だったらしい、じゃぁ、やっぱりこれは脅しじゃなかったってことだろう。そして俺は召喚された際に槍が刺さらない何かチート的な力を発動していると。
本当に何が何だかわからない。わからないが一つだけはっきりしていることがある。
「悪いが、お前らみたいなヤツに五郎丸の世話は任せることは出来ないってことだ!」
俺はこいつらを振り払い、五郎丸を探し出し、逃げることに決めた。俺は自分に当たっている槍を払いのける気持ちで腕を振るった。
しかし、別に筋力とかは変わらないらしい。
決め顔をして見栄を切ったのに槍は払いのけることは全く出来なかった。ビックリするほどいつも通りの力だった。
呆けた瞬間、白人男性が独走したラガーマンを止めるように俺の身体にドンドンと覆いかぶさってきた。
塞がれていく視界の中、やっぱりどうにか五郎丸の世話を伝える方向が賢明だったかも知れないと思いながら、俺は両手を後ろで縛られた挙句、牢屋のようなところにぶち込まれることとなった。
久しぶりに日の光を浴びる。しばらく暗闇の中にいたからか。何も見えないほどに眩しい。
あれから幾日が経ったのだろう。押し込まれたのが暗闇だから時間の経過がまったくわからない。
暗闇の中で考えていたのは勿論、五郎丸のこと、そして置き去りにしてきた盆栽たちのことである。もしものときは互いの盆栽を頼むと約束を交わしている中村さん(90)は俺の可愛い盆栽の面倒を見てくれているのだろうか。正直、中村さんの盆栽を総取りする未来は想像していたが、自分の盆栽を預ける未来は想像できていなかった。
両手を縛られたまま、目隠しをつけられ、歩かされ、運ばれて、ようやく目隠しが取られ、目が慣れて景色が見えるようになった頃には俺はやたら見晴らしのいい場所に立たされていた。
どこなのか見当はついた。あのやたらと大きな神様の石像の掌の上である。目の前には建物内にすし詰めになっている老若男女、金髪白人のギャラリーたち、そして真下には燃え盛る真っ赤な炎。直接触れなくても熱い。熱くて死にそうなくらい苦しい。刺されたときはなぜか痛くなかったが熱には耐性がないようだ。絶対に死ぬ。
すぐに自分は今から突き落とされるのだと気づいた。何だこれ?頭が回らない!せめて、お前らに慈悲の心があるならせめて!
「せめて遺書とか書く時間をくれ!中村さんが死んだ後、誰にどの盆栽を託すかだけでも記しておかなければ…ファ!」
ゆっくりと傾く大地というか石で出来た神様の掌、俺はてっきり突き落とされるのかと思っていたが神様に投げ捨てられるということだったらしい。
ギャラリーからは歓声が上がる。真下には燃え滾る炎が揺らめいている。
俺は思う。絶対に駄目だこいつらと。こんな悪趣味な蛮族に愛する五郎丸を任せられるかと。
俺は誓う、絶対に五郎丸を連れてみんな(盆栽)が待っている世界に帰るのだと。
何か凄い力来い!凄い力!
