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中山裕介シリーズ第7弾

「オレが閑職に回される!?」

友人のディレクター、多部亮に告げられた放送作家、中山裕介ユースケの仕事。今回彼に課せられた仕事とは一体?



「もうあんたには愛想が尽きた」

裕介のスマホに送信された、裕介の彼女チハルからのメール。果たして裕介は彼女に何をしでかしたのか?



「オレ、会社を辞めようと思ってるんだ」

突然発せられた多部からの言葉。会社を辞める決断をさせた事とは、一体何が起こったのか?



「紹介するね、この子」

別れた元カノ、チハルから裕介は新たな彼女候補を紹介される。その女性の正体とは?



紀元前四四年三月一五日。

「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」でお馴染みのジュリアス・シーザーは、元老院会議へ出席する為、ポンペイウス劇場へ向かっていた。

シーザーの妻、カルプルニアは前夜、

「あなたが殺される夢を見たの。だから今日の会議への出席は見合わせて」

悪夢を思い返し、夫に縋り付く。

シーザーは「そうか」と答え、一度は会議出席を見合わせる事を検討する。

しかし、随行員から、

「今日の会議はシーザー様不在中の、ローマ統治体制を協議する重要な会議です。ぜひご参加をして頂かないと」

こう忠告を受け、

「そうだな。私が出席しないと成立しないな」

シーザーは会議に出席する事にした。

だが以前、「三月一五日に注意せよ」と予言した占い師に、元老院への道中で出会い、シーザーは、

「おい、今日が三月一五日だぞ。何も起きなかったではないか」

と語ったが、占い師は、

「三月一五日はまだ終わってはおりません」

と返答。

占い師と別れた直後、事件は元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊にて、シーザーは暗殺されてしまう。

暗殺される際、腹心の一人であったブルトゥスも実行犯に加わっており、

「ブルトゥス、お前もか……」

シーザーは呟くように言った。

腹心に裏切られ、大きな落胆がシーザーを覆う。

そして、

「アッディーオ ローマ(addo roma 「さようならローマ」)」

と囁いた。

「何をブツブツ言ってるんだ! とっとと遣ってしまえ!!」

一人が叫び、シーザーに襲い掛かる。二三箇所の刺し傷の内、二つ目の刺し傷が致命傷となったという。

このシーン、これから始まる物語とどう関係して行くのか……。それは後程。



時は大きく移ろい、二一世紀の文京区のキャバクラ。

「安倍首相(当時)は来年四月に予定してた消費税率一○%引き上げの見送りについて、『延期をする為には法改正が必要となる。その制約要件の中で適宜適正に判断して行きたい』って記者団に語ったんだとさ」

二○一六年四月五日の新聞より。が、

「キャバクラに新聞持ち込むの、ユウくらいだよ」

チハルは嗤う。

「悪かったな。珍しい客で」

「別に怒んなくても良いじゃない」

チハルは尚も嗤う。別に良いだろう、新聞くらい。

チハルは数年前までキャバで働きながらAVの企画女優(単体では売っていない女優)のアルバイトも遣っていた。オレがまだ新人作家だった頃、ある番組の取材でAVの撮影スタジオへ行った時の事。

捲りで覆われたパネルの後ろに全裸の女性が立ち、一般的には簡単なクイズが出題されて行く。不正解の場合は捲りが一、二枚ずつ剥がされて行き、正解数に応じてイケメンの男優、不細工、又は中年の男優とSEXするという内容だった。

オレはチハルの番になった時、近くに置いてあったスケッチブックでちょっといたずらをした。

MC役のスタッフが、

「関ヶ原の戦いで徳川家康と対決した武将の名前は何でしょう」

とチハルに問題を出す。答えられない彼女に、オレは「小栗旬」と書いてチハルに見せた。「そんなアホな!」という答えだが、チハルはあっさり読んで見事不正解。腹のあたりの捲りを二枚剥がされた。

これが彼女との出会い。結果、チハルはイケメンの男優とSEXする事が出来たのだが、それだけ当時のチハルは「おバカキャラ」だったのだ。

撮影終了後、憤ったチハルはオレを待ち伏せし、「お詫びにデートに誘え!」と推測不能な要求をして来た。約束のデートは一応遂行したが、それ以来、未だに腐れ縁……いや、芳縁が続いている。「チハル」は無論源氏名だが、本名と呼び分けるのが面倒なので、普段から「チハル」と呼んでいる。

「それより何で君の売上にオレが貢献しなきゃいけないんだよ」

「良いでしょ。いつも尽くしてあげてるんだから」

「まあな……」

チハルは練馬区内のマンションに住んでいる。オレの自宅アパートは東京郊外だから、殆どチハルのマンションに居候状態……。だから家賃は半額出しているのだが、食事、洗濯の世話までもして貰っているので何も言い返せぬ……。

だからこの女は時々、「たまにはお店に来てよ」と誘って来る。「良いよね、別に」と柳に風……。せせら笑いやがって。今日もオードブルを勝手にオーダーしやがった。オレはつまみは「ピーナッツで良い」と言ったのに、人の金だと思いやがって……。

「所で消費税って、本当に来年上がっちゃうのかなあ」

「熊本地震もあったし、さてどうなる事やら」

結局、消費税は二○一九年十月まで再延期される事が決定されたけど。

「それはともかく、私からも発表があるの」

「何だよ勿体ぶって」

チハルは破顔一笑。何か嬉しい発表なのか?

「私、もう直ぐキャバを辞める事に決めたの」

「キャバを辞める!?」

特に大した発表でもないが驚愕してしまった自分がいる。オレとチハルは同い年だ。

「私もキャバの世界じゃ年増になって来たからね。それに、うちのお店は比較的落ち着いてるけど、女同士のいざこざにもう疲れちゃった」

「それは分かったけど、辞めた後はどうするんだよ?」

「バーを開店させたいと思ってるの。五反田(品川区)に良い場所を見付けてね。ラーメン屋さんの上なんだけどさ。バーの改装工事ももう始めてるし」

「いつの間にそんな事を……」

チハルはオレと違って行動が早い性格。

「ユウに心配掛けたくなかったからさ」

「バーテンダーはどうするんだよ?」

「全員女の子だよ。このお店の年増の女の子とか他店のお友達とか誘ってね」

「年増って失礼な」

「だって私と同い年だったり、歳が近い子が何人かいるんだもん」

「皆バーテンダー未経験だろ。その所はどうするんだよ?」

「それは大丈夫。バーテンダー経験者を副店長に迎えるから」

「でも他店にも友達がいたんだな。キャバ嬢はお互いぎすぎすした関係だと思ってたけど」

「歌舞伎町とか六本木みたいな大道系の所じゃなかったからね。結構仲良くしてるよ」

「他店のキャバ嬢と何処で知り合うんだよ」

「お客さんとアフターに行ったりした時にね」

「そういうものなのか」

初めて聞いた。

「でも準備が早い事。羨ましいよ、その行動力」

「まあね」

チハルは勝ち誇った笑みを見せる。付き合い始めて数年。オレが消極的で遅疑とした性格な事は当に看破されている。

その時、スマホが着信音を鳴らす。見ると友達の多部亮ディレクターからの電話。

「多部から電話だ。オレ、一足先に帰るわ」

「新しい仕事なんだろうね。ダメよ断っちゃ」

「分かってるよ」

会計を済ませ、財布の中から出て行った「福沢諭吉さん」に対し溜息を吐きながら店を出る。大通りでタクシーを拾い、チハルのマンションへと帰る。



多部亮ディレクター殿。制作プロダクション<ワークベース>の社員。クラブや合コンで女性と戯れる事が好きな男。その為、業界内では「チャラ男D」と呼ばれていた。一昨年結婚してからはそんな事はなくなったというが、真相はどうだか……。

多部はAD時代から知っている旧交ではあるが、オレより一つ上で業界歴も一年先輩だ。

チハルのマンションに戻り、多部に折り返し電話を掛ける。

「多部、さっきは電話に出れなくて済まなかったな。どうかしたのか」

分かりきっている事だが一応訊いてみた。

『仕事で忙しい時に急に電話してごめんな』

まさかさっきまでキャバクラにいたなんて言えぬ。

『実は仕事の話なんだよ』

案の定……。

多部は事務所を介せず、「急にオファーした方が、お前は仕事を躍起になって遣る」と言って、いつも直接仕事を振って来る。

「それで、今回はどんなジャンルなんだよ」

気持ちは諦めモード。

『実は『BARBER KIG』の出場者の日記を書いて欲しいんだよ』

『BARBER KIG』はTHS(東京放送システム)にて、一部の系列局で放送されている深夜番組。

ルールは、美容専門学校の生徒が一対一のリーグ戦で対決。モデルとなる男女の髪をスタイリングし、どちらの髪型に共感を持てるかを、観客の女性百人が審査する。五勝連続勝利者には、東京都内の代表的な六店の美容院への入店が約束されるという体で放送されているが、実態は関東近郊の美容院に勤めるプロの美容師が出場している。従って雀の涙程のギャラしか支払われていない。

「お前あの番組のディレクターを担当してるんだよな。完璧な「やらせ番組」じゃん」

『確かに、「やらせ」なのは「やらせ」なんだけど……』

多部は訥弁になった。

『あの番組、エンディングで出場者にインタビューするだろ? それだけじゃなくて本番後にコメント(日記)を寄せるんだよ。観た事あるだろ』

「あるけど、個人的にはエンディングのインタビューだけで良いと思うんだ、オレ」

『日記は新山さんが考えた演出なんだよ』

「今までは誰が書いてたんだよ」

『ADとかオレ達ディレクターが書いてた』

新山浩斗CPチーフプロデューサー。元暴走族上がりの局P(テレビ局社員のプロデューサー)。出演者やスタッフからは鬼と恐れられている厳格な性格の人。出来れば一緒に仕事はしたくない人だ。

「今まで通りADとかディレクター達で書けば良いんじゃないか」

『そんな事言わないでくれよ。新山さんに日記を書く作家を探して来いって命令されたんだよ。お前にしか頼める奴がいなくてさ』

多部が困り顔をしている姿が目に浮かぶ。

「そう言われても嫌だね」

日記を書くのが嫌なのか、新山CPと仕事をするのが嫌なのか……自分でも良く分からなくなって来た。

『そんな事言わないでくれよユースケ。今回は日記だけ書いてくれればそれで良いからさ』

「所で何でオレなの? 作家の友達なら他にもいるだろ」

『それは……お前が一番頼み易いからだよ』

出た、多部Dの本音……。

「構成には参加出来ないのか?」

『日記だけで良い。会議でも一切意見を言わなくて良いからさ。閑職だけど我慢してくれ』

「オレが閑職に回される!?」

思わず声が大きくなってしまう。放送作家は意見を出して何ぼだから。

『今回は本当に申し訳ない! 新山さんの性格知ってるだろ。あの人、自分が認めた人じゃないと意見を聞かない人なんだよ』

「それは知ってるけど……」

今度はオレが訥弁になってしまう。

『今回だけは勘弁してくれ。ギャラはちゃんと払うからさ』

電話の向こうで多部が頭を下げて懇願している姿が目に浮かぶ。

「ギャラの管理はAPアシスタントプロデューサーの仕事だろ。分かったよ書くよ。書けば良いんだろ」

最終的に諦めてしまった。オレも押しに弱い……。

『本当か!? 恩に着るよユースケ!』

多部が破顔している姿が目に浮かぶ。自分の任務が遂行されたと思いやがって……。全くもって忌々しい。

しかし今回多部Dから与えられた仕事。ギャラはちゃんと払う。だから閑職でも勘弁してくれ。という事か。さてどうなる事やら――



六月に入り、正式に『BARBER KIG』の番組サイドから、オレが所属する放送作家事務所、<マウンテンビュー>にオファーが入る。

自分のデスクで他番組のホン(台本)を書いていると、

「中山君、新しい仕事のオファーが来たよ」

陣内美貴社長が少し硬めの表情で告げた。

「分かってますよ。『BARBER KIG』からでしょう。多部から懇々と説得されましたよ」

因みに陣内社長はオレが作家見習いの時の教育係だった人。今まで消極的なオレの背中を押す……ではなく蹴り飛ばして来た人だ。そのおかげで仕事には不自由はないんだけど、この社長もオレにとっては鬼だ。

