時間の魔法、その始まりについて
その日。
師匠は私に告げた。
「行こう」
生きた年に等しい付き合いの大賢者は今までにない寂しげな顔をしていた。
中年を過ぎ、皺の刻まれた皮膚。
少なくともそれが私の知る師匠の顔だったけれど、今日の姿形は見たこともないものだった。
「変身呪文ですか」
分かり切ったことを問う。
子供でも使えるごく簡単な呪文の一つ。
大抵は親を騙す悪戯に使われるそれを師匠は僅かな魔力の乱れもなしに纏う。
相応の実力がなければ使っていることを見抜けないほどに。
「僕の若い頃の姿だよ」
「言われなくとも分かります」
お会いしたことはなかったけれど、不思議と想像通りの姿をしていた。
おそらくは十代後半。
今の私と同じか。
師匠は御年七十代。
そうであるにも関わらず立ち居振る舞いはまさに年相応。
滑稽なほど自信に満ちた顔に誰かにぶつかることを厭わぬほどに無遠慮な歩行。
当代一とさえ謳われる大賢者の生意気な少年時代の再演とでも言おうか。
まるで時が戻り私が過去に居るかのような錯覚となる。
「そうだったならどれだけ良かったか」
私の心を読んで師匠は笑う。
十代の顔に七十代の重みを乗せて。
「後悔されているのですか」
「君にはどう見える?」
私は師匠の最後の弟子だ。
魔力を見出され拾われた捨て子、故に生きた年に等しい付き合いだけれど。
私の知る師匠の歴史なんて最後の十数年でしかない。
「分かりません」
「僕も同じだ」
師匠は笑った。
今度は重みもすっかりと隠して。
*
眠り姫。
師匠はその人のことをそう呼んでいた。
師匠の弟子であるならば誰もが知っているその女性を世間の多くの人は知らない。
「偉大な賢者だった。僕など比較にならないほどに」
師匠はそう語っていたけれど世間はそう評価していない。
つまり眠り姫は偉大な賢者だったけれど、その後に台頭した師匠によりその名前も功績も数十年の時の末に歴史の片隅に追いやられてしまったのだ。
「僕は彼女に焦がれた。焦がれ続けた」
師匠はいつも眠り姫のことをそう語っていたけれど。
当代を生きる私や他の弟子、そして世間の人々からすれば師匠よりも優れた大賢者などいるはずもなく――。
「彼女は自分の名前が忘れ去られてしまうことを望んでいたよ。今の僕と同じように」
「やはり師匠というのは弟子の大成を望むものなのですか?」
無遠慮な質問かと思った。
事実、師匠は苦笑して流すばかりで何も答えることはなかった。
眠り姫。
その住処は深い森の中にある。
ただ大抵の者はこの場所へ来ることは出来ない。
なにせ、この森は強烈な違和感が放たれているから。
飛ぶ鳥は空中で停止し、風に揺られる木の葉は凍り付いたように固まる。
野を這う獣や無造作に動き続けるはずの虫もまた同じだ。
木々も花も。
私達が歩いているのに足音がしない。
風の音も、虫の声も、あらゆる生き物の鼓動がしないのだ。
『止まっているんだ。時が。眠り姫の魔法で』
初めてこの場所を訪れた時の記憶が甦る。
師匠は数えきれないほどの回数ここに訪れて、そして何もせずに戻ってしまった。
本当はずっと前から『時を動かせた』くせに。
「ご無沙汰しております」
師匠は眠り姫に告げる。
深い森の中で眠る、師匠と同い年ほどの老女に。
「聞こえませんよ。時が止まっているんだから」
無粋な一言を私は告げる。
分かり切った事だ。
若いままの師匠は微笑し頷いた後、私に短く命じた。
「隠れていてくれ」
「……かしこまりました」
私は透明化の魔法を用いて姿を消す。
もう随分な回数、師匠と共に眠り姫に会っている。
それでもこの言葉を貰うのは初めてだった。
故に確信する。
今日は本気なのだ、と。
『動け』
若い姿の師匠の声は美しく響く。
感じたことのないほどに巨大な魔力が小屋を、森を、あるいは空間に伸びていき静かに支配する。
風の音が聞こえた。
白々しいほどに世界が動き出したのを確信する。
その中で真っ先に――眠り姫が目を開き、そして師匠の名を呼んだ。
まるで、子供を呼ぶような声で。
「どれだけの時間眠っていた?」
「僕の姿から逆算できませんか?」
