清原勢三郎の追想
娘が嫁ぎ、また妻と二人になって移り住んだ家で、勢三郎は机に向かっていた。
自分がこんな幸せを手に入れられるなどとは思ってもいなかった。愛しいと想える人と出会い、そしてその人を妻に娶り、子を成して、子供の成長を妻と見守りながら家族和やかに過ごし、そして子供を送り出すなど。そんなことは自分には到底叶わぬ夢のはずだった。後は妻と二人余生を過ごすことができたなら、それほど幸せなことはないと思う。人ではない彼女は自分と違って年をとらず寿命もないから、自分はどうしても彼女を残して逝かなくてはいけない。自分が年を取り死んだ後も生き続けることになる彼女のために、残りの人生を捧げることができたなら。彼女のためだけに残りの生を使うことができたのなら。それほど幸せなことはないと思う。そんなことを考えて勢三郎は胸が苦しくなった。
娘の嫁ぎ先は素性の知れぬ自分達夫婦を疎ましく思い、娘が嫁ぐ条件として娘との絶縁を迫ってきた。娘の夫となったその人は、彼の家のその仕打ちに酷く憤っていたが、しかたがないことだと思う。彼は何も知らずに娘を見初め嫁にしようとしたが、彼の家は半分人間でない血が混じった娘を研究の材料として手元に置きたかったから婚姻を認めたのだ。親は親だからと尊重したい彼と、親から切り離して孤立させたいと思う家の考えが交わるわけがない。彼は彼の家の裏の顔を知らなかった。裏の顔を隠すための表の顔である薬種問屋の嫡男として、何も知らされずただ表の家業を継ぐために真面目に過ごしてきた彼は、真面目で誠実な良い青年だった。だから勢三郎は彼に全てを打ち明けた。自分のことも、彼の家のことも、名家の嫡男である彼と素性の知れぬ自分達夫婦の娘が何故添うことが許されたのかも含め、全部包み隠さず話すことが勢三郎にできる精一杯のことだった。そうやって娘の夫となる人に頭を下げ勢三郎は娘のことを頼んだ。自分の娘が何も知らないまま普通の娘のように幸せに過ごせるように、勢三郎は彼に懇願し全てを託した。
俺の秘密を知ったら彼女はどう思うだろう。自分が最初、彼女を殺すために彼女を見つけたのだと気が付いていたあの人だ、もしかしたら口に出さないだけで本当は気が付いているのかもしれない。自分がどんな人間なのか。自分が何をしてきた人間なのか。自分が命令されて彼女の夫となったのだと、彼女との間に子を成したのだと、気が付いているのかもしれない。しかし、ただ命令されたからそうしていたのだと彼女が思っているとしたら、それほど辛いことはない。だからといって今の自分にそれを否定することはできない。何故なら実際にそう命じられていたのは事実なのだから。命じられていたからこそ、彼女と添うことも、たまの遠出だけで同じ地に留まり根付いて過ごすことも許されているのだから。そんなことを考えて、勢三郎は嫁に行った娘に想いを馳せた。娘には自分と同じような目には合って欲しくはない。例え娘の嫁入りが仕組まれたものであっても、何も知らず幸せになって欲しいと思う。
後生だからと頼み込んだところで俺の願いが聞き届けられる訳はない。それは解っている。だから色々と考えた言い訳を駆使して説得を試みようと思う。彼女ももう十二分に自分を信頼してるから、彼女を唆し仲間の住処へ案内させることはたやすいと。だから暫く自分を自由にさせてくれと。そうすればあの葛霧の鬼の首を持って帰ってきてやると。なんなら和葉姫と鬼の間の子を捕らえてきてやると。葛霧の鬼に恨みのある奴らだ、鬼と姫の間の子を欲しがっていた奴らだ、そう言えば話しに乗って一時でも自分を自由にするかもしれない。しかし、自分が何処まで信用されているかは解らない。彼女と旅に出ることを許してもらえるかも解らない。なんにせよ逃げたとバレた時点で殺されるのは間違いがない。自分には決して外すことができない首輪が嵌められているのだから。だから手紙を書こうと思う。一時でも自由になることができたのなら、彼女と逃げることができたのなら、彼女を無事に彼女の故郷に連れて行くことができたのなら、本当はその時直接彼女に伝えたいことを手紙に書いて託そうと思う。かつて出会った彼女の仲間。葛霧の鬼こと田中隆生に、自分に彼女を任せてくれた彼に、自分の代わりに届けてもらおうと思う。彼女を想う自分のこの想いを。自分がどれだけ彼女を想い愛していたかということを。
そうして勢三郎は筆をとり、自分の今までの人生を振り返った。
○ ○
家中どこもかしこも燃えていた。父が、母が、兄達が、自分の家族が火だるまになって踊っていた。踊りながら逃げろと言っていた。お前だけでも。早く。その叫びを耳にしても身体は動かなかった。ただ呆然と炎に踊らされている家族の姿を見つめていた。自分の家族を踊らせていた炎が自分に向かい、自分も飲みこまれる、そう思った時、その炎が自分の中に入ってきて、勢三郎は内側から身を焼かれる熱さに声にならない悲鳴を上げ意識を失った。
勢三郎が目を覚ますとそこは暗い場所だった。自分は生きているのかと思う。ほかの皆は?ここは何処だ?誰か居ないのか?息が苦しく、全身もまるで何かでぐるぐる巻きに固定されたかのように重く動かない。自分がどんな状況かも解らず、勢三郎はただただ困惑していた。
「結局、上手くその身に炎を取り込めたのはこのガキ一人か。果たしてこれが使い物になるのかどうか。仕上がるまでに壊れなければ良いが。」
「長年の研究でようやく一つ成功したのだ。これを調べて成功の鍵を見つけ出せば良い。別に壊れてもかまわないさ、また作ればいいのだから。」
「効率が悪いことだ。これ一つ作るためにどれだけのものを消費した。まったく、使い捨てにできる術師の数も限りがあるというのに。より強大で強力な術を使用させたり呪具を作らせるとすぐ息絶えてしまうなんて、術師というものがもう少し丈夫で長持ちすれば良いのだが。」
そんな会話が聞こえ、気が付くと自分を見下ろして大人達が話していた。暗いと思っていたのは、何かに目が覆われ視界が閉ざされていたからだった。自分の目を覆っていたものがなくなり、その先にあったものが見えた、そういうことだった。気がつけば自分の身体を拘束していた何かもなくなって。息苦しさも重苦しさも感じなくなっていた。そしてそんな勢三郎を見た大人達が驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「良い兆候だ。自分の身は焦がさず物だけを燃やしたぞ。どうやら融合はうまくいっているようだ。」
「上手く育てば儲けものだな。術師と違って丈夫で長生きしてくれればなお良い。」
そう言う大人達に何かを身体に施され、勢三郎は激痛に叫び声を上げた。
「犬にはちゃんと首輪を嵌めておかなくてはな。自身に与えられた能力を逆手に手を噛まれても困る。」
「お前はもう人ではなく我らの道具だ。生きるも死ぬも我ら次第。お前の命は常に我らが握っていると忘れるな。お前にはもう普通の日常など訪れないことを努々忘れるでないぞ。」
そうやって勢三郎は、家族を皆殺しにされ、連れ去られ、その身に人ならざる能力と呪いを植え付けられて、この島の国々を纏める連合の都合の良い道具となるべく教育を受けさせられ、彼らに言われるがままに諜報活動や暗殺、魔物退治を行う道具となった。
成人する頃には勢三郎は人生を諦めていた。何度自殺しようと思ったか解らない。でも、死ぬことはできなかった。自分に施された呪いが自身で命を絶つことを赦さなかった。何度逃げだそうとしたか解らない。実際に抜け出して、連れ戻され、酷い折檻を受けたことも一度や二度ではなかった。相手を殺してでも逃げようと自身に宿る炎を自分に命令する者達に向けようとすれば、頭が割れそうなほどの酷い頭痛に襲われ、身体は地面に抑え付けられたように突っ伏し動けなくなり、その状態でその上やはり酷い折檻を受けた。自分に宿る炎は自分自身は焼いてくれなかった。自殺できないのならと、魔物相手に無茶な戦い方をして、自分の身も燃やし尽くさん程の勢いで炎を出してみても自分には火傷一つつかなかった。霊力を使えば使うほど、より強い術を発動させるほど、命は削られ寿命が縮むのだというから、自分の全ての霊力を使い果たさんと絞り出したのに、自分の命が尽きる気配はまだまだなかった。そして自身に宿った炎は自分自身を守り続けた。無茶な戦いをして、体力が尽きかけ手足も動かず目がかすむような状態でまだ健在な魔物を前にしていたとしても、そのまま意識を手放したとしても、いつだって目を覚ませば燃え尽きた魔物の亡骸があって、自分はまだ生きていた。自分の生も死も奴らの手の中だと、自分はもう到底人と呼べる物ではないのだと、とても長い時間をかけて理解が身に染み、そして絶望した。自分は奴らの都合の良い道具として生きるしかない。一生そうして生きるしかない。夢も希望もない。ただの道具であるのなら、感情なんて無くなってしまえばいいのに。いつもそんな思いが胸を締め付け苦しくなった。
どうして自分の家族を皆殺にした連中に生かされ、使われ、死んでいかなくてはいけないんだ。どうして。どうして自分だったんだ。俺も皆と一緒に死にたかった。生きていたくなんかない。生きていたくなんかない。お願いだから、誰か早く俺を殺してくれ。幼い頃はそんなことばかり考えていた。それもかなわないと絶望したとき、勢三郎は願うことを止めた。従順に生き、その中で得られるささやかな自由を楽しみに生きることにした。従順にしていれば、役割を確実にこなせば、定期報告を怠らなければ、あまりうるさいことを言われず自由にできることを覚えたから。自分が優秀であると認めさせれば、仕事のやり方もある程度融通をきかせてもらると覚えたから。そうやって勢三郎は憎い相手の従順な犬になった。
○ ○
ある時、勢三郎はある山に出るという魔物退治を命じられた。それはとても美しい女の姿をしていて、男を惑わし山に誘い込んで連れ去ってしまうという。連れ去られた男は命尽きるまで生気を搾り取られ、二度と生きては戻らず、またその魔物を見て連れ去られずにすんだ男も、魔物の怪しい邪気に当てられ正気を失い、魔物の姿を求め誘われるように山へ入り結局戻らぬ人となる。その魔物を見たが最後、魔物の手の内からは逃げられない。そんな噂の事実を調べ、もし本当に魔物がいるのならそれを退治する。それが勢三郎に課せられた任務だった。
「あの山には入ってはいけないよ。あの山には男を惑わす魔物がでるから。魔物に出会ったら最後、あんた生気をむしりとたれて帰らぬ人になっちまうよ。」
山の麓の村で情報を集めながら、あちこちでそんな忠告を受け、村人が本当にそれを怖れ絶対に山に入らない事実を目の当たりにし、勢三郎は実際に何かはあるんだろうなと思った。村人の話はどれも噂ばかりで実際に魔物がでるかどうかは解らなかった。しかし、ここまで麓の村に噂が根付いているとなると、山に確かに危険はあるのだろうと思う。なら実際に山に入ってみるしかない。そう考えて勢三郎は村人に騒がれないように人の目を盗んで山に入った。
山は静かな普通の山だった。これといって特に何もない。魔物独特の邪気も感じない。あれだけ村人が怖れているというのに何もないというのか?それとも昔は何かがあって今はそれがなくなっているのか?そんなことを考えながら勢三郎は何度も山を登ったり下りたりして、おかしいことに気が付いた。山の探索をするために歩いているのに、さっきから同じ道のりを行ったり来たりしている。いつの間にか敵の術中に嵌まって迷わされていたのか?そう考えてみるが、同じ道のりを行き来させられているだけで、その道は山の麓に繋がっておりとても人を迷わせるようなものではなかった。その意味が解らなくて勢三郎は山の中腹で止まって考えを巡らせた。目的がなんにせよ、術により同じ道のりを行かされていることは間違いが無い。そう考えて、勢三郎は自分の霊力を集中して周りを見回した。そうすると今まで見えなかった道がぼんやりと見え、そちらの方へ進み、道だと思ったところに道がなくて勢三郎は崖から転落した。
勢三郎が目を覚ますと、そこは知らない家の中だった。
「目が覚めた?」
