13
遠目でもわかった、ネントスの首が刎ねられたのは。
その光景を見てヌベル軍は一気に動揺した。
「ネントス!」
イルーンがまず叫んだ。ヌベルは固唾を飲んだ。
「ネントース!」
もう一度イルーンは後輩の名を叫んだ。
――後輩
そう、イルーンにとってネントスは、ターングラム言語学院の後輩にあたる。しかし彼らの関係は、ただの先輩後輩ですまされる間柄ではない。ネントスは一度イルーンの窮地を救っている。ネントスはイルーンのとっては命の恩人なのだ。
イルーンは学院を首席で卒業し、その魔法力を買われある大国の王に仕えた。その三年後、ネントスもイルーンと同じく学院を首席で卒業し、本人の希望でこれまたイルーンと同じ大国に仕えることとなった。イルーンは術の研鑽、ネントスは魔法生物の探究と、二人の魔道に対する考え方や方法は全く違ったが、お互い相手のことを認めており、ネントスは、学院時代からイルーンを敬慕し、イルーンは、ネントスのことを学院から大国に所属してからも実の弟のように面倒を見ていた。そんな二人にある日ある事件が起こる。
イルーンは魔法使いとしての能力はもちろん、内政家としても国営に手腕を発揮しており、国王の信任が厚かった。イルーンの能力に多くの古参の家臣は嫉妬を覚えた。その中でももっとも意固地な一人が、国王に、
「イルーンは王位簒奪を計画している」
と事実無根の嫌疑を吹きこんだのだった。国王は初め信用しなかった。だが、意固地な家臣は他の古参の家臣を言葉巧みに取り込み、彼らにも自分と同様のことを王に報告せよと服従させた。丸めこまれた家臣たちだったが、一抹の不安はあり、もし自分たちの造言がイルーンに露見すればイルーンの報復があると、有能な魔法使いの魔力に怯えたが、彼らは自分たちが抱く嫉妬心に負け意固地な家臣の言う通りに、イルーンには反逆の意思があると王に忠告した。
さすがの王もイルーンに対して疑心を持ち始めた。
イルーンには強大な魔力と国を統治する能力が確かにある。彼が野心を持ってもなにもおかしいことはない。
王は数日悩んだが、ある日ついにイルーンを質すことを決意し彼の屋敷に兵をさし向けた。
強力な魔法を使う相手なので用心するに越したことはないと、たかだか一人の身を押さえるのに、大軍を派遣した。
兵らは屋敷を取り囲み、イルーンにおとなしく出てくるようにと勧告した。しかし出てきたのは屋敷に仕える召使いだけだった。イルーンはどこの行ったのかと詰問しても、彼らは口を揃えて、
「ご主人さまは、夜散歩にでかけられました」
と言うだけ。
埒があかないと兵が屋敷に踏み込み、イルーンの姿を探すが召使いの言う通り、どこにもイルーンの姿は見当たらない。イルーンは消えていた。
兵たちは捜索の範囲を広げたが、どこにもイルーンの姿がない。
イルーン逃亡!
と、すぐさま国王と家臣たちに報告された。
一番驚いたのは、意固地な家臣だった。なぜだ、どうしてだ? 極秘裏に進めてきたイルーン排除計画が、どこかで漏れたのか? 意固地は、他の家臣に不満を吐き出した。古参の家臣はみな首を傾げていたが、イルーンの逃亡からすぐに浮上した事実があった。
ネントスもイルーンが消えたのと同時期に姿をくらましたのだった。
(はっ!)