「今回は日記を書くだけの閑職みたいだけど、気を抜かないようにね。でも、新山さんは厳しい人だからね。会議もピリピリしてるっていうし、自分が気に入った相手の言葉しか受け付けないらしいんだよ」

「知ってます。それも多部から聞きましたから」

「中山君のキャリアからしたら少し物足りないだろうけど、何とか我慢して頑張って」

陣内社長は案じている様子。少し硬めの表情といい、今の表情といい、事務所スタッフを気遣ってくれているのだ。

「新山さんのような人は正直苦手ですけど、何とか遣ってみます」

引き受けた以上、それしか答えようがない。

「そう。じゃあ頼んだよ!」

陣内社長の表情が「頼もしい!」といった表情に変わった。と、ここまでは良かったのだが――

六月下旬の金曜日の午後。オレにとっては初の『BARBER KIG』の構成会議。

噂通り、新山CP以外、ディレクターも作家も緊張した面持ちで、会議室全体がピリピリとした雰囲気。オレも雰囲気に呑まれて緊張してしまう。

余談だが、新山CPは曾て某若手芸人のラジオ番組が終了する際、電話で生出演し、「つまんねえんだよ。つまんねえから終わるんだろ」と暴言を吐き、放送局のプロデューサーやディレクター、編成局陣を激怒させた過去がある。

尚、この発言については、直接放送局まで出向き、「番組がつまらないんじゃなくて、パーソナリティーの芸人がつまらないという趣旨で言った」と、釈明したと聞くが、本心はどうなんだか……。

それはそうと会議の冒頭で、

「新しく日記を書く担当は中山だな。お前は日記だけを書いてれば良い。後は何も言うな」

いきなり言明される。

「つまりは意見を出さなくても良いと」

恐る恐る訊いた。

「そういう事だ」

新山CPは面倒臭そうな口振り。

「なるほど。これは正に閑職ですね」

「ね」の時に多部と目を合わせた。多部は「申し訳ない」といった表情を見せる。

「閑職だろうと仕事は仕事だ。何か文句あるか?」

「いえ、別に」

これ以上は何も抗えない。

会議が始まり新山CPは早速、

「おい多部達ディレクター! もっと数字(視聴率)に結び付くような美容師を探して来い!」

と、威令を下す。

「はい、済みません。番組が放送されてない県から腕利きの美容師を探して来ます」

多部らディレクター人はしんみりとしてしまう。

「このままの数字じゃ番組は打ち切りになるぞ。ったく」

新山CPの忌々しそうな顔な事……。

実は『BARBER KIG』は二四時台(深夜零時)の放送である事だけではなく、『カリスマ美容師ブーム』が去った事もあり、関東地区で二~三%をうろうろし芳しくない。しかも――

ある女性放送評論家から某雑誌にて、

『二○○○年代初頭はカリスマ美容師が多数いて、ブームにもなりました。美容師を主要においた番組も数多とありましたが、それも今や昔。

現在放送されている『BARBER KIG』は、企画意図、内容からしても、全く新鮮味を感じられません。

「古き時代よもう一度」。というコンセプトでスタートされた番組なのかもしれませんが、やはり「昔の番組をデフォルメしただけ」だったのです。

制作局の編成局長は、「非常にクオリティーの高い、THSの宝と言ってもいいコンテンツだが、視聴率的には苦戦しているのが事実。編成枠などの問題もあるかと思う」と仰っているようですが、制作側も視聴率が悪いのは分かっているから、途中で色々演出方法や番組構成を変えたりして、一生懸命悪あがきをしている感がありますね。

『カリスマ美容師ブーム』の頃は、庶民が今まで縁が無かった「高級美容院」に手が届き始め、その「勉強番組」として視聴者の興味を引いたのでしょう。

ですが、現在は雑誌やインターネットでも多数取り上げられ、美容院名・カットのBefore・Afterの写真は直ぐに手に入り、ちょっと興味がある人なら何でも知っているので、勉強にもならない。

どれも「時代」です。なので、多少番組内容を変えようが、演出を工夫しようが、出演者を変えようが、「番組の根本の企画内容」自体が、既に時代にそぐわないので、何をやっても上手くいかないと思います。

そんな『BARBER KIG』にダメンズ賞を贈りたいと思います』

と、不名誉な賞まで贈られる始末。それに到頭出て来た、「昔の番組をデフォルメしただけ」のワード――

「もう「やらせ」は止めて、従来通りの学生対決の番組にしてはどうですか?」

「意見を言うな」と言われたばかりだけど、堪えきれず新山CPに盾突いてしまった。すると新山CPは瞬時に鬼の形相となり、多部と目が合うと「バカ!」という目付きをされる。

「おい中山! 誰がお前に発言して良いと言った!!」

オレは新山CPに睨まれ背中を「ゾクッ」とさせられた。これが新山CPが「鬼」と恐れられている所以か……。

「お前は日記だけを書いてれば良いって言っただろ! お前みたいなポンスケの意見なんか誰が聞くか!!」

「ポンスケ?」

「愚か者という事を上品に言ってやってるんじゃねえか!」

初対面でちょっと意見しただけで愚か者……。それに「ポンスケ」なんて上品でも何でもないと思うのだが。

「やらせ番組」を取り仕切っているCPの方がよっぽど「ポンスケ」、愚か者だと思うのだが、新山CPの形相を見ればぐうの音も出ませぬ。

この間、多部は疎か他のプロデューサー、ディレクター、作家仲間も誰もフォローしてくれる気配はなし。それだけ皆が新山CPを恐れている事を、嫌でも痛切させられた。



会議終了後、多部と共に喫煙室へ入る。

「あれで分かっただろ。新山さんがどんな人物か」

多部はタバコに火を点けながら言う。少し疲れた面持ち。

「ああ、鬼の形相で睨み付けられた上に愚か者とまで言われて、十分理解出来たよ」

紫煙を吐き出す息も溜息だ。

「日記を書くだけだったら、オレは会議に出席しなくても良くね?」

意見も言わせて貰えないんなら時間の無駄だ。

「いや、会議には顔を出してくれ」

多部は真顔で紫煙を吐き出しながら言う。

「何でだよ?」

「お前も「一応」番組の作家だからな。新山さんはそこんとこも煩いんだよ」

「そうなのか……」

これくらいしか返す言葉が見付からない。



一夜明けて練馬区内のチハルのマンション。

「美容師」の日記を書くという事は、専門用語を勉強する必要がある。早速ノートパソコンをネットにつなぎ、美容師専門用語のサイトをあちこち閲覧して回り、使えそうなサイトをプリントアウトして行った。

その時一瞬、昨日の会議の模様が頭を過る。しっかしいきなり「ポンスケ」はねえよな……。オレのあだ名は「ユースケ」だ。

気分が段々、鬱屈して来る。その時、食器棚に置いてあるチハルのブランデーが目に入った。中身はボトル半分くらい。

「ちょっとくらいなら良いだろう」そう思い、コップに氷を入れ、チハルのブランデーに許可なく手を出してしまう。今の気分を何とか酒によってでも晴らしたかった。が、鬱屈した状態で飲む酒は旨くない。はっきりいって自棄酒としかいいようがない。

「ちょっとくらい」の思いで飲み始めたブランデーを、僅か三十分で飲み干してしまった。

そこにパジャマ姿のチハルが起きて来る。

「ごめん。チハルのブランデー飲んじゃった」

「仕事中にお酒飲んでるの!? しかも午前中から人の物を勝手に」

チハルは目を丸くする。

確かに午前中から、しかも仕事をしながら酒を飲むのは良くない。それに今日は車の運転も出来ない。午後から別番組の会議が入っているが、電車で行くしかないか。それどころか「酒臭い」って言われるだろうなあ……。

「ねえ、ユウってバカなのアホなの? どっち」

呆れた様子のチハルから問い詰められる。

「多分、どっちとも……」

「いやそうじゃなくて、ユウってバカなの?アホなの?」

「だからどっちもだって」

「「両方だよ!」って私が言いたいんだよ!!」

チハルは煩雑そうな口振り。

「新しいのを買って来るから勘弁してくれよ」

「勘弁して欲しいのはこっちだよ! 朝からお酒飲みながら仕事して良いの!?」

「多分、良くない……」

それを分かっていながら……。

「「多分」じゃなくて絶対だよ!」

チハルは説得するように語気を強める。

「多部から閑職を頼まれたんだよ。しかもチーフプロデューサーは厳格で、ちょっと意見しただけで「ポンスケ」って言われた」

「ポンスケ?」

「愚か者を上品に言ってるんだとさ」

「それはかわいそうだと思うけど、お酒とは関係なくない?」

「酒で気を紛らわせたかったんだよ」

「気持ちは分かるけどさ、朝から飲んじゃダメだよ。新しいのは私が買うから次からは夜に、ちゃんと私から許可取ってよね」

チハルから釘を刺され、

「分かったよ。ごめん」

面倒臭そうに答えた。ったく、酒くらい良いじゃねえかよ。酔っているせいだろう。開き直っている自分がいる。

「本当に分かってるの?」

チハルはオレの心を看破しているようだ。



その週の金曜日。初めて書いた日記を手にTHSへと向かう。新山CPに提出する為だ。因みに今日は素面。だから車で来た。「酒臭え!」と新山CPに怒られるのは嫌だから。

スタッフルームに入り、

「新山さん、日記を書き終えました」

と告げると、

「出来たのか。どれ見せてみろ」

新山CPが二枚のコピー用紙を引っ手繰るようにして手に取り、早速読み始める。

初めてとなる今回は、女性VS女性の対決だった。その為、女性に成りきったつもりで書いたのだが……。

勝者の日記。

『とにかく一勝できたのは本当にうれしい。後輩のアシスタントの手際が悪くて負けたかなあって思ったけど、なんとかレイヤースタイルとしてリカバリーできて良かった。二勝目ができるように、次回まではアシスタントをもっと指導しておこうと思う』

敗者の日記。

『今回は残念な結果でしたけど、中間アシスタントさんも頑張ってくれてとても助かりました。今回はボブスタイルでしたけど、次回出場させてもらえたら、グラボブヘアスタイルに挑戦したいと思います』

読み終えた新山CPは渋い表情を浮かべた。

「おいポンスケ」

出た、また「ポンスケ」。僕は「ユースケ」なんですけど。

「アシスタントとか「プロ」みたいな言葉使いやがって、もっと「学生」らしく書けよ!」

新山CPはそう言うと、コピー用紙をデスクの上に放り投げる。でもアシスタントがいるのは紛れもない事。いきなりダメ出し。

「ボツって事ですか?」

「当たり前だろ! もっと素人っぽく書いて出直して来い」

「「学生」風……」

「そうだよ。出来ねえのか、殺すぞ!」

新山CPがオレを睨み付ける。「ポンスケ」の次は「殺すぞ」か……。何と物騒な言葉を平気で……。

「分かりました……」

せっかく専門用語を勉強して書いたのに、振出しに戻ってしまった。チハルの酒を勝手に飲んだ罰が当たったのだろうか……。全身の力が抜けそうになる。

翌日。日記を書き直し、再び新山CPの元へ向かう。因みに今日も素面だ。本当は飲みたかったんだけど、職場に行くんだから当たり前か。

「書き直して来たのか。「学生」風に書いたんだろうな?」

「はい」

新山CPの眼光は鋭く、嫌でも緊張してしまう。流石は族上がり……。

勝者の日記。

『一勝できて本当にうれしい。手伝ってくれる人も緊張してたみたいだけど、なんとかレイヤースタイルを完成させることができた。モデルの人は喜んでくれたかなあ?』

敗者の日記。

『今回は残念でしたけど、また挑戦したいです! アシストしてくれる人も頑張ってくれて、今回はボブスタイルを無事カットすることができました。それだけでも私は満足しています』

「少しはましになったな。よし、これで良い」

読み終えた新山CPは、渋々だがOKしてくれた。所がである……。



翌週の火曜日。名古屋の視聴者が、『この前『BARBER KIG』に出てた美容師に、オレ髪切ってもらったぜ。あの番組「やらせ」じゃね?』と、ツイッターに投稿し、瞬く間にその投稿は拡散してしまう。

