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所詮いつまでもこんなもの

 家では父親が待ち構えていた。一丁前に低い声で「警察が来たぞ」だなんて、どうやら僕を威圧したいようだった。

「ごめん。今、説明するから……」

 極めて憂鬱だったが、刺激しないよう慎重に言葉をつむいだ。偶然に通りかかった脳姦殺人の事件現場で海老川蝶子に目を付けられ、意思とは無関係に連れ回されていたと。実際の経緯から父親の気に食わないだろう箇所を嘘に置き換え、なおかつ警察が話しただろう事柄と食い違わないように気を配りながら、途切れることがないように。そして最後には、父親が云わんとしているところを先回りして自省に変えた。

「分かってるよ、ちゃんと……世間様に迷惑を掛けないよう、目立つことのないよう、謹んで行動しなければいけないんだろ……極めて質素に、日々に余計な彩りを付け加えようとなんてせず、あらゆる誘惑にも心揺れることなく、下賤な娯楽に身をやつすことなく、ただ生きてただ死ぬという人間の営みだけを見据えて、静かに暮らしていく……もちろん、海老川蝶子という人が今後また現れた際には、その付き合いを固く辞するから……」

 どうやら、このときの僕は上手くやれたようだった。父親の気分や機嫌も、意外にフラットなものだったらしい。良かった……父親は聖書の文言を交えつつ、いくつか叱りの言葉を並べただけで、あとは「夕飯の支度をしなさい」と云って席についてくれた。大きな仕事が片付いたかの如き気持ち……でも気を抜くことなく、僕はこれも慎重に意識を張り詰めながら、夕飯の支度に取り掛かった。少し遅れて父親の怒りが爆発するようなケースというのも、これまで数えきれないほどあったから。疲れて頭痛までするコンディションであの仕置きを受けるなんて堪ったもんじゃない――当然、どんなコンディションだってご免だがね。

 ああ、可笑しいだろう? 内心では父親のことを低能だの何だのとこき下ろしながら、現実の僕はこんなにも怯えきって傀儡かいらいと化している。でも分かって欲しいな。幼少期からそういうふうに、身体に刻み付けられているんだ。こんな低能でも、親ってのは子供にとって……少なくとも僕にとっては絶対者に他ならなくて、いざ目の前にすると決定的な反抗なんてできる余地がないんだな。いいや、むしろこの父親がもう少し立派な人物であったなら、僕ももう少し楯突いたりしたかも知れない。だって低能には話が通じないんだから……こちらの正当性なんて関係なく、無理矢理に下品で卑劣でロクでもないやり方で以てねじ伏せられてしまうんだから……。

 父親はその後も声を荒げたりすることはなかったが、ただ夕食の席で僕のつくった野菜炒めを口に運びながら、食べ物が口に入ってるのをモゴモゴして「お前、もしかして毎日どこかに出掛けてるのか」と、向かい合って座った僕に訊ねてきた。

「ううん、必要なときだけだよ。その他は部屋で、大人しく本を読んでる……」

「では今日はどんな必要があって出掛けたのだ」

「市の図書館に行ってきたんだよ。延滞してたから、急ぎたかった。それにほら、食材を買ってきただろ。節約はしてるよ、もちろん……」

「そうか。うむ、こうしよう、これからは出掛けた日には夕食の席で報告するのだ」

「そうだね、分かったよ……」

「いいか。本当ならお前は、学校があるんでなければ外になど出ない方が望ましい。しかしそれでは息が詰まることもあるだろうから、外出を禁じたりはしていないのだ。このことの意味が――」

 以下、だらだらとくだらない説教が続いた。

 次第に父親の僕を見る目が身体のあちこちをジットリと舐め回すような厭らしいそれに変わってきたのを見て取ったところで僕は適当に二、三、受け答えして席を立った。それからさっさとシャワーを浴びて、自室に引っ込んだ。この部屋には錠なんてない。父親が夜這いをかけてきたら、そのときは耐えるしかない。今日だけは勘弁してくれ……今日だけは勘弁してくれ……と祈りながら僕は眠った。


    ○


 次の日は外出しなかった。別に前日の父親とのやり取りを素直に聞いてってわけじゃなかったが、いや、それも一因ではあるか……陽の下に出て活動するって気が起きなくなっちまってたんだな。百合莉に会おうとも全然思わなかった。

 昨日の今日だからだろう、父親は出掛ける前に僕の部屋に顔を出した。これをされると僕は〈帰宅するのは父親が帰る前〉に加えて〈外出するのは父親が出掛けた後〉にも気を配らないといけなくなるけれど、その心配が要らないとは分かっていた。低能な人間は何にしても〈継続〉ってやつができないからな。「今日は出掛けないよ」と云うと「そうか」と頷いて家を出て行った――仕事もしてないくせに、毎日毎日どこをほっつき歩いてるんだろうね? まぁどうでもいいけどさ。

 適当に読書をして過ごした。買った本を〈愛の巣〉からいくつか持ってきていたんだ。今更な感はあったものの、『失われた時を求めて』が長大な話だもんで時間を潰すのに持ってこいだったな。それ以上でも以下でもなかったが。