そんな声がして、美しい女性に顔を覗き込まれて、勢三郎はこれが山の魔物かと思った。確かに夢幻かと思うほど美しい女だ。顔にまだあどけなさを残す無垢な乙女のように見えながら、男好きのする身体付きをしたこの世の物と思えないほどの美人。こんな女に誘われたら惑わされない男なんていないだろう。そんなことを考えながら勢三郎は魔物を見つめていた。
「あなた崖から落ちて怪我してたんだよ。運良くたいした怪我はしてなかったから、すぐ動けるようになるよ。」
そう言いながら魔物がお茶を淹れて差し出してきて、勢三郎は起き上がりそれを受け取った。これは何かの罠なのだろうか。自分の身体には包帯が巻かれ、治療を受けた後がある。これは自分を油断させる罠で、このお茶には何か薬でも混ぜられているのだろうか。そんなことを考えながら、勢三郎はどうでもいいと思った。どうせ自分には毒は効かない。魔物が何を企んでいようと、何をするつもりなのかゆっくり観察してから滅せれば良い。そうすれば同じような魔物が出たときの対策にできる。そんなことを考えながらお茶を一口口にして、勢三郎の口から旨いなと言葉が漏れた。今まで飲んだお茶の中で一番旨いお茶だった。優しい香りと味わいに力が抜け気が休まる思いがして、勢三郎はこれが手かと思った。
「そのお茶は気を休める効能があるんだ。お茶には色々な効能があるから、用途に合わせて調合して淹れるんだよ。自分の身体が欲している物はおいしく感じるでしょ?」
そう言って魔物は、あなたうなされてたからと言った。
「たいした怪我じゃないとはいえ、しばらくは休んでた方がいい。崖から落ちた怪我だけじゃなくて、あなたは色々無理してるみたいだから。」
そう言って魔物は勢三郎に横になるように促した。
「そこら辺にあるものは勝手に触らないように気をつけて。お腹が減ったからってそこらへんに干してあるもの勝手に口にしちゃダメだよ。あそこに干してあるのは、止血剤にするための薬草。乾かしてすり潰して粉にして、傷の状態に合わせて量を調整して傷薬に混ぜて使うんだけど、直接経口摂取してしまうと危ないから。あれは薬になる物だけど、よく乾燥させて毒を抜かないと猛毒だから絶対触っちゃダメ。あっちは根は食べても大丈夫だけど葉はダメ。そっちは下剤になる薬草だから便秘じゃないならお腹下しちゃうよ。それで、あれが・・・。」
そうやってそこら辺に干してあったり置いてあったりするものの説明をしながら途中で面倒臭くなったのか、魔物はとりあえず危ないから勝手に触らないでねと纏めて注意をし、本当に危ないから絶対にだよと念をおした。説明されなくても勢三郎にはそれらが毒であることが解っていた。薬になることは知らなかったが、中には触れるだけで危険となる物もあると解っていた。触れるだけで危険な物は取ろうと思わなければ触れられないような所に置いてあるが、これだけ毒物を揃えていると言うことは自身の力は弱く毒で人を弱らせて襲うような類いの魔物かと思っていたのに、それを打ち明け決して触れないよう念を押してくるとはどういうことだろう。勢三郎には魔物の意図がわからなかった。
「薬草に詳しいんだな。」
そう言うと魔物は少し辛そうな顔をした。
「わたしの片割れが医者だったから、昔、色々教えてもらったの。こうやって薬を常備しておくのは癖かな。わたしじゃなくて医者をしてた方のだけど。」
そう言って魔物はどこかに行ってしまった。
そこに一人残されて勢三郎はどうすべきか考えた。噂通りの美女ではあるが、彼女は本当に噂のような魔物なのだろうか?彼女の纏う気を見れば彼女が人間ではないことは解る。だから魔物であることは間違いが無いと思う。でも彼女が本当に人に害をなすものかは解らなかった。彼女からは悪意や害意を感じない。これが俺を騙してどうにかしようという手なら大した物だと思う。そんなことを考えながら勢三郎は眠りに落ちていた。
食欲を刺激する良い香りがして勢三郎は目が覚めた。
「よく寝てたね。ご飯できたよ。」
そう言われ、勢三郎はなんとも言えない気持ちに胸を締め付けられた。起き上がりお盆を受け取って、勢三郎は料理を口にした。旨い。食事が旨いと感じるなんていったいいつぶりだろう。そんなことを考えながら、遠い昔、自分がまだ普通の子供だった頃の思い出が頭をよぎって勢三郎は苦しくなった。
「君は料理が上手なんだな。」
そんな言葉を口にして勢三郎は目を伏せて、食事に集中しているふりをした。完全に気を緩めて眠ってしまっていた。無警戒に無防備になっていた。それでも襲われれば自分の中の炎が勝手に自分を護るのだと思う。でも、だからといって気を緩めたことなど今までなかった。深く眠って知らぬ間に何かを殺していることが怖かった。もし目が覚めて、自分以外が灰と化した中に居たら、そんなことを考えて怖かったから。
「だいぶ気力も回復したみたいだし、食事が終わったら送らせるよ。」
そう言われ顔を上げると目が合って、魔物はわたしは山を下りる気は無いからと呟いた。
食事が終わり、家の外に連れ出され、勢三郎は魔物に礼を言った。
「俺は清原勢三郎。君は?」
そう訊ねると、わたしは名乗る気は無いよと素っ気なく言われ、勢三郎は口をつぐんだ。
魔物が、風龍と宙に声を掛けると、そこに光が当たると淡く緑に輝く白い毛並みをした大きな山犬が現れて勢三郎は驚いた。
「この子があなたを麓まで乗せていってくれる。わたしと会ったことは夢でも見たんだと思って忘れて。どうせもう二度と会うこともないと思うけど。」
そう言うと魔物は山犬に彼をよろしくねと言って家の中に戻ってしまった。そして、山犬の背に乗せられてあっという間に山の麓に送られ、勢三郎はなんとも言えない気持ちがした。山犬の背からおり、一度山を仰ぎ見てから山犬の方に視線を戻すとそこにはもう山犬の姿はなく、勢三郎はあれもまた魔物の類いなんだろうなと思った。
彼女はいったい何だったのだろう。人間でないことは確かだが、彼女からもあの山犬からも魔物の気配はしなかった。邪気の隠すのが上手いだけなのかもしれないが、でも、本当にただ自分を看病し、麓に戻してお終いだった。何も害になるようなことはされなかった。それどころかただただ良くしてもらって終わりだった。彼女のことが気になってしかたがなかった。彼女のことが知りたいと思ってしかたがなかった。そんな自分の感情を認識して勢三郎はある意味で噂通りだなと思った。こうやって自分を信じ込ませて男を虜にし、また自分からやってくるのを待って襲うのか。そうなら随分と手間のかかることをするものだ。そんな手間をかけなくても襲う気なら俺が完全に眠りに落ちていたところを襲っていただろうと思う。それとも意識がある状態で何かしなければ人の生気を奪うことができないとでも言うのだろうか。それにしても、そうならもう少し気を持たせるようなことをしても良いと思う。そんなことを考えて、勢三郎はまた彼女に会いに行くことにした。
そうして勢三郎は毎日足繁く彼女の元に通った。いつも軽くあしらわれ、邪険にされ、まともに話しをすることもなく追い返されたが、それでも毎日通い続け話しかけていた。そんなことを続けていると、相変わらず自分を邪険に扱いながらも彼女が徐々に自分の話に耳を傾けるようになってきていることが解って勢三郎は何とも言えない気持ちになった。自分はいったい何をしてるんだろう。彼女がどんな存在だったとしても、彼女が人間でない以上、自分は彼女を殺すためにここにいるというのに。どうして無駄に交流を重ね親睦を深めようとしているのだろう。あぁ、自分はすっかりこの魔物に惑わされてしまっているのか。そんなことを考えて勢三郎は胸が締め付けられた。
魔物と知り合って、勢三郎は毎晩のように彼女とまぐわう夢を見た。彼女とまぐわいながら彼女に自分の霊力を注いで自身の炎に包まれる夢を何度も見た。夢の中で燃える彼女を抱きながら、このまま彼女を燃やす炎に自分も焼かれ心中したいと願う自分を感じた。彼女と共に灰になって跡形もなくなって安堵に似た思いが胸に広がるのに、目が覚めて、それが絶対に叶わぬ夢だと実感して苦しくなった。
「いいかげんにして。わたしに用事なんか無いでしょ。わざわざこんなところに毎日来るとか意味が解らない。そもそもどうしてあなたがここに来れるのかも解らない。人が入ってこないように術式を張り巡らせているのに。いったいあなたは何者なの?何がしたいの?わたしは人となんか関わりたくない。だから、もう来ないでよ。」
ある時いつものように訪ねて行くと彼女にそう怒鳴り散らされて、勢三郎は思わず笑っていた。初めて彼女が自分に感情をぶつけてきたことが嬉しいと感じている自分を認識して勢三郎は苦しくなった。
「何を笑ってるの?」
そう訊かれて、勢三郎は思ったままを口にしていた。それを聞いた彼女が意味が解らないと言って俯くのを見て、勢三郎は胸がざわついた。
「初めて君と会ったとき、俺は山道に違和感を覚えて君が幻術で隠している道を見つけた。あの時は完全に術を破れたわけじゃなかったから、道を見失って崖から落ちてしまったが、一度見破ったものをどうにかするのはたやすい。俺は魔物に対応する訓練を受けているから、そういう妖術の類いを見抜くことも破ることもできるんだ。」
そう言うと彼女が魔物って何?と顔を上げて訊ねてきて、勢三郎は彼女に訊かれるままに色々と答えていた。魔物とは何か。術とは術師とは何か。彼女は本当に何も知らない様子で、興味深げに勢三郎の話を聞いていた。
「俺は火事に遭って家と家族を失って以来天涯孤独の気楽な身だから、あちこちふらふら旅をしながら、何でも屋みたいなことをして稼いでるんだ。そうするとどうしても魔物と相対しなくてはいけないことがあるから、教わって対応の仕方を身につけた。そうやって長く旅をしているうちに魔物退治の依頼を受けてこなすくらいの実力も身に付いた。」
そんな勢三郎の話を聞いて、彼女はわたしも似たようなものだと呟いた。
「大きな戦争があって、気が付いたら独りだった。帰る国も仲間も全部失ってわたしは独り生き残ってしまっていた。」
そう言って彼女は悲痛な顔をして暫く黙り込んだ。
「わたしは人間じゃない。かつてはお前達人間と寄り添って生きていたが、それは過去の話し。もうかつてのような関係に戻るようなことはない。」
そう言って彼女は勢三郎に視線を向けた。
「お前達人間が、良く解らない不安に駆られわたし達ターチェに不信感を抱き戦争になった。それまで寄り添って生きてきたのにだ。わたし達はずっとお前達を災いから護ってきたというのに、わたし達にもどうすることもできない日照りが、大雨が、不作が、疫病が、それがわたしたちのせいだと、わたし達がお前達を苦しめるためにそれらを起こしているなどと言いがかりをつけられて、それで滅ぼされた。最後まで人ならざる力を使わず、同じ人として接しようとしたわたし達の言葉に人間は耳を傾けてはくれなかった。地上の神と人間の間の子の子孫の我々もまた、人の子であることに変わりは無いというのに。だから、わたしは人間と関わりたくない。戦争があったのが大昔の話しでも、お前達がそれを忘れてしまっていても、同じように関わればまた、結局いつかは同じようなことが起こるんでしょ?わたしはお前とは違う生き物だから、わたしは年も取らないし寿命もないから、お前だってどうせいつかはわたしのことが怖くなる。寄り添って生きていこうとしたって、結局は解り合うことなんかできないんだ。だから、どっかいってよ。来ないでよ。わたしの中に入ってこないで。わたしは独りでいたいんだ。いつかこの命を終えるその日まで、もう誰とも関わらず独りでいたいんだ。だから、お願いだから独りにさせて。わたしに近づかないで。」
そう言って彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、その顔を伏せた。
「解ったなら、どっか行って。人間にも術式が使えることが一般的になったことは解ったから、昔みたいに意識攪乱系の術式をいくつか組み合わせただけじゃ身を隠すことはできないって解ったから。これからはあなたみたいな人が現れないように他に対策を考えてみる。」
そう言って彼女は風龍を呼び出し、勢三郎を送るように伝え、家の方へ身体を向けた。
「君は、死にたいのか?」