古参の家臣の一人は、ネントスも消えたという情報を聞いたとき、ほぞをかんだ。
彼は、イルーンの屋敷に兵が踏み込む前日に、ネントスと酒を飲み交わしていた。誘いはネントスからで、イルーンに不満、愚痴があるから聞いてくれということだった。古参の家臣は、ネントスの行動になんの疑いも持たず、それを受けた。イルーンとネントスは傍から見ても特別懇意という仲で周知されておらず、どちらかといえば扱う魔法の分野も全く違ったので、不仲と思われていたぐらいだった。だが実体はそうでなかった。
ネントスは、イルーンに対して古参の家臣団の様子がおかしいと察知し、内偵をいれたのだった。その行いは見事的中し、意固地な家臣を中心とする一派がイルーンを陥れようとしていることを知ると、古参の家臣と別れたあとすぐさまイルーンの屋敷に急行した。
二人はその日の夜のうちに、国外逃亡をはかったのである。
イルーンはこれは好機と、ネントスの来訪を運命的に捉えた。イルーンだけに限っていえば、彼は大国に仕えることにすでに倦んでいた。仕えた国は確かに大国で、肥えた大地からは毎年たくさんの農作物が収穫でき、それにより、多くの兵を養うことができ、隣国から侵略される不安もなく、王国はつまり太平を謳歌していた。
イルーンが王国に仕える前に得た情報では、現国王は、まだまだ版図を広げる野望があるとのことだったはずなのに、イルーンが国に属してからは、一戦も他勢力とは交えず、国土維持政策がとられていた。
(自分の能力は政務だけではない。魔法の力もあるのだ)
イルーンは自分が培った魔法を一度でいいから存分に発揮させたかった。彼は決して好戦的な性格ではなかったが、仕える主人のため、自分の持っている魔力を使いたかった。しかしそれは叶わない願い。国王は、内政に力を入れている。彼は、悶々としながら日々を経過させていた。
そんな時、血相を変えたネントスが屋敷に現れた。イルーンはそのとき丁度自室で書物を読んでいた。
「古参の家臣たちが、イルーンさまを捕縛しようとしています!」
ネントスの報告をきいて、イルーンは読んでいた書物を閉じ、ゆっくり立ちあがると、召使いに馬を用意させた。
「ネントスと夜の散歩に行く」と言ったきり彼は屋敷に戻らなかった。
結果的には、イルーンが逃亡し、王国からいなくなったことで意固地な家臣の思いは成就したことになった。彼はほくそ笑んだ。だが、彼の笑みは長く続かなかった。微笑んだ次の日、意固地は、ネントスがさし向けた人型の木製の魔法生物によって、王城からの帰路、茂みから切りかかられあえなく絶命したのだった。
ともかく彼らはその後、様々な紆余曲折を経てウーンサリス大陸に渡り、今に至るのだった。
その苦難をともにした後輩、ネントスの首がとんだのだ。イルーンは惨劇を目撃し狼狽したものの、一瞬のうちに彼の全身は、怒りに変わっていた。信仰する神の力を借り、治癒、治療という奇跡を起こす神官の力をもってしてでも、死者を蘇らせる秘法は、この時期のウーンサリスでは、編み出されていなかった。隣りのリデン大陸のどこかでは、何例かそういった死者を復活させたという話が伝わっていたが、噂の域を出ていない。もうネントスは蘇らない。
魔法使いイルーンは、主人であるヌベルの馬を押しのけ、無意識に自分の馬を先頭まで進めていた。
ヌベルはなにも言わず、右腕と頼む魔法使いの背を見ている。ヌベルも聞き知っていた。イルーンとネントスが、共に苦難を乗り越えながら、今日に至ったことを。
まもなく、ネントスの弟子が馬を飛ばし帝国陣営に慌てて逃げかえってきた。
「一体どうしたのだ!」
怒気を含みつつイルーンは弟子らに質した。
日頃聞いたことのないイルーンの怒声に弟子たちはまたしても震えあがったが、
「それが……」
と自分たちが今見てきたことを説明し出した。
「ネントスさまの古代語にまったく反応しなかった魔人でしたが、しばらくすると瞼が少しずつ動き始め、我々が警戒心からそれを注視していると、突如目にもとまらぬ速さで魔人がネントスさまの首を刎ねたのです」
イルーンは、ネントスの首を刎ねた魔人を凝視しながら、弟子の話を聞いていた。いや、もう途中から話なんて聞いていなかった。
魔人が頭を抱え苦しみ出したのだ。なにか只ならぬことが起きる気配がする。
イルーンはそのとき、自分が無意識にヌベルを越えて前進していることに気がついた。彼は馬をめぐらし、ヌベルに向き直った。
「失礼いたしました、陛下。わたしとしたことが少し冷静さを欠いたようです」
