4話 ーwoman sideー
晶だと、一瞬で理解した。
分かったところで、私には為す術もない。
敵うはずないと諦めながら、去り行く手を捕まえた指が、自嘲を誘う。
「私、馬鹿だわ」
誰にも優しい人だと出逢いから知っていたのに、いつからか無意識に期待してしまっていた。
平等な彼の、"特別"になる事を。
「・・・これ」
半端に開いた引き出しが目につき、不安材料の原点と言える物を発見した。
白い、古びた一枚の紙切れが伏せられている。
よせばいいのに、表を確かめて自分自身を追い込んでしまった。
"プレゼント"
丸字で、でも太く書かれた線が力強さを物語っていた。
涙が溢れた。
もう、諦めよう。
玄関ポストに鳴り響く金属音が、胸の奥底を掻き乱す。
私に出来る事は、扉を閉める事。
彼の笑顔を守れるなら、自分を含め、誰の行く末もどうでも良いものに思えた。
捕まえたタクシーで会計待ちの僅かな間。
「冗談きついわ、ホント」
時の意地悪な悪戯に翻弄された。
駅前のベンチに腰かけ、互いの言葉に耳を傾け合う2つの人影。
見慣れた彼の姿に、気付くのは一瞬で。
懐かしい人影に、傷付くのも一瞬で。
その光景から目をそらす気力すら、欠片も残ってない。
妙に、一瞬が長く永遠に感じられた。
「お客さん、どうしました?」
思いのほか至近距離だったのか、運転手の配慮の言葉が、静まり返った二人の耳にも入ってしまった。
譲が、険しい目付きで走り寄って来る。
既に開いていた後部座席のドアから、私はされるがままに引きずり出された。
「ちょっと!!あんた、お客に乱暴されちゃ困るよ!」
人のいい運転手が、無抵抗な私を庇おうと間に入っても何にもする気がしない。
「触るな」
しかし、次の瞬間我に返った。
穏和で優しい譲が、運転手を力一杯突き飛ばした。
「これで客じゃないだろう、帰れ」
一万円札を握り潰して叩きつける様は、別人のようで恐怖すら感じる。
焼き付けるほどの眼差しを浴びせられた私は、息も飲めなかった。
「ごめんなさい。彼、気が立っていて。運転ありがとうございました、本当ごめんなさい」
地面に座り込んで動けない私の前に、懐かしいその人は立ちはだかった。
しわくちゃの一万円札を綺麗に広げ、運転手に頭を下げた。
「まあ、痴話喧嘩も程々にね。はい、釣り銭」
苦虫を噛んだような顔で、運転手はタクシーで去って行った。
釣り銭を握り締めて小刻みに震える譲の手が、私の目にやけに鮮明に映る。
ポケットに入ったその手が暴力へ変貌しないかと、恐怖心に駆られた。
目を瞑った瞬間、バサッと広がったハンカチが擦りむいた膝に結び付けられた。
「ごめん、ケガさせる気なかった」
まだ、使ってくれていた、くたびれたハンカチ。
就職内定初出勤の朝、誰にでも優しい譲に女が寄り付かぬよう、わざと花模様の女物を贈った。
大層嫌がっていたくせに、こんな時に持ち出すなんて卑怯な男。
「薫ちゃん、久しぶりだね」
「・・・」
「ごめんね、いきなり居なくなったり現れたりして。でも、話聞いてくれない?薫ちゃんにも譲さんにも大切な話があって、帰国したの」
「今さら、何をどう聞けって言うの?晶だって傷付いただろうけど、私だって自分のせいだって責め続けていた」
「薫ちゃんのせいって、どういう意味?」
「私の気持ちに気付いて、他の男と結婚してアメリカ行ったんでしょ。この人の気持ちも無視して」
「ごめんね。私、昔も今も薫ちゃんの気持ちなんて考えてないよ。私が考えたのは、いつでも譲さんへの想いだけ」
晶の普通過ぎる態度に腹立って言い争うけど、どうも会話の歯車が噛み合わない。
「だからあの頃、薫ちゃんに何度も相談したよね?譲さんが好きなんだけど、弥生ちゃんも譲さんを好きみたい。どうしようって」
「弥生が・・・?」
代わりに反応した譲は、驚きを隠せない。
そう、あの頃、3人ともこの男が好きだった。
晶と弥生は女の友情を信じ、正直に打ち明け、親の決めた婚約者がいる私は誰にも気持ちを隠していた。
「私、譲さんが結婚してる人と付き合ってるの知って告白して、本当はね、フラれたの」