勢三郎のその問いかけに彼女は背を向けたまま、ターチェに自殺は禁じられているからと言って家の中へ入っていった。
山の麓に送られて、自分の宿場へ戻り、勢三郎はそこにいた男を見て顔を顰めた。
「お前にしては時間がかかっていると思って様子を見に来た。」
そう告げられて、勢三郎は男の向かいに座った。
「山の魔物は妖力が弱い非力な奴だ。できる事も人とそんなに変わらず大したことはできない。いつでも殺せるから、その前に魔物の情報を引き出そうと奴の警戒心を解くのに時間がかかっているだけだ。有益なのは奴の持ってる情報だけじゃない、上手く手懐けて生け捕りにできれば研究の糧にもできるだろ。」
そう言う勢三郎に男は下卑た笑みを浮かべた。
「山の魔物は正体はともかく、人前に現す姿はとんでもない美人だそうだな。その美貌で男を誘惑し、男と交わって生気を吸い尽くす化け物。妖力が弱くてお前の命はとれなかったか?どうだった魔物の女の味は?あまりに具合が良くてはまっちまったか?それですぐに殺すのが惜しくなったか。お前もまだ若いからな、女の色に惑わされてすっかり虜にされちまったか。」
見下すようにそう言って男は、さっさとけりをつけろとドスのきいた声で勢三郎を恫喝した。
「お前の仕事は他にもある。お前の言う通りだって言うならとっとと誑し込んで生け捕りにして連れてこい。だが、これ以上は待たない。解ってるな?」
そう言われて勢三郎は解ってると答えた。
「明後日の朝にはここを発つ。それまでにおとせなかったら始末する。他の仕事に支障は出さない。」
そう言う勢三郎を一瞥して男は部屋を出て行った。
男の気配が完全になくなり、一人になった部屋で勢三郎は吐きそうになった。解ってる。俺が逃げられないって事は解ってる。彼女を見逃すことができないってことも解ってる。彼女を連れ出す事ができたとしてもそんなことは一時しのぎだ。生け捕りにして本部になんか連れて行ったらそれこそ彼女は死んだ方がましな目に合わされる。それでも俺は・・・。名前も知らない彼女の姿が頭に浮かんで勢三郎は胸が詰まって苦しくなった。殺したくない。自分のような目にも合って欲しくない。このまま彼女が望むようにそっとしておいてあげたい。そう思うのに、自分にはそうすることができなくて勢三郎は自分の感情に押しつぶされそうになった。
そして次の日、勢三郎はまた彼女の元を訪れて、うんざりした視線を向けられた。
「今日は君に別れを告げに来たんだ。明日、俺はここを発つから。」
そう伝えると、そう、と素っ気なく言った彼女の目が少し寂しそうに陰るのが見えて、勢三郎は言葉を続けていた。
「最後だから、最後くらいちゃんと話しをさせてくれないか。君の名前を教えて欲しい。」
そう言うと彼女は少し逡巡するように視線を泳がせて、青木沙依と呟いた。
「中に入る?お茶ぐらい出してあげる。」
そう言われ、崖から落ちて運び込まれて以来初めて勢三郎は彼女の家に上げてもらった。
二人は机を挟みながらただ黙ってお茶を飲んでいた。勢三郎には話すべき言葉が思いつかなかった。どうすればいいのか解らなかった。なににせよ、今日この時限りで彼女とはお終いなのだ。そう思うと辛くなった。
「少しだけ、あなたが来るのが楽しみになってた。あなたの声を聞くのを楽しみにしてる自分がいて辛かった。あなたが明日発つと聞いて、これでようやくまた独りになれるってほっとして、それと同じくらい寂しいと思ってしまった。」
そう言って沙依は勢三郎に袋を渡した。
「さっき、お湯を沸かしてる間に用意したの。あなたがおいしいって言ってたお茶。あと、色々薬とか。旅を続けるなら役に立つかと思って。どれが何の薬かは薬の袋に書いておいたから。」
そう言って沙依は静かにお茶を口に運び、目を伏せた。そんな彼女を見て、勢三郎の口から、俺と一緒に来てくれないか、と言う言葉が自然とついて出てきていた。
「俺も君と似たようなものだ。自分の生い立ちのせいで普通の人の中には混じれない。それであちこち転々として回ってる。君がどんな存在だって、同じ所に留まらなければそんなに気に留められることはない。だから・・・。」
そんなことを口にして勢三郎は自分はいったい何を言っているのだろうと思った。
「独りでいたいと言いながら本当は寂しいんだろ?なら旅に出て君の仲間を探そう。君が生きてたんだ。きっと他にも生きている人がいる。人間とは関わり合いたくなくても、仲間となら一緒にいたいんじゃないか?俺が一緒にいるのは仲間が見つかるまでの間で良い。だから、山を下りて俺と一緒に来て欲しい。」
それを聞いて驚いたような顔で自分を見つめる沙依に、勢三郎は明日の朝村の境界で待ってると告げた。
「ごちそうさま。これ、ありがとう。」
そう言って沙依から渡された袋を持って彼女の家を後にし、勢三郎は空を見上げ、自分の中からこみ上げてきそうな何かを抑え付けた。
朝になり、勢三郎は村の境界に立っていた。彼女が来るはずはない。このまま待って来なければ、山火事を起こしてあの山ごと彼女を燃やし尽くす。それでお終い。自分と一緒に来るよりきっとその方が彼女には良い。彼女は自分と同じように死ねないから生きているだけで、本当は死にたがってる。ここで死んだ方がきっと・・・。そんなことを考えて勢三郎は苦しくなった。
彼女を待つ間、彼女と過ごした短い時間が走馬燈のように頭の中に流れ、勢三郎は自分の影に視線を落とした。お湯を沸かしている間に用意したと言いつつ、彼女から渡された袋の中には多くの薬が入っており、その一つ一つに丁寧に用法や用量が書いてあり、本当はもっと前から自分に渡そうと用意してくれていたのだと解った。彼女は人に関わりたくないと言いながら、怪我をした自分を見つけたときそのまま放置せず助けてくれた。心配して、労って、休ませてくれた。彼女といる時間はとても心地よかった。それが自分が持つべき感情でないと解っていても、少しでも長く彼女といたいと思う自分がいて苦しかった。
日が高く昇り、朝というには遅い時間になってきて、勢三郎は太陽を仰ぎ見た。これ以上は待てない。そう思って苦しくなって視線を落とす。解ってたじゃないか。覚悟していたじゃないか。このまま来ない方が、その方が彼女にとってもきっといい。それでも、本当は彼女が来てくれることを願っていた自分を認識して勢三郎は胸が詰まった。
意識を切り替えて、自分の霊力を集中し山に火をかけようとして、自分の名を呼ぶ声に勢三郎は動きを止めた。
「ごめん、遅くなって。ずっと迷ってた。まだいてくれて良かった。」
心底ほっとしたようにそう言う沙依を見て、勢三郎は何かが胸をこみ上げてくる気配を感じた。そんな勢三郎の様子を見て、どうかした?なんて首を傾げる沙依を見て、勢三郎は、君は来ないと思ってたと呟いた。
「ここでお別れなんだと思ってた。もう二度と会うことはないと・・・。」
嬉しいと思う自分と辛いと思う自分が混在して勢三郎は笑った。少し猶予ができただけ。彼女を本当に本部へ連れて行くわけにはいかない。本部に着く前に、その前に、この手で彼女を殺さないと。そう思って、彼女とまぐわいながら彼女を燃やす夢が鮮明に頭の中に蘇った。そして、このまま彼女と逃げることができればと勢三郎は叶わぬ夢を心に描いた。
○ ○
「勢三郎。わたし、あなたになら殺されてもいいよ。」
二人での旅にもすっかり慣れたある日、自分を静かに見つめる沙依にそう言われ、勢三郎は息を呑んだ。
「わたし気が付いてた。あなたがわたしを殺しに来たって。殺そうと思っては躊躇って、結局殺せなくて、また殺そうとして、今だってそんなこと繰り返してるでしょ?」
そう言って沙依は笑った。
「いいよ、殺して。どうせ殺されるならあなたに殺されたい。だってわたしあなたのこと嫌いじゃないし。あなたがわたしに言ってくれたことはわたしを油断させるための嘘だったのかもしれないけど、それでも嬉しかったから。」
そう言って泣きそうな顔で力なく笑って、沙依は、わたしもう疲れちゃったと呟いた。
「見つける人、見つける人、皆鬼になってるんだもん。もうさ、わたしみたいに普通に生きてる人なんかいないんだよ。生きてる人はみんな鬼になって、何にも解らなくなって、破壊を繰り返すだけの存在になっちゃった。わたしはこのままってことはさ、わたしはさ、鬼になるほど何も感じてないんだよ。酷い奴だよね。」
譫言のようにそう言う沙依見て、勢三郎はその身体を引き寄せて彼女の唇を奪っていた。そして、彼女を自分の炎で燃やそうとして、できなくて、勢三郎は唇を離して彼女を強く抱きしめた。
「すまない。」
そう呟いて勢三郎は沙依から離れ、呆然とした様子で自分の唇を手で触れる彼女をそこに残して部屋を後にした。
沙依と旅に出て暫く、勢三郎は真っ直ぐ本部には戻らず、道すがら仕事を処理するという名目であちこちを回り時間稼ぎをしていた。そんなことして何の意味があるのかと思う。結局、自分に選べるのは自分で彼女を殺すか、本部に生きたまま引き渡し彼女を酷い目に遭わせるかの二択しかないのに。でも、そのどちらを選ぶにしても覚悟を決めるための時間が欲しかった。それにしても、自分が彼女を殺そうとしていたことがバレていたなんて。自分が彼女を殺すつもりだと解ったうえで、彼女が自分とずっと一緒にいたなんて。結局、自分は彼女を殺せなかった。ただ彼女の唇を奪ってそれで・・・。
「真っ直ぐ本部に戻らずふらふらと。随分とあの魔物にのめり込んでるようだな。まぁ、化け物同士お似合いか。」
そんな言葉をかけられて、勢三郎はそこにいた男を睨みつけた。
「奴を懐柔するのに時間をとったからその分の巻き返しを図りながら戻っているだけだ。仕事に支障は出さない、そう言っただろ。奴を本部に送ることは優先順位が低い。真っ先に連れて行けと言うのならそうするが。」
そう言う勢三郎に男はどうでもよさそうに、はいはいそうですかと言った。
「それにしてもあの魔物は随分とお前に気を許しているようだな。お前、このままあの魔物を誑し込んで子供を作れ。」
そう言われて勢三郎は言われた意味を認識できなくて眉根を寄せて男を見返した。
「お前の言う通り、女にしては武芸に秀でているというだけであれは人間とさほど変わらないようだ。それでも魔物には変わりない。その身に炎を宿らせた化け物のお前と番わせて、その影響が子にどう出るのかが見たいのさ。まぁ、魔物と番うなんて嫌だっつうなら、そのまま本部に引き渡せば良いさ。そしたら、霊力の強い術師や、他の生け捕りにした魔物、お前みたいな化け物共と交わらせてみるだけだ。あの容姿だ、抱くだけなら皆喜んで抱くだろ。それにあれも沢山の男を食ってきた好き者なんだから、ひたすら子を産むだけの道具にされるのも案外悪くないと思うかもな。あれだけそそる女だ、命を取られる心配が無けりゃ、俺も一発相手になってもらうんだけどな。」
下卑た笑みを浮かべた男にあざ笑うようにそう言われ、勢三郎は爆発しそうになった自分の感情を必死に抑え付けた。
「流石に子を成すとなると根無し草の旅を続けてじゃ難しいだろ。お前があれをちゃんと誑し込んで祝言あげるっつうなら、一所に落ち着けるようにしてやってもいいって上の連中が言ってる。お前がずっと欲しがってた普通の生活だぞ。あれを誑し込んで嫁にしてあれとの間に子を作る。それだけでお前がとっくの昔に諦めた全てが手に入る。悪い話しじゃないだろ。」
そう言われて勢三郎は黙り込んだ。そんな勢三郎に男が詰め寄って耳元でドスのきいた声で囁いた。
「自分で孕ますか他の奴に孕まさせるかどっちを選んでも良いが、間違ってもあれを殺すなよ。生きたままちゃんと連れてこい。これは決定だ。決定に逆らったら解ってんだろうな?」
それを聞いて勢三郎は解ってると呟いた。