「無理もない、目の前でおまえの同志とも言うべき人間が死んだのだ。狼狽するのが当たり前だ」
ヌベルは、イルーンを労わった。
「恐縮でございます。しかし感傷に浸っている場合ではないようです。主人であったはずのネントスの首を刎ねるとは、明らかに魔人の様子がおかしいからで、事態は予測不能。あの魔人がこちらを襲撃してくる恐れもあります。ここは一旦前線を後退させ、魔人と安全な距離をとりましょう」
「しかしランシル城はどうする? まだ攻城戦は始まったばかりだぞ」
「それは大丈夫です。二百体以上の魔人は俄然、城攻めを行っております。かれらだけでランシルは落ちます。我々は前線を下げつつ、停止した魔人に異常がないことを確認したのちに、城に迫りましょう」
「むっ、わかった」
ヌベルがイルーンの意見に従い、全軍に後退の指示を出そうとした時だった。味方の軍からどよめきが起こった。
「陛下、イルーンさま、あれをご覧ください!」
すぐ傍にいたネントスの弟子が、指をさしつつ驚きの声を二人にかける。
ヌベルはそのまま弟子の指す方角を見、イルーンは馬上で腰をずらし、上体を後方にむけさされた指の先を確かめようとする。
「なっ!」
二人は声を合わせ驚いた。
ネントスの首を刎ねた魔人の元に他の魔人が集まりつつある。
「なにをする気だ」
興奮気味にヌベルが言う。
「ここは危険かもしれません、ヌベルさまだけでもお下がりください」
馬を魔人にむけつつイルーンは言う。
「いや、大丈夫。わたしはここに残り、やつらの動向を見守る」
「しかし……」
二人がやりとりしている間に、魔人たちは集結した。数は十体ほど。彼らは顔を突き合わせ談義でもしているかのようだった。話の内容は何なのだろう。帝国陣営にとって彼らの話し合いは不気味に見える。
「動き出しても城には向かわずその場にとどまり、意思の疎通を図ろうとしている魔人のあの光景。もはや味方と考えるには難しいと思われます。わたしの魔法で無用な禍根は断っておきたいと思います」
そう言うとイルーンは下馬し、魔人を攻撃するため呪文を詠唱し始めた。
「わたしは部隊を動かそう。――黒騎士団に告ぐ! 陣を散開させ、戦闘の態勢をとれ」
皇帝の下知が黒騎士団に広まっていく。黒騎士たちは一糸乱れぬ動きで、等間隔に馬と馬の幅をとっていく。
黒騎士たちの配備が整いかけたときだった。一体の魔人が突如、帝国軍にむかって走り出してきた。
「こちらに向かって来たぞぉ!」
ネントスの弟子が叫ぶ。
ヌベルの間近にいる数名の黒騎士は、ヌベルを囲い護衛しようとする。
「わたしの護りは不要だ、どけ! 対象が見えなくなる!」
黒騎士たちは素直に囲みをといた。
初め駆けだした魔人は一体だったが、そのあとを追いかけるようにもう一体の魔人も走り出し、続いてわらわらと残りの魔人も帝国軍にむかって走り始めた。
先頭の魔人はすぐさま最高速度に達した。凄まじい脚力だった。
帝国軍は先ほどまで、その突進を頼もしげに眺めていたが、いざその突進がこちらにむかって来るとなったとき、恐怖を覚えた。
帝国軍の幹部以外――兵士たちは、ハルコニアでの魔人の戦闘を目撃していない。だが、魔人の戦闘力は予測できる。あの走りでわかる。たった十体ほどの魔人の数だったが、あいつらがこちらに襲来すれば、われわれは――
帝国軍が固唾をのんで、魔人の襲来を待ち受けていたとき、自軍から閃光が放たれた。イルーンの電撃の魔法だった。電撃は彼の指先(正確にははめている指輪を介して)から一直線に先頭の魔人にむかう。しかし先頭の魔人は、土を蹴って真横に跳び、容易に魔法を避けた。だが、そのうしろを走っていた魔人は突然現れた閃光をよけ切れず、胸に電撃が直撃した。電撃は背に抜け貫通したが、魔人は少しよろけただけでもろともせず走ることをやめない。
先頭の魔人――ゼーラは、自分にむかって閃光を放ってきた人物がイルーンとすぐにわかった。
「イルーン!」
ゼーラは叫んだ。
イルーンがヌベルの腹心として、帝国の運営の中枢にいることは知っている。彼も自分たちを陥れた計画の立案に関わっていることは明白だ。思わず恨みの叫び声を上げてしまった。
獣のような絶叫を耳にし、イルーンは戦慄した。
「イルーン馬に乗れ!」
ヌベルが馬を寄せながら叫んできた。
「そなたは後ろに下がり、魔道軍団を指揮し後方からの魔法の支援を頼む。ここは黒騎士団が引き受けた! ――者どもいくぞぉ!」
――おぉおー!
