第46話 黒い雨(前) side:ルナ
僕はテルの隣で眼下の街を見下ろす。閉じられた箱の中、一際高い建物の頂上に僕らの姿はある。立派な街、けれど中身には光の下では生きられない病人たちが詰まっていた。
「これでよかったの? テル」
元から廃墟に近かった街並みが今やゴーストタウンと化している。3日後、ここが戦場になると告げたところ、大半の住民が逃げ出した。
「ええ、あとのことは【翡翠の夜明け団】に任せてあります。我が民には私以外に交渉の上手な方もいますから、渡したデータをうまく活用してくれるでしょう」
何を考えているかわからない透明な目、感情が伺えない。彼女は涙さえ見せずに街を見下ろしている。この目が見てきた白露街はもう2度と戻ってこないというのに。
「まあ、別方向とはいえあれも一種の人体実験だしねえ。一つの町単位で近親相姦を繰り返し血を濃くする。研究者が欲しがりそうなデータだ。それを求めていたからこそ、夜明け団とつながりを保っていられたわけだ」
「ええ、今までもお世話になっていましたよ。それに、これを作るにも協力してもらいました」
「それこそ団にしたところで【災厄】の一柱を倒せるのなら協力は惜しまなかったろうけどね。君にはそれだけの力がある」
「私の異能――『加速』。この能力は私の身を一切考慮しない。ただ力のままにふるまうのみ。ゆえに、一度動き始めたならば止まることはない。この身、朽ち果てようと突き進むだけの暴威……!」
「見せてもらうよ、そいつも含めて」
テルが、すぅと手を振り上げた。
「……〈起動〉」
その一言と同時。すべてが動き出した。
「おお」
と、僕は感嘆の声を漏らす。
幾重もの魔法陣が浮かび上がる。地面から花開くように無造作に色とりどりの爆弾や地雷が零れ落ちる。特に街を覆う箱にかけられた結界魔法、どれだけの金をかけたのか――あの虚炉が張った結界さえはるかに超えている。
これは種類を絞らずとも最高峰のそれ。ゆえに消費する魔力は天井知らず、なるほど【災厄】を倒そうと言うだけはある。
「舞台は整えました。あとは――」
王都でさえありえないような、豪勢な防御装置だった。ただし、それは餌に過ぎない。13代分の憎みしみを集積した、敵を呼ぶためだけの豪華で金のかかった餌だ。
「――来たよ」
ざあざあと黒い雨が降る。ありとあらゆるものが削れて消えていく。それは――もう〈滅び〉としか形容できない”もの”。それは喰らい尽くすだけの黒い雨だ。
どれだけの金をかけたのかわからない魔法結界さえ紙のように破られた。そう……湯水のように使われた魔力が、目覚めた【災厄】を呼び寄せた。
「ベルゼブブという1個体にして軍団。ただ一つでありながら群体でもある”それ”は、どんなものでも食いつぶす。もっとも、君には馬の耳に念仏かな」
うん、これ――”僕”じゃ勝てない。
町全域に広がるベルゼブブの一体一体……その無数のハエ達は全てが【災厄】だった。これは、僕の体を覆うアーティファクトでさえ数秒も持たない。つまり、あれを耐えられる技術は人間には存在しない。
そしてハエは体長数mmサイズのくせに、その防御力は使い全力で振り抜いて一匹倒すことがせいぜいだった。”槍”で薙ぎ払おうにも、町全域に広がっているものは倒しきれない。
「……テル、彼らはもう始めたようだ」
僕は目を伏せる。残った住人の命が無為に消えていく音がする。
いくらかの住民は己の命も顧みずに【喰らい尽くすモノ】と戦って、そして雨の一粒にかすり傷を負わせることもできずに死んでいった。
持っていた剣を、己を喰われて死ぬもの。爆弾をもって、己が身ごと爆際しても埃すらつけられずに死んでいくもの。そして、ただ喰われて死んでいく魔法陣を起動させた者たち。
「……尊い犠牲です。皆、覚悟済だった」