男と別れて勢三郎は暫く一人で町を歩いて回った。沙依と祝言をあげ夫婦になる。そうすれば俺は普通の生活を手に入れられる。沙依も酷い目に遭わずにすむ。本当にそうなのか?そんな夢のような話しが本当にあるのだろうか。本当にそうだったとしても、自分達に子供ができたら取り上げられそして子供はきっと自分と同じような目に遭う。それが耐えられないからといって、彼女に全てを打ち明けて彼女一人逃がそうとしたところで、他の誰かに捕まってしまうのがおちだ。そうすれば彼女は結局無事では済まない。俺はどうすれば良いんだ。そんなことを考えて勢三郎は心に沙依の姿を描いた。怪我した自分を見つけて治療をしてくれた彼女。人と関わりたくないと頑なになっていたのに自分に気を許して山を下りてきてくれた彼女。見つけた仲間が鬼になってしまっていた事実に心を痛めていた彼女。鬼になった仲間に声が届かず、殺す決断をし、それを繰り返し現実にうちひしがれ絶望した彼女。そんなとても弱くて繊細で優しい彼女。少しずつ自分に気を許してくれるようになって、感情を見せてくれるようになって、ちょっとずつ笑うようになって。俺はそんな彼女の変化を見て嬉しかった。このままずっと彼女といれたらなんて。彼女と一緒に逃げることができたらなんて。どうしてそんなことばかり考えてしまうんだろう。もうとうの昔に諦めたはずなのに。どうして・・・。
宿場の部屋に戻ると、沙依にお帰りと声を掛けられて勢三郎は胸が苦しくなった。
「遅かったね。」
そう言われて、勢三郎は沙依から視線を逸らした。
「ちょっと考え事しながら町をぶらついてた。」
そのまま暫く二人は黙ってそこにいて、そして沙依の方が先に口を開いた。
「勢三郎。あの。あのさ。さっきのってどういう意味?」
そう問われ沙依の方を見ると、少し顔を赤くして目を逸らしながらまだ戸惑っている様子の彼女が目に入って、勢三郎は彼女の頬にそっと手を添え自分の方を向かせた。不安げな、それでいて何かを期待しているような、そんな瞳で見つめられて勢三郎は、俺と結婚してくれと言っていた。
「町で国元の人間に会ったんだ。それで、仕事を紹介してもらえることになって。国に戻って落ち着こうと思う。だから、国に戻ったら俺と結婚してほしい。」
そう言うと沙依が視線を落として黙り込んで、勢三郎は彼女の頬から手を離して、返事は今すぐじゃなくて良いと言った。
「君にとって同じ所に留まることが人間でないと周りに知られる危険をはらんでいて怖いことだというのは解ってる。まだ色々頼まれている仕事があるから、国元に戻るまで期間があるし、その間にゆっくり考えてくれれば良い。」
そう言って勢三郎は沙依から視線を逸らした。
「俺は君を殺せない。最初は依頼されて魔物退治のために山に入って君と会ったんだ。君といて、君が死にたいと思ってるのが解った。俺もずっとそうだったから。生きているのが辛いなら、自分で死ぬことができないのなら、俺の手でなんて考えた。でも結局、俺は君を殺せなかった。きっとこれからも君を殺すなんて事はできない。無事な仲間を見つけようとするのにも疲れたんだろ?なら、俺と一緒に落ち着くって選択肢も考えて欲しいと思ったんだ。」
求婚されて以来、沙依は少しずつ勢三郎に甘えてくるようになった。不安なことや辛いことをぽつりぽつり話し、時には涙を見せるようになった。勢三郎と出会う前のこと等、自分のことを色々と話すようにもなった。最初は恐る恐るといった様子で打ち明けてきた彼女が次第に胸の内を隠さなくなって、勢三郎は嬉しいと思うと同時になんとも言えない想いに胸が締め付けられた。彼女が好きだった。愛おしいと思っていた。でも、自分がそんな言葉を口にしてしまえば、その想いは全て彼女を騙すための嘘になってしまう気がして怖かった。現に結婚してくれと言ってから、彼女はこんなにも自分に身を寄せるようになった。自分を信頼し自身を委ねるようになった。これ以上彼女に想いを寄せられたら、そうしたら自分は・・・。
「勢三郎は、人間じゃないわたしを娶ることに抵抗はないの?」
ある日そう問われて、勢三郎は抵抗なんてないと即答した。
「君が人間かそうじゃないかなんてそれはどうでも良いことだ。」
心からそう思った。
「わたしは少し怖い。」
少し困ったような顔をして、申し訳なさそうにそう言う沙依に勢三郎は微笑んだ。
「いいんだ。君が人間を信じられないのも無理はない。時間はまだたっぷりあるからゆっくり考えてくれればいい。それで君がどんな選択をしても構わない。俺が無理をお願いしているんだという自覚はあるから。」
そう言う勢三郎に沙依は、勢三郎のことは信じてると言って笑った。
「無理なんかじゃない。ちょっと怖いだけ。自分なんかで本当にいいのかとか、勢三郎の迷惑になっちゃうんじゃないかとか。気持ちは嬉しかった。結婚してくれって言われて本当に嬉しかったの。」
恥ずかしそうに目を伏せてそう言う沙依を見て、そこに彼女の自分への想いを感じて、勢三郎はとても嬉しく感じ、同時に罪悪感で酷く胸が締め付けられた。本当の想いがどうであろうと結局自分は言われた通り確実に彼女を誑し込んで、嫁にしようとしている。そしてきっとそのまま彼女との間に子を作る。俺の行動の何処から何処までは自分の想いで、何処から何処までが仕事なんだろう。どうせ同じなら割り切ってしまえればいいのに、本当に愛しいと想う人と一緒にいようとすることにどうしてこんなにも後ろめたさを覚えるんだろう。そんなことを考えて、勢三郎はまた彼女とまぐわいながら心中する夢を鮮明に思い出した。本当にそうする事ができたのなら良いのにと思っている自分がいて辛かった。
○ ○
道中で鬼の咆哮が響き、男達の断末魔を聞いた。沙依がその方向に走って行くのを追いかけて、勢三郎は今まで見たことのない大きさの鬼を見た。鬼の力量はその大きさに比例する。これほど大きな鬼ならば元はよほど強い力を持ったターチェだったのだろう。鬼というものが元は沙依と同じ存在だったのだと知ってから、鬼と遭遇する度にそれが元はどんな人物だったのか考えてしまう自分がいて勢三郎は苦しくなった。
いつものように沙依が鬼の死角に入り倒す機会をうかがう様子を見て、勢三郎は鬼を見て涙を流しながら呆然としていた娘を避難させた。抱きかかえ鬼から引き離した彼女の強い破魔の気を見て、勢三郎はこの人はもしかすると失踪したという葛宮の巫女姫かと思った。葛霧を護る葛宮の姫として、成人まで男子禁制の離宮の中で祈りを捧げ霊力を高め続けることを役目とされた巫女姫。その実、魔物への贄とするために隔離されより良い供物となるよう育てられていた娘。兄の手引きで国外に逃がされたその娘がまさかまだ無事に存在していたとは。彼女が本当に葛宮の巫女姫その人であったなら、見つけてしまった自分はどう対処すべきなのだろう。そんなことを考えてなんとも言えない感情に勢三郎は意識が縛られ、腕の中の彼女を逃がしてしまった。自分の腕から逃げた彼女が鬼に抱きついて、鬼に言葉を掛けながら鬼の穢れを払い続ける姿を見て、勢三郎はやはりこの人はその人なのだと思った。そして、鬼が人の姿に戻る様子を呆然と眺めていた。
鬼が人に戻ることができるなどという奇跡を目の当たりにして動揺し、行き場のない感情を鬼だった人と姫に向ける沙依を見て、勢三郎は彼女を止めていた。彼女の痛みが嫌という程わかったから、これ以上彼女に苦しんで欲しくないと思った。自分に泣きついてくる彼女の背中をさすりながら、自分に完全に心を許してもたれかかってくる彼女を支えたいと思うと同時に胸の中に罪悪感が広がって、勢三郎は視線を逸らし、鬼だった人に声を掛けていた。
田中隆生と名乗った鬼だったその人が、朗らかに笑いながら他愛のない会話をするその人が、その瞳に警戒の色を濃く漂わせて自分を見据えていることに気が付いて、勢三郎は何故かほっとした。
霊力を使い過ぎて倒れてしまった和葉姫に沙依が付き添い介抱し、勢三郎は隆生と二人宿場の別室に居た。
「君は彼女と親しかったのか?」
そう訊く勢三郎に隆生は別にそれほどでもないと答えた。
「お互い軍人で、同じ隊長職に就いてた身だからな。そりゃ仕事上それなりに付き合いはあったさ。業務的に世話になることもままあったしな。でも、私生活でまで交流があるほどじゃなかった。それくらいの間柄だ。」
そう言う隆生に勢三郎は、そうかと短く答え少し考えるような素振りをした。
「君は初めて会った無事な彼女の仲間なんだ。彼女はずっと無事な仲間を探していた。出会う人出会う人が皆鬼になっていて、どうしようもなくて、彼女は疲れ切ってしまっていたんだ。でも、ようやく君に会えた。彼女の知り合いでもある君に。俺と居るより同じ時を生きられる仲間と居た方が良いと思うから、だから、君が彼女を連れて行ってくれたらと考えている。どうか、君たちの道中に彼女を一緒に連れて行ってくれないか?」
勢三郎のその言葉を聞いて隆生は、嫌だねと吐き捨てた。
「俺と来るかお前と行くか、それを決めるのはあいつだろ。あいつが俺と来たいっつうなら勝手についてくれば良いが、あいつはお前と居たいのにあいつの意思を無視して俺に押しつけるって言うならお断りだ。俺はあいつを連れて行く気はない。」
そう言って隆生は勢三郎を見据えた。
「痛い目見ようが何だろうがあいつの人生はあいつが好きにすりゃいいだろ。お前が何を抱えてて何考えてんのか知らねーけど、あれだけあいつに女の顔させといて、それを受け入れてるような素振りしといて、それから逃げようってのは虫が良すぎじゃねーか?男なら腹くくって責任とれよ。」
真っ直ぐ見つめられながらそう言われて、勢三郎は苦しくなって黙り込んだ。解っている。彼女が自分を本当に慕ってくれていると。自分の求めに応じて自分と添おうとしてくれていると。だからこそ自分に身を任せているのだと。でも、自分は彼女に後ろめたいことが多すぎて、彼女と添いたいと思うのと同じくらい、彼女と離れたいと思ってしまう。彼女が自分の求めに応じないでくれれば、自分を拒絶してくれれば、自分から離れて行ってくれれば・・・。そんなことを考えて苦しくなる。
そんな勢三郎を見て隆生が年を訊いた。十八だと答える勢三郎に、案外若いんだなと呟いて、隆生は視線を逸らした。そのままこれといって言葉を交わすことなく二人は部屋で和葉姫の回復を待っていた。
それから、隆生と和葉姫も旅に同行するようになった。普通の娘同士のように和葉姫と楽しそうにはしゃいでいる沙依の姿を見て、勢三郎は胸が暖かくなった。そして自分の視線に気が付いて目を細め笑いかけてくる彼女を見て胸が苦しくなった。
「このままの時間がいつまでも続けばいいのにな。」
思わず漏れてしまった勢三郎の言葉を隆生が拾って、お前は面倒くせーなと呟いた。
「このままが良いならあいつ連れて逃げちまえよ。そうしたいんだろ?」
そう言われて勢三郎は困ったように笑った。それができたらどんなに良いかと思う。でも逃げたところでどうせ連れ戻されるのがおちだ。そして俺を追い詰める為だけに彼女は酷い目に遭うのだろうと思う。あの男が言っていたことはそういうことなのだ。そうやって俺を脅していたのだ。俺が変な気を起こさないように釘を刺していたのだ。逃げれば彼女が酷い目に遭う事になり自分もまた折檻を受け、彼女を殺せばやはり自分は酷い折檻を受けることになる。そして言うことを聞けば良いことがあると餌をぶらさげられて、俺は・・・。
「死にたいなら今ここで殺してやろうか?」
そう言う隆生に促されて見た先にあった木が、一瞬のうちにバラバラになり、そして更に細切れになり、それもまた小さくなり、最後にはまるで塵のような細かさの物になって風に飛ばされ跡形もなくなってしまうのを見て、勢三郎は息を呑んだ。
「これが俺の能力だ。便利っちゃー便利だけど、危ねーから普段は余り使わないけどな。」
そう言って隆生は勢三郎を見た。
「今はわかりやすいように段階踏んで見せてやったが、やろうと思えばお前なんか一瞬で木っ端微塵にしてやるよ。死にたきゃいつでも殺してやる。きっとお前が思ってるほど選択肢は少なくないぞ。視野を狭めるな。お前は若いくせに老成しすぎだ。諦め切れないならもっとあがけよ。なりふりかまわず、それこそ命賭けてみろ。その価値があるって言うならな。」
そう言うと隆生は勢三郎から視線を逸らして遠くを見た。
