もう一人のオレが全部教えてくれるので
もし、あなたのすべてを知る存在から、突然メッセージが届いたら、あなたはどうしますか?
そんな物語を書いてみました。
それでは、お楽しみください。
# もう一人のオレが全部教えてくれるので、俺を陥れた上司の罠を先回りして全部潰します
午後十一時五十九分。
髙田孝介のスマートフォンに、見覚えのないアカウントからメッセージが届いた。
送信者の名前は――《もう一人のオレ》。
「もう一人のオレって、どういうことだ?」
孝介は、ワンルームマンションのベッドに腰かけたまま画面を見つめた。
孝介は二十八歳。都内のイベント企画会社、アークイベント企画に勤めて六年になる。
今は千葉県の外房海浜公園で開かれる大型屋外フェスを担当していた。開催まで、あと五日。帰宅が日付をまたぐことも珍しくない時期だ。
こんな時間に悪ふざけをしてくる同僚の顔を何人か思い浮かべたが、どれもしっくりこなかった。
無視しようとしたとき、二通目が届いた。
《明日の会議で、お前は会社を辞めることになる》
孝介は眉をひそめた。
とりあえず、返信を打つ。
《お前は誰だ?》
《なぜ明日、俺は辞める? それとも、辞めさせられるのか?》
既読は、すぐについた。
《質問は一つずつにしろ》
《俺は、お前だ》
《そして明日、お前は自分から辞めるんじゃない。辞めさせられる》
孝介の指が止まった。
《午前十時の企画会議で、ステージ機材の発注ミスをお前の責任にされる》
《もしかして、俺が関わっている外房海浜公園の屋外フェスのことか?》
《あれの機材発注は、高村課長がやっているはずだが》
今度は、既読がついてから少し間が空いた。
《やっている“はず”だ》
《だが、発注はされていない》
「そんなわけないだろ」
孝介は思わず声に出した。
発注書なら昨日確認した。音響設備、照明、電源機材。必要な数量も納入時間も書かれており、高村の決裁印もあった。
《昨日、発注書を確認した》
《その発注書に、業者の受領印はあったか?》
孝介は記憶をたどった。
確認したのは発注内容と高村の決裁印までだ。先方からの受領書は見ていない。
《明日の午前十時、高村は機材が届かない責任をお前に押しつける》
《お前が最終データを送らなかったことになっている》
孝介は画面を見たまま動けなくなった。
数日前、高村から業務管理システムの更新を頼まれたことを思い出した。出演者の追加に伴う配置変更だった。高村は孝介の作業が終わるまで、すぐ後ろに立っていた。
まさか、あのときに。
《高村課長が発注を忘れたっていうのか?》
《正確には、発注書を作ったところで止まっている》
《現地下見の日、高村が何をしていたか覚えているか?》
孝介の頭に、海浜公園を歩き回る高村の姿が浮かんだ。
高村はここ半年ほど、位置情報を利用して街中の怪物を集めるスマートフォンゲーム『モンスタートレイル』に夢中になっていた。
下見の最中も、ステージ予定地ではなくスマートフォンの画面ばかり見ていた。立入禁止区域へ入ろうとして、警備員に止められたほどだ。
《まさか、あのゲームか?》
《期間限定の怪物を捕まえるのに夢中で、発注書を送信し忘れた》
《三日前に気づいた高村は、業務管理システムの担当者を自分からお前へ変更した》
《なぜ俺なんだ?》
《お前が生意気だからだ》
あまりにくだらない理由だった。
だが、心当たりはあった。
「課長、ゲームは休憩中にしてください。現場で事故が起きますよ」
孝介は下見の日、スタッフたちの前で高村を注意した。
正しいことを言ったつもりだった。それ以来、高村が孝介を見る目は明らかに変わっていた。
《確認する》
孝介はベッドから立ち上がると、フェスの連絡先一覧を開いた。
機材を発注する予定だった業者には、夜間窓口が設けられている。五日後に迫った大型案件だ。非常識な時間だとは思ったが、明日の朝まで待つ気にはなれなかった。
「外房海浜公園の屋外フェスで使用する機材について、確認したいのですが」
電話口の担当者は、しばらく端末を調べた。
『申し訳ありません。髙田様のお名前でも、御社名でも、そのようなご予約は入っておりません』