「聞いたわ。どうして、恋人のフリなんてしたかったの?既婚者と付き合って他に好きな女いて、挙げ句ホストやってるような男よ?」
ホストや既婚者の恋人話を知っていたら、私はきっと彼を好きにならなかった。
「ふふっ!」
「なにが可笑しいの?真面目に答えなさいよ」
「だって、私は恋人が既婚者って知ったから告白したんだよ?奪い取れる可能性あるもの」
「そうまでして、虚しいって思わないの?」
「薫ちゃんには言えないでしょ?人妻の彼女持ちで他の女に夢中なホストに、“好きにならなくていいから付き合って”なんて。手に入るならプライドなんて糞喰らえよ」
晶って人の何を知っているつもりでいたのか、自分でも分からなくなった。
こんなに情熱的で芯の強い部分、予想だもしなかった。
譲なんか、口を半開きにして放心状態で、何故か不憫になる。
「本気だったからこそ、譲さんの本命もすぐ解った。譲さんの事ばかり考えてたから」
「・・・」
「薫ちゃんズルいよね?綺麗でお嬢様でフィアンセもハンサムで、おまけに---」
「おまけに、何?」
それまで饒舌だった晶が、譲を一瞥して口を閉ざした。
ふたりで秘密を共有されているような不快感に、最早、苛立ちを隠せない。
「教えてあげない。代わりに、薫ちゃんを教会に行かせたワケ教えてあげる」
「どうして?」
「御下がりをあげたかったの。何でも持ってるけど、譲さんだけは手に入らない薫ちゃんに」
「何言ってるの?あなた正気?」
「私はいつだって正気だよ。抱かれて満足して譲さんをプレゼントした夜も、あなた達を傷付けてる、この夜も・・・ふふっ、首にリボンでもつければ良かった?」
パシーンッ!!
彼女の頬に、乾いた音を響かせた。
譲への冒涜な発言が許せず、激昂に肩の震えが止まない。
“気持ちのない相手に、俺は触れない”
ついさっき、彼が言った言葉。
“拾ってくれないか”
あの日、彼が言った言葉。
彼は、やはり晶を好きだった。
証拠に、彼女を抱いた。
彼女は、半狂乱に譲を好きだった。
故に、彼を捨て去った。
優しさに雲隠れしてしまう微かな愛情の光など、情熱的に彼を愛する彼女の目には届かなかったんだろう。
そして彼は、多少なりとも無意識に晶に恋して、傷付いてきたんだろう。
彼の気持ちを思い、切ない。
「譲は晶を好きだった・・・好きでもない女抱けるほど器用なら、自分の女を他のホストに寝取られたりしないわよ!」
「他のホスト?薫ちゃんこそ何言ってるの?譲さんは、あの人を妊娠させちゃって別れたんだよ」
またもや、会話にズレが生じて違和感を感じた。
「私、そんな大切な事あの人から聞かされたんだから。フリでも付き合ってた・・・好きだったのに・・・」
「譲、それが事実でいいの?」
彼は何も答えず、ただ無表情に晶を見つめていた。
「あの人と別れたかったのは、薫ちゃんに心変わりしたからでしょ?私と演技したのは、彼女に子供出来ちゃったからだよね?」
「・・・」
「そうじゃないと私、困るよ?ずっと、そう信じて生きてきたんだよ?」
「・・・」
「また、言い訳ひとつしてくれないんだ」
涙目で微笑む晶が言葉を発するたび、痛々しく映って思わず目を反らした。
その瞬間、パシーンッ!と、乾いた音が響き渡った。
「ずっとずっと好きな人いたくせに!!私ばっかり好きで、足掻いてもがいてバカみたい。最初から愛されてなかった事、最後くらい否定してよ!怒ったり悲しんだりして見せてよ!!」
「ごめん。ゆっくり好きになっていきたいって気持ち、俺は伝えられていなかった。だから、何も言えない・・・でも」
それは、彼らしい告白と終焉だった。
気付かずに通り過ぎた恋。
だけど、それは確かに在った。
「好きになってくれて、ありがとう」
よく通る声で、笑顔の目に滲むものを一瞬見た時、そう思えた。
「これでやっと失恋できる、ありがとう譲さん」
私が知っている、穏やかな晶の笑顔。
記憶を掘り返しても、今までで一番の素敵な笑顔だった。
そんな彼女と向き合う彼は、朗らかで凛々しい男前の笑顔だった。
惚れ直して、ちょっと晶が羨ましくなる。
「俺・・・」
「?」
