表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/35

偏執狂の恋人・白樺百合莉

    ○


 どこから話そうか……なんて云いながら、それはもう決まってる。火津路高校の終業式からだ。ムンムン暑苦しい体育館に学校中の奴らがゾロゾロ集まってさ……校長の長ったらしい演説も、体育教師が読み上げる夏季休暇中の注意事項も、妙に浮ついたムードの生徒たちは誰も聞いてなかった。連中、どうせ大したこともしないくせに、どうしてあんなにソワソワしてたんだろうな? まったく馬鹿馬鹿しい時間だったよ。

 終業式は午前で終わって、昼を過ぎると、真夏の陽光が氾濫するグラウンドでは「うおーッ」だの「うあーッ」だの、運動部員たちの元気な声が響き始めた。それを帰宅部の僕はしかし帰宅せず、人がいなくなっていくらか涼しくなった教室で聞いていた。していると、教室の扉がピシャリと開いて、

「らーらららーらーん、らーらららーらーん♪」

 委員会の仕事を済ませた百合莉ゆりりが現れた。白樺しらかば百合莉。えらく上機嫌で尻を振りながら僕の真ん前まで歩いてきて、両手をぱしんっと胸の前で合わせるとしなをつくった。

「夏休みだねぇー、せつくん」

 ニコニコ笑っちゃって、どんな悲劇も知らない生娘きむすめみたいだったな。

「ありあまる時間……二人にとって特別な夏にしようねぇ」

「ああ、もちろんさ」

 僕も微笑で以て応えた。

「実はサプライズがあるんだ」

「サプライズ! 私、サプライズって大好き!」

 僕は嫌いだけどな、百合莉は好きだろうと思って云ってみたら案の定だ。彼女の期待の眼差しを受けて「この三ヶ月間、百合莉にアルバイトで稼いでもらったのはこのためだったんだよ」とか云いながら、僕は鞄から賃貸借契約書をはじめとした書類を引っ張り出して机の上に置いた。

「火津路駅の近くにあるビルの五階をまるまる借りた。僕ら二人だけの空間だよ」

「素敵!」

 彼女は諸手もろてを挙げた。本当に挙げたんだ。次に鳥肌でも立ったのか、両腕をゴシゴシと激しく擦り始めた。いちいち仕草がオーバーなんだよな。

「嬉しいなぁ! 愛の巣だね! 誰にも邪魔されないサンクチュアリ――あッ、だけども蛇ちゃんは連れてきていい?――二人と一匹だけの空間! ありがとお、ありがとお、刹くん!」

「いやいや、百合莉が頑張ってくれたおかげさ。これだけの資金が集まるとはね。はじめ予定していたところよりもツーランク上を借りられたよ」

 年齢を偽って毎日、本当に毎日、夜から明け方までバイトを入れて睡眠はもっぱら授業中に取るという荒業を理由も聞かずにこなしてくれた百合莉だ。彼女は涙ぐんだ声で「ううん。当たり前、当たり前だよぉ……刹くんのお願いなら私、何でも聞いてあげるんだからぁ……」なんてトロけそうに云った。可愛かったな、あれは。指先で目元をチョコチョコ拭いてから首を傾げて、

「でも、どうやって借りられたのぉ?」

「父親を保証人に立てただけだよ」

 その同意書を書類の束から見つけて指し示した。『親権者 蟹原かにばら侑索ゆうさく』『私は、私が親権を有する下記未成年者が、貴殿から、下記の建物を下記条件で貸借することを親権者として同意致します』『貸借人(未成年者) 蟹原刹』云々うんぬん

「当然、父親には内緒のまま上手くやったんだ」

 だけど百合莉はもう別の紙に描かれた間取りを眺めて妄想の世界に没入しちまっててね、聞いてなかった。まぁいいさ。こうも喜んでもらえたなら本望――僕はほとんど何もしてないに等しかったが。

 ああ、僕も百合莉も、それぞれ複雑な家庭事情を抱えてる。互いに詳しいことは知らないけれど、それとなく匂わせ合ってるし察し合ってる。家庭ってやつは二人にとって禁忌的で、どちらの家にも遊びに行くようなことはできない。ゆえあっての、これが僕の打った策だった。

「入り浸ろうねぇ、刹くん……入り浸ろう……」

 ブツブツ呟いてる百合莉は表情こそにこやかだったものの、瞳孔が開いてて、唇の端からは今にも涎が垂れてきそうだった。彼女が僕との恋愛に対して見せる異様な執着は、おそらくこの夏休みにこそ剥き出しの狂気となって花開くだろう……その白い手首に刻まれた無数の美しい自傷の痕を見ながら、僕はそう思ったっけ。