「大昔、俺がガキの頃、俺はよく国を抜け出して人里に下りてた。人間に友達もできて、楽しくしてたんだけどな。あるとき山でそいつらと遊んでるときに熊に襲われて、俺はとっさに自分の能力を使って熊を倒してた。それで、友達だと思ってたそいつらに怖れられて化け物扱いされて、避けられて、石投げられたりとかさ。あれはキツかった。あの頃は俺もガキだったしな。同じターチェ同士でも俺みたいに強い力を持ったコーリャンと呼ばれる奴は忌避されてんだ、何の能力も持たない人間がそれを怖れるのは当たり前だよな。それでも、仲良くなれると、同じようにいられると、ガキの頃は思ってたんだ。それが、最終的には結局わかり合うことはできずに、謂われのない濡れ衣着せられて全面戦争になって滅ぼされちまった。俺たちの存在は人間にとって何だったんだろうな。都合の良いときは山神様なんて言って頼ってきときながら、結局、利用するだけ利用して俺たちのこと解ろうとなんかしなかったんだろ。だって、お前等に自分達の能力を一切使わず応戦したっていうのに、お前等こっちの話しなんか全く聞く耳持たずありとあらゆる手を使ってこっちのこと滅ぼしにかかってきたからな。俺たちが思ってたほど信頼関係なんて築けてなかったんだろ。仲良くしてるように見えたって、結局本当は怖れて、恐がって、俺たちがいつ自分達に牙を向けるのか怯えてたんだろ。そう思うと、本当な、本当どうしようもなくなってくる。」
ただ淡々とそう語ると、隆生は勢三郎に視線を戻した。
「お前はどうだ?俺たちをどう見てどう扱う?いくら俺たちより短い命だっていっても、お前の人生まだ先が長いだろ。人生を諦める前に時間掛けてちゃんと考えろ。自分の生き様ってやつをさ。」
そう言われて勢三郎は胸が苦しくなった。諦めることがもうどうしようもなく癖付いていた。自分の感情から目を逸らすことが当たり前になっていた。沙依と出会って、彼女に惹かれて、その当たり前になっていた事ができなくなって、どうしようもなくなった。苦しかった。辛かった。だから彼女と心中したかった。彼女と生きることより、彼女と共に尽き果てることを夢見た。自分と同じように孤独に心を蝕まれ死を望んでいた彼女を自分の死の道連れにして、それが叶わぬ事と思いつつ自分の孤独を彼女の孤独で埋めようとしていた。最初はそうだった。でも、今は違う。今は・・・。そんなことを思って勢三郎の中に沙依に口づけた時の事が蘇った。自分は彼女に生きていて欲しいと願っている。もっと笑って欲しい。ずっと笑っていて欲しい。どうかこのまま、俺の傍でずっと。
定期報告の際、悩みながらも勢三郎は和葉姫を見つけ現在同行していることを報告した。そして指示を仰ぎ、そのまま放置しろと言われ戸惑った。
「葛霧の国は滅びる。あそこに巣くった魔物は余りにも強大だ。これ以上あれに力を蓄えさせるわけにはいかない。残念だが葛宮含め葛霧の人間には全て人柱となってもらい魔物には国ごと綺麗に消えてもらうことにした。長年の間その強い霊力で葛霧の国を護り続けていた葛宮の全てを失うという苦渋の選択だったが、そうか姫が生きていたか。それは朗報だ。姫が残っているとなれば葛宮の血が絶えずにすむ。葛宮の中でも強い霊力を有しているという姫だ。葛宮の力をしっかりと後世に繋いでくれるだろ。」
そう言って男があくどい笑みを浮かべた。
「それにしても葛宮の巫女姫がまさか鬼を馴らして共にいるとはな。どうせなら鬼に手篭めにされて鬼の子を孕んでくれたなら、鬼を滅して子を取り上げてやるものを。どちらにせよ姫には優秀な力を繋ぐための礎として、しかるべき相手と添ってもらいその役目をしかと果たしてもらわなくては困る。時が来たら回収できるように印をつけて泳がせておけ。」
そう言われ、勢三郎は解ったと一言返事した。
男と別れ、勢三郎は皆の元に戻った。隆生と和葉姫の和気藹々とした様子を見てなんともいえない気持ちになる。初めて会ったときからこの二人が本当に想い合っているのだと感じていた。それでいて付かず離れずのその関係。いったい二人はどんな関係なのだろう。きっと二人の間に子ができたとしても、それは二人が想い合った結果だと思う。決して望まぬ交わいの末にできた子などであるはずがない。こんなにも彼女を必要とし大切にしている彼が彼女を手篭めにするなどあるはずがない。そう思って、事実がどうであろうとあいつらには関係がないと考えが至って、勢三郎は二人から目を逸らした。
「和葉さんと君はどんな関係なんだ?」
隆生と二人きりになった時、勢三郎はそう訊ねた。
「あいつは俺の恩人で、俺はあいつの用心棒だ。俺が用心棒でいるのも年が明けるまでの約束だから、もうすぐあいつともお別れだけどな。」
その言葉を聞いて勢三郎は驚いた。そんな勢三郎の様子を見て、隆生が怪訝そうに眉根を寄せた。
「てっきり、その。二人は深い仲なのかと。二人が離れるという発想がまったくなかったから驚いた。」
勢三郎のその言葉を聞いて隆生は小さく笑った。
「最初は助けてもらったし、一年間は家に帰れねーって言うし、あいつ世間知らずで危なっかしかったからほっとけなくて家に帰るまでの間用心棒してやるって言ったんだけどな。もうすっかり情が移っちまったからな。本当、呑気で脳天気で、本人は焦ってるつもりでものんびりしてて、あいつのあの気の抜けた声聞いてるとこっちまで気が抜けてくる。本当、あいつが傍にいてくれればな。そうすりゃ俺は色んな事忘れて、もう鬼にもならずにずっと過ごせる気がする。」
そう言って隆生は勢三郎を見た。
「でもな、気がするだけだ。自分の中に燻ってる鬼の気配はずっと、きっとこれからも俺の中に居座り続ける。俺に忘れることなんか許しちゃくれないし、ずっと俺に全てを壊せと語りかけてくる。俺自身がそんなことしたくないと思ってもだ。俺の感情の揺れ一つで、あれは俺の身体を乗っ取って操っちまう。その度に和葉に命を削らせて助けてもらうなんてバカみたいだろ。だから俺は約束通り年が明けたらあいつを家まで送って、そしたら知り合いの術師のとこに行って自分を封じてもらうんだ。俺が二度とバカな真似しないですむようにな。」
そう言って笑う隆生を見て、勢三郎は、この人は凄いなと思った。自分はこうはなれない。こんなことを考えて、それでいてこんな風に迷い無く清々しく笑うなんてことはできない。
「お前、あいつと結婚するんだって?あいつに結婚してくれって言ったらしいな。そのくせ俺にあいつを連れて行って欲しいなんて頼んだなんて、お前どうかしてるだろ。あいつが人間じゃないってわかりきった上で結婚申し込んだんだろ?なら最後まで責任とれよ。男だろ。それともそんな簡単に他の男に渡せるくらい軽い気持ちであいつに結婚申し込んだのか?」
真っ直ぐ見つめられながらそう問われて勢三郎は、勢いだったと正直に話した。
「気が付いたら口をついて出ていた。それでも本当に彼女と添いたいと想っている。彼女にはもっと沢山笑ってほしいと思っている。俺の傍でずっと笑っていて欲しいと想っている。でも・・・・。」
「なら、添えば良いだろ。ごちゃごちゃ考えんな。お前の事情なんかどうでも良いんだよ。お前があいつと添いたいと想ってそれをあいつに伝えて、それであいつがそれに応えたなら、もうそれ以上の何かなんて必要ないだろ。」
言葉を途中で遮られそう言われ、勢三郎は隆生の顔を見た。
「あいつはそんな柔な女じゃないぞ。お前の抱えてる事情でなんかあったってあいつなら平気だ。あいつは俺と違ってコーリャンでもないし、戦闘能力はそこまでないけどな、それでも龍籠の軍人で、しかも隊長を務めてたような奴だしお前よりはるかに長い時間も生きてる。その分の知恵も実力もある。それにあいつは昔からこうと思ったら譲らないからな、お前の方が逃がしてもらえないかもな。」
からかうように笑いながらそう言う隆生に、勢三郎は昔の彼女はどんな人だったんだ、と訊いていた。それを聞いて隆生は少し悩むような仕草をしてから、話し始めた。
「俺たちターチェの間にも色々諍いが絶えなくてな。その主な原因にコーリャン狩りっていう風習があった。ある一定以上の強力な力を持って生まれてきた子供はコーリャンって言われて、忌避されて殺される風習があったんだ。だいたい七歳までには能力が覚醒するから、本人が無自覚でも選別の儀って儀式を受けるとそいつの能力がどれくらいの物なのか解っちまうから、強すぎる力を持った子供達はコーリャン狩りの目から逃れることはできなかった。そんなコーリャン狩りの風習を廃止して、コーリャンの受け入れを唯一してたのが、俺たちが暮らしてた龍籠って国だった。だからなんとかコーリャン狩りから逃げ出したやつはみんな龍籠を目指したし、龍籠は他の国から常に狙われ続けてた。あいつは狩りの手から逃げ延びて龍籠に辿り着いた奴の一人だった。」
それを聞いて勢三郎は疑問に思った。さっき彼は沙依はコーリャンではないと言っていたのに、どうして彼女もコーリャン狩りにあったのだろうか。そんな疑問が顔に出ていたのか、その答えを隆生が言った。
「あいつ、髪も目も黒いだろ。黒はな、ターチェにとって忌み色なんだ。ターチェにしちゃ俺も色素が濃い方だが、それでも俺のは黒じゃないだろ?ターチェってのはな、大概髪も目も色素が薄いんだ。黒い色を持って生まれる奴はそういない。俺はターチェで黒い髪に黒い瞳をした奴は、あいつとあいつの双子の姉みたいな存在だったもう一人しか知らない。黒い色を持って生まれるのは、かつて地上の神を狂わせ兄弟に神殺しの罪を背負わせた厄災の御子だけだと云われてたんだ。だから、黒を持って生まれた時点であいつは何の能力がなくても狩りの対象になった。そういうことだ。それで狩りから逃げのびて龍籠の近くまできてたところを行徳が見つけて、二人を連れてきた。忌み色をもった子供は、コーリャンの受け入れが普通になってた龍籠でも忌避する奴が多くてさ、まぁ色々あったよ。それで、一人は青木家に、一人は正蔵家に引き取られた。で、それぞれ別々に育って、お互い軍人にはなったが別の道に進んで、二人とも隊長職まで上り詰めた。」
そこまで言うと、隆生はまた少し考えるような素振りをした。
「双子みたいなもんっつったけど。片方はもう片方がコーリャン狩りから逃げる不安や恐怖から、身代わり人形を作る術式を応用して自分の血肉を使って作った、そいつの分身みたいなもんなんだ。どんなに良くできてても本来は魂を宿すことはない人形のはずなんだけどな、どうしてかそいつには魂が宿った。だから、生まれてきた経緯はともかくそいつも人形じゃなく人だったんだ。ちゃんと感情を持って、自分で考えて、自分の意思で動くことができる人だった。でも、生まれてきた経緯がそうだからか、そいつは頑なに自分はもう片方の身代わり人形でしかないと言い張ってた。片方のために生きて死ぬ、そのためだけに自分は在るんだと言い張って譲らなかった。元になった方はそいつのそんな言動に後ろめたさみたいなのを感じてて、ちょっと避けてたようなところもあった。あいつはそんな二人のうちの片割れだ。」
そう言って隆生は少し困ったような顔をして勢三郎に、過去の話をどんな風に聞いてるのか訊ねた。
「彼女は彼女が自分だと思ってる人ではないんだろ?」
勢三郎がそう訊ね返すと、隆生は勢三郎をじっと見て、その後少し目を伏せて、お前知ってたのかと呟いた。
「気が付いてた。彼女が自分の話をするとき、彼女の話す青木沙依という人物は曖昧で、逆に彼女の片割れだという人の方がはっきりしてるから。それに、彼女の医術に関する知識や技術は、とてもちょっと教えてもらったからできるなんてものじゃないから。彼女の方が医者をしていたという彼女の片割れその人なんだと思ってた。どうして彼女が青木沙依という人のふりなんかをしているのか、どうして自分がそうだと思い込もうとしているのか解らなかったが、今の君の話しを聞いて納得した。彼女はよほどその人を失ったことが辛かったんだろうな。見た目が同じばかりに、自分がその人だと思い込むことでその人を失った悲しみから目を背けているんだろうな。」
しみじみとそう言う勢三郎を眺めて、隆生が口を開いた。
