ファースト・コンタクト お市様
冬。
この時代にはエアコンもストーブもない。
薪をくべて暖を取る。とは言え、俺の家では隙間風が入るので、そんなに暖まったりしない。
まあ、その分、換気しなくても死なないとも言える訳だが。
いや、それ以前に、俺の仕事は言わば外回りのようなものであるので、そんな家の中でも、十分暖かいと感じられてしまう幸せ。
環境が変われば、幸せも変わってしまうのだ。
今、俺は恒例となった信長の草履を懐に入れて、暖めている。
信長が出て来た時に、これを履けば草履を履いた瞬間に、冷たく感じる事が無いと言うもの。
もちろん、こんな事を考えるのはサルである。
人の草履を懐に入れるなんてと思うと、最初はハードルが高かったが、一度経験してしまうと、何でも無くなってしまう。人間とは恐ろしいものだ。
「ふぅぅぅ。寒っ」
手をこすりながら、息を吹きかけて、手先を暖める。
信長がいつ出て来るかなんて、分かりやしない。
いや、出てこない事だってあり得る。
灰色の雲に覆われた空を眺めている時、背後の廊下をどたどたと歩く足音がした。
威張るかのような力のこもった足音の大きさ、せっかちと言ってもいいほどの速いテンポ。信長である。
振り返ると、廊下の端をこちらの向かって歩いてくる信長の姿があった。
手に持っているのは馬の鞭。
どこかへ馬に乗って、出かける気らしい。
懐から草履を取り出し、信長を迎える準備をする。
信長のための水を入れた瓢箪は、腰にぶら下げているので、すぐに信長の後を追う事ができる。
思えば、信長と初めて会った日も、走って追いかけたが、未だあの頃と状況は変わっちゃあいない。
信長が草履に足を通すと、馬小屋を目指して早足で歩いていく。
その後を小柄な俺は、ほとんど駆け足状態で追う。
「サル」
突然、信長が立ち止まって言った。
「へい」
「わしの草履を暖めるのはただじゃのう」
突然の言葉に意味が分からない。
確かに、薪を使う訳でもないし、ただとも言えるが、俺自身の維持費がいる訳で、ただでもないとも言える。
「何を申すか。
暖めなくても、お前の維持費は要るんじゃから、ただと同じじゃ」
サルがそんな事を言うので、信長の意見に賛同する事にした。
「へい。左様で」
「サル。城の薪炭奉行をやってみよ。
お金と言うものは、いくらあっても困らぬものよ。
戦に備えるにはお金が必要じゃ。
薪や炭に多くの費用を費やしておる。
いわば、お金を燃やして暖を取っておる訳じゃ」
福沢さんの肖像画の束を燃やして、暖を取るイメージを想像してみる。
もったいない。
いやまあ、俺がいた時代でも、料金払っていた訳だが。
「なぜ、そのような紙切れがお金としての価値を持つのじゃ?」
サルが頭の中で訴えるが、説明が面倒なので、無視、無視、無視。
「左様で」
「そちなら、減らせるのではないか?」
うーん。
城。俺の懐で暖める訳にもいかない大きさ。
両腕を組んで、小首を傾げながら、思案顔をした。
「お前、本当にあほじゃろう。
俺に任せればよい。
できると言え」
サルが頭の中で吠えた。
「なんで?
できたら、いい事あるのか?」
「ハーレムとやらを作るのではなかったのか?
これは言わば、新たなミッションであろうが、信長が出すミッションをクリアして、レベルアップしていき、最後はハーレムなのではなかったのか?」
納得。
左の手のひらの上を、右の拳で”ポン!”と叩いた。
「へい。サルめにお任せ下されませ」
俺の言葉に、信長はにんまりとした目を向け、一言残して立ち去った。
「サル、ついてこずともよい。励め!」
任せろと言ったサル。
この世界で最初に出会った松下が、商いの才があると言っていた。商いとは通じるところがあるのか、無いのか、分からないが、頭の中に巣食うサルの言葉どり、俺は動いた。
最初の指示は、城中の部屋の使用状況を調べる事だった。
「はい、はい。ごめんなさいよ」
そう言って、誰がいようと構わず入っていき、その部屋の広さ、中にいる人数、部屋のぬくもり具合を調べるのだ。
城中に上がっている身分の者たちからすれば、俺のそんな行動はずうずうしく映っているはずだ。
やらしているのはサルだと言うのに、白い目で見られ、時折怒鳴られるのは俺である。
なんだか、損な役まわり。
今、そんな俺は調べ終わった一つの部屋から、廊下に出たところだ。
「さてと」
そう言って、城の間取りを書き込んだ紙に目を向け、次の部屋を目指そうとした時、廊下の先にお姫様が現れた。
そう。まさしくお姫様。
俺のイメージする鮮やかな色彩に富んだ着物を身にまとった若い女性。
俺の目が見開く。
細面で通った鼻筋に、知性を感じさせる瞳。そして、透き通るような白い肌に赤い唇。
突然、胸の奥が疼いた。
な、な、なんだ、この衝動。
お姫様は背後に侍女たちを従え、俺が立っている方向に近づいてくる。
「きっと、この人が噂のお市様じゃあ。
美しい、美しすぎるではないか!」