 百合莉と知り合ったのは二年生で同じクラスになったときだった。器量が良いし、独特な雰囲気があるからすぐ目に付いたな。薄幸そうな顔立ちでいつも柔和に微笑んでて、肩甲骨のあたりまで伸びた髪は一本一本が繊細で重たい印象はなく、全体的に緩い喋り方や所作しょさも相まって、ふわふわとした綿毛みたいな存在感を持ってるんだ。

 ただし僕が彼女に惹かれたのは、その明朗なイメージとは裏腹に、彼女の中に何かドロドロとした重たい想念が渦巻いてるのを見て取ったからだった。あけすけな笑顔に隠して、暗くおぞましい価値観を肥え太らせて持て余してるってことが、時折その瞳の奥に宿る鈍い病的な光だの、独りでいるときにふと遠くを見遣って表情に落ちる影だのから、感じ取ったからだった。

 これは僕の見方が穿うがち過ぎだったんじゃない。事実、周囲の人間たちも彼女から心理的に距離を置いてるってことは、あんまり鈍感じゃない限りは誰しもが観察できただろう。表面的には仲良さげにしながらも……ぎこちなさがあるってほど露骨じゃないが、よそよそしさが端々に滲んでるんだ。分かるだろう?

「白樺百合莉とは懇意にならん方がいいぜ。あのお花畑みたいな振る舞いは全部がフェイクなんだから」

 そんな忠告をくれたのは、阿弥陀あみだ承吉しょうきちって奴だった。僕と阿弥陀とは一年のときにクラスが一緒で、馬が合うわけでも何でもなかったが、いくらか仲が良かった。彼は何かにつけて斜に構えたような男であるくせに、こういうことに関して日頃から事情通をぶっててね――江戸川乱歩の愛読者だから、これはその探偵趣味の一環だとか云ってたな――ともかく、僕は彼に百合莉についてたずねてみたんだ。

「あの女は人間関係に関して偏執狂だ。独占欲が強く、嫉妬深く、深い繋がりを求める。交友関係においてさえそうだが、厄介なのは恋愛関係だ。相手のことしか見えなくなって、他のこと……後先とかモラルとかはまったく考えなくなる。面倒どころの話じゃない。高校生でアレはないぜ……」

「へぇ、立派な寸評だな。根拠はあるのかい?」

「お前が転入してくる前だった。知らなくても無理はないな。ああ、あの通り可憐だし愛嬌のある奴だから、入学当初は人気が高かった。すぐに彼氏ができたんだ。つまりは〈被害者〉がな。そいつは付き合い始めて間もなく、命からがら――大袈裟な表現じゃないぜ?――あの女から逃れて、その話が広まったのがひとつ決定的だったよ。そのころには奴のクラスメイトも奴の本性に気付き始めていたし……それで奴と同じ中学だった生徒に聞いてみりゃ、深く関わらないようにするのが暗黙の了解だったって話だ」

「その了解ってのが、この高校でも形成されたわけか。だから皆、ああも器用に一定以上の距離をおいて付き合ってるんだな」

「ああ、学校で普通に話すくらいなら無害だし、あからさまに避けるとかえって危険だからな……でも陰じゃあ皆、大いに軽蔑してるし、馬鹿にしてもいるんだ。鼻つまみものだよ。今回同じクラスになった奴らも、厄介だ厄介だと口を揃えてる」

 良いねぇ。僕は嬉しくなっちまったよ。その時点でも僕は、百合莉がそんなに馬鹿じゃないとは分かってたんだ。つまり、自分が陰で軽蔑されてて、馬鹿にもされてて、鼻をつままれてさえいるってことに気付いてないなんてことはないってね。ならば彼女は、それらに気付いていながら、あんなふうに〈お花畑みたい〉に振る舞って、時折その瞳の奥に鈍い病的な光を宿したり、ふと遠くを見遣って表情に影を落としたりしてるんだ。ひどい欲求不満と孤独感にさいなまれつつ……そうと分かると、僕は急に彼女が愛おしくて堪らなくなった。中学に続いて高校でも〈失敗〉しちまった彼女がいま、どれほど愛に飢えていることか……想像しただけでシミジミと親近感を抱いた。

 だから僕は皆に合わせて百合莉を避けるような真似はしなかった。それどころか、自ら進んでアプローチを掛けた。なにせライバルはひとりもいなくて、荒野に彼女と僕の二人きりみたいな条件下だったから、苦労は全然なかった。彼女がグングンと僕に傾倒していく様は、たしかに凄まじいものがあったな。もっとも、やっぱり彼女は馬鹿じゃなくて、はじめのうちは〈からかわれているんじゃないか?〉というような疑心暗鬼と内心で葛藤している感じだった。それでも、愛への渇望とか、それが潤うことの歓びとかが勝ったんだな。僕の誠意が伝わったってのもあるだろう。幸い、彼女も僕を気に入ってくれたみたいだった。