その直後からネット上では、『やっぱりやらせかあ』『どうりでヘアスタイルの完成度が高いわけだ』といったリツイートが相次ぐ。その影響で番組の数字は二%台と下がってしまった。

ネットの反応を受け、週刊誌も番組の問題を探り始める。

その週の金曜日の会議での事。

「やっぱ愛知の美容師を遣うんじゃなかったなあ……」

新山CPは珍しく気弱な口振りで頭を抱える。それ見た事か。

「あの番組は百パーやらせだって、どっかのテレビ局関係者が週刊誌の取材で答えてましたね」

とは、多部Dの言葉。

「百パーやらせだあ? オレはガチのつもりで遣ってるんだぞ!」

眼光鋭い新山CPに睨まれた多部は、

「済みません……」

と意気消沈してしまう。だが他局にまで番組の「やらせ」が漏れていてはもうお手上げだ。

「だから「やらせ」をなくすべきなんですよ」

あ~あ、また口走ってしまった……。多部と目が合うと、「知らねえぞ」という表情。さっき自分が怒られたばっかだから尚更だ。

オレの発言で新山CPはまた渋い表情となり、

「おいポンスケ! お前の意見なんか求めてねえんだよ。お前は日記だけを書いてれば良いって言っただろ!」

と一蹴される。また何も言い返せなくなってしまうのか……と思ったが、

「だって「やらせ」は紛れもない事実じゃないですか。現にツイートされた訳だし」

「お前も一々うるせえ男だな。あれは「やらせ」じゃなくてオレが考えた「演出」なんだよ。何も知らねえくせして分かったような口利くな!」

「「演出」ですか……」

結局、新山CPの眼光の鋭さに、また何も言えなくなってしまった。今回もフォローしてくれる人は誰もなし。それどころか、

「おい多部、お前も陸な作家は紹介しないな。もっと従順な奴を紹介しろよ」

「済みません……でも仕事は出来る奴なんです」

「仕事は出来るだと? あんなポンスケが大した仕事出来る訳ねえだろ」

新山CPは見下した口振り。オレのプライドはずたずただ。それにしても多部にまでとばっちりを味わわせてしまった。今更ながら、新山CPは鬼軍曹だな……。

会議終了後、

「多部、さっきは巻き添えにして悪かったな」

一応謝った。

「いや、それは全然良いんだけどさ、ユースケ、本当はオレもお前と同じ気持ちなんだよ」

やっとフォローしてくれる奴が現れる。

「数字は落ちる一方だしな。でも新山さんあんな性格だろ、誰も盾突けないんだよ」

「それは会議初日と今日でよーく分かったけど、意見が言えない作家なら、オレは会議に出る必要なくね?」

「いや、初日にも言っただろ。会議には出席してくれって。お前には本当に申し訳なく思ってるけど」

多部はいつになく元気がない。元気だけが取り柄のような奴なのに……。オレよりかわいそうなのは多部ディレクター殿なのかもしれない。だって「従順」ではないこんな輩を新山CPに紹介したんだから。

しっかし意見も言わせて貰えず、只会議室の椅子に座ってるだけの放送作家。これでも作家といえるのだろうか……。



八月に入り、チハルはキャバを辞め、本格的にバー開店準備に取り掛かり始めた。

「もうお店の改装は済んだからね。後は開店を待つだけ」

チハルは破顔し、何と嬉しそうな事。だがオレは、新山CPとの鬱憤が溜まり、またチハルのブランデーに無許可で手を出してしまう。しかも新品の……。

「ユウ、また私のお酒飲んだ?」

「いいや」

嘘を付いてもバレると分かっているのに……。

「嘘お。だって減ってるんだもん。許可取ってって前に言ったよね」

ほらね。また詰め寄られてしまう。

「分かったよ。酒代出せば良いんだろ」

「お金の問題じゃないよ! 人の物を勝手に、しかも午前中から飲んでる事に怒ってるの!」

チハルの声が声高になって行く。

「だから前にも言っただろ。多部から閑職を頼まれたって。会議でも意見出来ねえし、飲まなきゃ遣ってらんねえんだよ!」

「だからって勝手に飲んで良いって理由にはならないでしょ! それに他の番組じゃちゃんと放送作家の仕事遣ってるんでしょ? 何よ、飲まなきゃ遣ってられないって」

「そうだな……」

ここまで言われると何も言い返せない。チハルが言う通り、確かに他の番組ではちゃんと作家として働いている。閑職は『BARBER KIG』だけだ。

それに話は変わるけど、この前他の番組の会議で、作家仲間に「ユースケ、お前酒臭せえぞ」と、やっぱり鼻を抓まれた。



その週の金曜日。

「おいポンスケ、全員分のハンバーガーを買って来い」

新山CPがオレに命令する。到頭パシリに使われるようになったか……。仕方がない。

「良いですけど、金は?」

自分の席から新山CPの元へと向かう。

「しょうがねえなあ」

新山CPは渋々といった感じで、尻のポケットから財布を取り出す。「買って来い」って言ったのは誰なんだよ。

「金はこれで足りるだろ」

新山CPは財布から五千円を抜き出しオレに差し出して来た。

「おいポンスケ、「当然」お前の分はないからな」

パシリに使われ釘を刺される始末……。

「僕の分はない……」

「当然だろ。お前は椅子に座ってるだけなんだからな」

「意見を言うな。でも会議には出席しろ」と威令して来たのは何処の誰だよ。ったく……。「分かりましたよもう」口に出せる筈もなく、渋々会議室を出る。会議室内には、オレを除いて十四人はいる筈だ。

THS近くのハンバーガーショップまで徒歩で行き、十四人分のハンバーガーを注文する。

「こちらでお召し上がりですか」

女性店員が訊く。

「いや、持ち帰りで」

十四個も一人で食う訳ねえだろ。マニュアルは煩わしい。十四人分のハンバーガー、しめて千四百円也。ハンバーガーが入ったビニール袋を持ってTHSのA6会議室に帰る。

「買って来ましたよ」

「おいポンスケ、釣りは返せ」

「はいはい分かりましたよ」心の中で呟きながら、釣りを新山CPに返す。

「おい皆、一人ずつ取りに来い」

スタッフが席を離れ、「ありがとうございます」「ごちそうになります」と言いながらハンバーガーを一つずつ取って行く。

「皆、オレからの奢りだ。その代り良い案を出してくれよ!」

十四人のスタッフは全員「はい!」と答えてハンバーガーを食べ始めた。が、「当然」オレには何もなし。あるのは途中コンビニで買ったお茶だけ……。どういう扱いだこりゃ。



八月下旬。いよいよ五反田にあるチハル経営のバーが開店する。

「気が向いたらお店に来て」

とは言われたけど、他の番組のホン書きやら日記も書かなきゃいけないやらで忙しく、オレはバーの開店祝いにも行かず、一人チハルのマンションのリビングで仕事を続けた。しかし、日記となるとどうも気持ちが失せる。

その時、またブランデーが置いてある食器棚に目が行ってしまう。「ダメだダメだ」と思念し自分に言い聞かせるのだが、結局、またグラスに氷を入れ「無許可」でブランデーに手を出してしまった……。しかもまた新品の。

翌日の午前中、もう片方の出場者の日記を書こうとしたオレは、

「なあチハル、ブランデーまた貰っても良いかな」

恐る恐る尋ねると、チハルは食器棚の所へ行きブランデーの瓶を確認する。

「あげない。しかも午前中だしまた減ってるもん。また勝手に飲んだでしょ」

チハルは蔑むような口振りで問い質す。

「だから何回も言っただろ。飲まなきゃ遣ってられねえって」

「だから勝手に飲んだの? そんな理由社会で通用するとでも思ってるの?」

「そんな時だけ合理的な事言いやがって! 酒くらい別に良いだろ!!」

怒りに任せて声高になってしまう。

「「酒くらい」だったら自分で買えば良いでしょ! 何よ、自分勝手な事ばっかり言って!」

冷静に考えればチハルの言う通りだ。酒が飲みたければ自分で買えば良いだけの話。何故今までそうしなかったのか……。だが、今のオレは冷静にはなれなかった。

「自分勝手とは何だよ!?」

即座にソファから立ち上がり、チハルの元へ近付くと彼女のTシャツの胸倉を掴んだ。因みにチハルの服装はTシャツにノーブラ、下はTバック。だが怒りに任せて胸倉を掴んでしまった今のオレには性欲は存在しない。

「何よ。殴りたいんなら殴れば良いでしょ!」

彼女の言葉に感情が高ぶってしまった。「パシン!」チハルの左頬を殴ってしまう。

チハルは無表情のまま、

「本当に殴ったね!? もう片方も殴りたいんでしょ。不満があるんなら殴れば!」

右頬をオレに向かって差し出す。彼女の行為にオレの感情は更に高ぶった。

「パシン!!」無言でチハルの右頬も殴ってしまう。

「痛っ! 力一杯殴ったね! もう知らない。勝手にしてよ!!」

今度のチハルは無表情ではなかった。ブチギレした顔で自室へ戻り、外出着に着替えると、そのまま無言でマンションから出て行ってしまう。

怒りに任せて力が入り過ぎてしまった……。それに、今回の事は誰が見聞きし

ても百%オレが悪い。後の祭りだが猛省し、ブランデーには当然手を付けず、コンビニまでビールを買いに出た。

コンビニで第三のビールを四缶買い、マンションに戻ってもチハルの姿はない。それに、オレの車のキーもなくなっている。酒を飲んだので今日は運転出来ないけど、車で何処に行ったのだろう……。「人の車を勝手に使いやがって!」と怒る資格はオレにはない。



その日、某キー局で会議があった。午前中からビールを四缶も飲んだので勿論電車移動。会議室に入ると、

「おいユースケ、お前また酒くせえぞ」

と作家仲間から背中を「パシン」と叩かれた。酒に強い訳でもないのに四缶も飲

むからだ。また後の祭り……。

その会議中、オレのスマホがバイブした。会議終了後に確認すると、チハルからのメール。

『もうあんたには愛想が尽きた。力一杯平手打ちされたときに思った。

閑職を任されたから、会議で意見できないから、今まではかわいそうに思って許してたけど、もう限界。つら過ぎる。

私よりも寛容で穏やかな女の人がいれば良いね』

絵文字も使われず、端的なメール……。頭から冷や水を被せられた気分で落ち込んでしまう。

「どうしたユースケ。元気ないぞ」

作家仲間から声を掛けられたが上の空。

「いや、何でもないんだ」

咄嗟に取り繕うものの、

「声が落ち込んでるぞ」

と直ぐに看破されてしまう。オレって良くいえば正直な奴。悪くいえば不器用か……。

「『BARBER KIG』で閑職に回されてるんだってな。元気出せよ!」

と励まされる。確かに、「それ」に関係した事なんだけど……。

オレはこの日の晩、チハルのマンションには帰らず、電車で郊外の自宅アパートに帰った。愛想を尽かされた人間は、もう「おかえり」とも言われず歓迎されない事は目に見えている。



「チハルちゃんと喧嘩した!?」

珠希は驚愕の表情。

チハルと喧嘩別れした翌日の午前中、事務所に出社すると、珠希は休憩エリアの椅子に座っていて、

「ユースケ君おはよう。チハルちゃんは元気」

と訊いて来た。

そんな珠希のフルネームは浜家珠希。研修中はオレが教育係を任されていた。

先輩のオレを「ユースケ君」と呼ぶように、誰に対してもフレンドリーで明るい子。

「あんなに仲良かったのにどうして?」

「ちょっと色々あってな」

まさか勝手に酒を飲んで喧嘩したとは言えまい。

「怒りに任せて両頬に平手打ちしてしまったんだ」

言わなくても良い事まで打ち明けてしまった。

「チハルちゃんを殴ったの!? 女性に暴力は良くないよ」

珠希の驚愕の表情再び。

因みに今日も素面。だが車がないので電車で一時間掛けて来た。だって陣内社長にバレると怒られるのは火を見るよりも明らか。あの人もオレにとっては鬼軍曹だ。

「謝った方が良いよ。「ごめんね」って」

「うーん、それも考えたけど、女性って怒ると怒りが収まるまで時間掛かったりするじゃん」

「それは言えるけど、メールでも良いから「昨日はごめんね」って謝っといた方が良いよ」

「そうかなあ……」

「そうだよ。あんなに尽くしてくれる彼女を失うのは損だよ」

打算的な考えかい……。

でも愛想を尽かされた彼女に謝罪のメールを送る。どんな返事が返って来るのやら……。オレは少し怯えを感じながらも、珠希に言われるがまま、バッグからスマホを取り出した。

「ほら、早く早く」

珠希が急かす。結果が楽しみなだけじゃないか?

