9 世久家の内情 その2
太田と畑田が帰った後、明子が応接間で茶器を片付けながら聞いてきた。
「隆志様、これからお住まいはどうなさいます?」
「どう……って?」
「いつまでもご当主が客間住まいというわけにはまいりませんから、母屋に住むなり別棟に住むなりを決めていただかないと。向こうから送られたお荷物はとりあえず和也様の住まれていた棟の部屋に運んでありますけれど、それもどうなされるのか」
そうだった。今のままでは旅行先に宿泊しているのも同じだ。
「そうだな、どうしようか――って言っても、この母屋か父さんのいた棟しかもう住めないんじゃないの?」
他の棟は人が住まなくなって久しい。
人のいない家は急速に傷むので今更住めないのではないのかと問うと、この屋敷は庭を含めて定期的に清掃会社と庭師を雇って手入れしてあるので問題ないと言う。言われてみれば確かにこの広い屋敷を明子一人で掃除できるはずがなかった。
「本当にこの屋敷は無駄に広いよね。もう使わない棟は、潰してしまった方が維持費がかからなくていいんじゃないのかな。いや、いっそ人に貸すとか」
「隆志様が本気でそうお考えなら、それでもよろしいのですが」
今この屋敷の手入れに入っている業者は身体障害者や知的障害者を積極的に雇っている会社なのだそうだ。
「働く意欲のある人に、働ける場を提供したいという和也様の意向で、社会的にハンディのある人を優先的にここへ廻してもらっているのです」
家を潰してしまったり、貸したりすればその人たちの仕事を奪うことになる。
「そもそもあれらは人に貸せるような家ではございませんよ」
訳を問うと、見れば分かると笑って返された。
とりあえず今は自分の住まいを決めなければならない。
母屋は広いが部屋があまり機能的ではないし、あの襖絵を汚しては大変だから住むのは遠慮したかった。
父が住んでいた別棟をそのまま使うことも考えたが、まだ父の香りの残る部屋で暮らせるほどは気持ちの整理ができていなかった。
それならその隣の棟はどうかと明子に案内され、見に行ってみた。
父の棟とほぼ同じ間取りで、広すぎもせず使い勝手もよさそうだったが、人に貸せないという理由が分かった。
この屋敷全体に言えることだが、旧家のためコンセントの数が少ないのだ。電気製品が少なかった昔はそれでも良かったのだろうが、今は何を使うにしてもまず電気がいる。
それだけならまだしも、どの棟も台所と風呂とトイレがない。昔は裏庭になっている辺りに各棟に住む者が共同で使用する台所と風呂とトイレが作ってあったそうだ。
思い返してみれば昔住んでいた棟にもそれらの設備はなく、母屋にある設備を使っていた。トイレに行くにも不便で、夜は特に暗い廊下が怖くて嫌だったのを思い出す。夜中にトイレに行く時は、母を起こしてついてきてもらっていたのだった。
それぞれの棟に独立したキッチンとサニタリー設備を設置するとなれば大工事だ。そうまでして人に貸したい訳ではない。
家具は母と暮らしていたときに使っていた物をそのまま使うことにし、テレビやオーディオなどの電化製品は父が持っていたものを貰うことにした。
太田に電話して相談すると、電気屋と引越し業者を手配して、畑田にも連絡しておいてくれるという。十分後には全て完了したと連絡が来た。電気工事は一日で終わり、翌日には引っ越しができるので、家具の配置などを考えておいて欲しいと言われた。
新居となる棟で家具をどう置くか考えながら部屋を見渡すと、廊下の柱の傷が目に止まった。小刻みに刻まれたそれは、背丈の成長の記録だった。多分、昔ここに住んでいた子供のものだろう。
不意に、鈴の音が聞こえ、クチナシの花の香りがした。
――ここには、りたろうの弟が住んでおった
いつの間にか、すぐ横に与姫がいた。
――しんざぶろうに嫁のみつ、子のしんた、きよ、あき、もいた
与姫は座敷を見回しながら懐かしそうに目を細め、以前この棟に住んでいたらしい人たちの名前を口にした。
「……その人たちはどうしたんですか」
息子や娘、その子供たちは、何故ここには住み続けなかったのだろうか。
――死んだ
与姫は何の感情もなく言った。
――みんな死んだ。しんざぶろうもみつもしんたもきよもあきも。りたろうも死んだ。総一郎も死んだ。和也も死んだ。
隆志の顔を見て、お前もいつか死ぬと退屈そうに言い、そして、
――人はみんな、すぐ死んでしまうのう
ため息をついた。
――みんな、わしを置いて死んでしまう。わしにずっとこの家に居れと言いながら、みんなみんな、先に死んでしまう
誰も、と神の早乙女は呟いた。
――神の田へ戻してはくれぬ
「戻りたいんですか」
寂しげな与姫に、ついそう問うと、
――戻す気もないのに問うな
厳しい口調で返された。
――戻す気があるなら、隠した物を返せ
与姫は冷ややかに隆志を一瞥すると、すたすたと座敷の方に歩き出した。
「隆志様、一休みされてはいかかですか」
明子が茶を運んできた。与姫は明子の身体を通り抜けて、奥の座敷へ歩いていった。が、明子はそれにまるで気づいていなかった。
「――どうかされましたか?」
唖然とする隆志を見て、明子が首を傾げた。
「……いや、何でもないよ」
隆志は改めて思い知る。
あの子は神の早乙女。家の守り神。
いずれにしても人外の者なのだ、と。
神の坐す家は始終静かだか、夜は更に深い静けさに包まれた。
広い母屋の奥の間には、何一つ物音が届かない。耳が痛くなるような静寂というものがこの世には本当にあるのだ。
母と暮らしていたアパートは宅急便の配送センターと運送会社に挟まれた昼夜出入りのトラックの音が響く騒がしい所にあったので、騒音に慣れた身では静かすぎる環境はかえって落ち着かない。
テレビもラジオもない部屋で、スマホで動画を見るのにも飽きても眠気の来ない中、天井を見上げているとこの屋敷に住んでいた頃のことをぼんやり思い出して来た。
父はこの家に戻って来てから、一日どこへも行かずずっと家にいた。
それまでは日中は『仕事』で家にいなかったのに、この家を継いでからは毎日が日曜日のようだった。
毎日父がいて、学校から帰ると遊んでくれるのがとても嬉しかった。
では、母は?
母は、この世久家当主のしきたりについてどう思っていたのか。
父が働かず家にいることについて嫌なそぶりを見せたりケンカしたりなどという憶えはない。
けれど、母はこの家を出た。嫁入り道具だった箪笥も鏡台も、思い出の品も全て置いたまま、カバン一つで。
その急激とも思える母の心境の変化に、隆志は思い当たるようなことは何もなかった。
ふいにカタカタと小さな音が聞こえた。
音は、床の間においた桐箱の中から聞こえていた。
母の遺骨が入った骨壷が鳴っているのだ。
隆志は震える手で箱を開けてみた。
音はぴたりと止まった、が。
隆志が見ている目の前で、青白い骨壷の蓋に一筋、ひびが入った。