「発注書も届いていませんか?」
『はい。お問い合わせの記録はございますが、正式なご注文は受けておりません』
「問い合わせ?」
『三日前に、高村様から、今からでも機材を用意できないかとご相談がありました。ただ、その日はすでに予約が埋まっておりますので、お断りしました』
孝介は礼を告げ、通話を切った。
その直後、スマートフォンが震えた。
《な? 言ったとおりだろ?》
《明日、お前は責任を負わされてクビになる。もう確定だ》
孝介は迷わず返信した。
《何か回避できる術はないのか?》
既読と同時に、返事が届いた。
《ある》
《ただし、ここからは俺の言うとおりに動け》
《一つでも勝手なことをすれば、お前の未来は変えられない》
その言葉に、孝介はわずかな引っかかりを覚えた。
それでも今は、画面の向こうにいる正体不明の相手へ頼るしかなかった。
《まず、さっきの業者へもう一度電話しろ》
《三日前、高村から問い合わせがあったことをメールで回答してもらえ》
《次に、業務管理システムの変更履歴を開け。右下の管理メニューに履歴の書き出しがある》
《高村が担当者を変更した記録を保存しろ》
言われたとおりシステムへ接続すると、普段は触れない管理メニューの中に、変更履歴の項目があった。
三日前、午後十時十四分。
高村のアカウントで、機材発注の担当者が高村から髙田孝介へ変更されていた。
孝介は履歴をファイルに保存した。
《証拠はそろった》
《これで高村の嘘は崩せる》
《それと……》
続いて送られてきた内容を読み、孝介は画面を見つめた。
本当に、そんなことが可能なのか。
だが相手は、機材が発注されていないことまで言い当てた。
孝介は短く返信した。
《分かった。やってみる》
すぐに返事が届いた。
《上手く立ち回れよー。オレの未来もかかってるんだから》
最後の一文だけ、妙に軽かった。
先ほどまでの命令口調が嘘だったかのように、それは孝介自身が友人へ送る文章とよく似ていた。
◇
翌日、午前十時。
孝介は会議室の扉を開けた。
長机の向こうには、高村課長と営業部長、それにフェス事業を統括する担当役員が並んでいた。
高村は深刻そうな表情を作り、孝介へ空いている席を示した。
「髙田。外房海浜公園の屋外フェスについて、重大な話がある」
「重大な話、ですか?」
孝介は事情を知らないふりをして席についた。
「ステージ機材が、発注されていない」
高村は重々しく告げた。
「そんな……」
孝介が驚いた表情を作ると、高村の口元がわずかに緩んだ。
「とぼけるな。発注の最終確認は、お前に任せただろう」
「俺が、ですか?」
「業務管理システムにも記録が残っている。担当者は髙田孝介。間違いないな?」
高村が印刷した画面を机へ置いた。
確かに、現在の画面だけを見れば、機材発注の担当者は孝介になっていた。
孝介は何も答えず、俯いた。
高村はそれを、言い逃れができなくなった人間の沈黙だと思ったらしい。
「このままではフェスは中止だ。会社が負う損害がいくらになるか分かっているのか?」
「……すみません」
「謝って済む問題じゃない!」
高村の怒声が会議室に響いた。
「主催者への違約金だけではない。出演者、出店者、広告会社、警備会社。どれだけの相手に迷惑をかけると思っている。会社の信用まで失うんだぞ!」
営業部長が険しい表情で孝介を見る。
担当役員は腕を組み、黙ったままだった。
「高村課長、俺は……」
「まだ言い訳をするつもりか!」
高村は孝介の言葉を遮った。
声を荒らげるたびに、彼の表情から緊張が消えていく。
孝介が抵抗しないことで、自分の筋書きどおりに進んでいると確信したのだろう。
「君は以前から、上司に対する態度にも問題があった」
高村は担当役員へ向き直った。
「今回のような重大なミスを起こし、そのうえ報告もしていない。私としては、会社に残すべき人材ではないと考えます」
「髙田君」
担当役員が初めて口を開いた。
「君から説明することはあるか」
孝介は一度、高村へ目を向けた。
高村は椅子の背にもたれ、哀れむような目で孝介を見ていた。
「正直に認めろ、髙田。自主退職するなら、会社としても多少は考慮できるかもしれない」
