抜け道
成田空港は旅行者でいっぱいだった。
一人一人が別の方向に向かい、一糸乱れた集団行動のようだった。
佐藤はロビーの椅子に座っていた。
もう何百回も座っている席だった。
リュックから財布を取り出す。
中身を確認する。
ため息をつく。
小銭だけ。
札束は一枚もない。
海外旅行は遠い夢だった。
佐藤は財布をしまい、目の前の人だかりを見つめた。
気が早くもアロハシャツを来た若い女性、スーツケースを三つも持った男、走って出口に向かう子どもたち。
全てが霞んで見えた。
立ち上がる。
空港を出る。
外は灼熱だった。
Tシャツは汗でべったりと体に張り付いていた、
路上に吐き捨てられたガムみたいに、前髪は額に張り付いていた。
空港の裏側に回った。
そこは大きな影になっていて、ちょうど良い休憩スペースだった。
佐藤は陰に飛び込み、コンクリートの壁によりかかって座った。
「君」
声がした。
左を向くと、仙人のような髭を蓄えた老人が立っていた。
にっこりと笑っている。
「なんでしょうか」
「毎日ここへ来ているね」
「え? はい」
「海外旅行に行きたいんだろう」
「はあ」
佐藤は老人を観察した。
分厚いロングコートを着て、首には数珠をつけている。
骨ばった細身だった。
佐藤が黙っていると、老人は口を開いた。
にっこりと笑いながら。
「きたまえ」
そう言うと、佐藤の真横に立った。
壁に手を当てる。
生ぬるい風が吹き、地面の草が揺れた。
壁が押し込まれた。
長方形に縁取られた部分が綺麗に押されていった。
佐藤は後ろに退いた。
何百回もここに来ている。
なのに気づかなかった。
老人を見た。
目が合った。
下を向いた三日月のようにその目は曲がっていた。
「さあ」
老人は壁の中に入っていった。
佐藤は立ち上がり、長方形の空洞の前に立った。
噴出した汗のせいで、もはやTシャツは肉体と同化していた。
中はリビングほどの広さだった。
一面真っ白だった。
床の中央にある、真っ黒な穴を除いては。
「さあ」
老人は言った。
佐藤は穴の前に進んだ。
人が二人は入れるほどの漆黒の真円だった。
中を覗くと、深淵が続いていた。
化け物の巨大な食道のようだった。
呑み込まれそうだった。
佐藤は、少しだけ、後ずさる。
「地球の裏側に続いている」
老人は言った。
にっこりと笑っていた。
「ここから?」
「そうだ。念願の海外に行ける」
馬鹿げている。
佐藤は帰ろうとした。
振り向こうとした。
しかし、体は動かなかった。
ずっと夢見ていたんだ。
ずっと夢見て。
夢。
⋯⋯何を?
何を夢見ていたんだっけ。
あれ。
麻酔を打たれたように躰は固まっていた。
視界は陽炎のように揺らめいていた。
「さあ、もっと近づいて」
佐藤は前のめりになった。
ゆっくりと体は折れていった。
穴は大きくなっていった。
手のひらの硬い感触を背中に感じた。
圧力を感じた。
力は増していく。
穴は視界を埋め尽くす。
もう、穴の中にいるのだろうか?
まだ地上にいるのだろうか?
わからない。
「Enjoy your stay」
トン、と体が揺れた。




