雨に溶ける名前2 先輩の部屋から始まる1ページ
下の階に進もうとして一歩踏み出した瞬間、足元がぐらついた。
さっきまで張りつめてたのが切れたのか、急に体が前に倒れかける。
やばいと思ったときにはもう遅くて、そのままバランスを崩して片膝をついた。
冷たい床が膝を打って、息がふっと漏れた。
動けずに固まっていると、耳のすぐそばでエレナの声が飛んできた。
「シビさん!」
顔を上げると、エレナが慌てて駆け寄ってきていて、心配そうな青い目が真っ直ぐこっちを見ていた。
立ち上がらなきゃと思うのに、膝から伝わる冷たさがじわじわ広がって、体にうまく力が入らない。
「大丈夫だ」
無理やり平気なふりをして口に出す。
でも額にはじっとり汗がにじんで、体の芯が重い。
「シビさん、休憩しませんか?」
エレナが、少し息を弾ませながら言った。
そういえば、ここまで来るのにエレナもずっと呪文を使いっぱなしだった。
慣れない罠も多かったし、疲れてないはずがない。
「ここまで来るのに、呪文もかなり使いましたし、わたくし的にも慣れない罠などあり、疲れがたまっていますので」
エレナが、少しだけ照れたように笑う。
その言い方がちょっとおかしくて、でもちゃんと気を使ってくれてるのが分かって、胸の奥がふっとゆるんだ。
「ありがとうな」
心の中だけじゃなくて、ちゃんと声に出してみる。
口に出すまでに、ほんの少し間があいたのは、やっぱり照れくさかったからだ。
エレナが少し疲れた様子で言う。その顔を見て、胸の重さがほんの少しだけ軽くなった。
どんなにしんどくても、こうして隣に立ってくれるやつがいるってだけで、まだ動ける気がしてくる。
あんなにパーティ組むの嫌がってたはずなのにな
「……さすがに、このまま突っ込むのはきついな。ちょっとだけ座ろうぜ」
俺は手すり代わりの石壁につかまりながら、階段の脇までゆっくり移動した。段差から外れたところに、ちょうど腰を下ろせそうな平たい石がある。そこにどさっと座り込むと、張りつめていた足の筋肉が一気にゆるんだ。
「そういえばずっと歩きっぱなしだったな」
ついでに腰袋をまさぐって、包んでおいた干し肉を一枚取り出す。脂を落としてある分、日持ちはするけど、味はあんまり期待できないやつだ。
「そろそろ飯にするか?エレナもどうだ?」
俺が干し肉を半分に裂いて差し出すと、エレナは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「ふふ、考えることは同じですわね」
そう言って、自分のポーチからも小さな包みを取り出す。中には、色の濃い干し果物がいくつか入っていた。
「甘いものも、ちゃんと持ってきましたの。交互に食べると、少しだけましになりますわよ」
「なるほどな。じゃあ、その果物をもらっていいか?」
軽口を叩きながら、干し肉をかじる。固くて塩気の強い味が、さっきまで落ち着かなかった頭の中を少しずつ現実に引き戻してくれた。
「少し質問してもよろしいですか?」
エレナが急にまじめなトーンで俺に話しかけてきた。どうやら軽い雑談ではないみたいだな。
「言えることだったら話してもいい」
何を質問されるかは、一応わかる。
どうやらこの世界じゃ、別系統の職業を取ってるやつはほとんどいないらしい。
言ってもいいけど、与太話にしか聞こえないし、本来なら信じない話なんだけどな。
反対に、もし信じたとして「神様が与えてくれた」って言ったら、高僧でもあるエレナはどう思うか。
俺の呪文の書の中身にも、転生呪文なんてものはなかった。
誰かが個人で作って隠し持ってるなら知らないが、少なくとも一般に知られてる呪文じゃないんだろう。
一応、この世界にも死者蘇生の呪文っていうのはあるみたいだ。
僧侶でも高僧じゃないと使えないし、いろいろ規制もある。
寿命では復活できないとか、そのままの状態で復活するとか。
全身やけどのまま復活したりしたら、後味悪いどころの話じゃない。
「シビさんは何者ですか?」
「何者ときたか? 俺は俺だが、質問の意図がわからないな」
「すみません。たびたびシビさんは『以前』とか『生前』という言葉をお使いになっていました」
気をつけていたはずだが、無意識にぼやいてたんだろう。
「言ってたか?」
「はい。わたくしが見た感じですが、シビさんは死者蘇生を受けておりませんよね?」
「なぜそう言い切れる?」
「死者蘇生は、誰彼構わず使っていい呪文じゃないんですよ。自然の法則に反しますから。そのために、死者蘇生の寄付金はとても高く設定されているのです」
