5 疑問だらけの過去 その2
少し考えさせて欲しいと隆志は三日間の猶予をもらい、東京に戻って母の友人の坂下典子を訪ねた。
「典子さん、どうして母さんは世久の家を出たのか、知ってたら教えてくれない?」
八年間何かにつけて母と隆志を支えてくれた家族にも等しい彼女には、父が危篤で会いに行くことや亡くなった後葬儀に出ることを電話で連絡してあった。
訪問する前には世久の家を継げと言われたことも伝えてあったが、開口一番訊ねたのはそのことだった。
やはり父と母の間に何があったのか知りたかった。母が父から逃げ続けた事情も知らず父の遺産の相続について考えるのは母への裏切りのように思えたからだ。
典子はすぐには答えず、煙草を一本灰にした後ようやく口を開いた。
「隆志。あんた、あたしが何の仕事してるか知ってる?」
NPO法人で仕事をしているということは母から聞いていたが、詳しい内容までは知らなかったので首を振った。
「DVって分かる? あたしが勤めてるのはそのDV被害女性のシェルター、駆け込み寺みたいな所なんだよ」
そもそも母が典子を頼って東京に来たのもそれが理由だという。
木を隠すなら森。東京で人ひとり捜すのはただでさえ難しいし、ここのNPO法人が絡めば、役所や学校、勤め先にまで協力を仰ぎ、連携して被害者親子の身元を隠して匿ってくれる。
母は父が追って来るのを確信していて、典子の所へ逃げ込んだらしい。
DVの加害者が被害者を追いかけて来るのは珍しいことではない。被害者が連れ戻されてさらに悲惨な結末になった事例は山ほどある。なので、まずは被害者の徹底的保護をというのが典子の属するNPO法人の基本姿勢だった。
加害者の追跡が執拗な場合は、偽名を使用して生活できるよう、各方面へ協力を依頼したりもする。実際それのおかげで八年間、母は父の捜索から逃れられていたのだ。が、
「……母さんがDV被害者? そんな」
確かに母は、真夜中に手荷物一つで隆志を連れて世久の家を出た。それは憶えている。けれど、父が母に暴力をふるっていたなんて、全く覚えがない。
改めて振り返って見れば、世久家を出た頃の記憶は断片的でひどく曖昧だった。
「たまに記憶のない子もいるんだよ。強すぎる恐怖体験に精神が壊れてしまわないよう、脳が先回りして記憶に蓋をしてしまうことがあるらしい。あんたもそれなのかもしれない」
自衛本能が、過去の恐怖の扉を閉ざし、関連するものを避ける。
母に世久の家を出た訳を聞かなかったのは、それでなのだろうか。
「佐恵子とあんたはありきたりなDV被害者じゃなかったんだよ」
母と隆志の身体には怪我はなかった。
「でも、佐恵子の怯え方が尋常じゃなくてね。『あの家にいたら殺される』って」
隆志は隆志で、問診で何を聞かれても表情乏しくぼんやりと首を縦か横に振るだけ。DV被害は身体的なものには限られず精神的暴力も含まれるとはいえ、母と隆志が保護に値するかどうか判断しかねる状態だった。
とりあえず典子が友人のよしみで自宅に連れ帰ると、翌日には世久家の依頼を受けたという弁護士が佐恵子と隆志を引き取りにNPOの事務所にやって来た。
「本人の同意を得ない」と突っぱねると、次は政治家を介して二人を世久の家へ帰すようあからさまに圧力をかけて来た。
「あいにくうちの所長はそういう脅され方をすると、逆に燃える性質でね」
さっさと書類揃えて関係各所に根回しして佐恵子親子を保護対象にしたのは、それだけが理由ではない。和也本人は全く姿を現さないくせに、弁護士や政治家など法や権力を使ってでも佐恵子親子を連れ戻そうとする陰湿さや執拗さが、かえって佐恵子たちの危機の深さを浮き彫りにしたからだ。
