墨俣一夜城4
夜空に輝く月の下、昨日まで降り続いた雨で増水した長良川を前に立っていると、涼やかな川の流れの音ではなく、激しく水がぶつかり合う音が聞こえてくる。
月の薄明かりの中、目を凝らしていると、少しずつ川の様子が見えて来た。
大きく波打つ川面。
そこに、小一郎と蜂須賀たちが上流で切り出した城の部材をある程度組み立て、一気に流してくることになっている。
俺は墨俣でその到着を待っている。
柵も何もないここを美濃勢に襲われれば、柴田勝家と同じく敗走を免れない。
いや、勝家なんかよりも、兵数はずっと少ない事を考えれば、俺の命さえ危ない。
つまり、自ら蜂須賀たち以上の危険に、身をさらしているわけである。大きなことを成し遂げるには、自らもリスクを背負わなければならない。
そう思いながら、一人頷く。
「何をかっこつけておる。
筏でこの川を下るのが怖くて、もっともらしい理由を付けて、ここにおるだけじゃろうが」
サルの言葉に、ちょっと顔がゆがむ。
こいつは俺の思考が読める厄介者であった。
まあ、真実はそう言う事だが、無視、無視、無視。
サルを無視して、空を見上げてみる。
俺が元いた世界では見た事もないほどの星が煌めいている。
そのまま視線を東の空に向けて行く。
月と星々だけの黒い世界がほんのりと明るさを取り戻そうとしている。
日の出が近い。
日の出とほぼ同時に、ここに蜂須賀たちが川を下ってやって来ることになっている。
ここ一番の大勝負。
その時はもう目の前だ。
ごくりとつばを飲み込みながら、両手の拳をぎゅっと握りしめる。
東の空から取り戻し始めた明るさが、川面の姿を今まで以上にくっきりと、浮かび上がらせ始めた。
目に映る川面は川底の起伏がそうさせているのか、所々で大きなうねりとなっている。
上流に目を向けてみる。
まだ蜂須賀たちの姿は見えない。
うまく作業は進んでいるんだろうな。
そんな心配が俺の緊張感に不安をミックスさせる。
数mの距離を何度も行ったり来たりして、時の流れの遅さから逃れようとする。
徐々に明るさを取り戻し始めた空の光が、墨俣で待機する俺たちの姿を映し出し始めた。
たとえ、俺たちの存在が美濃勢にばれたとしても、すぐに攻めよっては来ない。
兵たちをそろえて、戦準備をする時間が必要だからである。
それに、今の俺たちの姿だけを見れば、少数でしかも築城作業もしておらず、急ぐ必要も感じないはず。
とは言え、時間が勝負な事は間違いない。
行ったり来たりを繰り返す足が早まる。
「早い男は嫌われるぞぅ」
サルが頭の中で、そう言って卑猥な笑い声を上げた。
意味は分かった。
「こんな時に、下ネタかよ」
頭の中でサルに言う。
「おうよ。
女子とする時も、戦も、何事も準備が必要じゃ。
準備は万端じゃろ?」
俺は無言で、サルに頷いてみせる。
「準備が整えば、一気に攻めたてる。じゃが、急いては事を仕損じる。
女子も、戦も同じじゃ。」
サルがそう言って、大笑いを始めた。
女の子とのあんな事やこんな事を、戦と絡めるとは何と言うサルなんだと思うと、俺の体の中から一気に力が抜けた。
立ち止まり、腕組みをして、上流をじっと見つめる。
少しばかりの時が流れ、東の空から広がる光が空の半ほどまで達した時、上流から流れて来る筏と、それに乗った男たちの姿が現れ始めた。
先頭には小一郎が乗っている。
「皆の者。来たぞ」
墨俣で待機している兵と、人足たちに言った。
人足たちは慌てて川辺に走り寄り、筏を引き上げる準備に入り、兵たちはその後方に待機し、弓と火縄銃と言う飛び道具をいつでも繰り出せる準備に入った。
ぞくぞくと流れて来る筏。
正確には、城を作り上げるための部材。
筏に乗っている者たちは俺たちの所に近づくと、手にしている竿で筏を俺たちがいる所に着岸させていき、人足たちがそれを引き上げて、作業に取り掛かる。
先頭の筏から飛び降りた小一郎が俺のところに、満面の笑みでやって来た。
「兄者。万事うまくいっておる」
「ご苦労」
小一郎の言葉にこみ上げて来る嬉しさを抑え気味にして、落ち着いた声で言う。