「よく考えてみたら、そりゃそうか。そんなもん簡単にポンポンかけてたらやばいよな」
「だから、死者蘇生を受けた人には、小さな印が付きます。シビさんはこの間の買い物のときにも少し拝見いたしましたが、その印がありませんでした」
「さすが神官様。よく見てるな」
「わたくしも神様の恩恵を受けて僧侶をしております。ですので、もしよろしければ教えていただけませんか?」
「たしかにな。俺は死者蘇生は受けてない。後半は……まだ秘密だ。だからと言って、神に背いてるわけじゃない。だけど俺自身、どう説明していいか分からない。ちゃんとまとめて話せると思ったときに話す。それで勘弁してくれ」
正直に言っても、多分エレナは信じてくれて、納得もしてくれると思う。
だけど、なぜか今じゃないって、頭のどこかで警報が鳴っていた。
エレナはじっと俺を見て、一息ついた。
「どうやら、今は聞いても無理みたいですわね」
「そうだな。実際、どう説明したら理解しやすい言い方になるのか分からないからな。それで納得してくれ。多分、司祭様あたりに『ちょっと探りを入れてこい』くらいは言われてるんだろ?」
「そうですわね。強く言われたわけではありませんでしたが……それに、わたくし自身も少しシビさんのことを知りたい気持ちもありまして」
エレナを見つめていると、頬がわずかに赤く見えた。どうやら、少し照れているのかもしれないな。
「確かに、俺は怪しいもんな」
「そうですわね。戦士でありながら魔法使いでもあるなんて、物語に出てくる登場人物ぐらいですから」
「だよなあ。でも、実際にここにいるから仕方ないな」
「これからまた大変になるかもしれないのに、こんなことをお聞きしてしまって申し訳ありません」
「仕方ないさ。上司から言われたら、一応はやらないとな」
「そう言っていただけて、助かります」
俺自身も、しつこく問い詰められなくて助かったと思う。
時間は分からないが、食事をとったら、じわじわと睡魔もやってきている。
どうやらこの遺跡は、とんでもないものを隠しているかもしれない。
動くなら、万全な状態にしておく必要がありそうだ。日数的にも、まだ余裕はある。
「エレナ」
「あ、はい」
「あの、敵意から守る結界の呪文を張ってもらっていいか?」
「もちろんですわ。これから、どうなさるのです?」
「この下の階も何があるか分からないから、ここで一度休息する。お互いひと眠りしたら動こう」
「承知しましたわ」
「慈愛の女神アウリスよ、我らを包み、悪意を遠ざけ給え。悪意からの防御」
エレナが印を地面に描き、低く呪文を唱えていた。
エレナの杖の鈴がチリーンと鳴り、一筋の澄み切った音が空気を震わせた。
「悪意からの結界をかけました」
「あぁ、ありがとう。エレナ、こっちに来てくれ」
呪文を唱え終えたエレナは、俺の方へ歩いてきた。
俺は新品の水筒のキャップを開ける。
「水の精霊ウインディーネよ、澄んだ雫で清めたまえ 浄身」
水筒から水の精霊ウインディーネが現れ、俺たちの周囲を何周か回った。
そのたびにウインディーネの体から霧のような水がふわっと広がり、俺たちの体にまとわりついて、汚れをすべて洗い流してくれた。
「これは、精霊呪文ですの?」
「あぁ。水の精霊ウインディーネを召喚して使った」
「何でもありですわね」
「そうでもないさ。俺の技量だと、上位精霊を使おうとしたら時間もかかるし、実用的じゃない」
「いえ、本当に神聖魔法以外は使用できるんですね?」
なぜかあきれた感じで言われたけどなんかあきれる要素あったか?
俺も汚れたまま寝るのは嫌だしな。
「そうなるな」
「なぜ僧侶呪文は覚えなかったのですか?」
「エレナの前で言うのも変だけど、神の名を利用して動く奴って、詐欺師が多いからさ。俺も宗教自体は大事だと思う。けど、それを食い物にしてる奴が嫌いで、自然と距離を置いた」
俺はエレナの方を見ながらそう伝えたが、やはりいい顔はしてくれず、少し苦しそうな表情をしていた。
「もちろん、エレナみたいに信用できる奴がいるのも知ってる。……そんなふうに疑ってるやつに、神様が奇跡の術なんか与えてくれるわけないだろ」
「実際、そういう方がいるのは知ってますわ。心が痛いですわ。シビさんが信用してくださって、ありがとうございます。それと、この呪文も助かりましたわ」
「軽く眠るにしても、体をきれいにするのとしないのとじゃ、疲れの取れ方も違うしな」
「はい」
ランタンを真ん中に置いて、俺たちは眠る準備をした。




