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マーダーケース・ハイの兆候

 この日は帰ると、家の前に見覚えのあるMINI cooperが停まっていた。運転席の窓を軽くノックすると中で何かの資料を読んでいた海老川さんは顔を上げてニッと笑って、助手席に座るよう促した。

 車内ではまた、おそらく昨日と同じ海外バンドの曲が流れていた。海老川さんは停止ボタンを押しつつ、

「良かったわ、もう少し経っても帰ってこなかったら諦めようと思ってたの……。蟹原くん、携帯は持ってる? 家の電話でもいいけど、連絡できた方が君にとってもやりやすいでしょう?」

「どちらも持ってませんね。見ての通り、貧乏家庭なんで」

「あら、そうなの。じゃあ貸してあげましょうか? 携帯は複数あるから」

「いえ、結構です」

 これは固く辞した。なぜって、海老川さんが寄越よこしてくる携帯電話に発信機や盗聴器としての機能が仕込んであったら嫌だからね。

「基本的に夜はこのくらいの時間に帰りますよ。そちらの都合で来てもらっていいんで……それとも、緊急の連絡が必要になることがあるんですか?」

「当面はないかしらねぇ……」

「ああ、ただ直接訪ねてこられるのは困りますね。父親には知られたくありません。だから用があるときは、そうですね……近くからクラクションを鳴らすとかしてください。そうすればこっそり出てきますよ」

「分かったわ」

 海老川さんは頷くと、シャツの胸ポケットから煙草を一本取って火を点けた。うええ、嘘だろこいつ。さすがに窓は開けてくれたが、そういう問題じゃないんだよ。

「今朝、連続首切り殺人の新たな被害者の遺体が発見されたわね。これで四人目。まぁこれについては特筆すべき点は今のところないし、連続脳姦殺人の方にも進展はないから、それだけなら来ることもなかったんだけど……お分かりよね?」

「何がです?」

「あら……もしかして新聞やニュース、見てない?」

「今日は見ませんでしたね」

「この火津路町でまた新しく、やや普通じゃない事件が起きたのよ。今度は密室殺人」

 僕はきっと鼻白んだような表情を浮かべたことと思う。海老川さんは少しだけ慌てた感じで「嘘じゃないわよ」と続けた。

「いえ、疑ってるわけじゃありませんよ。ただ、辟易するじゃないですか。連続猟奇殺人が二つ同時進行してるだけでも珍しいのに、そこに加えて密室殺人っていうのは。リアリティというやつが動作不良を起こしてる」

「ふふ、まるでミステリ小説よね。どうしてこの田舎町がこんなに酔狂な事態になってるのか……相関関係は如何様なものなのか、あるいはまったく無関係で、神様が悪戯してるだけなのか……とはいえ、その場合でも今度の密室殺人は先の連続殺人に触発されたところがあるんじゃないかと思うわ。君が云う通り、リアリティの低下よ。この町でその影響をダイレクトに受けてる人々は、殺人事件が日常化して、多分に荒唐無稽な気分になってるんじゃないかしら? マーダーケース・ハイとでも云うべきか……危険な状態よね。殺人事件がムーブメントになりかねない」

 滔々と語る海老川さんにはしかし唇を噛むような様子はなくって、明らかに楽しそうだった。分かりきってはいたけれど、この人の探偵活動はミステリ好きが昂じたためのもので、正義感や使命感は実のところ二の次なんだろう。

「それこそ荒唐無稽な妄想じゃありませんか?」

 僕は呆れ混じりに応えたが、海老川さんは構わなかったね。探偵のくせに、こういうときには全然相手を見ちゃいないんだ。

 彼女は煙草の火を灰皿に押しつけて消すと、資料を片手にまた話し始めた。

「さて密室殺人の話ね。何も聞いてないと云うなら、概要を教えるわよ。今日の昼に起きた事件だから、まだ私も詳しい情報は仕入れてないんだけど……ええ、午前十一時過ぎに通報があったの。火津路町の東、小高い丘になってる辺りに新興住宅地があるでしょう? 通報主はあそこに住む喜久岡きくおか家。ちょっとした会社を経営してて、そこそこ裕福な家ね――ふふ、キクオカ・ベアリングじゃないわよ? 屋敷も斜めじゃないわ。