「自主退職ですか」
「この状況で、まだ会社に残れると思っているのか?」
高村の口調には、もう勝利を疑うものがなかった。
孝介は小さく息を吐いた。
「確認させてください」
「何だ?」
「機材を発注できなかったのは、すべて俺の責任。フェスは中止になる。だから俺が会社を辞める――高村課長のお考えは、それで間違いありませんか?」
「そういうことだ」
高村は即答した。
「部長と役員の前で、それを正式なご発言として受け取ってよろしいですね?」
「何度も言わせるな。お前の発注ミスでフェスが中止になる。その責任を取れと言っているんだ」
「分かりました」
孝介は顔を上げた。
「では、順番に訂正します」
高村の眉が動いた。
孝介は鞄から一枚の書類を取り出した。
「まず、発注されていなかった機材ですが――この件が発覚した直後、サウンドリース北関東に同等の機材を確保しました」
「なっ……」
「音響設備、照明、電源機材、すべて必要数を満たしています。搬入時間と設営人員も確認済みです。外房海浜公園フェスは、予定どおり開催できます」
孝介は正式予約書と機材一覧を、担当役員の前へ置いた。
役員が書類へ目を通し、営業部長へ渡す。
「サウンドリース北関東……確かに、必要な機材が押さえられているな」
「そんなはずはない!」
高村が立ち上がった。
「あの日は、どこの業者も埋まっていたはずだ!」
孝介は、その言葉を聞き逃さなかった。
「ずいぶん詳しいですね、高村課長」
「何?」
「まるで、ご自分で機材を探したかのような言い方だ」
「私は責任者だぞ。それくらい確認していて当然だ」
「いつ確認したんです?」
「それは……今朝だ」
「三日前ではなく?」
高村の顔がこわばった。
孝介は二枚目の資料を取り出した。
「当初の発注先から、書面で回答をいただきました。三日前、高村課長から『今からでも機材を用意できないか』と問い合わせがあったそうです」
「ち、違う。念のため確認しただけだ」
「その時点で予約が入っていないことを、課長は知っていたんですよね?」
「だから、それは……」
「そして同じ日の午後十時十四分、業務管理システムの担当者が変更されています」
孝介は三枚目の資料を、高村の前へ置いた。
「変更前は高村課長。変更後は俺。操作したのは、高村課長のアカウントです」
会議室から音が消えた。
高村は変更履歴を見下ろしたまま、口を開かなかった。
担当役員が、低い声で尋ねる。
「高村君。説明してもらえるか」
「私は……髙田に引き継いだだけです」
「引き継いだ三日前に、なぜ業者へ納期の問い合わせをした?」
「それは、こいつが発注していないことに気づいたからで……」
「だったら、なぜその時点で報告しなかった」
「……」
高村の額に汗が浮かんだ。
「ゲームをしていたんですよね」
孝介が言うと、高村が顔を上げた。
「外房海浜公園の下見中も、ずっと『モンスタートレイル』をしていた。発注書を作ったあと、期間限定の怪物が出た。それを追いかけているうちに、送信を忘れた」
「何を証拠に!」
「違うなら、課長の口から説明してください」
高村は何かを言おうとして、結局何も言えなかった。
担当役員は、机の上に並んだ資料を一枚ずつ確認した。
発注されていない機材。
三日前に高村が行った納期確認。
そして、業務管理システムの担当者を孝介へ変更した記録。
「高村君」
「はい……」
先ほどまで孝介を怒鳴りつけていた声は、もう残っていなかった。
「問題は、発注を忘れたことだけではない。自分のミスに気づきながら報告せず、記録を変更して部下へ責任を負わせようとした。これは単なる業務上の過失では済まない」
「私は、そんなつもりでは……」
「処分が決定するまで、自宅謹慎を命じる」
高村の顔から血の気が引いた。
「あわせて、外房海浜公園フェスに関するすべての権限を、ただ今をもって剥奪する」
「待ってください。私がいなければ、現場は――」
「機材すら発注していなかった人間が、今さら何をするんです?」
孝介の一言に、高村は黙り込んだ。
担当役員は孝介へ顔を向けた。
「髙田君。君が確保した機材で、開催に向けた調整を進めてくれ」
「承知しました」
