3話ーman sideー
曖昧な関係も、何年になるだろう?
“私には関係ないから”
言われた言葉を回想しながら、それでも抱きしめた両手を見下ろす。
拒絶されなかったのは、唐突すぎたからか?
それとも、肯定してくれたからか?
いつまでも彼女の気持ちに確信を持てないまま、作ってくれたらしいテーブルの夕食を眺めていた。
考え耽ってぼんやりしていると、玄関先から物音がした。
「お帰り」
「何?別に出迎えてくれなくていいのに」
そっけない返答でも、頬が緩んでしまう。
「なにニヤニヤしてるの?どいて、疲れてるの」
ヒールを脱いで視線をあげた薫を、俺は笑って見つめていた。
そそくさと自室に入ろうとする薫の前に立ち、引き止めた。
一緒にいたい。
何故だか、そんな衝動に駆られた。
歩みを妨げられた薫と妨げた俺は、無言で視線を絡める。
俺は、溢れんばかりの愛情を持って。
彼女は、冷静に睨みをきかせて。
「夕食ありがとう、一緒に食べよう」
「別に、弥生が遊びきて家事やれって言われただけ。食べたきゃ一人でどうぞ」
「話があるんだ」
視線をぶつけ合ったまま、言える言葉はそれが精一杯だった。
本当は、話なんかない。
伝えたい気持ちは百もあるけど、ただ、側にいてほしい一心だった。
少しばかりの沈黙後、
「わかった。話聞くから」
薫は、そう口を開いて視線を外した。
俺は、華奢な背中を軽く押して、居間へ誘う。
「---んなの」
「どうした・・・?」
「なんなの、それはっ!?」
突然、怒声と共に背中を押す手を払いのけられ、微動だも出来ない。
「今まで指一本触れなかったくせに、今日は何?単なる気まぐれ!?」
「薫」
「やめて・・・名前だって、いつもろくに呼ばないくせに!ホント、何なの」
いつの間にか涙声に変化していた彼女を力ずくで抱き寄せたいのに、両手はもどかしく空回り。
駅からの帰り道も泣いていた気がして、薄暗闇に紛れて見えず仕舞いだった。
今は確信できる。
明るい電灯の灯る部屋で、懸命に涙を隠そうとしている。
その姿を目の当たりにして、踏み出しきれない。
「泣かないで・・・どうしたらいいか、分からなくなる」
「よく言うわ、他に相手いるくせに」
大きな瞳を軽蔑の色一色に染め、射抜くような視線を投げてくる。
「どうしても、君がいい」
「私はずっと、あなたを見てた。あなたはずっと、晶を見てた」
「それでも、君といたい」
「あの子を諦めるため?あなたに、私のワケない。さっきだって、弥生の方があなたに似合ってた」
「証明する」
何よ、と凄む瞳に涙が膨れ上がり、溢れては雫となって零れ落ちた。
震える指先で落ちかけた雫を拭うと、そっと顔を近付ける。
唇が触れるか触れないかの、際どいキス。
「これでも、信じられない?」
「こんなもので信じるに足りると思う?」
降参だった。
普段は美人で勝ち気で、綺麗すぎる彼女が、頬を紅潮させて可愛らしい表情に変貌する。
男は、いつの時代も女には敵わない。
「足りない部分は補っていこう、一緒に」
無言のまま躊躇う薫の様子に、愛情が一層増す。
「俺のこと、どう思ってる?」
「養ってくれる人」
「ふっ・・・ハハッ」
実直な返答に、思わず笑ってしまった。
「怖いんだ、君に触れるのが」
「嘘つき」
「え?」
「知ってるんだから。まだ知り合ったばかりの頃、ホストでバイトしてた事。女に触れないホストなんて居る?笑わせないで」
鼻で笑い飛ばす彼女に、呆気にとられた。
そんな事まで知っているとは、予想もしてなかった。
確かに、薫と知り合ったばかりの頃、昼は大学に通い、夜はホストで生計を立てていた。
「ずっと気になってた。何故、ホストで?」
「身売りだよ」
正直に答えた後、空気は凍りついた。
驚きに目を見張る彼女を前に、なんとなくバツが悪くなり、ベランダに出て煙草に火をつける。
「結婚している彼女と毎日会うには、他に方法がなかった」
「不倫、って事?」
「そう。俺が店で稼いだ金で、彼女は俺の顧客として来店。そのエンドレス」
今思えば、馬鹿げた過ちと苦笑してしまう。
「その人を吹っ切るために晶と?」
「晶とは、まともに付き合ってない」
「付き合ってない?」
「ホストのバイトに慣れ始めた頃、彼女が身籠った。彼女に産む気はなく、俺は別れると決めた」
「・・・中絶したの?」
「彼女と別れるために、晶に恋人役を頼んだ。で、終わった」
「そう」
俺の告白で、薫は何か言いたげに考え耽っていた。
「で、今度は晶と不倫で私がキープ?人の女にしか目が向かないわけ?」
皮肉めいた笑みに、冷たさを感じた。
不倫なんて軽蔑されて当然か。
「長い付き合いで、弥生も幼馴染みとして既に紹介していた。だから、面識がない晶を・・・利用した」
「どうして晶だったの?」
「告白されたんだよ」
「それで受け入れたの?だったら、やっぱり晶と―――」
