連続密室姑殺人の陰謀
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百合莉が落ち着いたり満足したりするのは一時的なものだ。やっぱり彼女は不安定で、過去に付き合った男達を〈命からがら〉逃げ出させたというその本領を存分に発揮していた。次の日になるとさらに酷くて、夕方過ぎになって僕が帰ろうとすると、まるで聞き分けのない子供みたいに泣き喚いた。
「どうして刹くん! たまにくらい、たまにくらい一緒に泊まってくれてもいいでしょお! 此処でひとりで過ごす夜が、どんなに切ないか分かるぅ? 胸が詰まって、張り裂けそうなんだよぉ? 眠れないし、全然時間は進まないし、全部の電気つけてるのに変な暗いところがなくならなくて、飲み込まれそうになるんだから!」
なるほど、たしかに百合莉の目の下のクマは日に日に濃くなっていた。さすがに放置はできなくてね、僕は一度家に帰って夕食をつくってテーブルの上に置いといて、それから徒歩で〈愛の巣〉に戻った――あんな低能な父親だけれど、自転車がなければ怪しむだけの知能はあるからさ。そうして僕にとっては二度目の〈愛の巣〉での寝泊り。もっとも、百合莉はここ最近のネガティブが吹っ飛んでまったく大ハシャギだったから、ベッドに入ってからも頻りに話しかけてきて、全然寝かしちゃくれなかったんだが……。
ところで当然ながら、この夜も僕は百合莉と肉体関係だけは持たなかった。代わりに、その他の要求には大方応えてやった。憂鬱だったけれど、貪るようなキスから始まって、リストカット痕を舐め、首を絞め、馬乗りになって頬をビンタした――百合莉が望んだんだよ。僕が性交渉を拒絶するもんで、彼女はこういう別の方向に進んで欲求を満たすしかなかったんだな。おそらく。
朝方になってようやく眠りにつくことができた。しかし起床したのは昼前だった。もっと寝ていたかったんだが、起こされたんだよ。〈愛の巣〉にはじめて、来客を知らせるチャイムの音が鳴り響いたんだ。予想以上に大きな音だったねぇ。何の警報だろうと思ったよ。「うぅ……うるさぁい……」なんてふにゃふにゃ呻いてる百合莉はほっといて、僕はベッドから下りた。
うん、エレベーターホールのドアの横に、チャイムのボタンがあるんだ。いささか頭痛を覚えつつ廊下に出て見ると、ドアはガラス張りだから向こう側に立ってる来客の姿は確認できて――海老川さんだった。
開けるしかないだろう……内側から開錠してドアを開くと、海老川さんは軽く両手を広げた。
「良かったわ。こんなところにいるのか疑わしかったんだけど……寝起き?」
「どうして分かったんですか?」
「あら、前に発信機をつけられたの忘れた? あの日、この座標に長時間いたでしょう。家の前でクラクション鳴らしても出てこなかったから、もしかしてと思ってこっちに来てみたのよ」
訊かなくたって考えれば分かることだった。起きたばかりで頭が回ってなかったんだ。
「此処は何なのかしら。下の階は事務所だったけど、関係ないのよね?」
「父親の名義でワンフロア借りてるんですよ。一風変わった別荘とでも思ってください」
すると海老川さんの目線が僕の背後へと向けられて、興味深そうにニヤリと笑った。
「隅に置けないわね。恋人さんかしら?」
振り向けば、百合莉が寝室の戸口に立ってこちらを覗き込んでいた。すっかり目が覚めてしまったらしく、僕を見つめる眼差しには不信感が色濃く表れていた。
「……その人、誰なの?」
ああ、云い訳の利かない状況だ。修羅場とは違うけれど、面倒なことになったなぁと思ったね。あと明るいところで見ると、百合莉の頬は赤く腫れていたんだ。また要らないことで、海老川さんに勘繰られてしまうじゃないか。
「この人は探偵だよ。ちょっとした知り合いで、それだけさ」
「こんにちは。新進気鋭の女探偵・海老川蝶子よ。以後お見知りおきを」
得意気に海老川さん。余計なことを……かなりイラッとさせられたな。
「探偵……?」
百合莉の眉間に皺が寄る。僕と海老川さんを交互に見遣って……不安、戸惑い、疑念、それらが一緒くたになって、いっそ泣きそうにまでなっていた。その手が無意識にリストカットの痕へと伸び、ガリガリと掻き毟り始めた。信じられなくても無理はない、これは本当にそうだ。見た目だけならキャリア・ウーマンさながらの知的な美人、しかし探偵なんて名乗って胸を張る胡散臭さ。誰だって困惑するだろう。