「あいつの本当の名前は、正蔵沙衣。戦争で国がなくなった当時は医療部隊の隊長をしてた。俺は沙依の方とは親しかったが、あいつとはそんなに交流がなかったからあいつのことはそんなに知らない。ただ、思い込みが激しくて、本当、自分は沙依の身代わり人形だって言い張って聞かなくて、沙依にもそれを押しつけて。俺もちょっと会ったときにいいかげん自分のこと一人の人だって認めろとかなんとか色々言ったし、沙依もわたしのためじゃなくて自分のために生きて欲しいとかなんとか言ってたんだけどな、あいつ全く人の話聞かねーでそれをずっと続けやがって辟易した。でも、医者としての腕は龍籠一だったし、沙依が関わらなければ普通の奴だったよ。沙依よりよっぽどあいつの方が普通の人らしかった。魂の宿った人形とは興味深いとか言って、さも研究するために引き取ったようなこと言っておきながら、正蔵の親父は上手く育てたなと思ったよ。青木行徳の犬とか呼ばれて、行徳の奴に言われればどんなことでも二つ返事でこなして、どんな目に遭おうが何だろうが大して感情を揺らさないような、人としてどうかしてるような風に育っちまってた沙依とは全然違う。あいつは自分が沙依の身代わり人形でしかないって思い込んでる以外は普通の奴だった。」
そう言って隆生は遠くを見た。
「双子の残念な方って呼ばれてたのが沙依の方で。沙依の奴は見た目は良いけどあれはないってよく言われてたけど、沙衣の方はモテたみたいだぞ。まぁ、沙衣は沙依の事しか目に入ってなかったから皆撃沈したらしいけどな。あいつは素っ気なくて無愛想な奴だったけど、結構気が細やかで、長丁場になるとその時の状況に会わせて色々と簡単に食べられるもの作って差し入れしてきたり、来たついでに疲労状態とか診てってちょっと処置してったりとかよくしてた。普段から手が空くと他の部隊を見回って診察とか健康指導とかして、怪我や病気の予防に努めてたな。自分でも動いてたけど、自分の部隊の奴等を動かして他の部隊の援護を細やかにしてた。俺が知ってるあいつはそんなもんだ。」
隆生のその話しを聞いて、勢三郎は彼女らしいなと思った。昔から彼女はそういう人だったんだ。名乗っている名前が違うだけ、彼女はずっと変わってない。自分の知っている彼女は、やはり嘘偽りのない彼女自身なんだ。そんなことを考えて、出会ったときのことを思い出して、勢三郎は胸が暖かくなり、知らずに笑みがこぼれていた。
「お前は本当にあいつに惚れてんだな。」
そう声を掛けられてはっとして、勢三郎は隆生の方を見た。自分に暖かな視線を向けて微笑む彼と目が合って気恥ずかしくなる。
「あいつと幸せになれよ。」
そう言われて勢三郎は黙り込んだ。隆生もそれ以上は何も言わなかった。
それからまた暫く四人で旅を続け、そして別れの時が来た。
「和葉さんは自分の故郷への帰り道が解ってないだろ?君も解ってないんじゃないか?」
そう言って勢三郎は隆生に地図を渡した。
「今までの調子で歩いて、ここからだいたい三日くらいかかる場所だ。年明けまでまだあるが、俺たちが向かう先はそことは反対の方だから、このまま一緒に行けば年明けに戻ることはできなくなる。ここら辺で別れておいた方が良いだろう。」
そう言う勢三郎に隆生は礼を言った。
「正直、俺は君に和葉さんを連れて何処までも逃げて欲しい。」
別れを惜しみ話し込む女性達を見つめそう呟く勢三郎に、隆生は微笑んだ。
「ありがとな。お前等と会えて良かったよ。あいつのことは任せたぞ。」
そう言われて勢三郎は困ったように笑った。
「勢三郎。俺が言ったこと覚えてるか?自分の生き様は自分で決めろよ。お前の人生はお前のものだ。またぐじぐじ余計なことばっか考えてバカな事言うようならぶっ飛ばすからな。」
隆生に笑いながらそう言われて、勢三郎もつられて笑った。
「あいつの様子見てればな、お前といればあいつは幸せだって確信できる。だからお前もちゃんと幸せになれよ。お前も一緒にだ。ちゃんと二人で幸せになれ。」
真っ直ぐ見つめられてそう言われ、勢三郎は解ったと答え、そして隆生に背中をバシッと叩かれてよろめいた。
「お前なら大丈夫だ。胸張っていけ。」
笑いながらそう言われ、勢三郎は胸が熱くなった。
「隆生。ありがとう。君に会えて本当に良かった。俺はもう一度自分の人生を精一杯生きてみようと思う。」
そうして勢三郎は沙依と二人また自分の国へと続く道を歩いて行った。
○ ○
国に戻り、報告を上げ、勢三郎は沙依を連れて自分にあてがわれた家に赴いた。
「新しい雇い主がここを安く紹介してくれたんだ。その、所帯を持つならちゃんとした家が在った方がいいだろうって。湯殿もついているし、庭もあるから君が何か育てたいなら畑を作って何か植えてもいいし、どうだろう?」
そう問われ顔を上げ自分を見上げる沙依と目が合って、勢三郎は言葉を続けていた。
「俺と所帯を持つ決心はつけてくれただろうか?」
そう言うと沙依が自分に向き直って、頬を染めはにかみながら、喜んであなたの元に嫁がせて下さいと言ってきて、勢三郎の胸は高鳴った。
「もうずっと前から決めてたの。それで、国に着いたらあなたと一緒にいさせて欲しいって、あなたの申し出を受けるって伝えようと思ってたの。だけど、あなたも新しい働き口に挨拶に行ったりとか、色々忙しそうにしてたし、その、なかなか伝える機会がなくて・・・。」
恥ずかしそうに目を伏せながらそう言う沙依が酷く愛おしく感じて、勢三郎は彼女を強く抱きしめた。
「ありがとう。沙依。俺の申し出を受けてくれて本当に嬉しい。」
そう言って勢三郎は自分の腕の中にある幸せを噛みしめていた。そう、これが俺の幸せ。その裏に何があっても、俺がこれを求めてそして手に入れた事には変わりはない。どんな制約があっても、どんな策略があっても、そんなもの自分には関係ない。自分がこうしたいから、本当にそうしたいから、俺は彼女と所帯を持つんだ。そう思って勢三郎は沙依にそっと口づけをした。前のように彼女の意思と関係なく押しつけるのではなく、お互いの想いを確かめ合うようにお互いを受け入れて唇を交わした。
その夜、勢三郎は初めて沙依と肌を合わせた。交わった彼女に破瓜の血が流れるのを見て、酷く安堵している自分がいて、勢三郎は苦しくなった。彼女は噂のような、男を誘って男と交わり生気を奪うようなそんな魔物ではなかった。自分の知ったとおりの貞淑な人だった。そう思って、少しでももしかしたらと思っていた自分を見つけて、罪悪感を覚えた。
「勢三郎。大丈夫。大丈夫だから・・・。」
そう声がして、そっと沙依に抱き寄せられ、ほてった彼女の体温を感じ、優しく背中を撫でられて、勢三郎は彼女の中に入ったままの自分が熱くなるのを感じた。
「勢三郎。」
苦しそうに呻きながら名を呼ばれ顔を上げると、潤んだ瞳の沙依と目が合って、勢三郎は何かを口にしようとした彼女の口を自分の口で塞いだ。好きだ。愛してる。あいかわらずそんな言葉を口に出すことはできなかった。それでも愛してる。本当に。俺は彼女が好きだ。彼女の弱さも、彼女の強さも、優しいところも、さみしがりで臆病な所も、案外気が強くてはっきりした物言いをするところも、全部、彼女を形作る全てが、彼女の丸ごと全てが好きで、愛おしくて、本当に愛おしくてたまらない。そんな思いを抱きながら、勢三郎は彼女を抱いた。そして彼女の息づかいを、鼓動の早さを肌で感じながら、彼女の熱に包まれて彼女の中で果てた。
「これはまだ疼くの?」
自分に寄り添う沙依に火傷の跡をなぞりながらそう言われ、勢三郎はあぁと短く答えた。一見ただの火傷の跡。自分の家族を焼き殺し自分に取り憑いた炎の象徴。自分が一生逃げることができない呪いの印。
「他にも傷跡が沢山。本当に、辛い思いを沢山してきたんだね。」
勢三郎の傷跡一つ一つをなぞりながら、沙依はその一つ一つに思いを馳せているようだった。危ない目に遭ってきたでも、危険なことをしてきたでもなく、彼女は辛い思いを沢山してきたんだねと言った。それで勢三郎は、彼女には自分の傷がどのようにつけられたものか解るんだなと思って苦しくなった。
「前に生い立ちのせいで普通の人の中に混じれないって言ってたよね。だから旅して回ってるって。もし勢三郎が一つの場所に居るのが辛くなったら、そしたらまた一緒に旅に出よう。あなたにどんな過去があったって、あなたにどんな秘密があったって、わたしはずっと傍にいる。あなたに最後が訪れるその時まで、わたしはあなたの傍にいる。勢三郎が嫌じゃなければだけど。」
勢三郎の耳にはそう言う沙依の声が優しく響いた。自分に身を寄せる彼女の髪を撫でながら、勢三郎はしみじみと自分は想いを寄せる相手と家庭を築きこれからを共にしていくのだと思った。それはとても嬉しくて、とても苦しいことだった。それでも今はこの幸せを感じていようと思った。
翌日、勢三郎は沙依と二人でひっそりと祝言を挙げた。衣装も何もない、ただ契りの酒を交わすだけの儀式だったが、それでもこれで想う人と夫婦になったのだと言う実感に胸が暖かくなった。そうやって始まった新婚生活は勢三郎にとって幸せそのものだった。朝起きると沙依がいて、自分のために食事を用意してくれ、弁当を渡され家を送り出され、家に帰るとまた彼女に出迎えられる。夕食を二人で食べながらその日あったことなど他愛もない会話をし、そして夜が更けていく。そんな彼女と過ごす平凡な日常が本当に夢のようで幸せで、彼女と居ないときの日常に現実に引き戻され勢三郎は苦しくなった。
沙依は働き者で良く気が付き、隣近所にも優しかった。気が付けば定期的に診療所の手伝いに行くようになっており、この町に定着して一月経つ頃には彼女はすっかり町に馴染んでしまった。あんなに綺麗で働き者のお嫁さんをもらって幸せ者だねと度々言われ、勢三郎は心から同意した。そうやって楽しそうに日常を送る沙依の姿を見れることが幸せだった。
「あんた、あんな綺麗な子に花嫁衣装着させてあげてないんだって?」
ある日、近所のおばさんにそう詰め寄られて勢三郎はたじろいだ。
「いくらお互い身寄りがなくて形式張ったことをしなくても良いと思ってもね。一生に一度のこと。花嫁衣装を着たくない女なんかいないのよ。あの子はそういう仰々しいのはとかなんとか、あんたと一緒になれただけで嬉しいんだとかなんとか、しおらしいこと言ってたけど、あんな綺麗な子に花嫁衣装着させてあげなくてどうすんの。一緒になったときはあんたに甲斐性がなくて着させてやれなかったのかもしれないけど、今はそれくらいできるでしょ。今からでもいいからちゃんと着させてあげなさい。」
そんなことを凄い勢いで言われて、気づくと隣近所の皆がわらわら集まって盛り上がっていて、勢三郎がなにか口を挟む間もなく式を挙げることになっていた。
そして周囲に世話を焼かれ迎えた式当日、近所のおばさんに付き添われ花嫁衣装で現れた沙依を見て、勢三郎は息を呑んだ。綺麗だった。恥ずかしそうに自分を見上げてくる姿が余りにも美しくて、綺麗で、夢を見ているようで、何も言葉が出てこなかった。
「なんかごめんね。診療所で祝言の話題になって、訊かれるままに勢三郎と祝言あげたときのこと話したら、なんか皆怒り出しちゃって、こんな大げさなことになっちゃって・・・。」
本当に申し訳なさそうにそう言う沙依に勢三郎は、あぁと間抜けな返事をして、おばさんに小突かれた。そしておばさんを見て、怒った様子で身振り手振りで何かを言えと伝えてくるおばさんを見て、意識が少し現実に戻って、勢三郎は沙依に視線を戻した。そして疑問符を浮かべて自分を見上げる沙依に勢三郎はとても綺麗だと伝えた。
「その。夢でも見ているみたいだ。」
しどろもどろにそう言う勢三郎に沙依ははにかんでありがとうと伝えた。
「わたしも夢みたい。」
そう言って本当に嬉しそうに、幸せそうに微笑む沙依を見て勢三郎も小さく笑った。幸せだった。彼女のこんな姿を見られて幸せだった。彼女が自分とちゃんとした式を挙げることをこんなにも喜んでくれて幸せだった。
式が終わって家に帰って、夢の中にいるようにふわふわした様子ではにかんでありがとうと言ってくる沙依を見て勢三郎は胸が熱くなった。
「なんか、改めて勢三郎と一緒になったんだなって実感して。皆に祝ってもらって、わたしの隣にはあなたがいて、こんなに幸せで良いのかなって。本当、ありがとう。わたしのこと連れ出してくれて、わたしと結婚したいって言ってくれて、こうやって式まで挙げてくれて。わたし、本当に、本当にあなたの元に来て良かった。本当にありがとう。これからもずっとよろしくお願いします。」
そう言われ、勢三郎はこちらこそよろしくお願いしますと返し、なんだかおかしくなって二人で笑いあった。自然と笑い合っていた。心から自然に笑っている自分を感じて、本当に心から幸せを感じている自分を感じて、勢三郎は苦しくなった。