そこにオレより半年後輩の大畑新あらたが、オフィスエリアから出て来て休憩エリアの椅子に並んで座っていたオレ達の方へ近付いて来た。

オレ達とは向かいの椅子に座り、

「何だ何だ二人して。ユースケ、何かあったのか?」

大畑は興味津々といった顔付き。

「彼女と喧嘩別れしちゃったんだって」

珠希、こいつに余計な事を言うな。

「彼女って、あのキャバで働いてるあの彼女の事か?」

ほらな。食い付いて来た。

「そうだよ」

大畑は本当に調子の良い奴で、事務所内でも素っ頓狂な存在。だからこいつにだけは知られたくなかった。

「しかも両頬を平手打ちしちゃったんだって」

だから珠希! 

「女に暴力はダメだろう。ちゃんと謝った方が良いよ」

「もう分かった、二人して」

「分かったなら良し!」

珠希も大畑も笑顔。笑ってる場合か! この二人にも平手打ちをお見舞いしてやりたい。

オレは仕方なくチハルへ向け、「昨日はごめん。両頬は大丈夫か?」とのメールを打ち始める。二人に促され、渋々謝罪メールを打ち込んだのは良いが、今度は送信しようかどうか迷ってしまう。

「何だよ。打ち終わったんなら躊躇しないで早く送っちゃえよ」

「いや、ユースケ君頑固なとこあるから暫く見守ろう」

珠希はそう言って大畑を説得した。

「しょうがねえ奴だなあ」

大畑は腕組してオレがメールを送信するまで動こうとしない様子。

「大丈夫だって。多分許してくれるよ」

珠希は本当に楽観的な奴。彼女はチハルから返信が来るまで動こうとしないな。

約十分悩んだ末、オレは意を決してメールを送信した。

「ユースケも存外優柔不断な奴だな」

大畑は呆れている。

「悪かったな!」

オレがふて腐れていると、五分もしない内にチハルからの返信。

「どれどれ、どんなメール? チハルちゃん許してくれた?」

珠希がオレのスマホを覗き込む。

「まだ読んでないよ」

メールを開くと、

『しばらくほっといてよ! あんた甘いよ。自分が閑職に回されたのを多部さんのせいにしてる。

それで私のお酒勝手に飲んで。それで気が晴れたの? あんたにはもうお手上げだ』

とのメール。また絵文字も入っていない。怒っているんだから当然か……。しかも、チハルからは今まで「あんた」なんて呼ばれた事はない。その彼女が「あんた」と繰り返すのだから、オレは相当な事をしたという事だ。

「チハルちゃんも結構上から目線な事言うね。お酒勝手に飲んで喧嘩したの?」

やっぱりバレてしまった……。

「閑職で気が失せてつい」

としか答えようがない。

「そうだったんだ」

珠希は落胆した様子。何故君がヘコむ?

「閑職って『BARBER KIG』の事だろ?」

大畑の耳にも入っていたか。

「どれどれ、オレにも読ませてくれ」

「はいよ」

スマホを大畑の方へ差し出した。もう何もかも諦めの言動。メールを読んだ大畑は、

「普通にヘコむメールだな」

落胆した様子。何故あんたがヘコむ? 

「閑職に回されたのを多部のせいにしてるってあったけど、別に頼まれたと言っただけでせいとは言ってないんだけどな」

「業界人以外には分からない事情だよ。まあ元気出せよユースケ! 日本でも半分は女なんだからな!」

大畑の調子の良い部分はここ……。



翌日、チハルがマンションにいない時間帯を狙って、マンションに残した私物を全部オレのアパートへ持ち運ぶ事にした。合鍵を使ってマンションに入ると、リビングのガラステーブルにオレの車のキーが置かれている。オレが私物を持ち運ぶ事を予測していたようだ。

オレはプリンターといった仕事道具、着替えなどの私服、洗面用具などの私物を全部車に乗せて行く。作業が全て終わった後、車のキーと引き換えに、「今まで本当にありがとう」というメモと合鍵をガラステーブルの上に置き、チハルのマンションを後にした。

次の日から、郊外の自宅アパート近くのコンビニでビールを四缶買って多飲しながら日記を書いたり、別番組のホンを執筆するオレ。朝から酒を買いにアパートを出ると、登校中の小学生の女子児童に「おはようございます!」と挨拶され、「おはようございます」と挨拶し返す時、「子供は元気だなあ」と思う一方、「オレは何を遣ってるんだ……」と罪悪感も感じるようになった。

一缶一缶開けて行く度、「また酒に逃げてしまった」と後悔してしまう。罪悪感を感じながら飲む酒ははっきりいって旨くない。そこまで感じていながら酒を欲する自分……。いくら自分の金で買っているとはいえ、これでは金を溝に捨てているのと同じだ。

飲酒している時、当然車は運転出来ず、アパートから徒歩で十分の駅から電車で出勤する事となる。東京郊外、電車でも仮に車を使っても片道一時間だ。せっかく自家用車を所有しているのにコインパーキングに駐車しっぱなし。これも金を溝に捨てているようなもの……。

「都心のマンションにでも引っ越すか」こう思うようになった。車があるので駐車場のあるマンションの方が良い。さて何処のマンションにするか……。だがその前に、このアルコール中毒から早く抜け出さなくては。

とはいえ、酒が飲みたくなるのは日記を書く時だけなので、素面の時に仕事の合間を見付けて今のアパートを紹介してくれた不動産屋に、都心に良いマンションはないかと相談してみた。

「中山様の条件ですと、この物件などいかがでしょうか?」

女性社員が資料を見せてくれる。

場所は文京区。チハルがキャバを遣っていた区だ。少し躊躇するがそんな事もいっていられない。

「駐車場はあるんですね?」

「はい、ございます」

「じゃあ早速物件を見せてください」

女性社員と電車で文京区に移動する事一時間十分。目的地のマンションに到着した。六階建てのマンションで、オレが拝見出来るのは三○六号室。

「中々のお部屋でしょう」

女性社員は部屋に入るなり得意げな口振り。

「そうですね。申し分はありません」

飽く迄今の所は。

その後トイレやバスルームを見て回り、

「防音の方は大丈夫なんですか?」

「はい、確り防音対策は出来ています」

女性社員はまた得意げ。本当だろうな……。とはいえ手続きもあるからそんな事もいっていられない。相当お勧めな物件なのだろうと感じた。こんなオレって単純?

「分かりました。ここに決めます」

即決してしまった。こうしてオレは文京区白山の2LDKのマンションに引っ越す事を決める。住民票を移したり、ガス、電気、水道を止めて貰う面倒な手続きもあるが、決めたからには早くしなければ。因みに問題の家賃は駐車場込みで一六万九千円也。



「何でお前の引っ越しにオレらが付き合わなきゃいけないんだよ」

大畑は不服な口振り。

「良いじゃん良いじゃん。ユースケ君は一大決心したんだからさ」

珠希は手伝う気満々といった様子。ありがたい事だけど、そんなに一大決心でもないんだけどな……。

引っ越しのこの日、今日は夜に打ち合わせしか入っていないという二人に声を掛け、手伝って貰う事にした。オレも夜に打ち合わせが入っているので、「打ち合わせトリオ」で引っ越しだ。因みにオレの部屋は一階で作業が遣り易い。

「だってお前はワゴン車持ってるじゃないか。協力してくれたって良いだろ」

「このワゴンはオレのじゃなくて事務所の物だよ」

「えっ!? そうなのか?」

大畑がしょっちゅう乗り回しているので、てっきり大畑の自家用車だと思っていた。

「私用で事務所の車を使って、後で社長に怒られてもしーらないぞお」

大畑はいたずらっぽく笑う。

「お前だって乗り回してるんだろ?」

「オレは飽く迄仕事でだよ」

「引っ越しに使ったって言えば怒られないよ」

珠希は破顔。彼女はこう言うが事務所の車となれば、本当に大丈夫だろうか? ちょっぴり不安。

「どうして業者に頼まなかったんだよ」

「敷金礼金、それに今月から家賃もあるし節約の為だよ」

「節約の為に遣われたのか、オレ達は」

大畑は呆気に取られている。

「ほらほら大畑君もユースケ君も、早くしないと時間なくなっちゃうよ」

「まあそうだな」

珠希に促され、大畑は渋々作業を開始。

「捨てる物はないんだね?」

「うん、余計な物は買ってないから全部いる物」

事務所の黒のワゴンとオレの青のハッチバックに、ノートパソコンやプリンター、書類といった仕事道具などの小物はオレの車に、テレビ、冷蔵庫や洗濯機、電子レンジといった大きい荷物は大畑と協力してワゴンに積んで行く。冷蔵庫の中は殆どチハルのマンションに世話になっていた為、ドリンクくらいでほぼ何も入っていなかった。

一方の珠希は手際良く、食器を新聞紙に包んだり、洋服を畳んで収納ケースに入れたりハンガーに掛かっているジャンパーなどは、奇麗に重ねて行く。

「食器棚はないんだね」

「ああ、キッチンの収納スペースで十分間に合ったからな」

「食器と洋服はユースケの車で間に合うだろ」

「うん。収納ケースだけはワゴンに積んでくれ」

これも大畑と二人でワゴンまで運ぶ。

午前十時から作業を開始して一時間半、独り暮らしの男の部屋。二回は文京区とアパートを往復するかと思っていたが、一回で六畳一間の部屋は片付いた。

「やっと終わったね。掃除はしなくて良いの?」

珠希が指摘するように、良く見てみると部屋のあちこちに白い埃が溜まっている。

「ベッドも置いてたからなあ。ざっとして行こうか」

「その方が良いよ」

オレはワゴンに積んでいた掃除機をまた取り出して来て、六畳の部屋に掃除機を掛けて行く。それが終わったら……。

「後は文京区のマンションに荷物を運ぶだけだな」

「ああ、その前にオレは不動産屋に鍵を返さなきゃな」

オレは自分の車に。珠希は大畑が運転するワゴンの助手席に乗り、文京区白山へ向け出発した。

オレは途中、不動産屋に寄り、

「中山です。引っ越しが終わったので鍵を返しに来ました」

「そうですか。じゃあこの鍵を。これからも宜しくお願いします」

アパートの鍵と引き換えにマンションの鍵を受け取る。

「こちらこそお願いします」

マンションを紹介してくれた女性社員に鍵を返す。

オレはキッチンの換気扇の所でしかタバコは吸わなかったから、多分、敷金礼金は戻って来るだろう。と思うのだが、さてどうなるやら……。

郊外から都心の文京区まで車を運転する事一時間。やっと白山のマンションに辿り着く。

大畑には事前に住所を教えておいたので、ワゴンに付いているナビを使って先に到着していた。

「十分は待ったぞ。早く荷物を部屋まで運ぼうぜ」

「そうだな」

「とっとと遣っちゃおう!」

オレが入る三○六号室に、ベッドやテレビといった大きな荷物は大畑と協力して。パソコンや書類といった小物は珠希に頼んで三階までエレベーターを使って運び込んで行く。

「ベッドはこの部屋で良いや」

「テレビはここだな」

指示を出しながら荷物を置いて行く。が、大畑は調子に乗ってテレビ台の上に電子レンジを置き、その上にテレビを置こうとする。

「おい大畑、レンジはキッチンだろ」

仕方なく突っ込む。

「そんな悪ふざけしてたら時間掛かるよ」

珠希にも注意され、大畑は「わりーわりー」と笑いながらレンジを床に下ろす。やっぱりこいつに手伝いを頼んだのが間違いだったか……。

「ユースケ君、クローゼットにハンガーラック付いてるよ。良かったね、買わなくて」

珠希は我が事のように破顔し、ジャンパーや滅多に着ないスーツをハンガーラックに掛けて行ってくれている。

「そうだな。でも防虫剤は買わなきゃな」

「そうだね」

「収納ケースもクローゼットに入れちゃおうぜ」

「うん」

大畑と二人で収納ケースをクローゼットに運び入れた。

作業を始めてまた一時間半、ようやく引っ越しは終わる。

「ああ腹空いた。なあ、何か食おうぜ」

「引っ越しそば食べようよ。私近くのコンビニで買って来るから」

「そうだね。オレはそばとかつ丼。ユースケの奢りな」

「分かったよ。オレはそばとおにぎり二つで良い」

「具は何でも良いの?」

「うん」

「そう、じゃあ私もそうしよう」

珠希に五千円を渡し、彼女は近くのコンビニに買い出しに行った。

「キャバ嬢の彼女と別れなかったら、ユースケは未だに郊外のアパート暮らしだったんだろうな」

「多分ね」

「良いきっかけになったと思って彼女の事は忘れろよ」

大畑が珍しく真顔で言う。

「分かってるよ。オレが悪いんだしもう未練はない」

嘘付け……。

珠希が買い出しに行って約十五分、あれこれ話している内に彼女は帰って来た。

「はい、お釣り返す」

そばはカップの即席麵。早速やかんでお湯を沸かす。大畑は相当腹が空いていたんだろう、そばとかつ丼をペロリとあっという間に平らげた。力仕事を任せたから当然といっちゃ当然か。

