7 与姫
昔々の話だ。
村に正直で働き者の一太郎という若者がいた。
ある夜、寝ていた一太郎は自分を呼ぶ声で目が覚めた。外に出てみるとみすぼらしい老人がいて、田植えを手伝ってくれないかと言う。自分の家の田植えは済んでいたので「手伝う」と返事すると、一瞬強い光に包まれ、次には広々とした昼間の田の端に立っていた。
見覚えのない、どこなのか分からない所だったが、老人との約束通り田植えを手伝った。田植えをしているのは自分以外みんな若い女で、しかも田は広いので、一日では終わらないのではないかと思っていたが、不思議と田植えが終わるまで日は沈まなかった。
やっとのことで田植えを終えると、老人から手伝いをしてくれた礼に何でも望みを叶えると言われ、へとへとに疲れて空腹だった一太郎は深く考えもせず「もう一生働きたくない。働かなくても食えるような身になりたい」と答えた。
すると老人はみすぼらしい身なりから神々しい姿に変わり、自分は「大歳神」であると名乗り、一太郎と一緒に田植えをした者の中から一番年下の少女を呼び、今しがた田植えの済んだばかりの田から一株の苗を引き抜いて少女に持たせた。
――この者を苗と共にお前の家に使わす
気がつくと一太郎は少女と家の前に立っていた。ほんの半日、田植えの手伝いをしたつもりが、家に戻ると三年経っていた。
三年も行方不明だった一太郎が突然戻ってきたのに驚く家の者に、少女は手に持った苗を掲げながら厳かに言った。
――これは一太郎が神の田より賜わりし苗。今より後、一太郎は一切働かぬ。その代わり、わしがこの家に富を授ける
少女が持ってきた稲の苗を植えた田は、他の田の五倍も実りをつけた。翌年、その米の種もみから育てた苗は村人にも分けられたが、よく実るのは一太郎の田だけだった。
ある年、村で一番貧しい家が一太郎に田を売り、雇われた形でその田で米を作ったところ、他の田と比べ物にならないほどの実りがあった。
『一太郎の田』なら豊かな実りを得られる。
村人はこぞって一太郎に田を売った。
昔、この家にいた頃、父から聞かされた世久家の興りとされる物語。
それはおとぎ話ではなかった。
一太郎が連れ帰った、神の田の早乙女が、ここに。
隆志の数百倍の年齢の少女は、呆然と立ち尽くす隆志を部屋の中に招いた。
背中に棒でも突っ込まれたようにギクシャクする動きで部屋の中に入った隆志は、与姫の前に正座した。
――お前が新たな当主か。名は何という
「は、はい。隆志といいます。よろしくお願いします」
深く頭を下げた隆志に、少女は鷹揚に頷いた。
――そうか。分かった。名と顔は覚えた。もう戻って休むがよい
これからは、と少女は素っ気なく言い捨てた。
――安楽に暮せ。わしがおる限り、一生、働かなくてもよい
与姫の元から部屋に戻った隆志は、しきたりの書が入っている箱を開けてみた。
箱の中には古く朽ちかけた冊子と比較的新しい冊子が入っていて、新しい冊子は隆志の祖父がその前の当主が書いた物を書き写した物らしかった。
しきたりの書に書かれている内容を後世の当主に残すため、代々の当主が代替わりの度にしきたりの書を新しく書き写すのが慣例になっているようだ。それだけここに書かれてあるしきたりは当主にとって重要だということだ。
が、父はそれを書き写していなかった。多分もっと年老いてからでもいいと父はのんびり構えていたのだろう。まさかこんなに早く病で命を落とすとは想像もしなかっただろうから。
祖父の字は綺麗な楷書だったが、文語体で書かれているため隆志は読める気がしなかった。
が、不思議にも読んでみれば内容は分かった。
当主は働いてはいけないことなど書かれてあるのは全て与姫――この家の守り神との約束事、いわば誓約だった。
『当主は毎年一番に収穫した新米を、人が食べる前に与姫に献上しなければならない』
『当主は毎年新米を収穫した月の晦日に、与姫に新しい着物と帯を献上しなければならない』
守り神に対して敬意と感謝を示すのは当たり前で、理解できるしきたりもあったが、
