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桶狭間の戦い(後)

 熱田の杜を出立した信長は大きな街道から外れて、小さな間道に入って行った。

 その道は人、数人が横並びになるのが精一杯の狭い道で、信長の軍勢以外に行き交う人の姿が見当たらない事を考えれば、ほとんど地の人しか通らない道なのだろう。

 しかも、辺りは見晴らしのよい田畑ではなく、木々が生い茂っているので、軍勢をひそかに進めるには最適である。


 信長のお供をして尾張の地を駆け回っている俺だが、この道は俺としては初めてであって、信長ががどこに向かおうとしているのか、俺には分からない。

 ただ、軍勢の先頭を馬で進む信長の横について、黙って歩いていく。

 

「サル」

 その声に、馬上の信長に視線を向けた。

 信長は体を傾け、自分の顔を少し俺に近づけて来た。


「白鷲の演出は褒めてとらす」

「ご存じだったんですか?」

「当たり前じゃ」

 信長はにやりとした。


 そう。白鷲も、甲冑の音も全て、俺の組子にやらせたもの。

 もちろん、俺のアイデアではない。サルのアイデアである。


「どうじゃ。

 おぬしは信じておらなんだが、兵たちの士気は高まるし、信長には褒められるしで、わしの言うとおりにしてよかったであろうが」

 サルは自慢げだ。

 ちょっと癪だが、そのとおりだ。


「ありがとうな」

 頭の中で礼を言う。


「えらく素直じゃな。

 しかし、このいくさ、勝てるのかのう?」

「ねねの言う事を信じて、ここまでした割には弱気じゃないか。

 ねねは俺にとって、特別な存在。

 そのねねが言うんだから、間違いはない」


 そう。俺はそう信じている。

 だが、サルの不安も分からない訳じゃない。


 ここまで信長側の砦は落とされ続け、完全に劣勢である。

 相手はきっと勢いづいているはずであって、勢いに乗る敵は怖いだろう事くらい、俺でも分かる。



 黙々と歩き続ける信長の軍勢。

 甲冑がすれる「かちゃかちゃ」と言う音と、地面を踏みしめる「ざっざっ」と言う音だけが響いていた空間に、木々のざわめきが加わり始めた。


 風が強くなってきている。

 空を見上げると、青空にグレーの雲が広がり始めていた。


「殿ぉぉぉ」

 細い道の先から、甲冑姿の男が駆けよって来た。梁田政綱である。

 信長が馬を止めると、全軍が停止した。


「何じゃ」

「申し上げまする。

 今川義元、おけはざま山にて輿を止め、休憩中にございまする」

「政綱、でかしただがや」

 そう言うと、信長は背後の軍勢向かって言った。


「皆の者、今川義元はおけはざま山にて、休憩しておる。

 ただちに桶狭間に向かう」

「おぅぅぅぅ」


 声と共に、軍勢は駆けだした。

 俺も信長の横を少し遅れて、駆けていく。


 空模様はますます怪しくなり、風だけでなく、雨も降り始めた。

 風雨に紛れて今川本陣に近づいていく。


 出陣は過去にも経験しているが、俺は戦をしたことはない。

 高鳴る鼓動は不安の証明。

 その不安を煽るかのように、風雨はさらに激しくなってきた。

 元の世界で言うゲリラ豪雨並の雨は、視界さえ奪い、甲冑の上から体を叩きつけている。


 そんな中、ひたひたと軍勢は進んで行く。

 向かう場所は分かったが、今どこにいるのかさえ分からない。


「なんじゃ、今どこか知りたいのか?

 わしがナビしてやろうか?」

 ナビと言う言葉を覚えたサルが言う。


 ここは一つ、心の準備のためにも、知っておきたい。

 あとどれくらいで、今川義元がいる場所に到着するのか。


「ふむ。

 目的地周辺じゃ。

 案内を終了する」


 サルナビが言った。

 マジ?

 いきなりかよ!