食事が終わり、

「じゃあオレ達、一旦事務所に戻るから。良いよな、珠希ちゃん」

「うん。私も事務所に戻って企画書書かなきゃ」

大畑と珠希は立ち上がる。

「二人共、今日はありがとう」

「いいえ。ゴミはそのままで良い?」

「うん、後でゴミ袋買って来て捨てとくから」

「よし、行くよ珠希ちゃん」

オレも部屋から出て二人を見送る事にした。二人が事務所に向け出発した後、オレは文京区役所まで車で行き、全ての手続きが終わる頃には夕方になっていた。役所を後にした後は郵便局に向かい、住所が変更された事を知らせる葉書をポストに投函し、そのまま仕事の打ち合わせに参加する為、某テレビ局に向かった。

約一時間の打ち合わせが終わり帰宅しても仕事は終わらない。日記を書かなくてはならないのだ。序にビールを買っときゃ良かった……。仕方なく近くのコンビニまで歩いて行く事にし、ビール四缶とゴミ袋を買ってマンションに戻る。

その後は昼間のゴミを片付け、ビールを立て続けに飲んで、日記を書く為にノートパソコンに向かう。住む土地が変わっても、アルコール中毒から抜け出す事は出来ず……。



いつまで仕事でアルコールに頼る事になるんだろう……。そう思っていた矢先、金曜日での会議の事。いつものように只会議室の椅子に座っていると、

「オレだ。入るぞ」

ドアが開くと編成局長の御出座し。

「あっ、局長、おはようございます!」

新山CPは即座に立ち上がり、深々と頭を下げる。流石は縦社会で生きて来た人。

「おい皆、局長がいらっしゃったんだぞ! 挨拶しろ」

新山CPの言葉に全員が立ち上がり、「おはようございます!」と挨拶する。

「うん、おはよう。所で新山、会議の進捗はどうだ?」

「はい、皆何とか数字を上げようと頑張っております」

オレ以外はね。

「うん、頑張る事は結構だ。だがな……何だこの体たらくな数字は!?」

局長は最初こそ穏やかに接していたが、いきなり息巻き始める。二重人格か?

「済みません局長。今の状況を何とか打破したいと思っているんですが……」

『やらせ問題』が発覚して以来、番組の数字は二%台のままだ。

「オレは『BARBER KIG』をクオリティーの高い、THSの宝だと思っていたがな、公共放送も含めて民放全局でうちが最下位なんだぞ!」

「振り向けば何とやらってやつですね。本当に済みません!」

新山CPがまた深々と頭を下げる。が、今度は少し笑みを見せながら頭を下げると、

「「振り向けば」じゃなくてもうそれ以下だって言ってるだろ!!」

火に油を注いでしまう。おいおい、縦社会で生きて来た術はどうした?

「済みません局長!」

「これだけ優秀なスタッフが揃っているんだろ? 何で数字が上がらないんだ!?」

「一部リニューアルしてはいるんですが……」

「リニューアル? それでも数字が上がらないって事は、ここにいるスタッフは皆無能って事だな」

局長は息巻きからせせら笑いに変わる。これにはオレも流石にカチンと来た。

「スタッフが全員無能というのはどういう事ですか?」

立ち上がり局長の方へ、別に喧嘩する気ではなかったが近付いて行く。

「誰だ君は」

局長は真顔になり訊いて来た。

「放送作家の中山です。スタッフが無能という発言は撤回してください」

「おいポンスケ! お前は黙ってろ! 相手は誰だと思ってるんだ。誰がお前に意見を言って良いと言った!?」

新山CPは憎々し気な口振りで言う。が――

「オレはユースケです! 局長、さっきの発言は撤回してください」

「撤回も何も陸なスタッフしかいないから数字が上がらないんだろう?」

「違います! ディレクター陣も作家達も寝る間も惜しんで番組の事を考えているんです。さっき新山さんも言いましたけど、番組も少しリニューアルしました」

確かに番組はリニューアルした。本物の専門学校生と新人の美容師の対決という、やっぱり「やらせ」には変わりないのだけれど……。このリニューアルが決まった時、新山CPは、

「おいポンスケ、これはお前なんかの案を採用した訳じゃないからな」

と減らず口を叩いていたっけ。

「だったら数字を上げてみせてくれよ。スタッフが優秀だって事もな」

局長はせせら笑いのまま。もうこれ以上黙ってはいられない。

「だったら局長も番組制作に参加してみてくださいよ」

「何だって!?」

局長はせせら笑いから瞬時にして怒りの表情へと変わる。

「おいポンスケ! 局長に対して失礼な事を言うな!」

「新山さんは黙っててください! これは局長とオレとの話です!」

新山CPの制止を振り切り、オレは局長に反発し続ける。

「局長は曾ては優秀なスタッフだったんでしょう? その働きっぷりを無能なスタッフに見せ付けてあげてくださいよ」

「君は作家ながらでかい事を言うな。開き直りも良い所だ」

「開き直りと言われても結構です! 只局長のご指導を仰ぎたかっただけですので。失礼します」

オレは局長の返事も待たずして会議室から出て行く。あれだけでかい事を言って自分の席へ戻る事は堪えられなかった。しかし、また怒りに任せてやらかしてしまった。チハルを殴った時と同じ……。

局内を当てもなく歩いていても仕方がない。喫煙室へ向かい、一服して気分を落ち着かせる事にした。だけど、これで仕事が一本なくなったな……。新山CPの事だ、編成局長に盾突いたオレを黙って看過する訳がない。それも制止を振り切ってまで……。

喫煙室へ行くと、以前の番組でお世話になった局Pの大石景子さんが一人で一服していた。こうと決めたら決然として前に進み、現場ではいつもアットホームな雰囲気を作ってくれる、オレ達スタッフにとってもありがたい姉御肌な人。

「お疲れ様です」

一応挨拶しながら喫煙室のドアを開ける。

「あらユースケ君、久しぶりじゃない」

「ご無沙汰してます」

「どうしたの? そんな疲れた顔して」

やっぱりオレは顔と声に心境が出易い性質のようだ。

「そんな顔してたら面白い企画なんか思い付かないって、前に言ったでしょ」

「良いんですよ別に。今は閑職に回されて、意見も言わせて貰えないんですから」

「意見も言わせて貰えない?」

大石さんの不思議そうな顔。

「全レギュラー(番組)でそんな扱い受けてるの?」

「まさか。この局の『BARBER KIG』だけですよ」

「ああ、新山君の番組ね」

大石さんは新山CPの名前を聞いただけで全てを納得したようだ。

「今、あの番組の出場者の日記を書いてるんですけどね」

「エンディングに紹介される日記ね。良く書けてるじゃない」

「ありがとうございます」

日記の事を誉められてもあんまり嬉しくないんだけど……。一応礼は言っておく。

「それで新山さんが「お前は日記だけを書いてれば良い」って」

「新山君も人の意見を殆ど聞かないからね」

「ええ。それだけじゃなくてさっき編成局長が会議室に来て、「何だこの体たらくな数字は!?」って怒鳴ったんです」

「うん、それで?」

「皆寝る間も惜しんで企画を考えてるのは知ってますから、カーッと来て局長に盾突いちゃったんです」

「流石はユースケ君! 遣る時は遣るじゃない。局長に盾突くなんて」

大石さんはにやついて右腕でオレの身体をゆっさゆっさと揺蕩させる。

「からかわないでくださいよ。「君は作家ながらでかい事を言うな」って、局長を怒らせちゃったんですから」

「何て言ったのかは知らないけど、盾突かれたらそりゃ怒るわよね」

「「局長も曾ては優秀なスタッフだったんでしょう? だったらその働きっぷりを無能なスタッフに見せ付けてあげてください」って言っちゃったんです」

「局長に対してそんな事が言えるなんて凄い! 私でも言えないもんそんな事」

大石さんは今度は笑顔のままオレの左肩を「ポン」と叩く。

「でもその時新山君はどうしてたの」

「「おいポンスケ! 誰がお前に意見を言って良いと言った!?」って、CPにも怒鳴られましたよ」

「ポンスケって何?」

「愚か者を上品に言ってるんですって」

「ポンスケが上品ねえ。ハハハハハッ!」

「笑い事じゃないですよ。どんなに傷付いた事か」

「ごめん。でもそのCPの制止を振り切って局長に盾突いたんでしょ? 凄いじゃないユースケ君も。流石は肝が据わってる」

大石さんは破顔したまま。

「だからからかわないでくださいよ。怒りに任せてつい……ああ、これで仕事が一本クビになるだろうなあ。っていうか、THSでもう仕事が出来なくなるかも……また社長に怒られるな……」

今更ながら頭を抱えてしまう。

「だったらうちの番組においでよ。十月から始まる『ポンペイウスの夜光に』って番組の制作を今遣ってるの」

「『ポンペイウスの夜光に』って、確か次の番組までのつなぎ番組ですよね?」

「そうだけど、スタッフ皆気合い入ってるわよ」

大石さんは破顔してガッツポーズを見せる。

「『BARBER KIG』がダメになったら即オファーを出すから。今度はどんなに意見を言っても良いわよ」

「ありがとうございます! あの番組は局長に盾突いたんで多分クビになると思います。そしたら直ぐにオファーをお願いします!」

「分かった。オッケー!」

大石さんは笑顔でOKサインを作ってみせた。

「ああ、これでTHSでまた仕事が出来る。社長に怒られなくて済むかも」

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。フフンッ」

大石さんは鼻で笑ったが、オレにとっては一大事。心は安堵に包まれていた。が――



「中山君、到頭遣ってくれたね」

翌日の午前中、事務所に出社すると陣内社長はジロッとオレを睨み付ける。『BARBER KIG』から正式に解雇の通知が<マウンテンビュー>に通知されて来たのだ。

「新山さんの制止も振り切って編成局長に盾突いたらしいじゃない。だから今週放送のギャラは支払わないって言って来たよ」

「済みません。別に喧嘩しようとした訳じゃなかったんですけど……」

「局長と喧嘩!? 当り前じゃないそんな事! もしTHSが「今後マウンテンビューの作家は遣わない」って言って来たらどう責任を取ってくれるつもり!?」

陣内社長は眼光鋭く続ける。

「だから済みません。責任の取りようもありません」

やっぱり、怒られてしまったか……。

「全く血気盛んなのは良いけど相手を選んでよね!」

社長の怒りは収まる気配がない。

「済みません。以後気を付けます」

オレは謝る事しか出来ず……。



「やっぱり『BARBER KIG』はクビになりました」

事務所内のバルコニーにある喫煙所。オレはその日の内に大石さんに報告の電話を入れた。

『そう。やっぱり新山君は許さなかったのね。分かった、こっちの番組からオファーの準備をするから待ってて』

「ありがとうございます」

電話を終え、オレは他局での打ち合わせや会議の為に車で向かう。

その日の夜。打ち合わせや会議を終え再び事務所に戻ると、

「中山君、THSの『ポンペイウスの夜光に』から構成のオファーが来たよ」

陣内社長に告げられた。早っ!