「勢三郎は、やっぱり子供が欲しいと思う?」
沙依と結婚して一年ちょとが経った頃、そう訊ねられ、勢三郎はそうだなと呟いた。
「子供が欲しくないと言ったら嘘になるが、できないならできないでかまわないと思ってる。」
それは本心だった。沙依との間に子供が欲しいかと言われれば欲しかった。彼女との間に子供ができたらそれは嬉しいと思う。きっと子供はかわいいだろうと思う。でも、自分達に子供ができたら、その子は・・・。そう思うと辛くなった。そんな勢三郎の態度をどのように受け取ったのか、沙依はそっかと言ってなんともいえない顔で笑うと、勢三郎の胸に額をつけた。
「勢三郎。わたし、あなたのことが本当に好きだよ。本当に、愛してる。」
そう言う沙依が辛そうに見えて、勢三郎はその背中をそっと撫でた。結婚して一年が過ぎたあたりから、周囲から子供ができないことを彼女が色々言われているのを知っていた。いくら美人で働き者でも、子供の産めない女じゃなと勢三郎自身何度か言われたこともあった。自分を飼っている奴らからもつつかれて、このまま子供ができないようならあれをどうするか等と言われて苦しくなった。こうなって初めて奴らが自分を彼女と添わせて同じ所に留まるようにさせたのは、こうやって追い詰めてわざと子供を作らないようにさせないようにするためだと考えが至って、どう転んでも奴らの手の中で転がされているだけなのだと実感して、勢三郎はなぜか冷静になった。あと二年くらいは様子を見ようと言われ、あと二年で子供ができる様子がなければその時は、自分がどんな目に遭おうとも彼女に全てを晒して彼女一人逃げてもらおうと勢三郎は思った。それができないのなら、彼女が酷い目に遭う前に自分の手で彼女を殺して、自分はその罰を甘んじて受けよう。勢三郎はそう考えていた。
「沙依。周りの言うことは気にしなくていい。もし君が辛いのなら、また二人で旅に出ようか。そうすればそういう煩わしいことも言われずにすむ。」
そんなことは叶わないと解っていながら、勢三郎はそう口にした。それは願望だった。そうやってまた彼女と旅ができたら、今度は本当に何にも縛られない自由気ままな旅に出ることができたらどんなに素晴らしいことだろう。そんなことを考えて、勢三郎の口元に諦めにも似た笑みが浮かんだ。
そんなことがあってすぐ、沙依は妊娠した。はにかんで子供ができたと告げられたとき、勢三郎はなんとも言えない感情に支配された。嬉しかった。本当に、心から嬉しいと思った。それと同じように、その子の未来を思って苦しくなった。そして、子供が生まれる予定日が近くなると勢三郎は遠出の用事を言いつかって、苛立ちを覚えた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。みんないてくれるし。だから安心してお仕事に行ってきて。」
沙依にそう言われて勢三郎は苦しくなった。
「できるだけ早く戻る。できれば、子供を産むのは俺が戻ってくるまで待ってて欲しい。」
そんな無茶なお願いをして笑われた。自分の子の顔を見る前に奴らにとりあげられてしまうかもしれない。そしてその子は自分と同じように奴らの飼い犬にされるのだと、そんな考えが不安を煽り勢三郎の胸を締め付けた。
「大丈夫だよ、勢三郎。ちゃんと二人であなたの帰りを待ってる。この子は無事に生まれてくるし、わたしも大丈夫だから。」
そう言う沙依に優しく頬を撫でられて、勢三郎はその手をそっと握った。
「だからあなたも無事に帰ってきてね。」
優しい笑顔でそう言われて、勢三郎は胸が暖かくなった。
そうやって送り出され、そして汚れ仕事をこなして戻ってきて、家に子供を抱いた沙依の姿を見て、勢三郎は胸が詰まった。生まれた子供は女の子だった。なんとも言えない想いで自分の娘を見つめていると、あなたも抱いてみる?なんて言われて勢三郎は俺はいいと答えていた。そんな勢三郎に沙依は笑って、娘を抱くように促した。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。しっかりここを支えてあげて。ほら、大丈夫。」
おかしそうに笑ってそう言いながら沙依に娘を渡され、勢三郎は恐る恐る抱きかかえ、その小ささに戸惑い、その存在の確かさに胸がいっぱいになった。夢じゃない。ちゃんとこの子はここにいる。俺が戻るまで無事でいてくれた。ちゃんと・・・。
「きっと君に似て美人になるな。」
そう呟いて、勢三郎はこの子が嫁いでいく姿を自分は見られるのだろうかと思って辛くなった。
幸か不幸か娘には何の異能も見られなかった。霊力が高いわけでもなんでもない、ごくありふれた娘だった。そのおかげで娘は奴らに取り上げられずにすみ、勢三郎はありふれた家庭を手に入れることができた。成長と共に何か異能に目覚めるかと期待もされていたが、その後も娘が何かに覚醒することはなく、娘はただ平凡な、強いて言うならば母親に似てとても器量よしの評判の娘に育った。
娘が生まれてから娘が成人を迎えるまでの十五年間。それは勢三郎にとって本当に夢のような生活だった。その生活の裏にもきっと何かしら奴らの思惑があって自分がそのような生活を送れているのだと解ってはいたが、それでも本当に幸せな十五年間だった。最愛の妻とかわいい娘に囲まれて、普通の家庭の普通の家族の幸せを手に入れて、勢三郎は心からその幸せを噛みしめていた。いつしか娘は奴らとは関係なくこのまま普通の娘として幸せになれるのかもしれない、そんな幻想を勢三郎は抱くようになっていた。
勢三郎のそんな幻想は、ある日娘が清水家の嫡男を家に連れてきた事で崩された。
清水家。自分を飼っているあいつらの後ろ盾を元に、後ろ暗い研究を行っている家。自分の身体をこんな風にした忌まわしき家。なんでそんな家の嫡男がここにいる。仕事から帰って家の中に清水家の嫡男の姿を見たとき、勢三郎の頭の中に一気にそんなことが巡って、そこにいた青年に対する嫌悪感が溢れた。彼が自分の家のことを何も知らないただの傀儡だと知っていた。裏の顔を隠すために、表の顔が清水の全てなのだと思い込まされて、その表の顔である薬種問屋の後継者として育てられた青年だと知っていた。でも、それでも彼もまた清水の人間であることに変わりはない。それだけで嫌悪感が拭えなかった。そんな青年が沙依や娘と和やかに話している姿を見るだけで反吐が出そうだった。
「お父さん、そんな怖い顔しないでよ。この人は別にそんな人じゃないから。今日は朝から空模様がぐずついてたのに傘忘れて出掛けちゃった挙げ句、雨に降られて急いで帰ろうとしたら鼻緒が切れて転んで途方に暮れてたただの間抜けさんだよ。捨てられた子犬みたいになってたから思わず拾って帰って来ちゃった。でも家で飼わせてなんて言わないから、安心して。」
笑いながらそんなことを言う娘を沙依が叱って、青年に謝って、青年が、事実ですから気にしないで下さいと言って気弱そうに笑う姿を見て、勢三郎は苦しくなった。
それから青年はしばしば姿を表すようになった。青年は名を一太郎といった。一太郎の様子を見れば彼が娘に想いを寄せているのは一目瞭然だった。娘もまた彼を憎からず思っていることも。そして、沙依が一太郎が清水家の者だと知って、清水の薬は良く効くと診療所でも評判だとか話題にし、沙依が診療所の手伝いをしていることを知って彼が薬や医術の話しを出して、そんな会話を重ねながら沙依が彼と打ち解けていく様子を見て、勢三郎は苦しくなった。
「お父さん。どうか、静江さんを私に下さい。」
ある日、一太郎にそう土下座をされて、勢三郎は娘に近づかないでくれと言っていた。本当は彼に娘を差し出せと命令されていたのに、勢三郎にはそれができなかった。娘を、何も知らないとは言え清水の人間の元に行かせるなんて死んでも嫌だと思った。
「今でこそここに根付いて暮らしているが、俺も家内も元々ちゃんとした家の出でもなければ、身寄りもない流れ者だ。静江は君のような名家の嫡男に嫁がせるような娘じゃない。」
そう言うと、一太郎はこれでもかという程地に額をすりつけて食い下がってきた。
「解っています。静江さんも。だから私の求めに色よい返事をくれません。ですが、私には彼女しかいない、そう思うのです。お母さんに習って静江さんも薬学の知識を豊富に持っているし、私の家業の助けになってくれるはずです。下手に同じような家柄の娘と一緒になるより、静江さんと一緒になる方が家のためにもなる。何より私は静江さんを愛しているのです。出自など関係ない。家の者に文句は言わせません。言っても説得して見せます。家の者が何かしようとしても必ず私が護って見せます。静江さんを幸せにしてみせます。ですから、どうか、どうか私に娘さんを下さい。」
そう懇願する一太郎を見下ろして、勢三郎は口先でなら何とでも言えると吐き捨てた。
「護るとか、幸せにするとか、口にするほど簡単なことじゃない。名家の跡継ぎが、家を捨ててまで女はとれないだろ。あの子に名家の嫁が勤まるとは思わない。そもそも君の家は娘を正妻として迎えることは認めていないだろ。誰が娘を金持ちの囲われものに差し出しなどするものか。娘をお前にやる気はない。」
そう一太郎を切り捨てて、勢三郎は胸が苦しくなった。
「どういうつもりだ?」
一太郎の申し出をとりつく島もなく切り捨てて去った先で、勢三郎は男に睨まれた。
「おとなしく言うことを聞いていれば夢を見続けられるものを。嫁と娘をあのぬるま湯の中からお前の現実に引きずり込む気か?」
刺すような冷たい視線を向けられ低い声でそう言う男に一瞥をくれ、勢三郎は娘を持つ男親なら普通の反応だろと呟いた。
「心配しなくてもあの男はうちの娘にすっかりご執心だ。これくらいじゃ諦めない。その熱意に負けて手放したと思わせた方が都合が良いと思っただけだ。知らずに魔物の娘をあてがわれているんだ。すんなり嫁がせるより、こうした方があの男も自分が嵌められているなんて気が付かないだろ。苦労して手に入れたと思っていたほうがその分長く夢を見ていられるだろうしな。」
淡々とそう言う勢三郎に男はそうかと言って意地の悪い笑みを浮かべた。
「騙してたつもりがすっかり魔物に絆されて普通の親にでもなったつもりでいたのかと思ったよ。お前は随分とあの魔物にご執心の様子だからな。」
そう言われて勢三郎は男を真っ直ぐ見た。
「自分が何者なのか忘れた事はない。俺は俺の役割をこなしているだけだ。仮に俺の本心が何処にあったところで、俺に決定を覆せるほどの力はないのだからわざわざ反抗する意味はないだろ。勝機もないのにそんな無駄なことをするつもりは毛頭ない。」
「そうだな。お前は身にしみて知ってるもんな。バカなことを考えればどうなるか。バカな事をすればどういうことになるのか。」
そう言って男は勢三郎の耳元に口を寄せた。
「変な気は起こすなよ。お前等家族の平穏は全部こちらの手の中だ。」
そう恫喝されて勢三郎は、解ってると答えた。若い頃のようにもうそれに胸が締め付けられるような事はなかった。ただ、そうされて酷く冷静になっている自分を感じた。自分は逃げられない。自分はどう足掻いても自分の運命には逆らえない。でも、妻と娘だけならば。そう考えて勢三郎は二人を逃がす算段をつけ始めた。幸せだった。本当に。自分がこんな幸せを手に入れられるとは思っていなかった。自分はもう充分。だから、妻と娘は自分の全てを賭けてでも奴らの手から護ろうと思った。
そんな矢先、娘の静江と一太郎の駆け落ち騒ぎが起こった。清水の手の者に連れ戻されて帰ってきた娘を見て、勢三郎はどうしてこんなことをしたのか訊いていた。
「わたし、一太郎さんの事が好きなの。」
そう言って、泣きそうな顔で笑う娘を見て、勢三郎は胸が締め付けられた。
「解ってる。わたしと一太郎さんじゃ釣り合わないって。わたしはお店の女将さんって柄じゃないし、一太郎さんは一太郎さんに合った良いところの娘さんと一緒になるべき人だって解ってる。一太郎さんがわたしに懸想してるせいでお家の人と喧嘩になってることも、そんなにわたしを手元に置きたいなら妾にして囲っておけって言われてることも知ってた。わたしは一太郎さんと一緒になるべきじゃないって解ってた。でも、一太郎さんに一緒に逃げようって言われて気持ちが抑えられなかった。世間知らずの良い所の坊ちゃんのくせにそんなことできるわけないじゃん、どうせ逃げてる途中で嫌になるって、どうせ貧乏暮らしなんて耐えられないんだからって思って、そのままわたしそれを一太郎さんに言ったのに、わたしと一緒なら大丈夫だって、本気なんだって真剣な瞳で言われて、わたし彼の手を取ってた。」