「断った。身籠った彼女とは別に、気になる人がいたから」
「それで?」
「演技でいいから、好きにならなくていいから、付き合ってと言われた」
薫は腑に落ちない表情で、疑問点を呟いた。
「演技してまで付き合って・・・晶、いったい何のために?」
「俺にも分からない。晶が得るものなんて、何もなかった」
「その子供の父親は、あなた?」
「どう思う?」
「真面目に答えて。私だって、あなたと向き合うのは怖いんだから」
追求が激しくなるにつれて、逃げ腰になりかけてしまう。
「そう昼ドラみたいに面白きゃ良かったが、他のホストに寝取られるってつまらないオチさ」
こうして人に打ち明ける事で笑い話に変わってゆくから、昔話ってのは不思議だ。
「気持ちのない相手に、俺は触れない」
「?」
「好きじゃなかったのかもな・・・」
「何か、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、終わった事だから」
「それなら、あと1つ聞かせて」
煙草の煙を吐くと、薫に小さく頷いて見せた。
「どうして、産む気がない彼女と別れると決めたの?父親じゃないなら、普通喜ぶんじゃない?不謹慎だけど」
「喜ぶ?何故?」
「父親はあなたじゃないでしょ?」
「命は、祝福されるものだろう」
「あなたの幸せは?」
難しい質問に、言葉が詰まった。
晶への罪悪感で、心が足踏みしていた。
付き合う演技の時間の中で、本当に好きになれたらと思う事もあった。
曲がりなりにも恋人がいるのに他の女に心変わりするような、そんな男だった俺を、見返りも求めず支え続けてくれた。
それでも薫への想いを失えなかった事実は、恐らく必要以上に晶を傷付けた。
「気になる人がいた。そう言ったろう」
「?・・・ええ」
「今も変わらず想ってる。君を---」
急な突風に、言葉が遮られた。
見つめ合ったまま、沈黙の時間を過ごす。
「今も、なんて?風の音でよく聞こえなかった」
先に視線を外したのは、俺だった。
「俺は幸せだよ。君は自分のことだけ考えてればいい」
「いつまでここに置いてもらえるかも分からないのに?」
突拍子もない弱気な発言に、目を丸くした。
パンツまで俺に洗ってもらう彼女なのに、意外すぎて呆気にとられた。
「ここで暮らすかって誘ったのは、俺だよ」
「そうだけど、人間飽きだってあるでしょ?それに、親の決めた婚約者と別れて追い出されたこと知ってるし」
「毎日、君といられて充実してるよ」
「それでも、私にだって考えやプライドがあるの!あなたに彼女できたら、とか。きっと住ませた責任感で置いてくれてるだけ、とか。遠慮と同情だけはされたくないの」
「ああ、それで・・・」
駅で俺が同僚の女性といるのを見たあと、何故、彼女が去ったのか?理由に結びついた。
「今度、ばったり誰かに会ったら逃げるなよ」
「逃げたわけじゃない。ただ、関係ないフリしなきゃって」
「誰と遭遇しても、紹介するよ」
「別に、無理しなくていいの。住まわせてもらえるだけで、私は充分よ」
「そういう言い方、らしくないな」
「どれくらい、私らしさ知ってるの?」
「・・・」
問い詰められると、何も言えない。
もう何年も想いを寄せている薫がいるのに、深く傷付けた晶の顔がチラつき、いつも踏み込めない。
優柔不断な己へのジレンマ。
「ほらね、いつもそうやって背中向ける」
「・・・」
「あの日、彼と別れて勘当された私に“家においで”って言ってくれて、嬉しかったのに」
「俺だって、君だから家へ呼んだ」
「嘘」
「嘘?」
「あなたは誰でも呼んだ、優しい人だもの」
「そんなこと・・・」
「例えば晶でも---」
「・・・・・・」
俺の無言の回答に、そっと目を伏せて部屋の奥へと姿を消す彼女を、見守る事しか出来なかった。
否定して欲しかったんだろう、気付いていながら最後まで発せなかった否定の言葉を飲み込んだ。
重い足をテーブルまで運び、そっと引き出しを開けた。
古びた白い封筒が、心にのし掛かる。
"トゥルルルル"
薫との距離を遠退けるような電話の音が鳴り響き、心臓が飛び跳ねた。
「今から、会える?駅で待ってる」
まるでこっちの様子を見ていたかのような絶妙のタイミングに、全身が硬直した。
「電話・・・?」
背後から聞こえた声で、反射的に携帯を切った。
が、振り返る事も出来ず、その場に立ち尽くした。
「ちょっと出てくる」
上着を取って横をすり抜ける瞬間、薫の視線を感じて目を背けた。
どうしても、無視の出来ない呼び出しを説明しようがない。
言葉にするほど嘘になりそうで、傷つけてしまいそうで。
誰を?
薫を?駅の待ち人を?自分自身を?
「すぐ帰る」
すれ違い様、無言で掴まれた手を握り締めて解いた。
間違った選択だろうか・・・。
諦めと微笑みを湛える彼女の瞳に、答えはなかった。