ヌベル率いる黒騎士団は、魔人目がけ突撃を開始した。
「陛下!」
イルーンの呼び声は、黒騎士軍団の馬蹄に虚しくかき消されてしまう。
因縁の魔法使いの姿が、黒い鎧の集団によって遮断されたのを疾駆しながら忌々しく眺めていたゼーラだったが、その集団の先頭を走るのがヌベルだとわかったとき、表情が晴れた。
「あいつ、あいつはヌベル!」
願ってもない好機! 帝国軍皇帝ヌベルとさっそく相いまみえることができるとは……。
ゼーラの目標は一点。ヌベルその人だけだ。
頭の中で模擬する。ヌベルの大剣を警戒しつつ、加える一撃目は右手で繰り出す怒りの掌低。皇帝の顔面はそれで吹っ飛ぶ。それで終わる。そのあとは、イルーンを探し出し同様のことをするだけ。そのあとは――
――集中せよ! ゼーラは自らを戒める。
来る来る来る、ヌベルが来る。
「おうりゃ!」
「きえー!」
二人は交錯した。
「ぐむっ!」
ヌベルはゼーラの一撃を喰らい落馬した。
だが、ゼーラが事前に考えた結果とはいかず、顔面を捉えたと思った掌低は浅くヌベルの肩付近を打撃しただけで、吹っ飛ばすことはできなかった。ヌベルは衝撃の拍子に体勢を崩し馬から落ちただけだ。致命傷ではない。ヌベルの大剣を意識しすぎたか。とどめをさすためもう一度攻撃しなければ! ゼーラは踵を立て大地に抵抗し、走りで出た速度を押さえようとする。だがそのあいだに、ヌベルにつき従って馬を走らせる黒騎士が擦れ違いざまにゼーラに剣をふるってくる。
肩、腕、胸と、見る見るうちにゼーラの体のあちこちに切り傷が増えていく。と同時にその傷は、ものすごい勢いで治癒していく。
ゼーラは、自分に驚異的な再生能力があるとは知覚できていない。魔人となってから、ハルコニア平原で傷を負ったのが唯一の経験で、その時は敵ばかりを追い自分の体につけられた傷なんてまったく気がつかず(痛みがまずない)、よってその傷が復元していく様子も知らないのだ。しかし、魔人から自我を取り戻したこの時は、痛みこそなかったが、衝撃はあったので、切り刻まれる肉体を見るともなく見ていると、嘘のように傷が塞がっていくではないか。うれしさはなかった。かといって厭なわけでもない。この体なら、ヌベル一人を討つどころか、帝国軍を全滅させることも夢ではなさそうだ。体が漸く止まった。
黒騎士たちは馬を寄せゼーラを取り囲み、四方八方から切り刻もうとする。
「うりゃあ!」
ゼーラは大木のような両腕をブンブン振り回した。黒騎士らの持つ剣は、空を漂ったり、地面に突き刺さったりし、剣の持ち主も馬もろとも空へ飛ばされ、または地面にめり込んだりした。
その魔人の力を直に見た黒騎士団は、唖然とした。ゼーラの周りには、妙な空間ができ、戦場とは思えないぐらい一瞬のうちに静まり返った。
「どうした? かかってこないのか?」
そう言いつつゼーラは首を伸ばし、自分を囲む黒騎士たちの少し後方に視点を合わせた。そこには疾駆しながら敵軍を蹴散らしている魔人たちがいる。
「いいぞ」
ゼーラは味方の奮戦に満足しニタリと笑った。それから首を返し、ある場所を見定めた。
いる、ヌベルがいる。彼は、数名の黒騎士の介抱を受けていた。
