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9 まとめ ー幻想と現実の矛盾ー ③

 我々が過度に自己を神聖化するとは、人間の長所の裏返しであるから、そこに人間性はやはりあるには違いない…。豚は毎日の食事で満足するかもしれないが、我々はそれ以上を望む。栄誉を望む、日々の食事以上を望む、日々のなんとなくの幸福以上の満足を望む。それは、それが結果として大虐殺に至る事になろうと…そうなっては欲しくはないが…その集団にはまだ追い求めるものがあるという証左にはなるかもしれない。最もこれは無理やり肯定的な観点を見つけようという努力に過ぎないかもしれないが。

 

 三島由紀夫・川端康成の自死と共に近代文学は終わり、代わりに軽くなった軽文学とでもいうべきものが現れた。それは今や、滑稽な重さを持って我々の前に現れている。今や村上春樹が「文豪」である! しかし、この流れもまた、歴史的には一つの終わりを迎えるだろう。まず何よりもリアリズムを欠いた空虚な実体はそれを支持している人々の空想が潰えれば、同時に消えてしまう。だからこそ、優れた文学は人間の奥底にある真実を得ようともがいてきた。オイディプス王は自分の目を突く事になっても真実をつかもうとする。

 

 現代のドラマは、今まで述べたような自己幻想の絶対化を進め、それに見合わない現実の切り捨て、また現実と幻想が乖離すればするほど、その状況を糊塗しようと幻想を現実と思い込もうとする。こうして我々は過去にも体験した破滅に向かって再び歩みつつある。そしてこの根底的な原因は、我々が近代的な社会に至って、また近代的な社会に至る過程も忘れ、自分達の欲動と自由をコントロールしそこねている事にあるのだろう。

 

 それぞれの人間が社会に広く存在しているにも関わらず、それらの人々が揃いも揃って四六時中「自分はどうしたら幸せになれるか?」とつぶやいている。これほど奇妙な集団もあるまい…。彼らに仮りそめの夢を与えるものは独特の醜さをもって支持されてきたが、その夢は大きな妄想となって結晶化し、順当に挫折と破滅の道を辿るに違いない。

 

 私は先に、知性とは一種の分裂だと言った。それは矛盾に耐える事も意味するし、精神に緊張を強いるものでもある。この分裂、矛盾から大きな力が生まれるが、これを右だろうが左だろうが平板化して一つにさせる時、力の堕落、単純なものへの回帰が生まれる。今人が望んでいるのはこの回帰であって、彼らの単眼には世界は極めて平板なものに映るだろう。

 

 知性の分裂は、悲劇においては神の存在と人間の存在に分離しつつも、同時に、神を求めながらそれに到達できない人間の姿を描き出していた。村上春樹の「僕」は、最初からコントロールできる世界の上を滑らかに冒険し、移動し、また元の世界に帰ってくる。それが人々には心地よかったのだが、ここでは神と人は一つに融合されてしまっている。だからこそ我々には心地よく同時に、真実の我々を描き出すには技術的に未熟なものだと考えざるを得ないのだ。

 

 しかし今や村上春樹が全世界的に受け入れられている作家であるという事は彼の方に時代の風が吹いているのを意味するだろう。世界的に神の喪失と、その補填として、平和な社会の中で密かに自分自身に対する幻想を増大させている潜性的な力があって、それが村上春樹のような優秀な作家を評価する事につながっているに違いない。ただ、この幻想がインフレを起こせば、現実の存在との乖離に至り、やがては破滅する事になるのは必定である。私は歴史はそのような道を辿ると確信している。

 

 しかし破滅もまた人間の必然というならそうであろうが、私としては何一つ認識されずに時が常に「現在」を示したまま消費されていく事に遺憾の念を覚える。この時間というものの無さは絶えず「自分達」を肯定していく事から生まれるし、ここからは破滅も悲劇も生まれ得ない。そういう意味においては現在起こる悲劇を一つの繋がった時間として総合的に捉えていく事はむしろ「積極的な」意味すら持つだろう。それは人間性の全体を描き出そうという試みであり、現代の物語作家に欠けているのはそうした仕事だろう。

 

 逆に言えば作家などにできるのはそれぐらいしかない。人は歴史を変えられるのかという問いに、変えられるという問いを発する存在も有限だという事がまた新たな認識によって光を当てられていく。こうして歴史内部における認識というものは前進していくのだが、果たしてその前進をはっきり見つめる人間がいるかどうかはわからない。

 

 少なくとも、我々の社会が自分達の幻想に現実を溶融させ、破断点に向っているのははっきりしている。そうしてここから先は各々が考え、行動する場所となる。ただここから先の自由はむしろ、自由の限界や、必然というものを理解する仕事になっていくだろう。だからこそ、私には、ウィトゲンシュタインやカントといった西洋における最も偉大な哲学者は人間の可能性ではなく不可能性を見極める仕事に精を出したように思える。彼らはよく知っていたのだった。人間とは一体なんであるかを。


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