「それで、何の用なんですか」
とにかく話を進めることにした。苛立ちまじりの口調になったかも知れないけれど、気にする海老川さんじゃない。
「連続脳姦殺人、三人目の被害者が出たわね。でも此処に来たのは別の理由よ。一緒に来てくれる?」
……訊ねてはいるものの、既に来ることは決まってると云わんばかりの態度だった。
「何処へですか」
「玖恩寺家よ。これから其処で殺人事件が起きるから、阻止しに行くの。ええ、それは連続密室姑殺人の解決を意味する。弟子として立ち会って頂戴」
連続密室姑殺人? 先日、喜久岡家で起きた密室殺人のことか? 浦島太郎じゃないけれど、僕が〈愛の巣〉にいる間に外界の時間が不釣り合いなペースで進んでしまったんだろうかと思ったね。
「急ぐに越したことはないわ」
海老川さんは僕の手を取って歩き出した。百合莉に「ごめんなさいね。貴女の彼、ちょっと借りて行くわよ」なんて勝手を云って。僕は抵抗できないままエレベーターまで引っ張り込まれてしまい、百合莉に声を掛けることもできなかった。
閉まるエレベーターの扉。その向こう、ひとり残された百合莉は顔面蒼白で、涙が一滴、まさに零れ落ちるところだった。まるでこの瞬間、彼女の中で何かが確実に壊れてしまったかのようで……参ったなぁ、本当に……。
「可愛い彼女さんね。それも、こんなところでお泊りだなんて、面白いことしてるじゃない」
いかにもエレベーターが一階に着くまでの間に合わせって感じで、海老川さんはそう云った。この人は百合莉のあの様子を見なかったのか? ああ、きっと見なかったんだろう。海老川さんは明らかに昂奮していて、これから自分がしようとしていることにしか意識が向いていなかったんだ。僕は何だか……投げやりってわけじゃないが、色々と諦めた。こういう人には何を云っても無駄だからな。
戸倉ビルの正面に停めてあったお馴染みのMINI cooperに乗り込み、出発すると間もなく海老川さんは語り始めた。相変わらず音楽が五月蠅かったけれど、彼女は音楽が掛かってることすら忘れてるんじゃないかと思われた。
「私はやっぱり喜久岡家の事件が気になっていたのよ。たしかに蟹原くんも云っていたように、この事件は二つの連続殺人とは一見性質が異なる。けれどもしも、もしもこの事件も連続殺人になったのなら? そのときにはこの連続密室殺人も、先の二つと肩を並べることにならない? ……突飛な考えと思うかも知れないけど、私にとってはそうでもないのよ。喜久岡家の事件が重要なものとなり得るには、このケースしかないんだもの」
なんて恣意的な……探偵の推理法とはとても思えなかったが、まぁ口は挟まないことにした。挟む隙もなかったしね。
「とはいえ、この事件が連続殺人になるなら、通り魔的犯行じゃない以上、喜久岡家で第二の惨劇が起こるパターンかしら? そのあたり、ハッキリとした構図は描けないでいたわ。だけどそこでね、昨日の昼頃、この事件の担当捜査官からリークされた情報が天啓をもたらした。ええ、警察は定石通り、喜久岡家の人間を洗って喜久岡松見に殺意を抱いていた者を突き止めようとしていた。結果、やっぱり喜久岡遥香が怪しいと分かった。憶えてる? 長男・洋輔の妻よ。ありがちな嫁姑問題で、彼女は松見を疎ましく思っていたらしいの。他の家族もそう証言していたし、それにね――あそこの近所では若妻たちが一種のコミュニティを形成していて、彼女はそこで度々不満を洩らしていたと云うわ」
「コミュニティって、要は井戸端会議みたいなものですか?」
「まぁそうだけど、一般的なそれよりも少し変わっててね……口うるさい姑に悩まされている嫁たちが寄り集まって、愚痴り合うのを日課としてるのよ。似た境遇の者たちが惹かれ合い、そうでない者たちが離れ、そうやって自然と出来上がったものでしょう。これを聞いたとき、私は閃いた。警察は遥香を容疑者筆頭としながらも証拠が挙げられず、ついでに密室トリックも解明できずで二の足を踏んでるようだったけど、私はそれよりもこのコミュニティに注目した。他でもない、連続密室殺人が起こるんじゃないかって考えていたのが、その具体的な構図を得たからよ。つまりね、犯人は同一じゃないの――ただし同一の手口で以て、このコミュニティに属する若妻たちがそれぞれの姑を殺害していくのよ。云うなれば連続密室姑殺人。〈三人寄れば文殊の知恵〉的に、この井戸端会議は邪魔な姑を殺害するに打ってつけの犯行方法と密室トリックを開発したってわけ」