ゼーラの渾身の掌低を、なんとか身を捻り深手を負わずに済んだヌベルだったが、やはり魔人の一撃は強力だった。黒騎士の肩を借りながらやっとのことで立つことができた。
前方をみれば、黒騎士に囲まれる魔人がいる。しかし黒騎士たちは、魔人の周囲で馬を右に左にするばかりで、一向にかかっていかない。
(無理もない)
ヌベルは納得する。
魔人の周りにはすでに、七、八人の黒騎士たちが横たわっている。そのうちの何人かは、体をゴロゴロさせながら痛みに苦しんでいるかのようだった。どうなって彼らが地面に蹲っているのか、その経過を見なくとも理解できた。そしてその現場を目撃してしまったあの黒騎士たちが、二の足を踏むのも当然だと思った。
ヌベルは黒騎士の肩から腕を下ろした。それから大剣を杖がわりにして、自分の身を支えた。
「陛下?」
そばにいる黒騎士が声をかける。
「陛下、わたしの馬に乗り、この場所から離脱して下さい」
ヌベルは部下の声が聞こえていないのか、大地に突き刺さった剣先をさらに前に移動させ、自分も同じく一歩前進する。
「陛下!」
もう一度黒騎士は声をかけた。
「わたしは大丈夫だ……」
ヌベルはそう言うと、杖がわりにしていた大剣を持ち上げ、剣身を肩に置いた。
「奴をやれるのはわたしだけだ」
「しかし……」
説得力のないヌベルの言葉だった。たしかにこれまでは、ヌベルの剣技に大剣パゾスが組み合わされば敵なしだった。彼も数々の戦いをくぐり抜けてきた。その中には魔人と似た亜人種といわれる種族もおり、かれらも人間より大柄で、そのものたちも強敵は強敵だったが、それでも難なく打倒おすことはできた。巨体の亜人種は怪力の持ち主だったが、動きは緩慢で捉えることは容易だった。だが魔人は違う。腕力、敏捷性どれをとっても並はずれたものがあった。それはすでにハルコニアにて、ヌベルはもとより帝国軍の将軍らに披露されているし、兵士たちにもたった今その力の凄まじさが理解出来たことだろう。
絶対的な力が魔人にはある。このことはヌベルも当然自覚している。
――だが
魔人にも弱点はある。
生前のネントスから聞かされていたことだったが、さすがの魔人も首と胴が切断されれば絶命するとのことだった。
聞けば当たり前のような事実だったが、それしか方法が無い。
ヌベルは、実はさきほど魔人と擦れ違いざまに攻撃を仕掛けていた。しかもそれは浅くではあったが、魔人の左肩から胸中央まで傷つけていたのだ。
ヌベルは魔人のある一部分に眼差しを送る。
それはゼーラの左肩から左胸に走る一筋の線。
二人の距離は少し離れていたが、ヌベルの目でも確認できた。
「あれは、お、おれの剣が付けた傷だ……」
魔人としての体質のせいか、出血はしていなかったが、傷が回復していない。
(さすが魔剣パゾス、そんじゃそこらの剣とは違う)
大剣パゾスは、ヌベルがカルカニア神聖国との戦いのために、ある洞窟を探査し苦労の末見つけ出した剣だった。噂どおり、見た目は長大にして重厚だったが、いざ持ってみると、とても軽く、切れ味は抜群だった。明らかに魔法付加のある剣だった。その威力は、魔人の再生能力までも無効にする、とんでもない剣なのだ。
ヌベルはそう思ったが、しかし魔人の首を刎ねないことには意味がない。
