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抜け道

作者: 谷 風汰
掲載日:2026/06/11

 成田空港は旅行者でいっぱいだった。

 一人一人が別の方向に向かい、一糸乱れた集団行動のようだった。

 

 佐藤はロビーの椅子に座っていた。

 もう何百回も座っている席だった。

 リュックから財布を取り出す。

 中身を確認する。

 ため息をつく。

 小銭だけ。

 札束は一枚もない。

 

 海外旅行は遠い夢だった。

 佐藤は財布をしまい、目の前の人だかりを見つめた。

 気が早くもアロハシャツを来た若い女性、スーツケースを三つも持った男、走って出口に向かう子どもたち。 

 全てが霞んで見えた。


 立ち上がる。

 空港を出る。

 外は灼熱だった。

 Tシャツは汗でべったりと体に張り付いていた、

 路上に吐き捨てられたガムみたいに、前髪は額に張り付いていた。

 

 空港の裏側に回った。

 そこは大きな影になっていて、ちょうど良い休憩スペースだった。

 佐藤は陰に飛び込み、コンクリートの壁によりかかって座った。

 

「君」


 声がした。

 左を向くと、仙人のような髭を蓄えた老人が立っていた。

 にっこりと笑っている。


「なんでしょうか」

「毎日ここへ来ているね」

「え? はい」

「海外旅行に行きたいんだろう」

「はあ」


 佐藤は老人を観察した。

 分厚いロングコートを着て、首には数珠をつけている。

 骨ばった細身だった。


 佐藤が黙っていると、老人は口を開いた。

 にっこりと笑いながら。


「きたまえ」


 そう言うと、佐藤の真横に立った。

 壁に手を当てる。

 生ぬるい風が吹き、地面の草が揺れた。

 壁が押し込まれた。

 長方形に縁取られた部分が綺麗に押されていった。


 佐藤は後ろに退いた。

 何百回もここに来ている。

 なのに気づかなかった。

 

 老人を見た。

 目が合った。

 下を向いた三日月のようにその目は曲がっていた。

 

「さあ」


 老人は壁の中に入っていった。

 佐藤は立ち上がり、長方形の空洞の前に立った。

 噴出した汗のせいで、もはやTシャツは肉体と同化していた。


 中はリビングほどの広さだった。

 一面真っ白だった。

 床の中央にある、真っ黒な穴を除いては。


「さあ」


 老人は言った。


 佐藤は穴の前に進んだ。

 人が二人は入れるほどの漆黒の真円だった。 

 中を覗くと、深淵が続いていた。

 化け物の巨大な食道のようだった。

 呑み込まれそうだった。

 佐藤は、少しだけ、後ずさる。


「地球の裏側に続いている」


 老人は言った。

 にっこりと笑っていた。


「ここから?」

「そうだ。念願の海外に行ける」


 馬鹿げている。

 佐藤は帰ろうとした。

 振り向こうとした。

 しかし、体は動かなかった。

 

 ずっと夢見ていたんだ。

 ずっと夢見て。

 夢。


 ⋯⋯何を?


 何を夢見ていたんだっけ。

 あれ。


 麻酔を打たれたように躰は固まっていた。

 視界は陽炎のように揺らめいていた。


「さあ、もっと近づいて」


 佐藤は前のめりになった。

 ゆっくりと体は折れていった。

 穴は大きくなっていった。

 

 手のひらの硬い感触を背中に感じた。

 圧力を感じた。

 力は増していく。


 穴は視界を埋め尽くす。

 もう、穴の中にいるのだろうか?

 まだ地上にいるのだろうか?

 わからない。

 

「Enjoy your stay」


 トン、と体が揺れた。

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