墨俣一夜城1
開かれた清洲城の城門。
そこを通り抜けて、泥まみれの兵たちが城内に駆けこんで来る。
そんな兵たちの多くは、戦場かどこかで旗指物を投げ捨てて来たのか、その背中にひるがえっているはずの旗指物も無く、息も絶え絶え。
ずっと敵から逃れるため、走り続けてきたのだろう。
城内に入ると、力を使い果たしたのと安堵感に包まれた事もあってだろうが、そこら中に倒れ込む兵たちが続出している。
この兵たちは柴田勝家に率いられ、美濃攻略の要と信長が考えた墨俣に、築城をしようとした者たちである。
織田家でも筆頭であり、鬼の柴田とも言われる戦上手の武将でさえ、このありさまである。
信長は美濃に攻め込んでは破れていて、俺も尾張の兵として、何度か戦に出ては命からがら敗走し、とりあえず死なずに生き延びている状態だ。
青から赤みを帯び始めた黄昏の空が、柴田の兵たちには未来が訪れないと告げている気さえしてしまう。
ねねを手に入れた時、すぐにでもハーレムに手が届くかと思ったが、それは遠いもの、いやもしかすると、俺は戦で命を落とし、ハーレムの夢は幻のまま終わるのかも知れない。
ハーレム以前に、未だに俺はあんな事やこんな事をしたことがない。
あんな事やこんな事をしたことがないまま死ぬ訳にはいかない。
この世界にやって来た最初の頃、この世界は俺の願いを叶えるための架空世界に過ぎず、ここで俺が死んでも元の世界に戻るだけと思っていたが、月日を重ねる内、元の世界に戻れる保証もないんじゃないかと考えるようになった。
だったら、ここで人生やり直して、切り拓くしかない。
その中には、あんな事やこんな事の経験も当然含まれている。
いつだったか、一度、寝返りをうったふりをして、布団の上からねねの胸のあたりに手をかけたかことがあるが、思いっきり怒られ、次の日から、俺の布団は部屋の端に置かれ、ねねはその反対側の部屋の端に自分の布団をしいた。
これでは、一回の寝返りではねねの体に触れる事はできない。ごろごろと転がって行かなければねねに手を触れる事すらできなくなった。
ねねは遠い存在。
それが明確な形で表されている。
命からがら逃げて来た兵たちを見ながら、思考の片隅でそんな不届きな事を考えている時だった。
「サル!」
背後から、信長の声がした。
「勝家もしくじったようじゃな」
険しい顔つきで、信長が言った。
「へい。そのようで」
神妙な顔つきで、頷いて見せる。が、それ以外に俺に出来る事はない。
「情けないのぅ。
サルめにお任せ下され。
とでも、言うてみる気はないのか」
と、サルは言うが、そんな気はさらさらない。
サルの言葉は無視、無視、無視で、無視していると、信長が予想外の言葉を口にした。
「サル、そちに任せる」
「はぃぃぃ?」
思わず、引きつった顔と情けない声で、信長の言葉に反応した。
「城壁の修理で見せた手際の良さ。
見事、墨俣に城を築いてみせよ。
あの時のように一昼夜とは言わぬ。
しばし、時を与えるゆえ、策を考えるがよい」
信長の表情に笑みは無い。いや、それどころか険しさを浮かべてさえいる。
冗談で言っているのではないばかりか、失敗続きの結果に怒り気味のようである。
柴田たちがやってもできない事をどうして俺ができると言うのか。
だが、今の怒り気味の信長に、「できません」なんて、言える事なんてできやしない。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「これはまた、新たなミッションじゃな」
呑気そうな口調で、サルが言う。
思わずサルの態度にイラついてしまった俺は、両拳をきつく握りしめ、右足でドンと地面を踏み鳴らしながら、ぽそりと言ってしまった。
「呑気な」
その言葉に、俺に視線を向ける信長の姿が視界に映った。
ついつい口からぽそりと出てしまった言葉を信長に聞かれてしまったらしい。
「サル!」
信長の表情は険しさを増している。
次に信長の口からどんな言葉が出るのか、身構える俺に予想外の事が起きた。
信長は笑えを浮かべた。
さっきまでの信長の表情から一転して、ご機嫌そうな顔。
なんで?
そう思っている俺に、上機嫌そうな口調で、信長が言った。
「なるほど、時はかけてはおられぬ。
サルには策ありと言うわけじゃな」
「はぃぃぃぃ?」
信長の言葉に、俺は頭の中で絶叫した。
俺が頭の中のサルに、むっとして口に出してしまった言葉を信長は誤解したらしい。
どう取り消そうかと、かちこちに固まってぎこちない動きで、口を開き始めた俺に、信長はさらに言葉を続けた。
「うむ。
墨俣に築城なれば、墨俣の城はそちに預ける事にする。
励め、サル」
信長はそう言うと、上機嫌な笑い声をあげて、城の中に消えて行った。
「これは新たなミッションじゃな。
しかも、今度の褒美は墨俣の城主じゃ。
大義と言う言葉だけじゃと不満がっておったが、今度のミッションをクリアすれば、大きな褒美が手に入るではないか」
呆然と立ち尽くしている俺の頭の中で、サルが言った。
「どうするんだよ」
「そうじゃのう。
こればかりはすぐには策は浮かばぬのう」
呑気そうなくせに、サルは策も持っていないらしい。
藁にもすがりたい気分の俺の頭の中に、赤い糸が浮かんだ。
そうこんな時こそ、ねねである。
藁にすがるなんかより、ずっと頼りがいがあるはず
残念なことに、未だにその柔らかそうな体にすがった事は無いが。
「女子には無理じゃろう」
俺の頭の中で、サルが言うが、無視、無視、無視。
俺は家を目指して駆けだした。
元の世界風に言えば、専用庭を駆け抜け、スライド式の玄関ドアを開ける。
土間の奥にあるフローリングのリビングダイニングに目を向けると、薄暗い空間にねねが座って俺の帰りを待っていた。
と、思ったら、こくりとその首が下がった。
転寝しているらしい。
かわいらしい顔で転寝しているねねの耳元で「ね・ね。か・えっ・て・き・た・よ」と、囁いてみたいところだが、そんな事したら、ビンタが返って来ること間違いなし。
今は、ねねのご機嫌を損ねている時間は無い。
「ねね。大変じゃあ」
転寝しているねねが目を覚ます程度の声で、俺は言った。
「何がぁ?」
転寝から目を覚まし、眠たげに目をこすりながら、返って来たねねのその言葉は、不機嫌さ全開だった。