魔人の打撃による左肩と左腕の痺れは治まってきており、落馬の際に打ちつけた右臀部の痛みも大分マシになってきた。
(捨て身の攻撃で挑めば首を落とせる)
そうヌベルは決心していた。
一歩二歩とこちらに近づくヌベルを見て、ゼーラは感心した。
「さすがは皇帝ヌベル。たいした気力だ。そこは褒めてやる。だがもう終わりだ。おまえも終わり、おまえの国も終わり、全部終わりだ」
ゼーラが口を歪ませ歯ぎしりし、姿勢を屈ませ、ヌベルに向けて特攻しようとした時だった。ゼーラの背中に火球が炸裂した。
火球は、ゼーラを囲む黒騎士の隙間を通り抜け、魔人の背中に直撃した。
爆音と爆風に包まれ、ゼーラの身は塵に消えた。
何事かとヌベルはじめ、帝国軍の兵士たちは、爆発地点に目を凝らす。
空に舞い上がった土の粒が、ハラハラと地面に落ちてき、様子が明らかになってきた。
ヌベルから爆発地点を見れば、そこには魔人はおらず、かわって少し距離はあったが、先の方に人の影が確認できた。
目を細め焦点を合わせれば、それがイルーンだとおぼろげながらもわかった。
イルーンは後方に下がっていなかった。ヌベルが馬をとばし、魔人に突撃していく姿を固唾をのみながら見届けていたが、そのヌベルが魔人によって落馬させられたのを見て、彼はすぐさま呪文を唱えていた。
火球の魔法は魔人に直撃した。致命傷ではないかもしれないが、時間は稼げるはず。
彼は、そのあとヌベルと共に戦場を離脱しようと考えていた。もはや十体ほどの魔人に帝国軍は翻弄され、陣形も崩れさり、戦さの体を成していない。ここはひく時だ。ミデール掃討などいつでもできる。だが、それもヌベルが存在しての話し。ここでヌベルが討ち死にでもすれば、ミデールどころか広大な領土を持つ帝国が崩壊する恐れもある。それは考えすぎかもしれないが、大袈裟な表現ではなかった。帝国は決して平穏ではなく、短兵急で出来た国は不安な綻びがたくさんあった。急造でできた国――ヌベル帝国としての内務方針は、ある程度は全国に浸透し守られていたのだが、それも帝国が勢いがあったから各々の領主は従っているだけで、彼らにも帝国に対して不平不満が大なり小なりあった。不意に帝国が侵攻して来て領土を占領され、次なる戦いに必要な兵糧のための作物を搾取される。本来なら自分たちが消費する食料が、よそ者に略奪されていく。領主たちの帝国に対する印象はそんなものだった。帝国崩壊の火種は各地に燻っている。
その崩壊の元の栓を握っているのが、ヌベルなのだ。ヌベルという支配者が帝国に君臨していれば、帝国は安泰だ。ヌベルが直接保有する黒騎士団の威力と彼の絶対なる忠誠者、魔竜団のグレートスの組み合わせは、領主たちの恐怖だった。しかも魔竜団は、運がいいのか悪いのかこの戦いに参加していない。どこにいるのかイルーンも知らなかったが、無傷で彼らは、温存されているのだ。
兎にも角にもヌベルを安全な場所へ移動させようと、イルーンはすぐそばにいる馬の鐙に足をかけた。
「なにっ!」
イルーンの傍を離れずにいたネントスの弟子の一人が驚きの声を上げた。 声に反応してイルーンも顔を上げた。
「まさか……」
嘆息した。
魔人が起き上がっていた。
もう魔人は起き上がっていたのだ。
魔人はこちらを見据えていた。