『当主は一晩たりとも与姫に無断で領地の外で夜を明かしてはならない』
『当主の茶碗と箸は毎年正月に新たな物に換え、古い物は焼いて壊し川に流さなければならない』
など、意味の分からない物もあった。
が、最後に「以上、守らぬときは相応の災厄を覚悟せよ。罪はその身の血で購うことになる」と脅しのような言葉が書き記されていた。
しきたりの書を読んでいるうちにさすがに疲れて、隆志は座ったままうたた寝をしてしまった。
体勢を崩して目を覚まし、しきたりの書を持ったまま寝ていた自分に気づくと、隆志はまだぼんやりしている頭で考えた。
自分は本当に神に会ったのだろうか。
この家に『守り神』がいて、自分がその『守り神』に会ったなど、冷静に考えればありえない。
あれは、疲れとこの家独特の雰囲気に飲まれて引きずられて見た夢ではないだろうか。
眠気覚ましに立ち上がり軽く首や肩を回して体を解し、廊下側の障子を開けると、もう夜明けが近いのか、外は薄明るくなっていた。
完全に夜が明けるのを待って、隆志は与姫の部屋へ行ってみた。奇妙なことにどう行けばいいのかは頭で記憶しているのではなく体が憶えていて、何の迷いなくも行き着けた。
昨日の夜には一杯に花をつけていたクチナシの生垣には、当たり前だが今は花の一つもない。
生垣は高く外側を見ることは出来ないが、どうやら屋敷のどこかの中庭にあるらしいのは分かった。
部屋の中に与姫の姿はなかった。行灯は消え、千代紙や紙風船も竹かごの中に入れて片づけられている。
ふと見ると、床の間に桃の花を活けた一輪差しと古めかしいままごと道具が飾られてあった。雛人形の段飾りに一緒に飾られているような小さなものだったが、箪笥や長持、煎茶道具や琴、鏡台まである漆塗りの本格的なものだった。
『与姫の御部屋の物は断わりなく触ってはいけない。また、何一つ持ち出してはならない』
隆志の頭をしきたりの一つがよぎった。
守らなければ本当に災厄が?
恐れ半分、疑い半分で、隆志はままごと道具の一つに手を伸ばし、シャツのポケットに入れて与姫の部屋を出たが――何も起こらなかった。
やや拍子抜けして母屋に戻った。
徹夜したせいか頭が鈍く痺れる。顔でも洗ってすっきりさせようと洗面所へ向かい、顔を洗ってタオルで拭うと、正面の腰辺りまで映る大きな鏡の中に疲れた顔の自分がいた。
朝食を取るより先に寝た方がいいか、とぼんやり考えた時。
鏡の中の自分の頭のすぐ横に、理解できないものを見た。
赤い花模様の着物の片袖と白い手が、自分の頭の後ろから生えている。
思わず振り返ったが、誰もいない。だが、鏡の中には確かに映っている。
片袖と手だけ。後は何もない。どう見ても、どう考えても、不自然で怪奇な。
さらに、白い手に小刀が握られているのを見て、隆志は硬直し思考は停止した。
するりと、手が前方に周り赤い袖が視界を覆う。
が、一瞬の内に袖は流れて消えた。
同時に体中の力が抜け、隆志はその場にへたり込んだ。
何だったのだろう、今のは。
恐る恐る立ち上がって隆志は鏡を見る。間抜けな顔の自分が映っているだけなのに安堵してため息をつくと。
突然、視界が赤く染まった。
額から鮮血が溢れ出し、またたく間に顔を、首を、シャツを赤く濡らした。
「あ……あああ……あああああああっ!」
隆志の叫び声を聞きつけてやって来た明子もまた悲鳴を上げた。
隆志の額に明子がタオルを押しつける。
「これで傷口を押さえて! 救急車を呼びますから!」
混乱が大き過ぎて何も考えられずズルズルと座りこみ、明子が走り去るのをただ茫然と見送る隆志の頭の中で、鈴の音が短く鳴った。
――たわけ者
目の前に、与姫が立っていた。クチナシの香と共に。
――世久の主なれば一度目はこれで許す。されど二度目は容赦せぬ
何の感情も感じられない淡々とした声に、かえって背中が泡立つ。
与姫は言葉の通りそれ以上隆志を責めることなく、姿を消した。
隆志の血まみれのシャツのポケットは空になっていた。