最初に築かなければならないのは、城壁代わりの柵。
何本もの木で組み上げられた柵の部材を引き起こすと、地面に深く打ち込んで行く。
最初の柵が打ち込み終わった時、空は普段の青さを完全に取り戻していた。
「急げ」
「全てを中に運び込め」
「櫓も組み上げはじめろ」
人足たちに指示を出しているのは、蜂須賀の子分たちだ。
こんな仕事にも慣れているとしか言いようがない。
ねねが言ったとおり、蜂須賀を仲間に入れて正解と言うものだ。
「いや、わしだって、小六を頼る事を考えたぞ」
と、サルがまた自分でもできたようなことを言うが、無視、無視、無視。
次々に到着する筏と共に、蜂須賀に従う男たちが墨俣に増えていき、最早ちょっとした勢力になっている。
すでに斎藤方も気づいているはずで、ここに攻め寄せる準備をしているに違いない。
だが、まだ柵は完全には仕上がっていないし、ここに城を造り上げるためのすべての部材が到着した訳でもない。
まさに時間との勝負。
「サル。美濃勢はいつ攻めかかって来ると思う?」
俺も戦の経験はあるが、それは決められた出陣。
今回の美濃勢はいわばスクランブルである。
それに必要な最小限の時間を俺は見積もれない。生まれた時から、この時代に生きているサルにきいてみた。
「そうじゃのう。
昼よりも前には来るじゃろう」
サルの言葉に俺は南の空に目を向けた。
太陽の位置はまだ真南には間がある。
「急げ」
そう言った時、蜂須賀が乗った筏が着岸した。
最後の筏だ。
「早く引き揚げて、柵を急がせろ」
大声で指示を出すと、人足たちが大急ぎで蜂須賀が乗って来た筏に駆け寄り、筏を造りかけている柵の内側に引き揚げ始めた。
「藤吉郎殿。
これはうまく行きそうじゃのう」
俺の横にやって来た蜂須賀がそう言って、大笑いを始めた。
うまく行きそうな気配、しかも奇抜な作戦と言う事が気に入っているに違いない。
「まだ油断してはならぬ」
それだけ言って、蜂須賀から顔をそむけて、一歩離れた。
何日もずっと森にこもって作業をしていただけあって、臭すぎ!
そんな事言える訳もない。
「いやあ。小六の方も薄汚れた猿顔から、顔を背けたいのが本音ではなかろうか」
と、サルがまた自分の猿顔を他人事のように言うが、無視、無視、無視。
蜂須賀に従う男たちと人足たちが、手際よく柵を組み上げていく。
最後の柵を宙に打ち込み、隣の柵と縄で結び始めた時、対岸が騒がしくなった。
美濃勢着陣である。
軍勢の真ん中で馬に乗っているこの部隊の将らしい男は、目を点にしている。
きっと、どうやって、こんなに早く柵を築いたのかと驚いているのだろう。
そう思うと、ちょっと可笑しくて、吹き出しそうになる。
「ねねの策じゃろ」
有頂天になりかけていた俺を、サルが否定する。
ふん。
ちょっと、気分を害したが、気を取り直して背後に控えている兵たちに指示を出す。
「構えぇぇ」
弓勢は弓を引き絞り、鉄砲隊は柵の前に進み出た。
美濃勢の将と思しき男の顔が、怒りに歪んだかと思うと、右手を挙げた。
「かかれぇぇ」
その男の声で、兵たちが喚声を上げながら、攻めよって来た。
喚声に混じって聞こえて来る、矢が空を切り裂く音に、上を見上げると矢が向かってきていた。
あまりの恐ろしさに、足がすくんで動けない。
ぐさっ、ぐさっと地面に突き刺さったが、運よく俺には当たらなかった。
兵たちも慌てふためいて混乱しているのが、視界に映る。
人足たちに至っては、逃げ惑っているが、これは仕方あるまい。と言うか、俺もそちらの仲間になって、逃げ惑いたいところだ。
「怯むな。御大将を見ろ。
矢の雨も、物ともしておらぬであろう」
小一郎が叫んだ。
俺は足がすくんで動けなかっただけで、小一郎は何か誤解している。が、敵の攻撃にも動じない俺の姿に、兵たちの士気は高まったようで、俺の兵たちの中からも喚声が上がると同時に、体勢を立て直し始めた。
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