高村は業務用端末を机の上へ置くよう命じられた。
孝介を退職させるために開いた会議で、高村は自分の権限を失った。
立ち上がった高村の足元は、わずかにふらついていた。
誰とも目を合わせないまま、会議室を出ていく。
扉が閉まった直後、孝介のスマートフォンが震えた。
《よくやった》
《もう一人のオレ》からだった。
《ご褒美に、いいことを教えてやる》
《何だ?》
《フェスPRクイーンの富田美里を口説け》
《あの女、お前に好感を持ってるから、あっさりいけるぞ》
孝介は思わず足を止めた。
富田美里。
フェスの告知動画やポスターに起用されている人気モデルで、打ち合わせでは何度か顔を合わせていた。
明るく気さくな女性だったが、自分に特別な好意を持っているようには見えなかった。
《冗談だろ? 仕事で少し話しただけだぞ》
《高村の件も、最初は信じなかっただろ?》
《今夜、美里から打ち合わせの連絡が来る。その最後に食事へ誘え》
《本当に、それだけでいいのか?》
《言っただろ。あっさりいけるって》
孝介の胸が高鳴った。
高村の罠も、機材の確保先も、すべて《もう一人のオレ》の言ったとおりだった。
それなら、美里の気持ちも本当なのかもしれない。
《そのあと、競馬を買え》
《今日の中山第十一レース。三連単、8―4―1だ》
《競馬なんかやったことないぞ》
《だから言われたとおりに買えばいい》
《これで、お前は金持ちになる》
孝介は画面を見つめた。
《ちょっと待て》
《さっきから、なぜ俺のためにそこまでする?》
返事はすぐに届いた。
《お前が金持ちになるってことは、オレも金持ちになるんだ。分かるか?》
《お前が富田美里と付き合えば、オレも美里と付き合うことになる》
《まさか、お前は……未来の俺なのか?》
《ようやく分かってきたな》
《だから失敗するなよ。お前の選択は、全部オレの人生になるんだから》
孝介は初めて、《もう一人のオレ》を名乗る相手が自分を助けた理由を理解した。
同じ人間なのだ。
孝介が高村に負ければ、未来の自分も職を失う。
孝介が金持ちになり、美里と結ばれれば、未来の自分もその人生を手に入れられる。
未来の自分が、自分を騙して損をするはずがない。
今まで感じていた警戒心が、すっと消えていった。
《分かった。言われたとおりにする》
午後三時四十分。
中山第十一レースの八番が、先頭でゴール板を駆け抜けた。続いて四番、最後に一番。
8―4―1。
初めて買った三連単は的中し、孝介の口座には、それまでの年収を大きく上回る払戻金を手にした。
スマートフォンが震えた。
《な?》
その一文字を見て、孝介は声を上げて笑った。
その日の夜、《もう一人のオレ》が予告したとおり、美里からフェスの打ち合わせについて連絡が来た。
用件が終わったあと、孝介は教えられたとおりに食事へ誘った。
《いいですよ。私も髙田さんと、ゆっくり話してみたいと思ってました》
返事は、あっさりしたものだった。
五日後、外房海浜公園フェスは予定どおり開催された。
サウンドリース北関東から届いた機材に不具合はなく、ステージは最後まで一度も止まらなかった。会場を埋めた観客の歓声を聞きながら、孝介は何度もスマートフォンを確かめた。
《十五時二十分、海側の入場口が混雑する。警備員を二人増やせ》
《十六時、出演者の一人が到着していないことに気づく。今のうちにマネージャーへ連絡しろ》
《十九時から風が強くなる。ステージ袖の横断幕を外しておけ》
指示は、すべて現実になった。
孝介が先回りして対応したことで、大きな混乱は一つも起きなかった。
フェス終了後、担当役員は孝介の肩を叩いた。
「今回の判断は見事だった。高村の後任が決まるまで、君に企画チームを任せたい」
二十八歳で、孝介は大型案件の責任者になった。
それからも、《もう一人のオレ》の助言は続いた。
《明日のプレゼンでは、B案を先に出せ。先方の社長は青が嫌いだ。表紙も赤に変えろ》
《南星飲料の担当者へ、今すぐ連絡しろ。来期の広告予算に空きが出た》
《今日、美里に指輪を贈るな。高価な物を渡すより、最初の撮影で使った海辺のカフェへ連れていけ》
言われたとおりに動けば、仕事も恋愛も面白いほど上手くいった。