 心の準備もできない内に、俺は戦場に到着してしまったらしい。



「見よ。者ども。

 今川の奴らは、甲冑すら脱いでおるわ。

 旗指物は捨て置け」


 信長の命に、兵たちは背中に差していた五つ木瓜の旗指物を捨ておき、先に広がる光景に目を向けた。


 多くの兵たちがたむろしている。

 そう。整列しているのではなく、思い思いの場所で、思い思いの行動を取っている

 少し小高い丘のような場所には幔幕が張られている。きっと、今川義元はあそこにいるのだろう。



「よいか。

 狙うは義元が首一つ。他の者は、切り捨てにいたせ!」

 そう言ったかと思うと、信長が駆けだし始めた。


 信長に続き、桶狭間に信長の兵たちがなだれ込む。

 俺もしょぼしょぼの刀を抜き、駆けだしていく。

 信長を始め、騎馬の武将たちはすでに敵兵たちの近くまで迫っている。



「なんじゃ?」

「どこの部隊じゃ」


 騎馬や、徒歩(かち)の兵たちが轟かす足音に混じって、敵兵たちの声が微かに聞こえてくる。


 信長の軍勢が来たとは思っていないらしい。

 敵軍勢の接近に気付かない油断。そして、その敵軍勢を目の前にしても、まだ敵だとは思っていない油断。

 信長をなめきっていたとしか言いようがない。

 先頭を駆けていた信長たち、騎馬武者たちが敵兵たちを襲い始めた。


「ぎゃあー」

 男の悲鳴。


「謀反じゃ」

 まだ信長の兵だと思っていないらしい。

 騎馬に続き、徒歩の兵たちが襲い掛かる。


「何事じゃ」

「喧嘩は許さぬぞ」

 義元がいると思われる幔幕から、きらびやかな甲冑に身を包んだ武者たちが現れて、兵たちを叱責する声が聞こえて来た。

 が、すぐに血相を変えて幔幕に戻っていく姿が見えた。


 そのころ、桶狭間は戦場になっていた。


 次々に信長の兵の手にかかり、切られていく今川の兵たち。

 血しぶきを上げて、倒れていく。


 俺も刀を手に、勇ましく攻め込んでは見たが、その光景に立ちすくまずにいられない。

 さっきまで刀を振るっていた人間の腕が無くなり、血を吹き出している。

 さっきまで元気だった人間が、お腹から血を吹き出して倒れていく。


 辺りにたちこめる血の匂い。

 さっきまで生きていた人間が、死に絶えていく。


 俺は人が大怪我をしたところを見た事が無い。

 おじいちゃんも、おばあちゃんも元気な俺は、遺体なんか見た事もない。

 ましてや損壊された遺体なんて、一生かかっても見る可能性はほとんどない。

 そんな平和な生活だった俺には、この地獄は耐えられない。

 血の海に覆われていきそうな桶狭間の地面に四つん這いになって倒れ込み、おう吐してしまう。



「何をしておる。

 こんなところで、倒れていては手柄を立てられんばかりか、切り殺されてしまうぞ」

 サルが焦り気味の声で怒鳴った。


「人が殺されているんだぞ」

「当たり前じゃ。それがいくさと言うものじゃろうが」

「俺はそんな戦は嫌だ」

「嫌だと言うて、大人しくしていても、敵は見逃してはくれぬぞ。

 生きたければ、戦うしかない。それが戦と言うものじゃ」


 サルの言葉が言い終えた時だった。

 視界が暗くなった。

 視界の片隅に具足をつけた足が映った。

 兵が立っている。


 慌てて俺は見上げた。

 そこには力んだ表情で、刀を振り下ろそうとしている男がいた。


 ビュッ!

 刀が空気を切る音がした。

 体をそらしてかわそうとしたが、右腕に痛みが走った。


「痛っ!」

 目を向けると、具足が無い部分の服が裂けて、血の真っ赤な色が服の生地を染め始めていた。


「ちっ」

 俺を切りつけた男が舌打ちしたのが聞こえた。

 目を向けると、男は再び刀を振り上げていた。


「腕は動くか?