「良かったね。またTHSで仕事が出来て。ああ、これでうちの作家達もTHSから切られなくて済む」

社長は心から安堵している様子。

作家の仕事のオファーはテレビやラジオなどの放送局から来る事もあれば、今回のように番組サイド、または制作プロダクションから来る事もある。ケースバイケースだ。

「今回のCPは大石さんだから盾突く事はないだろうけど、中山君、気を付けてリスタートしてよね」

陣内社長は釘を刺す事も忘れない。

「はい、分かってます。それはコミットします」

「本当に分かってる? 今度トラブルを起こしたら完全にアウトだからね。それともう一つ、つなぎ番組だからって手を抜かないように」

「重々承知しております」

としか答えようがあるものか……。



再び、事務所のバルコニーにある喫煙所。一服しながら多部に電話する。

「今回は本当にごめん。躍起になって仕事出来なかった」

一応謝罪。でもこれでアルコール地獄からは抜け出せそうだけど。

『オレの方こそごめん』

多部も申し訳なさそうな口振りで謝ってくれた。

「日記の件はどうなった?」

『またオレ達ディレクターが書く羽目になっちゃったよ』

「それは本当にごめんな。鬱憤を我慢出来なかったんだよ」

『それは分かる。だから気にしなくて良いよ。それよりつなぎ番組の構成に決まったんだろ? 良かったな、THSから干されなくて』

「何でそれを?」

多部にはまだ言っていない事だ。

『さっき下平から聞いたよ。そっちの番組で躍起になってくれよな』

多部は明るい口振りでエールを贈る。

「そうか、下平が」

あのお喋り女……。下平希ディレクター。制作プロダクション<プラン9>の社員で多部と同期。元ヤンキーにして元読者モデル出身という異色の経歴を持つ人物だ。今回、『ポンペイウスの夜光に』では彼女がチーフディレクターを務める。

『あいつオレより先にチーフディレクターに成っちゃったよ』

「先を越されちゃったな」

『本当、悔しいやら複雑やら……』

多部は何とも言えないような気持といった様子。同期だからな。

「お前もその内チーフディレクターに成れるよ」

オレからも一応エールを贈る。

『ありがとよ』

多部は投遣りな口振りで返した。同期が一足早く出世した事が相当悔しいのだろうて。本心は……。

電話を終え、喫煙所から中に入る。すると――

「中山君、さっき大石さんから電話で聞いたんだけど、『ポンペイウスの夜光に』にはまだ曰くがあるの」

陣内社長は真顔で言う。

「まだ何かあるんですか?」

「あの番組、アップダウンが中心で放送されるらしいんだけど、別の番組で触発された大石さんが、<マツキ芸能>の宮崎部長に企画を持ち掛けたらしいの」

因みに<マツキ芸能>は大阪に拠点を置く大手芸能事務所。東京にも支社がある。アップダウンはその事務所所属のお笑いコンビで大阪で人気に火が点き、二年前に東京に進出して来たばかりだ。

「宮崎部長もまだ知名度がそんなに高くないアップダウンの知名度を上げようと引き受けたらしいんだけど、アップダウンの木村君は「幾ら言われてもそれだけは出来ませんって」って言って一度は拒絶したらしいの」

「へえ、そうなんですか」

この番組でも何か一波乱あるな……。

「でも宮崎部長の顔を立てるべく、渋々引き受けたんだって」

「そうですか。木村君がねえ……」

木村君はプライドが高い事で一部知られている。彼を恐れるスタッフも何人かいるとか。

「だからって中山君、今度は大人しくしててよ」

社長は念を押すが、今の話を聞くと、出演者VSスタッフの状態になり兼ねないと思うのだが……。



九月下旬の火曜日。オレにとっては初の『ポンペイウスの夜光に』の構成会議。A2会議室には、珠希の他、大畑、膳所貴子さん、沢矢加奈さんなど親しい作家仲間の他、大石CP、下平チーフディレクターなどの面々がいた。

「また一緒だね。色々ご指導ください」

珠希は破顔して迎えてくれ、ペコリと頭を下げる。

「ユースケさんとご一緒になるの多いですね。また宜しくお願いします」

沢矢さんも然り。この沢矢加奈さん、将来の目標は秋元康さんという野心家。

「沢矢さん、『TERA』の売れ行きは上々のようだね」

「はい、うちの社長も喜んでますよ」

沢矢さんは破顔して喜びを表現する。

『TERRA』とは沢矢さんが所属する放送作家事務所<vivitto>とうちの事務所<マウンテンビュー>がアライアンスして発行している、マンスリーWEBマガジンの事。他の事務所の作家にも協力を依頼し、人気のテレビ、ラジオ番組の裏話やエピソード、作家の仕事などに密着し、作家養成スクールも特集しているバラエティにとんだ内容となっている。最近は美人作家のグラビアまで載せるようになった。

タイトルの『TERA』とは、テレビとラジオをローマ字にして頭の二文字をつなげただけ。陣内社長はマガジンが売れてもクールにしているが、<vivitto>の社長は大層悦に入っているとは聞く。それは沢矢さんの反応を見れば一目瞭然である。

「ユースケ、またお前と仕事するとは思ってもみなかったよ。『力あわせてゴーゴゴー!!』だな」

大畑は相変わらず。

「また古い番組を……」

『力あわせてゴーゴゴー!!』。二○○二年十月から二○○三年三月まで放送されていた、ネプチューンMCのバラエティ番組。ご記憶されている方は少ない事でしょう。

「ユースケさんお久しぶりです。私の事覚えてますか?」

膳所貴子さんが笑顔で声を掛けて来た。

「お貴さんの事は忘れたくても忘れないよ」

お貴さんは顔立ちも良く、スタイルもモデル並み。『TERA』の第一回グラビアを飾ったのも彼女だ。オレも含め一部の業界人には「お貴さん」と呼ばれている。

しかも、お貴さんの父親はあるIT企業で成功し、実家は富裕。会社はますます拡大していると聞く。それが原因かは知らないが、放送作家を「ふあ~」という気持ちで遣っていると公言している。「ナメとんのか!」とも言いたくもなるが、彼女には悪気は全くない様子。お貴さんにとって放送作家は、学校のクラブ活動のようなものなのだろう。

お貴さんのエピソードはそれだけに留まらない。「腕時計や時計は止まると捨てる物だと思っていた」や、「彼氏と旅行に行こうとしたら、三十分で父親の秘書が連れ戻しにやって来た」、「私、今まで殆ど努力しないでここまで来たんです」など、浮世離れした武勇伝は多数。

「皆、今回はつなぎ番組だからって手を抜いちゃダメよ! もう企画は煮詰まって来てるんだから、もっと面白い企画を出してね!」

大石CPはスタッフ全員に檄を飛ばす。

皆は「はーい!」や「分かりましたあ!」と言って答える。アットホームな雰囲気だが、

「あんた達、本当に分かってんの?」

下平チーフディレクターの言う通りだ。

「ユースケ君、番組は土曜日の一九時五七分からの生放送なの」

大石CPから告げられた。

「はい、承知してます。でも生放送のお笑い番組ですか……何かハプニングが起こらなきゃ良いけど」

オレの何でも不安視する性格が出てしまう。

「今からそんな憂いを言ってどうするの!」

大石CPは微笑を浮かべて忠告するが、本当に何があるか分からないからなあ……。

「済みません。所で番組タイトルは誰が考えたんですか」

「あたし」

下平が答えた。

「前に別の番組でジュリアス・シーザーについて調べたの。そしたらポンペイウス劇場に隣接する広場内で暗殺されたっていうじゃん? だから「ポンペイウス」を拝借したの」

自慢げに説明する下平だが……。

「良く分かったけど、暗殺された場所だぜ。縁起悪くねえか」

「私もそれは思ったんだけどね。フフンッ」

大石CPは言葉でそう言いながら鼻で笑うが、大して気にしていない様子。

「別に良くない? 暗殺された場所が何処だろうと。大石さんにも最初は渋られたけど、「ポンペイウス」って、何かおしゃれじゃん」

下平は自信を覗かせる。

「分かった。でも「夜光に」は何処から来たんだよ」

「それは別に意味はない」

下平はキッパリ。「ポンペイウス」には拘っておいて「夜光に」には何も拘りもなし。何じゃいそりゃ……。

「別に何でも良いんだよ。「ポンペイウスの夜光に誓う」でも「願う」でもさ」

「そう……」

「ユースケ君納得した?」

大石CPに言われて「はい」と答える。これ以上は何も言えねえ。プロデューサーとディレクターがそのタイトルで良しとしているのだから。

そして会議は進んで行き、

「エンディングでもう一発笑いが欲しいね。何かない?」

大石CPがスタッフを見渡す。もう一笑いねえ……。

スタッフが思案に暮れる中、

「こんな時こそお貴さんの「セレブ提案」だよ」

大畑は期待を込めた口振り。人任せなやっちゃ……。

その「セレブ提案」とは、膳所貴子さんがセレブな為に名付けられたもの。しかしお貴さんの提案は突拍子もないものばかりで、提案に肉付けして行くのが大変。

お貴さんは「そうですねえ……」と少し考えた末、

「観客の人達の服に匂いを付けて帰って貰うっていうのはどうでしょう」

ね? 突拍子もないでしょう。

「匂い? どんな」

大石CPの問いに、

「おならとか足の匂いとか。この前、芸人さんが顔に足の匂いが付いた液体を塗られてるのを観たんですよ。あれを使ってみるっていうのはどうでしょうか」

嬉々として提案するお貴さんだったが……。

「あれねえ……直接掛けるのはダメだし、それに服に匂いが付いたら電車に乗って帰れないんじゃない?」

大石CPは案の定渋る。

「大畑、お前がお貴さんに振ったんだから後は責任取れ」

「そうだなあ……」

大畑は少し考えた後、

「風船とかに入れて客席に向けて発射するっていうのはどうでしょう」

「風船ねえ。まあ一応考えとくわ」

大石CPは頬杖を突いたまま答える。

結局、この日はお貴さんの「セレブ提案」は保留となった。



そして十月中旬の土曜日。一七時からのリハーサルを終え、一九時五七分からいよいよ生放送の『ポンペイウスの夜光に』がスタートする。

因みに木村君は三十分遅刻してスタジオ入り。

「木村君、この番組に遣る気ないの見え見えですね」

サブ(副調整室)に移った大石CPにぼやいてしまう。

「我慢してあげて。彼はプライドが高いのよ。遅刻しても本番ではちゃんと出来るってね」

大石CPはオレの方に振り返り優しく微笑む。だが、諦めの表情にも見えなくもない。出演者の性格を理解するという事は素晴らしい事だと思うが……。

「木村君のプライドの高さは前に聞きましたし知ってますけど、彼はまだ若手ですよ。謙遜の心がない」

「まあそう言わずに」

大石CPは笑みを浮かべたままモニターに向き直り、本番を見守る。

「それからユースケ、木村君の態度が横柄だからって喧嘩しないでよね」

今度は下平がこちらを振り返り、眼光鋭く釘を刺す。

「喧嘩っ早いのはお前の方だろう。大丈夫だよ、多分」

「多分って何よ!?」

下平は苦々しい表情をオレに向けモニターに向き直る。

「ユースケさんは穏やかな人だから大丈夫ですよね、きっと」

今度はオレの右隣の席に座る沢矢さんがにっこりして言う。

「きっとね」こう返すしかなかった。案外そうでもないんだよな。過去に二度も怒りに任せてトラブルを起こしてるし……。

「そういえばユースケさんが怒ったとこ見た事ないですね」

オレの向かいの席に座るお貴さんがやっぱり笑顔で言う。

「まあね」

お貴さん、存外そうでもないんだよ。

「ユースケは温厚な奴だから喧嘩なんかしないよ」

お貴さんの隣に座る大畑がにやついて言う。大畑よ、お前はオレと同じ事務所なんだからオレの「裏の顔」を知っているでだろうが……。

「ユースケ君は大丈夫だよね?」

沢矢さんの隣に座る珠希も大畑と然り。二人共、頭を一発ずつはたいてやろうか。

それはそれとして、番組はアップダウンの二人を中心に、B29の三人、TEAM―2の二人にグラビアアイドルの加藤歩美、山崎くにこらが出演。

ネタ見せあり、ゲストを招いてのクイズコーナーありと、番組は順調に進んで行く。因みにクイズコーナーのタイトルはオレが考えたもの。その名も『木村流 クイズ道場』。木村君の相方で突っ込み担当の浜崎君が進行役となり、一人一問ずつ即興でゲストに問題を出して行き、ゲストが木村チームに勝てば、『道場』の看板から一枚を抜かされ、そのまま持って帰って貰うというもの。このルールは下平が考えた。