「頑張ってもいいかな」
突然、表情を引き締めた譲の真摯な目が私に向き、
「何が?」
疑問満載の顔で向き合った。
「自分の気持ちに、自信持てるように」
「いいんじゃない?あなたは人の事ばかり考えすぎるから、少し自己中に生きたら?」
「そういう事じゃなくて、もっと主観的な返事が欲しいっていうか」
「主観も何も、あなた自身の気持ちでしょ?」
歯切れ悪く不機嫌そうな口調で言われたものだから、私も負けじと言い返す。
晶と決着をつけた今、もう自分の思うがまま生きてほしい。
そんな細やかな願いも密かに込めた事、きっと彼は気付いていない。
「俺は、たぶん君を好きなんだ」
「そう」
「言ってる意味、分かってるか?」
分かってない。
脳ミソがキャパシティオーバーの信号を点滅させていた。
「譲さんがずっと躊躇いながら想っていた相手は、薫ちゃんなんだよ」
「嘘」
やっぱりそう思われるだろうなと、苦笑いする譲を見て呆然とした。
「私は、初めて逢った時から気付いてた。譲さんに、一目惚れだったから」
晶が、ポツリポツリ譲と初めて逢った日の話を始める。
“モテない幼馴染みとその男友達の奢りで飲み会しよう”
そんな弥生の発案に乗った私と晶は、譲と出逢った。
弥生に好意を寄せるヒョウキン者の幸太郎君に、下品な印象を持った。
飲んでも顔色一つ変えない硬派の正道君に、モテるのに女を退屈させる印象を持った。
酒盛りの風景を静かに微笑んで見守るような弥生の幼馴染みに、興味を抱いた。
優しげで儚く、遠く離れて見える譲が気になって、気付けば目で追ってしまっていた。
「お開きの時覚えてる?家の方向同じだからって、正道さんが薫ちゃん連れてったあと、譲さん二人の背中じっと見てたよ」
「そんな昔の事、もういいじゃないか」
正直、見られた記憶など一欠片もない。
私には、楽しむ皆に平等に優しい眼差しを向ける譲の印象しかなかった。
「聞かせて?私、全然気付かなかったもの」
「鈍感すぎるんだよ、君は」
「あなたにだけは言われたくない」
「普通分かるだろうよ、男が家に来ないかって言ったら」
「誰が住む家無くしてもそう言うでしょ、あなたって人は」
「それでも、毎日帰る電話したり君のパンツ洗ったり一生懸命だったろう?酔って寝てりゃベッドまで運んで」
最後のセリフに耳を疑う。
「どこにどうやって運んだって?」
「だから、仕事から帰ったらソファで酔い潰れてたから、こう抱え---」
「嘘よ。あなた、私の部屋に入ってこないじゃない」
「本当だと思うよ?」
晶が援護射撃のように、会話に参戦してきた。
私は、分が悪いというか格好悪いというか、幸せを否定する不安材料を追い求めた。
「私が譲さんと付き合うって話した時、薫ちゃんバーで潰れたよね?」
「あれは、別にあなた達の事とは関係ない。親とケンカして飲みたかっただけよ」
「寝言で“譲のバカヤロー”って怒鳴ってたのに?」
「覚えてないわよ、そんな事」
「まあ、かなり酔っていたからな」
「薫ちゃんには、フィアンセ呼んだって言ったけど嘘なんだ、ごめんね?譲さんに相談したら、息切れして駆けつけてくれたんだよ。だけど、すぐフィアンセとすり替わったの。薫ちゃんを思っての事だよ?」
「嘘・・・晶が連絡したからでしょ。潰れたのが誰でも送ったに決まっているわ」
「違うよ!!」
唐突の怒声に、譲と私は同時に肩を竦めた。
晶が声を張り上げるというのは、真夏に連日雨が降るくらい珍しい事だった。
「薫ちゃんの姿目にしてすぐ、“無事でよかった”って涙ぐんでた。譲さんは優しすぎて見えにくいけど、そんなふうに薫ちゃんを大切に思ってきたんだよ」
「よくそんな昔話覚えてるな」
譲は、降参ポーズでおどけて見せる。
正直、本気で申し訳ないくらい記憶にない。
ただ何となく、出逢ってから思う事がある。
私が醜態を曝す時、側にいてくれる人。
「一緒に帰ろう、薫」
「どうせ、また別の女が出現して、ヤキモキさせられるんだわ。はっきりしないあなたの顔が目に浮かぶのよ!毎日毎日もうたくさん!お腹いっぱい、ごっつぁんです!!」