 切れ、切れ、切れ!」

 サルが叫ぶ。


 刀を握ったままだと言う感覚はある。

 目をつぶり、男の足に向かって、刀で切りつけた。


「ぎゃっ」

 男の声が耳に届いたが、右手で何かを切った感覚はない。

 代わりに感じるのは、鉄臭く生暖かいものが俺に降り注ぐ感触。

 目を開けると、男は腕を失い、血しぶきを上げていた。


「藤吉。大丈夫か?」

 目の前で起きた惨劇で、目を見開き固まっている俺の耳に、そんな言葉が届いた。


 声の方向に目を向けると、刀を構えた前田が立っていた。

 助けてくれたらしい。

 その安堵感以上に、恐怖が離れない。


 戦場で繰り広げられる人が人を殺しあうと言う光景。

 俺はそことは少し距離を置いていたつもりだった。

 が、今はその戦場にどっぷりとつかっている。


 生暖かい血しぶきを浴び、目の前には切り落とされた男の腕が転がり、目の前には腕を切り落とされた男が苦痛にもがき苦しんでいた。



「しっかりしろ。藤吉」

 前田の言葉は耳から脳には届いているが、俺の停滞してしまった意識を揺り動かすほどには届いていない。


「何をしておる。

 すぐに立ちあがるんじゃ」

 頭の中に響くサルの声も、俺の停滞した意識を動かすことはできない。


「立て。立つんじゃ」

 俺の腕をがしっと前田が掴んで、俺の体を抱え起こした。

 俺の足はがくがく震えていて、前田が俺の体を離せば、きっとまた地面に崩れ落ちるに違いない。


「来い」

 前田が俺の体を引っ張った。

 どうやら、戦場の端に俺を連れて行こうとしているらしい。

 よたよたと前田に抱えられながら、歩き始めた時、桶狭間に運命の声が轟いた。


「今川義元が首級(みしるし)、毛利新助が頂戴つかまつったぁぁぁぁ」

 その声に、今まで戦っていた兵たちの動きが一瞬、止まった。


 そして、その次の瞬間、兵たちは各々がどちらの軍勢に所属していたかで、全く逆の反応をした。


 大将である今川義元を討たれた今川の兵たちは、さっきまでの果敢さ、闘志を失い、恐怖の表情を浮かべて、逃げ出し始めた。

 もう一方の織田の兵たちは、さっきまで奥底に秘めていた悲壮感を霧消させ、狂喜の表情を浮かべて獲物を追う狩人となった。


 俺はと言うと、戦が終わり自分が生き延びれたと言う安ど感と、もう人が目の前で殺されていく光景を見なくていいと言う二つの安堵感に包まれ、辺りの状況を咀嚼する余裕が生まれた。


 俺が今いるのは、戦の勝ち負けが人の運命を分けた瞬間。


 やがて信長の軍勢から勝鬨があがり、桶狭間に轟くと、この戦は終結した。




 今川と言う巨大な敵。

 うつけの信長では勝てぬと言われていた戦いは、ねねが言ったとおり、信長の勝利となり、信長の評価はがらりと変わった。


 町を歩けば聞こえて来た、「うつけじゃ」、「あれではこの国はもたぬ」と言う囁きは、「鬼神じゃ」、「並外れた大将じゃ」と言う、賞賛の声になった。


 それは織田家の中でも、それは同じだった。


 桶狭間の戦いは俺の心の中には大きな変化をもたらした。

 俺はこの世界を甘く考えていて、ゲーム感覚で人生を切り拓くような架空の世界だと思っていたが、桶狭間の地獄は衝撃だった。


 自分は死んでも元の世界に戻るだけだろうなんて、思いは吹き飛び、死に対する恐怖を抱くようになった。

 つまり、ここは元の世界の平たい液晶画面の中で見るような単純な作り話の世界でなく、元の世界とは別の実在する時空で、人が本当に生きている世界なんだと認識するようになった。


 しかも、この世界は元の世界とは格段に違い、人の生と死が近いのだ。気を抜いて寿命をまっとうして生きていける世界ではないのだ。

お気に入り、入れて下った方、ありがとうございました。

戦だけあって、ちょっと血なまぐさいシーンでしたけど、いかがでしたでしょうか?

感想などいただけたら、うれしいです。

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