 夏休みに入ってから、久しぶりに落ち着いた一日になったと思った。認めるのはしゃくだけど、日々を充実させようなんて思ってはいけないっていう父親の言はある程度は真理をついているよ。波風立たない虚無の海に身を浸して、じっくりと死んでいくのが最善なんだ。下手に人生を面白おかしいものにしてしまったら、きっと死の落差に耐えられないんじゃないだろうか? 死という終着点において、その個人に関する万象はことごとく無為化される。そして死は日常の端々に影を落としていて、いくら世俗的な慌ただしさで覆い隠そうとしたところで、ふとした瞬間に人々をその本質に気付かせる。ならば常から死に寄り添うようにして生き、余計な徒労など背負わないようにするのが賢い。シンプル・イズ・ベスト。これこそが〈本来的自己〉……なんて云っては、ハイデッガーに怒られるかね?

 悪いね、浅薄な考えで哲学者ぶっちまって。

 ともかく非常にペシミスティックな意味合いで〈人間は考える葦である〉を体現中の僕だったが、それは夕方になって家の外からクラクションの音が響くと崩された。これはもしかしなくても、あの三流探偵が僕を呼んでるってことだ。無視することもできたし、最初はそうしようと思って本を閉じることもしなかったんだが……二度目の『ブーーーッ!』で何だか心が諦めてしまった。この近辺は住宅地の中でも本当にうら寂びた区域だから、こういう騒がしい闖入者ちんにゅうしゃがあってしかもその原因が自分だってなると、ひどく申し訳ない気持ちになるんだよ。

 スウェットの上下でも海老川さん相手に気にすることもないかと思って、そのまま外に出た。案の定路肩に停まっていたMINI cooperの助手席に乗り込むと、彼女は「夏風邪でも引いた?」と笑ってきた。なに笑ってんだ。車内ではやっぱり騒々しい音楽が流れていたけれど、「止めてくれますか」と云うと止めてくれた。

「蟹原くん、また不思議なことが起こったのよ」

「まだ懲りてなかったんですね」

「懲りる? ふふ、どうして懲りることがあるの?」

 一昨日はいくらか悄気しょげてるふうに見えたものだが、警察相手のポーズだったらしい。

「たしかに私が推理した密室トリックは間違ってたけど、代わりにそれ以上の収穫があったじゃない。玖恩寺富恵の腹の中にあったのは、連続首切り殺人の被害者の生首――二つの連続殺人の関連が証明されたんだわ」

「そうですね」

「ところが不思議なことっていうのはね、鑑識に回されていたその首が消えちゃったってことなのよ」

 海老川さんはシュボッと煙草に火を点けた。やめてくれ。

「首がひとりでに何処かへ行くなんてあり得ないわ。つまり誰かが持ち出したのね。これはひょっとすると、警察内部に犯人の協力者、もしくは犯人その人がいるかも知れないってことでしょ? 俄然がぜん、面白くなってきたわ」

「どうして持ち出す必要があったんでしょうね?」

「調べられたらまずい理由でもあったんじゃないかしら」

「でも、富恵さんの死体に生首を残したのも犯人でしょう――そもそもこれだって理由が分かりません。二つの連続殺人に関連があることを教えたかったとしか」

「挑発してるのよ。あまりに不甲斐ない捜査当局の能力に業を煮やしたのね。これはチャンスだわ。面白がって楽観してるところを、横から私が首を刈る」

 面白がって楽観しているのはこの人だと思うけどな。

「事実、犯人は活発な動きを見せているでしょ? 本命の連続首切り殺人の方でも、五人目の被害者が出たのは知ってる?」

「知りません」

「今朝に発見されたのよ。ただし……発見されたのは火津路町内なんだけどね、この子、火津路町の人間じゃなかったの――」

 適当に話を聞きながら、僕はやっぱり出てくるんじゃなかったなと後悔していた。天織黄昏には辿り着けたんだから、もう海老川さんから情報を得ようとする意味はないんだ。僕にあの地図を寄越した人間については気になるが、どうせ海老川さんではないし、これに関しては海老川さんから目ぼしい話が出るとも思えない。大体、海老川さんにしたって当初の〈連続脳姦殺人の容疑者――つまり僕――とやり取りしながらその正体を探る〉って目的をほとんど忘れてるみたいじゃないか。これ以上は互いにとって時間の浪費にしかならない。建前上とはいえ、海老川さんとは関係を切るって父親にも云ったことだしな。

「――住まいは香逗町こうずちょう。丁度今日の昼過ぎに、彼女が先週から家出して戻らないんだって届けを両親が香逗警察に出していたおかげで、身許が分かったそうよ。これも変わった点ね。家出した彼女の行方は両親も自分たちができる範囲で探ってたそうなんだけど、結局何も掴めず、通報に至ったってわけ。まぁ隣町だし、この町の高校に通ってる生徒でもあったみたいだから、こっちに来ているところを運悪く連続首切り殺人の犯人に目を付けられてって経緯かしら。そうなのよね、通り魔的犯行なんだから、犯人は彼女が火津路町の人間じゃないってことは知らずに殺したわけで、だから彼女の事情については別に重要視する必要は――」

