女探偵が語る半生と決意
海老川さんはテキパキと動いた。頼られたのが本当に嬉しかったらしく、こちらとしてはあまり有り難くないほどの張り切りようだった。デパートで僕が着るものを新しく一式買ってくれて――これはたしかに必要ではあったから厚意に甘えたけれど、その後に一万円の神戸牛ステーキをご馳走すると云われたのは頑として断った。僕みたいな食に興味のない奴相手に、変な大盤振る舞いなんかしなくていいんだ。申し訳なくなっちまう。
それから今まで海老川さんが利用していた駅前のビジネスホテルに寄って荷物を回収すると、新しく部屋を取ったホテルの方へ向かった。着いてみるとこれがまた、火津路町にあるホテルなんで高が知れてるっちゃあ知れてるんだが、それでもこの辺りでは一番か二番に良いそれだった。ロビーには噴水があって、ちょっとした催しに使える広間、露天風呂、室内プール、バー、遊戯室、ゲームセンター、カラオケ等々、どう考えたって余計なものがゴチャゴチャと入ってるんだ。そりゃあ、汚いところに泊まるよりは全然良いけどさ。
部屋は七〇一号室。リビングとベッドルームが分かれている間取りで、海老川さんはベッドルームをまるまる僕が使うように云った。プライヴァシーに配慮してくれたんだろうし、それに海老川さんはもともとソファーで寝る人間だからベッドルームは要らないとのことだった。「私は駆け出しの探偵。ハングリー精神や緊張感を保つため、ベッドで熟睡なんてしてられないわけよ」なんて云って、分かるような分からないような理屈だったな。
夕食はルームサービスで済ませることになった。料理が届くまでに、僕はシャワーを浴びることにした。ああ、恥ずかしいけれど、あんなに広いバスルームを使ったのははじめてだったね……実はホテルに泊まった経験もこれまでなかったんだ。足を伸ばせる湯船……しかもジェットバスなんて代物で、むしろ居心地が悪かった。贅沢ってやつは慣れない……分不相応だし、どうしても、不必要なものに感じてしまう。
備えてあったガウンを羽織ってリビングに戻ると、ソファーに腰掛けた海老川さんは夕食を終えて煙草を吸っていた。片手では手帳を開いて熱心そうに睨んでいたが、パタンと閉じて顔を上げた。
「さっぱりした?」
「はい」
「食べなさい。冷めちゃうわよ」
僕は海老川さんと向かい合う位置に座った。テーブルが低くて少し食べづらかったこともあり、何気なく邪魔な髪を耳にかけたんだが、そこで「あら?」と反応された。
「蟹原くん、首の横に大きな傷があるのね?」
「ああ……」
油断していた。いつもは長い髪とシャツの襟とで隠してるんだけどな。
「怪我したんですよ。こっちに越してくる前に」
「随分と大きい傷みたいじゃない? 位置も位置だし……大丈夫だったの?」
「何とかなりました。そうじゃなきゃ、いまこうして元気にしてないでしょう?」
「そうだけど……もしかして、その傷もお父さんが?」
「いえ、違いますよ。よく憶えてませんけど」
この話題を切り上げる意味も込めて、僕はカルボナーラを食べ始めた。味は……別に普通だったな。値段は高いってのに。
「色んな家庭があるわよね。この仕事してるとよく思うし、私もちょっと変わった家で育ったから……」
物憂げってわけでもなかったが、海老川さんは何かしら遠い視線を天井に向けて、ふぅーっと紫煙を吐いた。
「両親が興信所をやってたの。つまり探偵だって云うから……二人とも家を空けてることばかりで、私はいわゆる鍵っ子だったんだけど……誇らしく思っていたし、憧れを抱いていたものよ。でも成長してくると、二人がやってるのは素行調査とか浮気調査とか、そういう下世話で退屈な内容ばかりだって分かってきてね、幻滅したわ。ええ、私がイメージしていたのは、難事件の数々を快刀乱麻を断つが如く解決していく、小説に出てくるような名探偵。なのに現実は、かけ離れていた……」
だけどね――と海老川さんは、煙草の火を灰皿に押し付けて消した。