「所長の判断は正しかったよ。うちの法人を介しての離婚請求にも全く応じないで、興信所まで使って八年も諦めずにずっと佐恵子を追いかけていたなんてね。執着もここまで来れば異常だ」
母は執拗に自分と隆志を取り戻そうとする和也がNPO法人の活動範囲や人脈から居所を探り当てるのを警戒し、書類上はNPO法人のシェルターに保護されているように見せかけて、その陰で典子の個人的な伝手を何人か順々に頼み歩いて簡単には跡を手繰られないようにし、住まいと仕事を得た。
新聞に母の名前が載ってしまったのは、道路に倒れていた母が運ばれた病院が事情を知らず、通り魔の犠牲者ではないかと騒ぐマスコミに母が持っていた保険証の名前を伝えてしまったからだった。
母の勤め先と隆志の学校には事情を説明して偽名で通し、管轄の役所や警察にもDV被害者の届けを出して情報が漏れないようにしてもらっていたのだが、母が名前の公表をしてはいけない人間だったと警察が気づいた時にはもう新聞に名前が出た後だった。
かつては平凡な家族だった。
穏やかで物静かな父と明るく社交的な母は普通に仲が良く、どこにでもあるような家庭だった。
世久の家に戻るまでは。
「世久の家で何があったか、具体的に何か聞いた?」
母が真夜中に手荷物だけ持って急いで出なければならなかったような、出て行った後、行方を捜されないよう身を隠さなければならなかったような――何か。
「言葉の暴力と自由のない生活、は聞いたけどね。NPO法人に保護してもらうために用意してきた言い訳、のようにも思えたよ。でも、あえて問い詰めなかった。佐恵子が心の底から怯えていたのは真実だったからね」
隆志には成人したら全部詳しく話すつもりだと生前母は言っていたらしい。が、今となっては真実は全て闇の中だ。
典子は二本目の煙草に手を出す。
「もう終わってしまったことだよ。佐恵子は亡くなった。親父さんも死んだ。あんたに記憶がないなら、無理に掘り起こす必要はない」
何かを振り切るように典子は銀のライターをパチンと音を立てて閉じ、
「隆志。世久の家、継ぎなさいよ」
くわえ煙草のまま、苦そうに煙を吐きながら笑った。
「嫌な話だけどね、両親のいない今、あんたにとって一番強い味方はお金だよ」
典子のその言葉は、否定できない真実の重みがあった。
母子家庭で金の苦労は随分した。給食費を滞納したこともあったし、高校の修学旅行は費用が用意できず参加できなかった。母の葬儀にしても急なことで金がなく、卒業したばかりの高校の元担任教師とつい最近までアルバイトしていたレストランの店長に頭を下げて金を借りたくらいだ。
金があればこんな惨めな思いはせずに済んだのにと思ったことは数知れない。
世久家を継げばもう金に困ることはない。
「親が持ってたものを貰うだけだとシンプルに考えなさいよ。それにこれから先、何かあった時のことを考えると、他人しかいない町にいるよりも、まがりなりにも身内のいる町に住んだ方がいいんじゃない?」
母方の祖父母は隆志が生まれる前に亡くなっていて、母には兄弟もいなかった。確かにもう身内は世久の方にしかいなかった。
隆志は世久家を継ぐ決心をした。そして就職を辞退し、住んでいたアパートを引き払ってこの家に戻ってきたのだが……。
やはり漠然とした不安があったのだろう。妙な夢を見たのはたぶんそのせいだ。
今何時だろうと、部屋に時計はないか捜して振り返る――と、いつの間にか隣の部屋側の襖が僅かに開いていて。
その薄暗い隙間を赤い花模様の着物の裾がするりと翻って消えた。
――誰だ?
隆志は立ち上がり、襖を勢いよく開けた。
誰もいなかった。
人の気配すらなかった。
そこは大きな仏壇が居座るだけの、仏間だった。
背後で何か弾ける音がした。音は、隆志のバッグの中から聞こえた。
恐る恐る開けてみると。
バスの中でもらった数珠がバラバラに千切れていた。