「ちょっと待ってください」

 遮った。あまりにも、あまりにも、述べられた言葉の数々が引っ掛かった。

「その被害者、名前は何ですか」

「えっとね……」

 海老川さんは手帳をぺらっとめくって確認し、ただ平然と告げた。

「白樺百合莉って子ね。火津路高校に通う二年生」

「……………………」

「私もまだ詳しいことは聞いてないわ。あまり意味があるとも――あら、どうしたの?」

「いえ、この町の高校って聞いて、もしかしたら知ってる人かなと思っただけですよ。それで、えーっと、殺した奴は見つかったんですか?」

「え? なに云ってるのよ。連続首切り殺人の犯人? 見つかるわけないでしょ、まだね。今回の犯行でもボロは出してない。もはや職人芸ね。……蟹原くん、本当に夏風邪か何か引いたの?」

「すいません、少しボーっとしてただけです。健康ですよ、僕は。若いですからね」

「ちょっと。私だってまだまだ若いんだけど?」

「そういう意味で云ったんじゃありません」

「ふふ。さて、今後の私の方針について少し話してあげようかしらね。まず――」

 その後の海老川さんの話は、まったく頭に入ってこなかった。空っぽの意識が膨れ上がって、耳の内側から栓をしているかのようだった。



 百合莉が殺された。その事実はやっぱりガツンと精神に打撃を与えたが、その後は比較的落ち着いた……と云うか、虚無的な気分でいっぱいになった。酷いとか薄情とか思われるかも知れないけど、悲しみに沈むって感じではなかった。涙も出なかったしね……ああ、涙なんてものは、姉さんがいなくなって発狂したあのとき以来、流れていないと思う。父親から受ける仕置きで、単純な痛みから視界が滲むってのを除けばね。

 またかぁ…………という呟きが、脳内で繰り返し巡っていた。厳密には種類も程度も異なるけれど、姉さんを失ったのと体験としては近しいだろう。それで耐性がついていたのかな、とにかく虚無的で、感情の起伏ってやつを起こすには気怠すぎたんだ。それに、予期していたと云っては嘘になるが、どこか納得する部分もあったんだな。何と云うか……こういうもんだよなと。こういうことってのは、意外と呆気なく起こるもんなんだよなと。伝わるだろうか?

 うん、どうやらこのときの気持ちを正確に伝えるためには、あえて酷い表現を用いる必要があるみたいだ。なら云うけど……大切に耕していた畑か何かが、嵐や地震みたいな自然災害によって壊滅的に荒らされてしまった農夫ってのは、丁度こんな気持ちなんじゃないかな? 費やしていた手間暇がすべて無駄となって、もう何の収穫も望めなくなって、またいちから始める気力も湧かない。つまりは〈おじゃん〉になったってこと。

 まぁ自然災害と違って通り魔殺人なんだから、百合莉を殺害した明確な個人はいるね。でも顔も名前も何も知らないそいつに対する怒りだとか憎しみだとか、要するに復讐心みたいなものは、これも全然起こらなかった。だいたい結局のところ、通り魔殺人も自然災害と変わらなくないか? 怨恨も絡まなければ金銭目的でもない、ただその時その場で機会が偶然に一致したがために行われる凶行。不条理な死。それにこの場合、連続首切り殺人の犯人を恨めしく思うのは筋違いじゃないかい? 百合莉が殺された場所は商店街の裏路地――と云っても〈愛の巣〉とは火津路駅を挟んだ反対側で、どうして彼女がそんな場所にいたのかは分からないけれど、それでもそんなふうに夜中に外に出たのは、きっと昨日の僕との一幕が影響してたに違いない。彼女は死を望んでもいたんじゃないだろうか? ならば死を欲する者と死を与える者とが出会い、結果が生じるのは自然な成り行きだ。そうじゃなくたって……ああ、いずれは似たような結末を迎えたんじゃないかな。

 そう。かたちは異なれど、僕と百合莉が破局するのは避けられなかったと思うんだ。昨日のあれが既に破局だったという見方もできるだろうし……そもそも考えていくと、僕らは出逢った瞬間にもう終わっていたようなものだった気もする。そういう意味でならまぎれもなく、僕はこうなることを予期していたんだ。納得だってするさ。諦めは、とうの昔についていたんだからね……。

 ところで、こんなふうなことを考えるともなく考えていたせいで、僕はうっかり夕食の支度を忘れていた。帰宅した父親からぐちぐち小言を云われながら、肩や腰回りをべたべたと触られて撫でられながら、僕は無心で料理をした。父親は「仕事が見つかった」だとか「来週から働き始める」だとか得意気に話していたっけ。どぉーーでもよかったな。僕の人生ってやつはどうしてこんなにくだらないんだろうと、おそらく五億回目くらいになる同じ疑問が湧いたのは憶えている。百合莉が生きてようと死んでようと、何も変わらないんだな。さようなら百合莉。葬式には気が向いたら行くけど、たぶん、行かないと思うよ。

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