「理想と現実とのギャップに折り合いを付けるなんて、私にはできなかった。高校を卒業した私は家を出て、私が理想とする名探偵になろうと活動を始めた。もちろん、無名の小娘に依頼が舞い込むことなんてない――だから事件が起きるたびに自ら出向いて、名を上げようと闇雲に動き回った。でも全然上手くいかなかったわ。打ちのめされそうになることばかり。生活も苦しかったし……ああ、意気込みだけではどうにもできないことっていうのが、世の中にはあるんだなぁと思い知らされた。いくら考えても無理がある……この道は、諦めざるを得ないのか……そんなふうに挫けかけていたときよ、転機となる出逢いが訪れたのは」
「………………」
いや、海老川さんの話はまだ途中だったよ。でも聞いてるその途中で、僕はふと、ある思い付きに撃たれたんだ。だから黙って聞いているふうにしながらも、僕の頭の中ではその考えが次々と展開され始めていた…………。
「私が出逢ったのは、まさに私が思い描いていた通りの名探偵だった。怪事件が起きたと聞いて駆け付けた私の目の前で、彼女はそれを華麗に解決して見せた。感激したわよ……こんな人が現実にいたんだ!ってね。しかも女性よ? 物凄く格好良かった――惚れてしまったわ。私が目指すべきはこの人だって思った。だから弟子にしてくださいって頼んだの。はじめは断られたわ。でもストーカーの如く追い回して何度も何度も頼み込むうちに、向こうも折れて認めてくれたの。その人の名が――海老川蜂美」
……別にいいけどさ、育った家庭の話をしてるんじゃなかったっけか?
「それから蜂美師匠のもとで、探偵修行の日々が始まった。助手として働きながら、探偵のノウハウを必死に吸収した。師匠は多くを語らない人だったけど、あんな人の傍にいられるってだけで、学べるものは膨大だったわ。目も眩むような日々よ。師匠は自分についての噂が流れないように気を遣いながら活動してるから有名ではないけど、間違いなく日本一の名探偵。そのスタイルは達人すぎて……私では真似しようとしても到底無理だったんだけどね、でも修行の末に、私も私のスタイルってものを手に入れられた。師匠も『もう私のところで学ぶべきことはない。あとは実戦の中で育み、証明することだよ』って認めてくれて、この海老川蝶子の名前をくれた。身に余る光栄よね……いいえ!」
海老川さんは立ち上がった。自分の話に鼓舞されたのか、漲ったような顔つきになっていた。
「身に余しちゃいけないの。この名に恥じぬよう、私は私の力を証明しないと。あの門出から、師匠には一度も会ってない。何の成果も出さないうちには会わないって決めてるから。でも今回――この火津路町の事件を解決して、私は胸を張ってそれを報告しに行くのよ!」
改まった決意表明をして、彼女は手荷物をまとめると、机の上に携帯電話と二千円札三枚を置いた。
「私はこれから密会があるから――ふふ、変なことを想像しちゃ駄目よ? 秘密の情報提供者のひとりと会ってくるの。この携帯は複数ある内のひとつ。私に連絡する必要が出たら使って頂戴」
そして使い方や連絡先を説明されたんだが、丁寧すぎて馬鹿にされてるみたいだったな。
「お金も自由に使っていいわ。売店はまだやってるみたいだし、エレベーターの近くに自動販売機もあったわね? ホテルの外に出たっていいけど……どの場合も、カードキーを持って出ないと部屋に這入れなくなるから注意よ?」
「今日はもう休もうと思ってますから、心配要りませんよ。朝には帰ってきてるんですよね?」
「そうねー……そのはずだわ。あ、カードキーは私の分もあるから大丈夫よ。私の生活って不規則だから、蟹原くんは蟹原くんのリズムで自由に過ごして。本当、何かあったら遠慮なく電話するのよ? じゃあ、そういうことで――おやすみ」
「おやすみなさ……いえ、頑張ってきてください」
「ふふ。ありがと」
出掛けて行く海老川さん。その背中を見送りながら、さて……僕は内心で問い掛けていた。
密会ってのは――〈夜の夢〉の連中とじゃないんですか?