「第一回目はゲストの勝利!」

浜崎君が叫ぶ。初回の大物女性歌手のゲストは、『クイズ道場』の「イ」の字を選んだ。

「何で「イ」を持って帰るんですか」

浜崎君が訊くと、

「見てみなさい。『木村流 クズ道場』になってるでしょ」

女性歌手が答える。これにはサブのスタッフも観客も爆笑。

そしてエンディングはお貴さんが提案した匂いのコーナー。足の匂いがする液体を気化させて風船に流し込む事になった。この案は大畑が提案したものが見事採用された。

「エンディングにもう一つコーナーがあるんですけど、ちょっときついんですよ」

木村君が切り出す。

「何をするの」

ゲストの女性歌手が尋ねると、

「これをお客さんに嗅いで貰うんです」

浜崎君が袋で密閉された小瓶をゲストに渡す。

「ちょっと嗅いでみてください」

ゲストが無言で匂いを嗅ぐと、忽ち顔が歪んだ。

「こんなもの観客に嗅がせるの!?」

ゲスト歌手は怪訝な表情。

「皆には足の匂いを嗅いで貰うんや」

浜崎君が告げると、女性中心の観客からは「ええーっ!!」と抗議の声が上がる。

「本日はお越し頂きありがとうございました。という意味で嗅いで貰うんですよ。感謝と記念にね」

木村君が付け足した。

中には前列に座る女性が、

「帰っちゃダメなんですか?」

と浜崎君に向かって話掛けた。

「帰ったらダメ。君達、今日電車に乗って帰られへんよ」

浜崎君の言葉に、観客からはまた「ええーっ!!」と抗議の声。

それには構わず浜崎君は、

「風船用意!」

と叫ぶ。するとセットセンターのドアが開き、足の形をした発砲スチロールが三台登場。中央には五○個のロケット風船が入れられている。

「それではスタート! また来週!」

浜崎君の掛け声でロケット風船は一気に客席に向け発射され、B29とTEAM―2の五人が客席に匂いが届くように大きなうちわで扇ぐ。これには観客も「キャーッ! キャーッ!!」と言いながら悶えていた。

「私が考えた「セレブ提案」、中々面白いでしょう」

お貴さんは自慢げな口振り。「セレブ」って自分で言っちゃうか……。

「風船に入れようって肉付けしたのはオレだけどね」

大畑も自慢げ。

「本当、二人のおかげで楽しいコーナーが出来たわ。ありがとう」

大石CPが笑顔で作家達の方を振り向けば、

「お客にとっては少し迷惑なコーナーだろうけどね」

下平はモニターを見詰めたままクールな口振り。とはいえ、無事に第一回の生放送は終了した。が――



本番終了後、自分の楽屋に戻った浜崎君が、

「オレちょっと体調悪いわ」

とADに訴え、THSの車で近くの病院へ運ばれるアクシデントが発生する。

そのADに訊くと原因は過労との事。そのまま病院で点滴を受ける事になったらしい。本番中は体調不良を隠して臨んでいたとか。

ある程度事情を聞いた所で、大石CPと一服する事になった。

「だから前に言ったじゃないですか、何かハプニングが起きなきゃ良いけどって」

また大石CPにぼやいてしまう。

だが、

「今回は本番終了後だったから良いじゃない」

大石CPは気にも留めていない様子。

「人が一人倒れてるんですよ。「良いじゃない」はないでしょう」

少し進言するような口振りで言うと、

「ごめん。その言葉は撤回する。でも浜崎君、大事に至らなくて良かったわ」

大石CPは心から安堵した様子。口ではこう言ってはいるが、その安堵が初回放送が無事に終わったからなのか、本当に浜崎君の事を心配しての発言なのかは謎だ。

翌日。事務所に出社すると、

「『ポンペイウスの夜光に』の数字が出たよ」

陣内社長に視聴率表を渡された。

視聴率表を見ると、関東地区で七・五%と少し不運なスタート。

「つなぎ番組だからってこの数字で満足しちゃダメよ」

 陣内社長は微笑を浮かべてはいるが眼光は鋭い。

「分かってますって。後はタイムシフトがどうなるかだな」

こう答えるのが精一杯だ。

「だね」

 社長は意味深な笑みを見せる。あまり期待してないな。

 タイムシフト視聴率とは、二○一五年から導入された視聴率統計の事。これまでのリアルタイム(生)で視聴している世帯だけではなく、録画して視聴する世帯も増えて来た為、視聴実態をより正確に調査する目的で始められた。

 調査は放送されてから七日間以内に再生して視聴した%を、リアルタイム、タイムシフトと総合して発表されている。

その八日後、統計結果が出た。関東地区で一○・四%。一応二桁は記録した。

アップダウンとB29、TEAM―2のアイドル的人気のおかげだろうが、果たしてこの数字が維持されて行くのやら――

だが、その後も番組は六~七%台をうろうろしている。週によっては五%まで下がる日も出始めた。

ある火曜日の構成会議での事。

「初回はタイムシフトと合わせれば二桁は行ったけど、つなぎ番組でも数字は取らなきゃね。じゃないと後番組に影響しちゃうから」

大石CPはまだ希望を捨てていないご様子。CPが希望を捨てていないのに、

オレ達スタッフが諦めてはいけない。数字は低くても番組のフォーマットは変えず、番組は生放送のまま粛々と継続されて行く。が――



番組がスタートして三ヶ月後、木村君が遅刻して来るのは相変わらず。大石CPも下平チーフディレクターも諦めているのか、それを咎めようとはしない。それどころか――

リハーサルが始まっても全く遣る気を見せない木村君に下平が、

「ちょっと木村君、遅刻して来るのは良いけど、リハーサルくらいはちゃんと遣ってよね」

と注意する。これには堪忍袋の緒が切れたようだ。

下平の言葉に対して木村君は、

「ちゃんと遣るも遣らないも、ほんなら言わせて貰いますけど、おたくらスタッフ全員放送部レベルやねん」

と、スタッフに暴言を吐く始末……。

「悪かったね! 放送部レベルで。でも一生懸命遣ってるんだよこっちも!」

下平が噛み付く。やっぱり下平の方が喧嘩っ早い。

「ちょっと希ちゃん、これから本番なんだから」

これには大石CPも黙っていられなかったようで、下平の右腕を掴み制しようとする。

「一生懸命なのは結構な事やけど、『オムツマンVSブリーフマン』、あれちゃんと衛生用品メーカーに許可取ってるんですか?」

「取ってるに決まってんじゃん!」

大石CPの制止も空しく、下平と木村君の応酬は続く。

「それに『ブリーフマン』、あれ頭からブリーフ被ってるだけで、何の捻りもないねん」

「捻りがないって言われたって、こっちは必死で考えたんだよ!」

「希ちゃんも木村君も少し冷静になって」

大石CPは必死で二人を止めようとする。売り言葉に買い言葉、これでは埒が明かない。

因みに『オムツマンVSブリーフマン』とは、B29とTEAM―2の五人が番組後半で遣っているコント。B29が『オムツマン』、TEAM―2が『ブリーフマン』となり、『ブリーフマン』は悪役。加藤や山崎を誘拐し、『オムツマン』が助けるという古典的なコントである。

B29の三人は首までの赤、青、黄色の全身タイツを着、TEAM―2の二人も同様の黒の全身タイツを着ている。B29の三人は大人である為、当然大人用のオムツを穿いている。

が、ここはコントの説明をしている場合ではない。「下平」彼女の右肩に手を置いて制した。「スタッフ全員が放送部レベル」にはオレも黙ってはいられなかった。

「スタッフが全員放送部レベルって言うんなら、その放送部を遣いこなしてみなよ」

オレはふてぶてしくセットのステージに座る木村君の目を、真っ直ぐ見据えて言った。

「放送部を遣いこなす?」

木村君はピンと来ていない様子。

「ちょっとユースケ君まで何!?」

大石CPは割って入って来たオレも制しようとする。

「それがプロってもんだろ」

失礼ながら、オレは制しようとする大石CPを無視。

「面白い企画が欲しいんだったら幾らでも考えてやるよ。何年放送作家遣ってると思ってるんだよ」

オレの言葉が木村君の何かに引っ掛かったのか、木村君は何やら勘案している様子。そして徐に立ち上がり、

「ユースケさんがそこまで言うんやったら、面白い企画をお願いします」

と言ってペコリと頭を下げた。

やっと説得出来たか……。

「そうだな。『力あわせてゴーゴゴー!!』って事だよ」

大畑……。また古い番組を。それしかネタがねえのかよ。

「大畑、お前は黙ってろ。お前が喋ると余計ややこしくなる」

「何でだよ。オレにも一言言わせろよ」

大畑は不満顔。でもこの一件で出演者とスタッフに失笑が流れた。大畑の役回りはこれで終了。

「っさ、もう良いでしょ三人共。リハーサルを再開しよう」

大石CPは「やっと終わったか」とでも言いたげな表情で安堵している様子。

その後、何事もなかったかのようにリハーサルは再開された。



本番十分前。スタジオには観客が入り、若手芸人が前説をしている。オレ達作家、大石CPや下平チーフディレクターはサブに移った。

「ちょっとユースケ、あんたも木村君に噛み付いたじゃん」

案の定、下平がオレの方を振り返って食って掛かる。

「噛み付いたのは下平だろ。オレは宥めただけだよ」

「本っ当、美味しいとこだけ持って行きやがってさ」

下平は不服顔。

「だって下平じゃ売り言葉に買い言葉だっただろ。だからオレが宥めたんだよ」

「宥めたねえ」

大石CPが少し呆れた口振りで言う。

「でも良いじゃない希ちゃん。ユースケ君のおかげで丸く収まったんだからさ」

「大石さんまでユースケの味方ですか」

「別に味方してる訳じゃないわよ。事実を言ってるだけ」

「やっぱりあたしは悪役じゃないですか!?」

下平はちっとも納得しない。

「でもユースケさん、熱い所あるんですね。見直しました」

お貴さんは下平そっちのけで嬉々として言う。

「今までは見損なってたのかよ」

「別にそうじゃないですけど、ユースケさんいつもクールじゃないですか。だからあんな一面もあるんだなあって思って」

「いつもクールかなあ、オレ」

「だってあんまり感情を表に出さないじゃないですか」

お貴さん、実はそうでもないんだって。

「私も初めて見ましたよ。ユースケさんのあんな姿」

沢矢さんもお貴さんと然り。

「スタッフが放送部レベルって言葉が聞き捨てならなかっただけだよ」

「そうだよ。ユースケもあの言葉にキレただけなんだよ」

下平はオレを巻き添えにしようとする口振り。

「キレたのは下平さんじゃないですか」

「クソッ! どいつもこいつも……」

お貴さんの言葉に下平は不満な口振りと表情のままモニターの方に向き直る。

「どいつもこいつもの中には私も入ってるの」

大石CPの問い掛けに、

「いや……」

下平は訥弁になってしまう。その態度に、大石CPは「まあまあ」と言いながら下平の背中を摩った。

この間、大畑も珠希も無言でニヤニヤしているだけ。オレの「裏の顔」を知っているからだろう。

何だかんだ話している内に一九時五七分となり、本番はスタート。そしてこの日も無事に放送終了となったのだが――



翌日、打ち合わせやら会議を終え、夕方に事務所に立ち寄ると、陣内社長と珠希が休憩エリアで何やら話していた。陣内社長はオレの顔を確認すると真顔で徐に立ち上がる。何か咎められるな……。瞬時にそう思っていると、