「何を考えてるんだ、お前」

 そこでまた阿弥陀だ。今度は僕から話し掛けたんじゃない。彼の方から、いささか苛立った面持ちでやって来たんだ。

「白樺百合莉には関わらん方がいいって忠告しただろ? こいつはジョークじゃないんだぜ?」

「知ってるよ。ジョークにされちゃあ、僕だって困るさ」

「いいだろう――この前は話さなかったが、白樺の闇がどれほど深いか分かってもらわんとな……噂がもうひとつあるんだ」

 阿弥陀って男は何かにつけて偉そうなんだよ。でないと、『いいだろう』なんて文言は出てこないじゃないか。同級生同士で『いいだろう』なんてね。

「プライベートの白樺を目撃したって人間が多くいるんだが、これが不気味な話なんだ。学校とはまるで別人……ヨレヨレのジャンパーを着て、なんとパチンコ店に出入りしてるって云うんだぜ。廃人みたいな顔つき、ボサボサの髪、婆さんみたいな猫背でノソノソと歩く……」

「本当に別人なんじゃないか、それ」

「いいや、それが彼女一流の変装術なんだろう。見た奴も、それが白樺だとは信じられなかったようだ。だが、いつまでも誤魔化してはおけん。同じ証言が重なることで、そうに違いないと明らかになった」

 噂話蒐集家しゅうしゅうかの常だけれど、自分が目撃したわけでもないのに自信満々に断定するんだ。彼の話そのものは興味深かったが、いつになく彼がいけ好かなく思われてね、僕は無関心に振る舞った。

「ふーん。パチンコくらい好きに打たせてやればいいと思うけどな」

「恋は盲目ってやつか?」

 阿弥陀は目を丸くした。

「想像力を持てよ。これは白樺の荒んだ私生活を示唆しさするエピソードだぜ。堕落した本性とかけ離れた演技を続けてるツケが、そういうところに出てることの証左だ」

「一を見て十を知った気になるなよ、阿弥陀。趣味は人それぞれだろうに。パチンコが趣味だからって、どうして堕落した精神と決め付けられる? 想像力ってのは困り物だな。パチンコ店に行くのにまさか制服やふりふりのスカートなんて穿いて行かないだろう。自然なことだ。君達は自分が思う結論に結び付けるために、事実を都合良く解釈してるに過ぎないよ。だって嫌われてるんだろ、百合莉は?」

「……お前がそんなに間抜けだとは知らなかったぜ」

 話の通じない奴だと思われてしまった。非常に馬鹿馬鹿しいが、こうなればもう没交渉だ。しかし、どうして阿弥陀が百合莉についてこんなにもムキになるのかは不思議だった。ひょっとすると彼は百合莉のことが好きなんじゃないだろうか? 僕を彼女から遠ざけるネガティブキャンペーンを打ってるんじゃあるまいか? そんなことを勘繰っちゃったくらいだ。

 まったく、人間と人間の仲っていうのは、何なんだろう。この日から、僕と阿弥陀が口を利くことはなくなった。本当にわけが分からないけれど、こういうことって本当によくあるよね。大抵はしょうもないプライドの問題だ。とはいえ、僕と阿弥陀はクラスも離れているし、困ることはなかったが。

 それよりも重要なのは百合莉で、僕は彼女に告白し、四月末には僕らは恋仲となった。

 あの日、放課後、小さな池のある学校の裏庭で、真っ赤な夕陽を背に、百合莉は涙が溜まってキラキラ光る双眸そうぼうで僕を見詰め、ニヤァと歪んだ唇からすっかり酔いしれた口振りで語った。

「運命だよぉ……世界は私を独りぼっちにしたけれど、それは刹くんが現れて、私を冷たい闇の中から引き上げてくれるための導きだったんだよぉ……枕を濡らしながらずっと耐えてきた夜が、やっと明けた……素敵ぃ……幸せぇ……刹くんがこの町に来たのは、私の願いが届いたからなんだねぇ……本当の私を見てくれる人を、愛してくれる人を、求めてたの……あげる、あげるよ、私の全部ぅ……刹くんに全部捧げるから、こぼさないでぇ、受け取ってぇ……ね? ね……?」

 その言はなんら大袈裟ではなくて、それからと云うもの、ほとんど滅私奉公な献身ぶりを彼女は示した。僕は彼女のアイデンティティとなり、神となったんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