8 まとめ ー幻想と現実の矛盾ー ②
現代の偶像化と、自己礼賛、神格化はいかにもみすぼらしいものではある。元々、知性というのは分裂するもので、それは自己を見つめる自己のようなものとして現れる。ランボーの言うように自己とは一個の他者であろう。しかしそれを許すのは強靭な知性のある者に限られる。ランボーもまた「見者」の哲学に耐えきれずに、詩を捨て、アフリカに逃亡したではないか。
人間は神ではないが、神を求める存在でもあろう。宗教を排除した現代人が、科学的・客観的な衣装を被せながら、新たな模造品としての神を製作しているのは見やすい部分であろう。ここで起こっているのは、人間性に対する冷徹な視線ではなく、知性そのものを平板化しようとする事柄であって、分裂しているものを一つに溶融させようとする努力である。早い話、人は自己を分裂させている事に疲れたのだ。それで二つのものを一つに解消しようとする。
これは、イデオロギーの右と左を問わない。つまらないものを読めば、それが単純化、平板化によって「わかりやすく」なっているのがよくわかる。ここでは知性と自己、神と人間との分離がない。ただの人間にすぎない存在が自分達を神のようなものとして崇めるという事。それは大きな悲劇に到達するだろうが、またもやこの悲劇は人々には認識されないに違いない。人は過去を忘れる事によって問題を処理しようとするだろう。
ここ何十年かは、様々なものが軽薄なものに落ちてきて、それを良しとする風潮が続いた。それ自体は良い事でも悪い事でもなく、そういうものなのだろう。八十年代には戦争の傷も癒えて(という風になって)、復興した社会の中で、安定した秩序の中で、様々なものと戯れながら生きるのが良しとされた。「芸術も娯楽の一つに過ぎない」と豪語する人間は現在、無数にいる。
こうした変化が成し遂げられて、芸術家は社会や自己を相対化して「見る」存在ではなくなり、社会の上で踊る存在となった。彼らは部分となった。全体を見るには、全体から自分を分離しなければならない。生の全体を見るには、自らの中に死という経験がいる。自分の中に、自分を越えたものがある時、はじめて自分と世界を眺める事ができる。現在は世界と自己を一つに溶融させ、聖なるものとして崇め、それを大衆も是認している。こうして我々はみすぼらしい姿でありながら、豪奢な着物を纏ったと勘違いしている裸の王様になった。
この裸の王様は、もはや手のつけられない暴君になりつつある。この人間の本当の姿を指摘したものは断罪され、処刑される。そこで、駄目だとわかっていても、この痩せ細った、廃滅に近づきつつある王に誰しも揉み手をしながら擦り寄っていく。そういう光景が現在では展開されている。
ここにおいて希望とは嘘で、絶望は本当である。しかし、それを見事に統一させてくれるのは希望や絶望といった白黒のコントラストではない。それらを統一させ、一つの立体的像として表してくれるのは現実である。我々自体の破滅そのものである。だが、この破滅は内部にあっては見えないから、おそらく百年後の歴史家は我々の姿を嫌になるほど正確に認知してくれるだろう。一人の伝記を読み上げるように、その人物がどこで挫折し、どこで希望を失い破滅したかを見事に描き出してくれるに違いない。我々はそんな劇を演じるだろう。
この世界が劇であるというのはなんの慰めにならない…。もっと考えてみれば、人間が滅亡に向かうというのは一種の必然でもあるし、それ自体それほど悪い事でもなかろう。