「ごっつぁんって、俺が何したよ・・・」
「なら、今日のは何?駅まで着いてきたあの図々しい女っ」
一度、爆発して流れ出た不満は、抑制と冷静さを欠落させてゆく。
「あなたがそんなだから、他のホストに寝取られて中絶なんてことになるんでしょ!?」
「・・・そうだな」
なんて嫌な女なんだろう、私。
言っちゃいけない言葉で、ようやく言いやむなんて。
「それ、本当に?あの人、他の男の人の子供を?」
少し傍観していた晶が、不思議そうに疑問を投げかけた。
「譲は、人妻に手出してないのよ。それどころか、産むよう説得しようとした。それを拒絶されたから別れたのよ」
「余計分からなくなっちゃった・・・だってあの人、子供いるよ?」
「「えっ?」」
晶の発言に、私と譲は声と表情を揃えた。
「・・・嘘だろう?産むはずない。散々話し合って、お互い意志が変わらず別れたんだ」
「子供連れて、私に会いに来たんだよ。相手は譲さんだけど認知されなくて、戸籍上の父親は主人って言われた」
「産んで・・・くれたのか」
譲は、頬を上気させて目を輝かせた。
そして、私は思った。
この人は、銀河系一番の天然お人好し単細胞生物だと。
「実際、その女が産んだか分からないでしょ?だいたい、産んだからって、なんで晶に会わせる必要があるの?」
真っ向から否定した。
彼が望むから、考えを改めて産んだ?
だから何?
父親は譲じゃない。
ただ、責任転嫁したいだけに決まっている。
「私もそう思って調べたよ。でも、間違いなく彼女は一人産んでる形跡があった。それを伝えるために私、帰国したんだ」
晶の発言で、譲は、既に明後日の方向に目を向けて呆け顔。
私だって、譲さえその気になってくれたら産む覚悟はあった。
ましてや、父親でもないのに奪われるなんて冗談じゃない。
「子供産んだから何?私だって、この5年欲しかったわよ!ずっとずっとずっとッッ!!」
私の中で、何かが切れた。
ずっと我慢してきた。
譲の帰りが普段より一時間遅いだけでも、不安が止まなかった。
酔い潰れて眠い眼を擦りながら、譲の行動を見守った夜も計り知れない。
「なんで分からないの!?親に勘当されてまで、好きでもない男と何年も住むわけないでしょ!」
「・・・?」
「“?”じゃないわよ!!その目に見えるような鈍感ハテナに、何年振り回されていると思ってるの!?」
「君は、政略結婚に反発したくて婚約破棄した。少なくとも、彼を嫌ってはいなかったろう?」
「そうよ?好きになりかけてた。それが正しいと信じて疑わなかった!あなたに逢うまでは」
目と目が合い、風が吹き抜けた。
言ってしまった。
出逢ったその日から、何年も抱え続けてきたこの想いを、勢いに乗せて。
「今も同じ気持ちでいてくれるなら、一緒に帰ろう」
「っ!?」
「君を振り向かせる時間、貰えないかな」
「・・・」
「俺は、恋をするなら君がいい」
「え?」
「君がいい」
そっとポケットから差し出された手は、微かに震えていた。
震える掌に、恐る恐る手を重ねてみる。
「100%の信用は出来ないわよ。5年の代償を、たった一度で取り戻せると思わないで」
不信感も併せて、その大きな掌に預けた。
さぞかし重い重圧感だろう。
でも、本音をぶつけてくれた彼に対して、本音で応えたかった。
それを厳しく感じるのなら、私達には縁がない。
「一緒に帰ろう、俺と君の家に」
私の本音に苦笑するこの鈍感男に、もう一度ついていこう。
頼りなく無駄に優しいところも含めて、堕ちてしまった恋だから。
「言っとくけど、私プライド高いからあなたが冷めても別れてあげないわよ」
「ああ」
「おまけに、凄い我儘よ?」
「知ってる」
「携帯だって勝手に見るわよ」
「ご自由に」
「それに---」
「諦めてくれ、いくら君でも俺の想いは変えられない」
珍しく腰が引けない譲が一歩私に近づいた次の瞬間、瞼にまつ毛が触れたかと思うと、唇と唇が触れ合った。
どれだけの時間だったろう?
視界の端に、寂し気に微笑んで立ち去る晶の姿を捉えたけれど、動けなかった。
時の長さも分からないほど立ち尽くす私達を、雲間から月だけが見ていた。