そう言って、娘の目から涙が流れた。
「お店の旦那様になるような人なのに、一太郎さんは抜けてるし、気弱で優しくて、大丈夫なのかしらこの人っていつも思ってた。でもね、お店に立ってるときはきりっとしてて、てきぱき切り盛りしててまるで別人みたいなんだよ。仕事の話しをしてるときの彼は真剣で、勉強だって一生懸命だし、本当に真面目で家業のこと凄く大切にしっかり考えてるんだなって思った。そんな彼を見てるのが好きだった。彼の話を聞いてるのが好きだった。仕事を一生懸命してる格好いい彼を知った分、普段の気弱で抜けてる彼が凄くかわいく見えて、この人と一緒にいたいなって思った。そんな彼に、一緒に店の切り盛りをして欲しいって、君の知識を生かして自分の隣で自分を支えて欲しいって、そう言われて本当は凄く嬉しかった。でも応えられなかった。応えるわけにはいかないって思ってたのにさ、本当に真剣な目で何を捨ててもわたしと一緒になりたいって言うんだもん。あんなに大切に一生懸命頑張ってた家業も何もかも捨てて、それでもわたしといたいんだって、言うんだもん。」
そんな言葉を口にしながらポロポロ泣き続ける娘を前にして、勢三郎は更に胸が締め付けられ苦しくなった。
「全く、バカな事をしたものだ。」
勢三郎は自分の口から出たその言葉がいったい誰に向けたものか解らなかった。ただ、それを聞いた娘が、ごめんなさいと呟く声が耳の奥で響いた。
それからの展開は急激だった。二人の駆け落ち騒ぎを機に、そこまで思い詰めているのならと清水家は一太郎と静江の婚姻を認めた。これ以上後継ぎに問題を起こされても困るという苦渋の選択に見せかけて、静江に何処の馬の骨ともしれぬ両親とは縁を切って完全に清水の家に入るという条件で嫁いで来ることを許したのだ。そのことで一太郎は酷く憤っていたが、それを諭したのは沙依だった。沙依は静江にも一太郎にもお互いの想いを確認し、二人が行こうとしようとしている道がいかに過酷な道なのかを説いて聞かせていた。若気の至りで歩いて行けるような道ではないと、二人とも冷静によく考えてどうするか決めなさいと説いていた。沙依の口から紡がれる二人を想っての言葉を耳にしながら、勢三郎は苦しくなった。もうこの流れはどうにもならない。完全に奴らの思い描いた手の内の中。もう娘を助けることはできない。娘を奴らの手の内から逃がすことはもうできない。本人達は何も知らずこれからの苦難を共に越えていこうとしている若い二人を眺め、二人の先に待ち構えているものが決して沙依が言っているような当たり前の苦難でないことが解っていたからこそ、勢三郎は耐えられなかった。
そして、勢三郎は一太郎に頭を下げていた。一太郎が静江を嫁に欲しいと自分に言ってきたときのように、膝をついて、深く、地面に額をこすりつけて彼に娘のことを頼んでいた。彼の家の全てを、自分と妻の全てを話して。娘にはなにも知らないままでいて欲しいなんて、都合の良い話しだと思う。それでも、娘には何も知らないまま普通の娘のように幸せになって欲しいと、どうか娘をよろしく頼むと。そう懇願していた。
全てを受け入れそれでも娘と一緒になることを選んだ一太郎は、家族写真を撮ることを提案してきた。離れていても家族を想うことができるようにと、できあがった写真を静江と沙依に渡して、一太郎は、静江さんの事は必ず幸せにしますと頭を下げた。
「娘の花嫁姿さえもご両親にお見せすることができず申し訳ありません。こんな未熟な私ですが、私に大切な娘さんを任せてくれたその信頼を絶対に裏切ることはいたしません。静江さんの事はご両親の分まで大切にして、必ず幸せにして見せます。」
そう言う一太郎の姿に言葉以上の覚悟を感じ取って、勢三郎は任せたよと呟いて、一太郎と目を合わせ言葉にならない想いを交わし合った。自分が沙依と一緒になったときと同じ年頃の青年。でもその覚悟も腹づもりも当時の自分よりはるかに上だと認識して、勢三郎は心から彼に娘を任せようと思った。勢三郎は自分が目の前の青年と同じ年頃だったときに隆生から言われた言葉を思い出していた。そして彼が自分に沙依を任せてくれたように、自分も一太郎に娘を任せようと思った。二人の想いを信じて、二人の人生は二人に委ねようと、そう思った。
「辛いか?」
娘のいなくなった家で呆然としていた沙依にそう声を掛けると、彼女は笑った。
「静江ちゃんは自分の意思でちゃんと覚悟を持って想う人の所に行ったんだから。寂しいけど、これでいいんだよ。それに良い機会だったんだと思う。いつまでも人間じゃないわたしがあの子の傍にいない方が、きっとあの子の為だと思うから。皆が皆、勢三郎や和葉ちゃんみたいにわたしみたいなのを受け入れられるわけじゃないからさ。」
本当に寂しげで悲しげなその声を聞いて、勢三郎は沙依を抱きしめた。
「二人で隠居しよう。この近くの山の中に俺の隠れ家の一つ、書物置き場にしてるところがあるだろ?そこに行こう。そこからなら職場に通えないわけじゃないし、暫くはそこから通って、身の回りの片付けをするから、それが済んだらそこで二人でのんびり暮らそう。」
そう言う勢三郎に沙依は、ありがとうと呟いた。
「勢三郎。わたし、本当に幸せだよ。あなたと一緒になって本当に良かった。いつもありがとう。愛してる。」
そう言う沙依の声が優しく響いて勢三郎は胸が暖かくなった。でも、相変わらず愛してると言葉に出して伝えることはできなくて、勢三郎は心の中で自分も愛していると返した。
そうやって引っ越した先で、勢三郎は机に向かっていた。
本当に幸せだった。本当に。自分の人生は幸せだった。後は沙依と二人、余生を過ごすことができたなら。自分に残された時間を全部、彼女の為に使うことができたら、それほど幸せなことはないと思う。
そうやって半生を振り返りながら取っていた筆を勢三郎はそっと机に置いて、書いた二通の手紙を持って庭に出た。
「いるんだろ?」
そう声を掛けると、そこに明るい髪と目の色をした十歳前後の少年が現れた。
「君たちはずっと彼女を見守っていてくれた。いつもは傍にいなくても、節目節目にはいつだって傍にいたから、今は居ると思っていたんだ。」
そう言って勢三郎は少年に二通の手紙を差し出した。
「隆生は国に戻っているんだろ?これを彼に渡して欲しい。」
少年は何も答えず、静かに手紙を受け取ってその姿を消した。
少年がいた所をじっと見つめて勢三郎は自分の中の覚悟を確認した。隆生、俺はちゃんと自分の生き様を決めたぞ。命を賭けても足掻こうと思う大切なものを手にいれて、俺は自分の人生をちゃんと自分の意思で歩いたぞ。国に戻ったということは、結局君は人間への怒りを忘れることはできなかったんだろうが、隆生、君は和葉姫と一緒になって幸せだったか?俺は沙依と一緒なれて幸せだった。ちゃんと君の言う通り、二人で一緒に幸せになった。俺は人生に後悔はない。
家の中に戻って、勢三郎は沙依に声を掛けた。
「静江も嫁いで身軽になったし、また二人で旅をしないか?どうせ隠居するなら、閉じ籠もっているのではなくてまた君と二人で旅がしたいと思うんだ。」
そう言うと沙依が驚いたような顔を向けた。
「君の故郷を探しに行こう。もしかしたら無事な誰かが戻ってきてるかもしれないだろ?もし、行ってそこに誰もいなかったら、また当てもなく無事な仲間を探す旅に出ようか。君や隆生が無事だったんだ、他にも無事な人はきっといるよ。」
そう言うと沙依は勢三郎の名を呟いて、言葉を詰まらせ、その大きな目に涙を浮かべた。
「俺はどう足掻いても君を残して逝かなくていけないから。残りの人生を君のために使いたいんだ。」
そう伝えると、沙依の目から涙が零れて、彼女はありがとうと呟いて綺麗に笑った。それを見て勢三郎は胸が熱くなった。この人と一緒になれて本当に幸せだった。こうやってこの人と想いを通じることができて、本当に・・・。そう思って勢三郎はそっと沙依を抱き寄せて口づけをした。
翌日、勢三郎は用意していた言い訳を使ってしばらくの暇を願い出た。その申し出はあまりにもすんなりと受け入れられ、勢三郎は肩すかしを食らった気分だった。
家に帰り、沙依にそれを伝えると、彼女はとても嬉しそうにしていた。これで彼女を送り届けられる。彼女の故郷がどの辺りに在るのかだいたいの見当はついている。国が復興している確信もある。これで彼女を逃がすことができる。もう彼女が辛い思いをしないですむ。そう思うと心が軽くなった。それと同時に、また彼女と二人で旅に出られるということに心が浮き足立っている自分がいて勢三郎はなんとも言えない気持ちになった。
沙依を抱きしめて、二人で喜びを分かち合って、勢三郎は自分の心が満たされるのを感じていた。
「俺は幸せだ。本当に、ありがとう。」
本当に幸せだった。愛せる人と巡り会うことができて、愛する人と一緒になれて、かわいい娘にも恵まれて、そしてまた二人旅に出られる。以前のように、絶望へと足を向けるのではなく、今度は希望に向けた旅路を彼女と行ける。彼女を無事に送り届けることができたなら、無事に逃げ切ることができたなら、その時こそ嘘偽りのない自分の想いを彼女に伝えよう。自分がどれだけ彼女を愛しているのか、どれだけ幸せか。君と巡り会えて本当に良かったと。沙依と過ごした時間が走馬燈のように頭の中を巡って、勢三郎は何かこみ上げて来そうな気配を感じて、沙依を強く抱きしめた。
「今日は早く帰るから。」
離職当日、そう声を掛け、ご馳走を用意して待ってると言う沙依に笑いかけて、勢三郎は家を出た。自分は何処まで彼女と共に行けるだろうか?何処で逃げたと気づかれて処分されるだろうか。遠隔操作でも自分を死にいたしめることができる呪印に触れて勢三郎はそう思った。奴らが思っているほど、彼女達は愚かでも弱くもない。国に戻ってしまえばもう彼女に手出しはできない。でも、自分は別だ。彼女と共に彼女の故郷に辿り着く事ができても、自分は無事では済まない。でも、それでも俺は、彼女と共に行きたい。長く生きながらえるより、短くとも何にも縛られない本当の自分自身として彼女と共にいたい。無事に国に戻れたら彼女は喜ぶだろうか。無事な仲間の中に入って笑う彼女を見たい。自分がいないその先もずっと彼女に幸せでいて欲しい。
最後の仕事を終え帰宅する途中、勢三郎は心臓が潰れるような痛みに襲われ地面にひれ伏した。
「無事に行けると思ったか?」
自分を見下ろして嘲るようにそう言う男を視界に捕らえ、勢三郎は結局旅立つ事さえさせてもらえないのか、と思った。
「娘も奪われ、お前も死ねば、あの魔物は自ずと仲間の元に帰るだろ。ちゃんと追いかけて、葛霧の鬼の首も取って、その子供も捕らえてきてやる。ついでに魔物の巣窟も滅ぼしてきてやるよ。お前がやるっつってた仕事はちゃんとこなしてやるから安心しろよ。」
意地の悪い笑みを浮かべながらそう言うと男は勢三郎に刃を突き刺した。
薄れ行く意識の中で勢三郎は、男の言うとおり沙依が一人でも旅立ってくれれば良いと思った。自分が死ぬというのにそれに恐怖は感じなかった。ただ、沙依と旅ができないことを残念に思っていた。それと同時に、これでようやく自由になれると安堵していた。そしてどんどん遠くなる意識の中でずっと沙依のことを考えていた。俺が死んだら彼女はきっと悲しむな。彼女は本当に繊細で弱い人だから、こんな風に自分がいなくなってしまって大丈夫だろうか。寂しがりなのにまた一人引き籠ってしまわないだろうか。また死にたがるようになったりしないだろうか。よく笑うようになったのに、彼女から笑顔がなくなってしまわないだろうか。沙依。愛してる。だから、君には笑っていて欲しい。もし生まれ変わることができるのだとしたら、その時はまた君と巡り会って、そして今度は嘘偽りのない自分で君の傍にいたい。沙依・・・。
そうして清原勢三郎はその生涯を終えた。