3.故郷と記憶
俺は大人になった。
結婚して子供をつくり、その子供もそろそろ小学生になる。仕事(主に嫌な上司)に子供(主に教育)に夫婦生活(主に倦怠期)と、悩みの種は尽きないが、そんな苦労が意外と楽しかったりもする。そんな苦労を死ぬまで続けるのが、生きるということなのだろう。
俺は故郷に帰っていた。
結婚もこちらに帰ってからの話だ。
別に大きな理由があったわけではない。ただ何となく、帰りたくなっただけだ。
もしかしたらこれが、郷土愛というやつなのかもしれない。
俺は東京生活を思い出してみる。
東京に出て感じたのは、まず他人との距離の近さだった。
人口が多いので当たり前なのだが、人が密集している。だがそれは決して親しいわけではなく、そうせざるを得ないからだ。知らない人間に距離を詰められるのは、正直不快だった。
よく都会では、他人に無関心だと言われる。
きっとこの距離の近さに、その原因があるのだろう。
自分のパーソナルスペースを侵されるのは、嫌なものだ。
だからお互いを無視して、気にしないことにしている。
それが結果的に、他人に深く干渉しない文化をつくることになったのだろう。
別にそれは悪いことではない。
俺の住んでいるところは人口が少ないせいか、住人はやたらと他人を気にしている。
ある種の相互監視社会だ。
それは温かくもあり、また鬱陶しくもあった
結局は、自分がどんな環境を良しとするかの問題でしかないのだろう。
そこに優劣はない。
自分の生まれ育った場所と言うのは、家族や家庭のようなものなのだろうと、今になって思う。
俺よりも恵まれた家庭環境にいる奴など、掃いて捨てるほどいる。両親より優れている大人だってきっと星の数ほどにいる。
でも、それじゃ駄目なのだ。
どんな親でも、それは俺の家族なのだから。交換は、多分できない。交換できると言われても、俺は交換しないだろう。
故郷も一緒だ。
俺の故郷よりも魅力的な土地など、日本中、いやそれどころか世界中に溢れている。でも俺はここが一番好きだ。それはこの土地が、俺を育ててくれたからだ。
ホームレスの爺さんは死んでいた。
俺が上京したすぐ後のことだったらしい。
東京で就職したはずの俺がひょっこりと現れたら爺さんはどんな顔をするだろう、と考えていたので、残念だった。
そして、つい昨日のこと。
俺は、爺さんの墓参りのために河原へと向かった。
深い意味などない、ふとした思い付きだった。
当然のことながら、爺さんの墓は河原には無い。
だけど爺さんの墓参りは、河原でやるのがふさわしいような気がした。
河原には、爺さんの住んでいた痕跡は全く残っていなかった。まるで爺さんなんて最初からいなかったかのようだ。
爺さんが住んでいた辺りに、用意していた花を供えた。
「爺さん、俺、ここに帰ってきたよ」
小さな声で呟いた。
「でも勘違いしないでくれよ。別に東京が嫌になったとか、都会に潰されたとか、そんな理由じゃない。ただこの街が、俺の故郷だったからだ」
少し涙が流れるのを感じた。泣いたのは数年ぶりだ。
「ただそれだけのことさ。俺はこの街で精一杯生きて生きて、生き尽くしてから、この街で死ぬ。それが自然な気がしただけなんだ」
鼻をすすり、空を見上げる。
思いきり深呼吸をして、肺一杯に空気を吸い込んだ。
小さい頃から慣れ親しんだ街の空気で肺が満たされるのが分かった。
泣いている暇はないぞ、俺。
今の俺には支えるべき家族がいる。大黒柱が泣いていて、どうする。
小さかった頃、中学生だった頃、高校生だった頃。
昔からまったく変わらない空が、俺の視界に広がっている。
俺は明日を生きるために、歩き出す。