眠り姫の問に師匠は悪戯っぽく問いかける。
見た目の相応の問だったが、それでも眠り姫はあっさりと見抜いた。
「五十年以上か」
「違います。数年です。ボケましたか」
師匠が眠り姫を軽く煽ったが彼女は気にした様子もない。
「数年で目覚められるかと思ったけれど。あんた。今まで何をしていたんだい」
「何を――」
師匠はそう言ったが魔力の乱れは雄弁だった。
事実、丁寧に真実を覆い隠していた変身魔法は糸がほつれるようにしてとけていく。
皮膚に皺が刻まれていく。
師匠が生きた年数分だけ。
「へえ」
眠り姫は笑う。
「私とそう変わらない年齢じゃないか」
「――えぇ。申し訳ありません」
師匠は泣いていた。
静かに肩を震わせて。
「本当はもっと早く。目覚めさせることが出来ました。それでも。僕は……」
眠り姫は小さく首を振る。
そしてゆるゆるとした動きで老いた師匠の頬に触れた。
「婆に恋して一生を棒に振ったのかい」
数度。
眠り姫は師匠の頬を撫で。
「立派になったね」
そして、満足げに微笑むと。
「誇らしいよ。あんたが」
眠り姫は再び眠りについた。
今度は目覚めぬ眠りに。
師匠は眠り姫の体に顔を埋めて静かに泣き出した。
私は命じられる必要もなく、その背に触れた。
「師匠」
「あぁ」
師匠の時は止まらなかった。
止めることも出来たのに。
いや、止めないために私を同行させたのだ。
「ありがとう。行こう」
動き出した時が眠り姫の身体を覆うだろう。
あとは時間の任せるままに。
それが師匠の決断だった。
*
『理論は教えない』
『やり方だって教えない』
『だけど、先達として後進に見せるだけはしてやる』
存在さえ不確かな『時間』の魔法。
それについて尋ねた時、師匠は始めは何度も何度もはぐらかしていたけれど、最後には根負けしてそう言った。
少なくとも師匠はこの魔法を自分の手で葬り去るつもりだったのだ。
『時間を操るのは人間には許されない領域なんだ』
師匠の師匠である眠り姫。
前時代の賢者である彼女は死の間際に自分自身とその周りの空間の時を止めた。
『眠り姫は時間を止める方法までは見つけた。しかし、時間を動かす方法までは見つけられなかった』
賢者としての性だ。
業と言ってもいいかもしれない。
彼女はどうしても時間を止める魔法と、再び動かす魔法を見てみたいと思ってしまったのだ。
故に弟子に託した。
いや、無理やりに押し付けたと言ってもいいかもしれない。
『止める方法を眠り姫は見つけた。そして彼女自身は辿り着けなかったが動かす方法があることまでは分かっていたんだ』
そして師匠は見事それを見つけた。
けれど、それをすぐに使うことが出来なかった。
時が進むというのは、つまり眠り姫の命を消失させるのと同義であったから。
『一度見せた。実在することは教えた。ここから先は君自身が探してくれ』
師匠はそう言って生涯方法について教えてくださることはなかった。
程なくして師匠は自身の愛した眠り姫と同じ場所へ向かった。
『止める。動かす。この二つまでは分かった。しかし、その先は――』
今わの際。
師匠はその先を口にしなかった。
『時間を操るのは人間には許されない領域なんだ』
言葉を繰り返すことで。
どうにか口にせずに終えることが出来た。
『死にたい命など存在しないのだから』
*
私は今も時間の魔法の研究を続けている。
止める。
動かす。
その先で出来ること――。
「戻せる。間違いなく」
理論が出来たなら実践をしたくなる。
それが知恵を追う者の性というものだろう。
白髪が増えた。
皺だって多くなった。
師匠より。
眠り姫より。
「けれど、戻せれば――」
もっと生きていくことが出来るかもしれない。
精々百年という寿命に閉じ込められた人間という器から逃れることが出来るかもしれない。
『時間を操るのは人間には許されない領域なんだ』
師匠はそう言っていた。
ならば、人間を超えてしまえばいい。
少なくとも私はそう結論付けた。
――結論付けてしまった。
程なくして。
時間の秘密を解き明かす私の最後の後悔の記憶である。