さきほど僕が思い付いたことというのはこれだった。どうして今まで思い付かなかったのか不思議なくらいだが……おそらく阿弥陀の話をあまり真剣に聞いてなかったせいだろう。うん、彼が云っていた〈首将〉ってのが、海老川さんなんじゃないだろうか? たしか〈彼〉という三人称が用いられていたけれど、否定材料としては弱いさ。
〈夜の夢〉の目的とは、本格ミステリ式犯罪の蔓延る世界を創出することらしい。現実と虚構との違いゆえに虚構へと想いを馳せ、その夢想を現実にしてしまおうと企む。海老川さんはこの動機を抱く人間として、大いに適格だ。リアリティの低下によって殺人事件がムーブメントになるってことも、彼女は前にそっくり話していただろう? 〈首将〉はなぜか僕を欲してるとの話だけど、これも、そんな奴の心当たりとなると海老川さんしかいない。彼女は僕に目を掛けている。〈愛の巣〉を訪れていたし、百合莉のことも知っていた。僕が火津路町で巻き起こっている諸事件に関わるようになったのは、脳姦殺人に居合わせたという最初の偶然を除けば、すべて海老川さんによって演出された、あるいはされ得たことじゃないか。
事件を追う探偵でありながら、実は犯行グループのリーダー。探偵の顔を利用して警察とのパイプも持っているらしいから、この立場の優位性はそれだけでもあまりある。そういった直截的な利点を措いても、探偵として、犯人として、この火津路町で展開されている〈本格ミステリ〉を最も楽しめるのは彼女だろう。ああ、そして、ひょっとすると……彼女は最後には、この事件を解決するつもりじゃないだろうか? 彼女の憧れが本当に〈名探偵〉というところにこそあるのなら……自分が理想とする事件を、自分が理想とするかたちで解決する……そのために、探偵かつ犯人、事件すべてを操作し掌握できる立ち位置を自らつくり上げた……。
荒唐無稽が過ぎるか? しかしこの場合、海老川さんが荒唐無稽な人間なんだ。今のところ探偵としては道化を演じて〈夜の夢〉側の優勢で進めているが、終いにはこれを裏切る腹積もり。無論、阿弥陀たちに本意を明かしているはずはない。では彼らを告発――でなく、あくまで探偵としての推理によってすべてを暴いた後で、彼らによって告発し返されないためには……もしかすると、一度も顔を合わせないようにしてるんじゃないか? 自分の正体を明かさないままに〈夜の夢〉を組織し、指示を下している……可能ではあるだろう。これならば、阿弥陀が〈首将〉を指して〈彼〉と云っていたのも説明が付くんだ。つまりは性別すら明かされていないということで……。
「………………はぁ」
溜息を吐いた。
いや、どうだろうね。辻褄は合うから、本当にそうなのかも知れない。でもだからと云って僕は、別にどうしようということもないんだな。
今こうしてるのは、家にいたくなくてこうしてる。海老川さんの思惑がどうであれ、これに関しちゃ助けてもらってるんだ。まぁ元を辿ればこれも海老川さんが阿弥陀たちに指示して百合莉を殺させたせいかも知れないんだが、そうじゃなくても百合莉とは破局していた。家というか父親に嫌気が差して家出するというのも、遅かれ早かれ夏休み中にそうなった気もするから、このあたりは何とも云えない。
少なくとも、海老川さんが黒幕であるという可能性に思い至ったところで、怒りや恨みみたいなものは全然湧いてこなかったんだよ。僕の人生はもとから滅茶苦茶なんだし、今更それを少し引っ掻き回された程度で、ムキになるような素直さは持っちゃいないんだ。
気に留めておくくらいでいいだろう。どう間違ったって僕が〈夜の夢〉に入ることはあり得ないんだし、ならば阿弥陀たちと一緒に牢屋にブチ込まれるような間抜けな顛末には、最低限ならないんだから。なるようになればいいさ。
もう疲れちまったよ。そもそも僕は、こんなに変なことをゴチャゴチャ考える人間じゃなかったはずなんだけれど……知らず知らず、海老川さんの影響を受けていたのかね? ああくだらない……。
快適なベッドで、就寝した。
うん。ここから僕と海老川さんのホテル生活が始まる。所詮はその場しのぎ……またあの家に帰ることになる……そしてそのとき、父親は僕をどうするのか……というような考えが常に頭の片隅にあって、真綿で首を絞められてるような憂鬱が離れない生活ではあったけれど、振り返ってみるとこれは束の間の小休止みたいなものだったな。あるいは、津波の前の引き潮か。
実際、この生活は途中から急速に慌ただしさを増して、目まぐるしい展開の末に、あの終焉へと連なっていくんだからさ……。