孝介が企画したイベントは次々と成功し、半年後には正式に企画課長代理へ昇進した。
美里との交際も順調だった。
競馬で得た金は、《もう一人のオレ》が指定した企業の株へ回した。その会社が海外企業との提携を発表すると、株価は三倍を超えた。
孝介は古いワンルームマンションを引き払い、都心の高層マンションへ移った。
欲しかった車も買った。
仕事、金、恋人。
半年前には手が届くとも思わなかったものが、次々と自分のものになった。
いつしか孝介は、大きな決断だけでなく、日常のすべてを《もう一人のオレ》へ尋ねるようになっていた。
《明日の役員会では、どのネクタイを締めればいい?》
《美里から返事がない。こっちから連絡したほうがいいか?》
《この部下は信用していいのか?》
《次は、何を買えば儲かる?》
答えはいつも正しかった。
自分で考えるより速く、失敗もない。
だから孝介は、画面に現れた答えを選ぶことに、何の疑問も持たなくなっていた。
最初のメッセージが届いてから、七か月が過ぎた夜。
短い振動とともに、新しいメッセージが表示された。
《オレはもう満足だ》
《これで安心して、いなくなれる》
《いなくなるって、どういうことだ?》
《もう連絡してくるなよ》
《と言っても、これからはメッセージすら届かないけどな》
《ちょっと待ってくれ!》
《このあと、俺はどうすればいい?》
《何を選べば正解なんだ?》
送信したメッセージの横に、既読はつかなかった。
《おい、答えてくれ》
《もう一人のオレ》
何度送っても、返事はなかった。
やがて画面には、無機質な文字が表示された。
――このアカウントは存在しません。
孝介はスマートフォンを握ったまま、広いリビングに立ち尽くした。
高村の罠を破る方法も、金を増やす方法も、富田美里の心をつかむ方法も教えてもらった。
だが、これから自分がどう生きればいいのか。
その答えだけは、どこにも書かれていなかった。
孝介は、震える指で新しいメッセージを打ち込んだ。
《明日の朝、何時に起きればいい?》
送信。
当然、返事はない。
それでも孝介は、画面を見つめたまま待った。
数分が過ぎても、十分が過ぎても、通知は届かなかった。
やがて彼は、スマートフォンを置こうとした。
だが、指が動かなかった。
置いたあと、何をすればいいのか分からなかった。
眠るべきなのか、仕事の準備をするべきなのか、美里へ連絡するべきなのか。どれも自分で決めていいはずなのに、決めていいという許可を出す相手が、もういない。
孝介は立ち上がり、クローゼットを開けた。
何十本も並んだネクタイを見ても、手が伸びない。
赤か、青か。
以前なら、画面の向こうから答えが届いた。
《赤にしろ》
その一言で、迷いは消えた。
だが今は、どれを選んでも間違いのように思えた。
孝介は一本も取れないまま、クローゼットの前に立ち尽くした。
高層マンションの窓の外では、東京の夜景が無数の光を瞬かせている。
手に入れたはずの成功も、金も、恋人も、すべて自分の選択の結果だと思っていた。
けれど振り返れば、そこに自分の選択は一つもなかった。
高村を追い詰めたのも、機材を確保したのも、競馬を買ったのも、美里を誘ったのも、昇進を受けたのも――全部、誰かに言われたから動いただけだ。
正解だけを与えられ続けた代償に、孝介は自分で間違える力を失っていた。
スマートフォンの黒い画面に、青ざめた自分の顔が映る。
孝介はそこへ向かって、かすれた声で尋ねた。
「俺は……どうすればいい?」
返事はない。
それでも彼は、画面を何度も更新した。
通知が来るまで。
誰かが、次に選ぶべきものを教えてくれるまで。
朝になっても、孝介はネクタイを選べなかった。
そして、選べないまま、何も始められなかった。
このあと、髙田孝介はどうなってしまうのでしょうか。
操り人形は、糸が切れた途端に動けなくなります。孝介も同じように、自分では何も選べなくなってしまうのでしょうか。
人によっては、そんなことはないのかもしれません。
みなさんは、どう思いましたか?
感想などを聞かせていただけると嬉しいです。
それでは、また。