……正直、かなり呆れさせられた。論理の飛躍どころじゃない。よくもここまで妄想を逞しくできるものだ。そしてそれを信じ込むことができるものだ。恐れ入ったねぇ、実に。
「私は大急ぎで調べたわ――くだんのコミュニティに所属する若妻と、それぞれの家庭事情を。もっとも、警察が喜久岡遥香について探る目的で彼女らに訊き込みした際に得られた情報をまとめ上げて、不足分を追加で調べてもらっただけだけど。ともかく、そうして出来上がったリストと睨め合って、ある恐ろしい符号の一致に気が付いた。ええ、犯行方法と密室トリックがどんなものかはまだ分からなかったけど、それらが同一となるためには喜久岡家に似た環境が必要になるわよね? だから一見すると関係あるようにはとても思えないような事柄まで念入りに、〈喜久岡家との共通項〉を探していったの。その結果、見えてしまったのよ。ああ、戦慄したわねぇ……現実とはとても思えない……」
じゃあ現実じゃないんですよ。妄想ですね。――という言葉は飲み込んだ。
「結論を云えば、第二の惨劇が行われるのは此処しかないって家が分かったの。それが今向かっている玖恩寺家よ。家族構成は……被害者となる富恵。その息子の哲典と、その妻すなわち犯人となる澄風。彼らには子供が二人あって、長男の木葉と次男の文也――もっとも木葉の方は哲典の前妻が産んだ子で、もう中学生よ。富恵の夫はもう他界してるみたいだから普段はこの五人なんだけど、先週から哲典の妹の眞由美が娘の未緒を連れて帰ってきてるらしいわ――夫が長めの出張中だからとか。よって今は七人ね。ところでもう気付いたかしら? 第一の符号……喜久岡も玖恩寺も、密室殺人を題材とした名作ミステリを思い出させる姓なのよ。島田荘司『斜め屋敷の犯罪』にてメイン・トリックを用いて殺害される被害者は菊岡。そして京極夏彦『姑獲鳥の夏』にて事件の舞台となるのは久遠寺家!」
「冗談でしょう?」――今度は飲み込めなかった。
ところが大真面目なんだな、この自称探偵さんは。いやいや、正気か? こんな人の運転する車の助手席に座っていることが、今更になって恐ろしくなったんだが……。
「もちろん、これは神懸かり的な偶然でしょう。でもその偶然が、連続密室姑殺人という必然を呼ぶのに作用したんじゃないかしら? この計画を構想した犯人あるいは関係者の念頭に『斜め屋敷』や『姑獲鳥』があったかは定かじゃないけど、あらゆる因果は無意識下に遠く巡り巡ってでも、やがて繋がる。だって現に、喜久岡家と玖恩寺家のその他の――もっと実際的な共通項は、私の脳内に密室トリックひいては事件の真相を描き出したのよ。まず、どちらの家にも赤ん坊がいること。ええ、喜久岡家では洋輔と遥香の娘・くるみ、そして玖恩寺家では哲典と澄風の次男・文也が現在一歳と数ヶ月なの。それから、二つの家の姑、喜久岡松見と玖恩寺富恵は二人とも恰幅が良い……要は太ってるのよ。しかも玖恩寺富恵にいたっては、この半年で急に太ったという話だわ」
「それが何か関係あるんですか?」
「大ありよ。これが密室をつくる条件なんですもの。どう、蟹原くん。推理できるかしら?」
「……いえ、何も思い付きませんが」
あいにくと僕にそんなアメージングな想像力はない。まぁ海老川さんも、これで易々と推理されてしまった方が困っただろう。彼女はこくりと頷いて、
「この密室トリックを使用できるのは、いま出来上がってるリストの中では喜久岡家と玖恩寺家だけだわ。栗藻家というのがディクスン・カー『三つの棺』のグリモー家を連想させたけど、この家の姑にあたる人は痩身みたいだし、嫁にあたる人の子供はもう小学二年生だから無視していいでしょう。でもね、だからと云って連続密室姑殺人が二件で終わるとは思えないわ。あくまで喜久岡遥香の交友関係の中でしかない。ベン図のようなものを思い浮かべて頂戴、コミュニティはこのひとつで閉鎖してるわけじゃなくて、きっと他の同質のコミュニティとも一部重なってるのよ。その広がりの中を探っていけば、条件に合致する家は続々と見つかるはず」
まぁ見ていなさい――と、海老川さんは不敵に笑った。
「この連続殺人の大計画を、私は一件きりで終わらせるわ。玖恩寺家のそれを阻止してトリックを暴くことで、後に予定されていたすべての悲劇を葬り去る。これが私の探偵業。蟹原くんにとっても有意義な体験になるでしょう」




