振動
あっ。
動揺で、手に持った空き缶を落とさないように両手に力を入れた。
彼を起こさないように、静かにシンクに空き缶を2つ置く。
キッチンに乱雑に置かれた空き缶やペットボトルとともに、
彼の吸っている煙草の箱が目に入った。
問題はその隣に置かれた見覚えのない銘柄の煙草だった。
彼がその銘柄を吸わないことを知っている。
いつも同じ銘柄のタールの多い甘いにおいの煙草しか吸っておらず、
もう彼の匂いとして染みついている。
ねえ、これ、誰の?なんでここにあるの
脳内で問いかけたい言葉は山のように生まれるのに、彼女ですらない自分がそれを口に出すことは躊躇われた。
誰が、ここにきたの?
昨夜食べたハンバーグの味をまだ覚えていた。
一緒に行きたい、と誘ったのは私のほうだ。
昔ながらの洋食屋で、わたしたちは妙齢の夫婦たちに混ざって食事をした。
楽しくて、自然に笑みも言葉も零れ落ちる。
窓際の席からみえる暗い海は、ただ静かに漂うだけ。
いつもお風呂上がりの降りた前髪しかみない私は、セットされて綺麗にかき上げられた彼の前髪と、
整った二重に始終ドキドキしていたのに。
一緒に帰った彼の部屋で、寝る前に見せられた普段と違う眼鏡姿に、
会話の続きが分からなくなるほど動揺していたのに。
この部屋に、私が昨日の朝帰ってから今日くるまでにほかの女がいた、ってことだ。
友達も少ない彼の部屋に、男友達が来ることはない。
広くて静かで、ただ乱雑にものが散らっているこの部屋に。
ねぇどこの女の子なの?
これから仕事に向かおうとするわたしの脳内は、灰色のもやが立ち込めていた。
昨夜やたらとわたしに体をくっつけたがった彼の真意を計りかねる。
乾いた指がわたしの二の腕を撫でるたび、
睡魔の底から目が覚めて意識が何度も浮上した。
恋をしているのはいつもわたしだけだ。
まだ起床時間には早い彼を置いて、
荷物を持った。
30分後には何食わぬ顔して、職場で電卓を弾かなければならない。
彼の部屋のドアから外に出ると、8月の直射日光で、撫でられていた肌から柔らかさが消し飛ぶようだった。
シンクに散らかった空き缶を、そういえばわたしが来る前にちょっとコンビニに行ってくると言った彼を、わたしはゆっくりと反芻する。
わたしを乗せる前、彼の黒い乗用車の助手席に座っていた人は、きっと黒くて長い髪をしている。