「中山君、また遣ってくれたね。昨日の本番前に木村君と喧嘩したそうじゃない」

「別に喧嘩はしてませんよ。先に木村君に噛み付いたのはディレクターの下平で、オレは木村君を宥めただけですから」

リークしたのは珠希だな。このお喋り女……。

「スタッフが放送部レベルって木村君の言葉が聞き捨てならなかったって言ってたじゃん。「何年放送作家遣ってると思ってるんだよ」って所、カッコ良かったよ」

珠希は破顔する。こんな憎たらしい破顔を見るのは多分初めてだ。

「今回は宥めただけって言葉は信じるしトラブルにならなかっただけ良かったけど、大人しくしててよって言ったじゃない」

陣内社長は再度釘を刺すような目と口振り。

「済みません。本当に喧嘩しようとした訳じゃなくてその場を収めようとしただけですから。スタッフが無能呼ばわりされたんでつい」

「一応」抗弁しておく。

「気持ちは分かるけど、今後は気を付けてよね。血気盛んさん」

社長は微笑を浮かべて言う。別に怒っていた訳ではなさそうだ。

「分かりました。以後気を付けます」

オレも微笑を浮かべて謝罪する……しかないだろう。

それはそうと、珠希のリークには参ってしまった。今度から事前に口止めしておこうと決める。



一方、『BARBER KIG』では――

年が明けて一月中旬。福島県の男性美容師が、『私は専門学校生ではなく、まだ新人ですがプロです』と、SNSに投稿してしまう。いつかはこんな事もあるだろうと、オレも予見していた事だ。だから「やらせは止めた方が良い」と新山CPに進言したのに……。ほら言わんこっちゃない。

投稿した男性美容師は、「専門学校生」と偽って出場した事の罪悪感と、新人でも「プロ」というプライドがあったのだろうて。この一件が契機となってスポーツ紙、週刊誌がこの問題を『やっぱりやらせだった!』と書きたて、他局のワイドショーでも取り上げられる。

そして――

「おいユースケ、スポーツ紙にこんな記事が載ってるぞ」

大畑が新聞をオレの方へ向けた。

男性美容師が自身の身をカミングアウトして二週間。打ち合わせを終え事務所のオフィスエリアに入ると、スポーツ紙一面に『お前さえ黙っていれば!! 『BARBER KIG』打ち切り必至』という見出しの記事が載っていた。

「何かトラブルだな」

「まあ読んでみろ」

大畑から新聞を渡され立ったまま目を通す。読んでみると、番組ADが「自分

はプロだ」と名乗った美容師を暴行したというのだ。しかも事件を起こしたADは、多部が勤務する<ワークベース>の社員、石本優だった。

記事によると石本は一月下旬、一人で福島県内の男性美容師が勤務する美容院へ出向き、彼を待ち伏せ。美容院から男性が帰宅しようと出て来ると彼を尾行。人気のない場所に差し掛かった所で、「お前さえ黙っていれば何も問題はなかったんだ! どう責任を取ってくれるんだ!?」と因縁を付け、殴る蹴るの暴行を加えたという。石本は暴行を加えた後、そのまま逃走。東京へ戻る。

事件が発覚したのは暴行を受けた美容師が自ら一一九番した為。石本は事件から三日後、警視庁の任意の事情聴取を受け、「自分が遣った事に間違いない」と犯行を認めた為、そのまま逮捕となった……らしい。

「多部さんもショックだろうな。事件を起こした容疑者は自分の直属の部下だったんだからさ。お前多部さんと仲良いんだろ? 電話してみたらどうだ」

大畑は笑みを浮かべてこう言うが、

「いや止めとく。<ワークベース>も今大変だろうし、多部もショックを受けながらも繁雑だろうからな」

「友達想いな奴だなユースケは。オレだったらミーハー心で直ぐ電話しちゃうぜ」

大畑は笑みを浮かべたまま、今にも笑い出しそうな様子。本当にミーハーな奴だなこいつは……。人の不幸を何だと考えているのやら。

石本の事件を契機に、『BARBER KIG』は本物の学生同士が対決する番組へと再リニューアルする事を余儀なくされ、取り敢えず「やらせ」はなくなったが、数字は一%台とがた落ち。改編期を待たずして二月中旬で終了する運びとなった。

その二月中旬。多部とTHS内の廊下で擦れ違った。

「最終回、おめでとうございます」

オレも大畑の事はいえない。

「全く、嫌味な奴だなお前は」

オレは冗談のつもりで言ったが、多部は微苦笑を浮かべオレの右肩を小突く。

「今回は色々大変だったな。直属の部下が逮捕されたり、急に番組を再リニューアルしたりしてさ」

オレなりの労いの言葉だった。

「まあ色々と忙しかったのは事実だよ。石本も元族で喧嘩っ早くてさ。気には留めてたんだけどまさかあんな事件を起こすとは思ってなかったよ」

多部の微苦笑には疲れが滲んでいる。

「同じ番組に元暴走族が二人もいたのか」

世の中広いようで狭いんだと正直思った。

「意外そうな顔してるな」

多部が苦笑する。その苦笑序に、

「再リニューアルした所で、元々三月で終了する事は決まってたんだけどな」

多部は打ち明ける。

「時既に遅しってやつだな」

「あれだけマスコミに叩かれたら今更数字は上がる訳ないよな。ハハハハハッ」

多部がやっと苦笑から破顔に変わった。

「そりゃそうだよな。ハハハッ」

オレも釣られて笑ってしまった。



また一方、『ポンペイウスの夜光に』では――

火曜日の構成会議での事。

「皆、相変わらず数字は五~七%と低調だけど、三月まで継続される事が決まったわよ! このまま後一ヶ月突っ走るからね」

大石CPだけ一人張り切っていた。スタッフ全員遣る気がない訳ではないが……。

「大石さん、随分と気合が入ってますね」

呆れてこれくらいしか返す言葉が見付からない。

「そりゃそうよ。何とか後一ヶ月で数字を二桁取ってみせましょ。つなぎ番組だからって腐っちゃダメよ!」

「大石さんの勢いには敵わないなあ。正直」

珠希がぼやく。

「何言ってるの珠希ちゃん。番組はまだ終わった訳じゃないのよ!」

「そうですけど、大石さん、皆と熱の入れようが違い過ぎて」

珠希は苦笑しながら言う。

「オレも正直そう思った」

大畑も珠希と然り。こいつがぼやくなんて珍しい。いつも調子の良い奴がCPに圧倒されるなんて。

「私はこういう性格なの! 皆付いて来てよね!」

大石CPの勢いは止まらない。

「ねえお貴さん、放送作家をどんな気持ちで遣ってるんだっけ?」

話題を変えようとお貴さんに振ってみる。

「えっ、「ふあ~」とした気持ちですよ。私、今まで殆ど努力しないでここまで来ちゃいましたから」

お貴さんは澄まし顔で言う。でもまた聞いた、「今まで努力しない」って言葉を……。彼女はいつだってマイペースだ。

「お金持ちは良いね。何でも叶って」

下平までもがぼやく。これは嫌味。でもお貴さんは気にしていない様子。

「別にそんな事はありませんよ」

ほらね。でも、今まで殆ど努力した事がないとは、羨ましいやらオレでも憎たらしく思うやら……。

「貴子ちゃん、放送作家を「ふぁ~」とした気持ちで遣るのは肩に力が入らなくて良いと思うけど、たまには気合を入れてよ。ね!?」

「はい……」

お貴さんまで大石CPの勢いに押されてしまった。

「さっ、それはそうと、『オムツマンVSブリーフマン』そろそろ決着を着けた方が良いと思うの。何か良い案はないかしらね」

前置きはこれくらいにして会議は始まった。



二月下旬の放送中。『オムツマンVSブリーフマン』はあの日の会議で、『ブリーフマン』がTHSを独占。それに対し『オムツマン』が阻止しようと生クリームを使ったパイ投げで対決する事が決まった。

前列に座る観客には、クリームが掛からないように透明のビニールシートが用意され、ステージにもビニールシートを敷き準備は整っていたのだが……。そのコント中、B29のミスター伊東君がコントの終盤でクリームで足を滑らせてステージに頭をぶつけ、頭に裂傷を負ってしまう。

「今凄い音したけど、伊東君大丈夫かしら」

大石CPが心配してモニターを見詰める。

「怪我したかもしれませんね」

下平もモニターを見詰めたまま言う。

「ちょっと伊東君をアップにしてみて」

下平がカメラのスイッチング担当者に指示を出す。すると伊東君は顔を歪め、右の頭からは血が滴り始めていた。

「ダメ! 直ぐに『ブリーフマン』をアップにして」

下平が再度指示を出す。画面は全身クリームだらけの『ブリーフマン』のアップに切り替わった。

「やっぱり怪我してたわね」

大石CPが溜息を吐く。

だがこのアクシデントに、相方のミサオ君とデビット立本君がアドリブで伊東君の右の頭にパイを乗せたり、クリームで血を隠しコントを続行。その後は観客にも視聴者にも血を見せる事なく、『ブリーフマン』はTHSを独占する事に失敗。見事『オムツマン』の勝利でコントは終わった。

「良かったわ。ミサオ君と立本君がアドリブを利かせてくれて」

「二人に感謝ですね。さすがは相方達」

大石CPと下平チーフディレクターは、コントが中断とならなかった事に安堵している。

伊東君はコントが終わると風呂場へ向かい、クリームと血を洗い流すと私服に着替え、医務室で止血のガーゼを貼って貰い近くの病院へ直行。頭を三針縫う怪我だった。

一方番組の方は滞りなく進行されて行き、最後は恒例の足の匂いがするロケット風船を客席へ向け飛ばし、観客に匂いを「キャーッ! キヤーッ!!」悶絶しながら嗅いで貰い本番は終了。

「生だからヒヤヒヤしましたね」

本番終了後、大石CPと共にスタッフルームへ行き、それとなく声を掛けた。

「本当、一時はどうなるかと思ったわ」

「だから何かハプニングが起きなきゃ良いけどって最初に言ったんですよ。初回には浜崎君の件もありましたし」

「確かにそうだけど、浜崎君は本番後だったでしょ。今回はもっと安全性を考えるべきだったわね」

大石CPは少し反省している様子。

「パイ投げ合戦じゃなくて玩具のピストル打ち合い合戦の方が良かったですかね?」

オレも少し反省。玩具のピストル打ち合い合戦も候補に上がっていた。だが最終的にはパイ投げの方が盛り上がって面白いという結論に達したのである。確かにスタジオでは、客席前列に座る女性客が「キャーキャー」笑って言いながらビニールシートを被り、盛り上がってはいたのだが……。

「でも良いじゃん。ミサオ君と立本君がアドリブを利かせてくれたんだから」

「そうそう」

声がした方を振り返ると、下平と大畑が微笑を浮かべて立っていた。

「怪我も大事には至らなかったし」

「下平、頭を三針も縫う怪我だったんだぞ。十分大事には至ってるよ。しかも血が滴り始めてる部分も映っちゃったし、あれは立派な放送事故だぞ」

「確かにあの時は焦ったけどさ。ユースケは何かと心配し過ぎなんだよ」

下平はオレに近付き、笑みを浮かべてオレの左肩を摩る。

「明日あたりスポーツ紙かネットニュースに載るかもしれないな」

大畑は笑いながら言う。この楽観者どもが……。

「来週からは心機一転、安全性を良く考慮して後一ヶ月頑張りましょう!」

最後は大石CPが破顔して閉めた。心機一転するのは良いが、大石CPを始め三人、今回起こった事の重大さを分かっているのやら……。

翌日。大畑が予想した通り、スポーツ紙の芸能欄に『B29のミスター伊東 本番中に大怪我』と載り、ネットニュースでも『『ポンペイウス』放送中に事故』というニュースが載っていた。

事務所で、

「お前の予想通りになったな」

大畑に声を掛けると、

「な? 言った通りだろ」

と大畑は得意げに破顔。得意になるような事か!


後半は下巻に続く――



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