 殺害されたのは主人・喜久岡公雄きみおの妻である松見まつみ、五十四歳。いつもは早起きなのに今日はいつまでも二階の自室から下りてこないので不思議ではあった――とは長男・洋輔ようすけの妻である遥香はるかの証言。それで朝食が出来上がった午前十時前に呼びに行ったんだけど、部屋は中から施錠されてるし、いくら呼び掛けても反応がない。そこで洋輔に相談。それから洋輔、遥香、公雄の三人で部屋の前まで行って再度呼び掛けたものの、やはり反応なし。洋輔は隣の部屋からベランダに出て、窓から松見の部屋の様子を覗き見ることにした。カーテンは開いていて、果たして見えたのは、血まみれの実母の姿。洋輔は扉の方に戻ってこれを蹴破った……破天荒な行動だけど、母の死体を見せられたら無理もないわね。松見は床の絨毯の上にうつ伏せで横たわっていて、絨毯は死体を中心にして血で染まっていた。一目見て、絶命してると分かったとのこと。それから通報した――時間的に、死体の発見から通報までにやや間があるんだけど、特殊な状況の殺人だったこともあって何かと悩んだんでしょうね。

 検死の結果、死亡推定時刻は今日の午前五時から六時の間。口にハンドタオルを詰められた状態で、左胸に刺し込まれた刃物の先端が心臓に達したと思われる。残酷なことに、それから身体の前面を縦に切り開かれて、五臓六腑がぐちゃぐちゃにされていたそうよ。派手な流血はそのためで、でも幸い死体はひっくり返されていたから、遺族たちはそこまでグロテスクな情景を直接目にすることはなかったのね。部屋は密室状態。扉の錠は内側からつまみをひねるだけの簡単なものだったけど、扉には上にも下にも隙間は全然なくていわゆる〈針と糸のトリック〉が用いられた形跡はなし。また、凶器は発見されていないし、かと云って紛失した刃物もないと――これも遥香が証言しているわ。

 ところで、事件現場は密室状態だったけど、家の玄関扉は錠が掛かってなかったの。昨晩は確認するのを忘れていて、たぶん開けっ放しだったんだろうって話。今朝、午前八時半頃に表のポストに新聞を取りに行った公雄が気付いて施錠したそうよ。だから外部犯の可能性がないわけじゃないんだけど、まぁ考え難いわよね。松見が殺された他にどこかの部屋が荒らされた形跡もなければ、何かが盗まれたってこともない。松見の殺され方は怨恨によるものを思わせるけど、近年、松見は家からあまり出ない生活を送っていたし、誰かから強い怨みを抱かれていた様子もない。

 そういうわけだから、容疑者は同じ喜久岡家の人間と見て間違いなさそう。つまり主人の公雄、長男の洋輔、その妻の遥香、その子供で一歳半のくるみ、それから未婚の三男・貴明たかあき――ちなみに結婚して家を出た次男は遠く離れた土地に住んでいてアリバイもあるわ。ええ、赤ん坊は論外として、四人ね。彼らの人となりや被害者との仲については、まだ詳しいことは知らない……概要はこんなところよ」

 いささか長かったが、そこそこ要領を得た説明だった。こういうところだけ見れば、海老川さんはたしかに有能そうではある。途中の『斜め屋敷』ネタは鼻についたけどな。

「うーん……密室と犯行の猟奇性が特異なだけで、他は取るに足らない事件って感じですね」

「ええ、ミステリ小説なら風変わりな一族が住む屋敷ででも事件が起こって容疑者もかなりの数に及ぶのが定番だけど、喜久岡家はちょっと裕福な一般家庭でしかない。蟹原くんの云う通り、密室と猟奇性だけがアンバランスに浮いてるわ」