テルは静かに前を向いているように見える。……けれど、手は力をこめすぎて真っ白になっている。務めて冷静に努めているけれど、その中身は年頃の純情な少女。だけど、彼女の中にある力が戦場から逃げることを許さない。
「さあ、君の出番だよ、テル。彼らの死が無駄になるかどうかは、君にかかっているのだから」
やろうと思えば終末少女として収集した異世界の魔物の力で、奴の核ごと街を潰せるけど――こいつを倒すのは僕の仕事じゃない。
演目を楽しみにしているんだ、魅せてくれ。
「ええ、そんなことはすでに知っている」
テルが一歩を踏み出した瞬間に消えた。今の――とはいえ僕の動体視力を超えた動きをするなんて信じられない。初めから度肝を抜かしてくれる。
「あなたはやはり………………のことがわからない」
彼女の言葉、肝心なところが聞こえない。ま、いいさ。
「さあ、見せて。テル、君の最期を。そして運命を覆す意思の力を」
ルナは笑う。完全防御の結界を張ってルナを守るアルカナは、ルナの横顔を不安そうに見つめている。
「……ルナちゃん、さびしそう」
ぽつりとつぶやいた。
「……はあああ!」
テルはハエの一匹一匹を丁寧につぶしていく。一匹倒した時点ですでに神業だ。人間に出せる限界を超越した領域である。それを目にもとまらぬ速度で踏破し続ける。
「っふ!」
パン、と拳を振りぬいた先には一匹のハエが居る。
彼女の能力をもってしても倒すのは最大の威力が要求される。ゆえ、その一発一発が最大の威力を持って炸裂する。それを繰り返す。そんなことをすれば二、三発で腕の筋肉が断裂し、続ければ骨が砕けるはずだった。
それを彼女は超絶した技能で補った。
「っああああああ!」
もっとも、それで彼女の肉体が無事というわけでは決してない。一発一発が全霊の一撃であり、それをつなげて連撃とする。
――そんな矛盾を体現すればただで済まない。そして。
「っち!」
一度後退する。
倦怠感が全身をむしばんでいた。すでに痛覚は消えている。痛覚は体の危険サインだ。ゆえに、治せもしない体がそれを発するのは無駄で、だからこそ最初の何発かで痛覚は労働を拒否した。
満身創痍、病死直前。すでに身体にガタが来ている。
「『加速』――私の能力。デメリットは承知の上でしたが、もう少し融通を効かせてくれてもいいでしょうに」
体は動く。能力を使って無理やり動かせる。相手に応じて速くなるこの能力は、能力者の肉体などお構いなしに駆動する。
「ですが、それもすべては些事。私の肉体が使えないなら、その分能力で威力を上乗せすればそれでいいだけのことなのだから」
また突っ込んで、ハエの一つ一つを潰していく。
それは生半可なことではない。なぜなら、そのハエ一匹の突進を受けただけで肉団子になって跳ね飛ばされ、真っ赤な花をぶちまけてしまうような恐るべき【災厄】なのだ。
そんなものが、この場所だけで数千匹はいる。それと対峙するのは人間業ではありえない。それは、まるで――
「上から見下ろす視点のゲームプレイヤーみたいだね。しかも、死んでパターンを覚える系の死に戻りが前提のゲームだ」
ルナとしては〈よくやるね〉という感想しか出てこない。密度の薄い場所に突っ込んではぎりぎりで飛びのいて、そこが最も密度が薄い場所になっている。攻略情報、なんてものがあるわけないのに。
「勘なのかな。それとも――ああ、五感なんてもう機能しているか怪しいものだしね。そっか、町そのものに魔法を仕組んだね。知覚系魔法を、それも強制的に脳に送り込んで」
本人は超高速で動いていて、目からではとても状況を把握なんてできない。だからこそ、位置情報を直接脳に送り込んでいるんだ。団の技術かな、これは。いずれにしてもそんなことをすれば後遺症で廃人になるのは確定だった。
彼女は未来を捧げ、この戦いに臨んでいる。ルナは、アルカナに自分を守らせて、大上段からそれを楽し気に見つめるのだった。