俺の頭の中に、サルの絶叫が轟いた。
お市様。信長の妹で、絶世の美女と噂では聞いているが、初めて見た。
まったくもって、噂通りの容姿と言えるだろう。
一瞬、ぼーっとしてしまったこともあり、お市様がすぐ近くまで来ていた。にもかかわらず、その進路を塞いでいる俺に、侍女たちが注意した。
「そこの者、お市様の邪魔ですよ。
どきなさい」
慌てて廊下の隅によって、頭を下げようとしたが、なぜだか体が動かない。
お市様の目が俺に向けられた。
目を伏せ引き下がろうと思うのに、俺の意思とは関係なく、体が動き出した。
なぜだか、にこやかな笑みを浮かべようと顔の筋肉が動く。
げげっ! 猿顔の笑みの不気味さは俺自身理解している。
こんな顔を向けられたら……。
その危惧は現実のものとなった。
お市様の顔に嫌悪の感情が浮かんだ。
「お市様。
わたくし目は木下藤吉郎と申しまして、殿の命にて、城中の新薪の出費を抑えるべく、働いております。
必ずや、目にもの働きをご覧いただきまするゆえ、ご期待くださいませ」
俺の口から、突然言葉が吐き出された。
それも、早口で自分をアピールするなんて、みっともない気が。
そう感じたのは俺だけではなかった。
「下がれ」
そう言ったお市様の口調と表情には、さっきより一層深くなった嫌悪と怒りが入り混じっている。
俺だって、下がりたい。
だと言うのに、体が俺の言う事をきかないのだ。
どうやら、今、この体の制御権はサルにあるらしい。
不気味な猿笑みを浮かべたまま動こうとしない俺に、いや正確にはサルに、業を煮やした侍女の一人が進み出て来て、俺の前に立った。
お市様にロックオンしていた俺の視線が遮断され、それなりの侍女の顔のアップが映った。
丸い顔の輪郭と同じような丸い鼻。目は怒りでか、細くなって、吊り上がり気味。
胸の奥に感じていた疼くようなものが無くなった。
その瞬間、金縛りが解けたかのように、突然俺の足は動き出し、体が後退しはじめ、バランスを失った俺は廊下に尻餅をついて、へたり込んだ。
そんな俺の前に侍女は立ちふさがり、睨み付けるような視線で見下ろして、俺を威嚇した。
こっそりと、俺は手の指を動かしてみる。ぴくりと動く。今はこの体の制御権は俺に戻って来たらしい。
何かをきっかけに、いや、想像はついている。サルが女の人に欲情した時に、俺の制御権は奪われるのかも知れない。
侍女が俺の前に壁のよう立ちふさがり、その背後をお市様が通り抜けていく。
「なんじゃ、あの木下とか言う猿のような無礼者は」
「はい。信長様が拾われてきた小者なのですが、たいそうお気にめされているとか」
「兄上にも困ったものじゃ。
あのような得体の知れぬ者を近くに置くとは」
お市様の声は小さくなかった。つまり、俺に聞こえるように言ったと言う事だ。
はっきり言って、お市様に嫌われた。そう言うことだろう。
「そうとは言えまい。
これからいいところを見せればよいのじゃ。
女子にはのう、よいところを見せ、そして、ほめて、押して、ほめて、押して、ほめて、押しまくるんじゃ。
そうすれば、いずれは押し倒せると言うものじゃ」
サルの声は自信満々としか言いようがない。
この猿顔でもか?
「男は顔ではないわ!」
この男の言葉は真実なのか、猿顔だけにそう言う事を信じたいだけなのか、俺には分からない。
ただ、俺がこの体に移ってしまってからは、女の人と楽しいひと時なんて、一度も無かったのが事実だ。ハーレムはかなり遠い。
「はぁぁぁ」
この体の制御権が奪われる可能性と、猿顔の俺の将来、そしてサルの妙な自信にうんざり気味な俺は息をついてしまった。
一方のサルは今まで以上に頑張り始めた。
調べた上げたデータを分析し、無駄に温度が上がらぬよう、無駄に長時間薪が残らないよう、各部屋のくべる薪の量を調整し始めた。
サルははっきり言って、ケチだった。
「これだけでは足りぬのではないか?」
「これでは寒うございまする」
そう言う反応が返ってきても、サルは一切取り合おうと言う気を見せない。
「ならば、もう一枚、何か羽織ればよろしかろう」
俺にそう言えと言うのだ。
それでは嫌われるじゃないかと、不満を言う俺に、サルは言う。
「何かを変えようと思うのなら、嫌われることを恐れてはならぬ。
嫌われることを恐れるなら、何かを変えようなどとは思わぬ事じゃ」と。
サルがカッコいいことを言っているが、その矢面に立って、嫌われているのは俺なのである。
結局、サルはそれだけではなく、薪の購入先も選定しなおして、価格を下げた。
ミッション、コンプリート。
これで、何が得られるのか?
レベルアップか? 恩賞か? 次のミッションか?
次への期待を持っていた俺が得たのは、信長からの一言だけであった。
「サル、大義であった」
言葉だけかよ!
お気に入り、入れてくださった方、ありがとうございます。
頑張りますので、引き続き、よろしくお願いいたします。