「今の話を聞く限りだと、被害者と唯一血縁関係のない喜久岡遥香が怪しそうですが」

「そうね。怨恨ということなら嫁姑問題は真っ先に発想するところだし、それに、毎朝一番に起床するのも彼女だから」

 海老川さんはそこで「ただし、」と言葉を継いで、唇をへの字にした。

「人体を胸の上あたりから臍の下まで切り開くっていうのは、かなり骨の折れる仕事だわ。これを一般女性でしかない遥香がスムーズにやってのけたというのは、少し引っ掛かる点よ。絶対に必要な作業ではないんだし」

「でも容疑者から除外する根拠にまではなりませんよね。できないことはないでしょう。むしろ、女性には難しそうな力仕事をあえてすることで容疑から逃れようとしたとでも考えれば、必要以上に残酷な手口にいちおうの説明が付きます」

「あら、それは面白い見方ね。……だけど密室も無視できないわよ? 扉と窓が両方施錠されていたことは、発見時にまだ自室にいた貴明を除いて三名が確認している。仮に全員で口裏を合わせているとしても……これはすなわち少なくとも公雄、洋輔、遥香の三人が共犯ということで、これなら〈切り開き作業〉の問題も実行犯を男の洋輔とでもしてクリアできるんだけど……密室を装う目的が分からないわ。まぁ単独犯としてもこれは同じね。考えられるのは〈捜査の撹乱かくらん〉くらい。でも〈捜査の撹乱〉にしても、もっと他に効果的なやり方はあるでしょう? この中の誰かがミステリ・オタクで、『本陣殺人事件』的に変な入れ知恵をしたならともかく……」

 やれやれとばかりに両手を広げる海老川さん。割と茶目っ気のある仕草だった。

「喜久岡家の家庭事情を知らないうちは、このくらいしか考えられないわね。情報が不足してるのに空想ばかり広げたって、見当違いの方向へ進むだけだもの」

 単なる勘から僕を脳姦殺人の犯人と疑って無駄な接触を続けている人がそう云ったんで、物凄く滑稽に聞こえたね。まぁそれはいいとして、

「ところで、長々と話してもらっておいて申し訳ないんですけど……これって首切り殺人にも脳姦殺人にも無関係ですよね?」

 さっきからずっと思っていたことだった。口にするタイミングを逸していたんだ。

「通り魔的犯行でも何でもなく、ただの家庭内で起こった殺人事件じゃないですか。〈リアリティの低下〉か何かで誘発されたんだとしても、首切り殺人や脳姦殺人の直接的な手掛かりにはなりようがありません」

「そうなんだけどね……さっきも云った通り、どうも私には無視できないのよ。密室には意味がある。首切り殺人と脳姦殺人が同日にスタートしたのも偶然じゃないとすれば、この火津路町の裏側にひとつの巨大な意思みたいなのがあって、すべてを支配してるんじゃないかしら? つまり、全部が繋がってる……」

「抽象的でよく分かりませんね。根拠があるわけじゃないんでしょう?」

 海老川さんは応えなかった。ほらね、結局はまた勘だ。脳姦殺人ならともかく、これには付き合っていられない。

「二兎を追う者は一兎をも得ませんし、その密室殺人まではかかずらうだけ徒労だと思いますよ。海老川さんの専門が連続殺人なら、尚更です」

「ふっ……」

 横目で一瞥をくれる海老川さん。

「云うわねぇ、蟹原くん」

 いやいや、こりゃあ堪ったもんじゃなかったよ。プライドが高いのか、僕を見下してるのか……いずれにせよ聞く耳を持ってないんだな、この人は。

 けれども露骨に対立する必要もなかったんで、「まぁ……僕も気には留めておきます。教えに来てくださり、ありがとうございました」なんて心にもないことを云って、バランスは取っておいた。バランスは大事だからね。

 それにしても、これのどこが〈探偵修行〉なんだ? 僕は話を聞けるだけ得かも知れなかったが、今回は駆け引きめいた動きもなかったし……。

 その後はすぐ、そろそろ夕食をつくり始めないといけなかったから、僕は車を降りた。別れ際、海老川さんは「あまり根拠根拠と云うのも困り物よ、蟹原くん。私達は人間である前に動物なの。太古より受け継がれてきた直感の力を信じてみるのは、文明社会でもなお有効だわ」とか云ってたな。ふん、思わせぶりに振る舞うだけなら誰でもできるや。

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