だが願いむなしく空も飛ばないし、ビームも出ない。八方塞である。せめて長生きしてくれ中村さん!ついに神の掌は返り、俺は…、落ちなかった。なんか神の掌に足が張り付いていた。
完全な逆さまになりながら身体に違和感を覚える。自分の足の裏からもう一つ身体が生えたような気味の悪い感覚である。
その気味の悪い感覚に従って、俺は足から生えている何かに脳から信号を送った。
神の掌が元に戻る。俺の視界は通常のものに戻って理解する。
「あ、これ動くわ」
俺は足を上げて試しに一歩動いて見ることにする。足を上げた瞬間ギャラリーたちは踏み潰されると思ったのか悲鳴を上げて出入り口に殺到した。誰も彼も我先にと出て行く中、混雑する人ごみから俺は特徴的な丸さを持った人間を一人摘み上げる。
「おい、アンタ。槍を持った人間に命令していた人だよな。ってことは偉い人だよな。五郎丸はどこだ?」
丸くて偉そうな人は首を振るだけで何かを答えている感じではなかった。そうだちょっと興奮して忘れていたけど言葉が通じないんだった。どうやって伝えよう。そうだ、絵で書こう。
俺は誰もいなくなった教会の入り口付近を突き破り、外へ出た。人々から悲鳴のような、歓喜のようなとてつもない声が沸いていた。
俺はそれを気にせず丸い偉そうな人を摘みながら、巨大な石像の手の小指で地面に絵を書くことにする。
「こういう幹でこういう枝ぶりでこういう葉っぱの素晴らしい盆栽だ。どこにある?」
出来上がった絵は我ながら中々良く書けていた。これなら相手にも伝わるはずだ。
[これは木?森へ帰るというのか!それなら向こうだ!向こう!いい加減下ろしてくれ!]
何かわからないことを言いながら丸い偉そうな人はしきりに指を差した。
「その方向にあるのか?じゃぁ、案内よろしく頼む」
俺は丸い偉そうな人の指差す方向に向かって歩を進める。たまに突然前に出てきて祈りを捧げる人を踏まぬよう気をつけながら。
あれから歩くこと一時間くらいだったろうか。着いたのは森の中であった。
「なるほど木を隠すには森の中だったわけか」
最早、丸い偉そうな人は気の毒なくらい青い顔をしていた。まぁ、気持ちはわからないでもない。これから五郎丸を手放さなくてはいけないのだから。
[森まで案内しただろう!早く、早く下ろしてくれ!]
涙交じりの声で何かを哀願される。言っていることはわからないが盆栽を返したくないと言っているのは間違いないだろう。
[もしかして私を食べる気なのか?止めろ、代わりに若い娘を沢山寄越すから!そのほうがそっちだっていいだろう?頼む!頼む!]
相手に願いごとをするときはどうやらここでも両手を合わせるポーズをとるらしい。必死さが感じるそのポーズに少し同じ盆栽愛好家として心が痛んだが俺ははっきりと口にした。
「駄目だ。NOだ。アンタに五郎丸を上手く管理できると思わない」
俺が首を振りながらそう言うと、男は意を決したように掌から飛び降りた。
おい、いくら何でも自殺することはないだろ?五郎丸がいわくつきの盆栽になってしまうじゃないか!
しかし、幸いにも隣の大木に引っかかったようである。俺はホッとして彼を助けようと腕を伸ばした瞬間、身体が固まった。
途端に意識が朦朧としてくる。頭がボーっと白くなる。脱水症状に似ているな…
気づくと俺は地面で寝ていた。見渡すと丸くて偉そうな男はもうどこにもいなかった。
多分だけど、あの高さから落下したんだよな。丸くて偉そうな人を助けるために屈んでいたとはいえ10メートルはありそうな高さから。本当身体頑丈になっているな。
とりあえず後ろで縛られた縄を何とかしよう。どこかに硬くて尖ったものは…、あの枯れ木の鋭いところなら高さ的にも手頃だし何とかなるような気がする。
あ、これなら時間をかければいけそうだ。
よし、そろそろ切れる、縄が切れた!
待っていろ五郎丸!必ずこの手でお前を迎えに、ってもう手に持っているじゃんか!あれ?
え?どういうこと?これ俺の手だよな?ふさふさして五郎丸とまったく同じ葉っぱがついているけど。俺が見間違えるはずがないこれは五郎丸の葉っぱだ。それの手袋?いや、感覚的にそんな感じはまったくしない!完全に一体化している感じだ。一体化?一体化!
「俺と五郎丸が合体しているだとォォォォォォォォ!!!!!!!!」
自分で叫んでみてもやっぱり何が何だかわからないし、まったく事態が飲み込めなかったけど俺は少しだけ興奮した。