6 擬似的な神の擁立
話を戻そう。
この社会は、敗戦という巨大な事実によって大きな幻滅を経験し、それと共にリアリズムは一時的に復興した。しかし、日本社会が豊かになってくると、また幻想が表れ出て、それは村上春樹や宮崎駿といった「優秀」な人達の手を通じて、カルチャーからサブカルチャーへの道のりをたどった。
そこで大衆は正しい良いものよりも自分達を酔わせるものを選択するのだから、この変化を歓迎した。知性によって人生や自己を自覚しようとする衝動の持ち主は少数の人間にとどまる。大衆的なものと、それらの幻想を肯定するものが一致されて、現代の状況が現れている。
もっと大局的に見るなら、そもそも近代が訪れた時に、神が死に、垂直的な社会は崩壊した。平等な個人と資本主義の自由が現れ、自明であった生きる意味はそれぞれが心の中で問わなければならないものとなった。かつては硬直的ではあったが、生きる事は世界の中に完全に位置づけられていたので、個人が幸福や夢を追う必要はなかった。
現代のオタク的なもの、自己の幻想の絶対化と、それへの否認に対する激しい感情は、結局の所、我々が神を失った放浪者としての存在であるにも関わらず、その無意識的不安から、それぞれに神を擁立する必要性から現れてきているように見える。
それにしても現代の神、それぞれの人間が擁立する神とは、なんと情けなくくだらないものであるだろう? 神から人間に力が移行した時には、ゲーテやナポレオン、ベートーヴェンといった「天才」達がいた。「天才」は神の代用物だった。天才は今や「有名人」へと変化した。我々は時代と共に、崇拝するものの程度が落ちていくのを苦もなく確認できるだろう。我々は不毛の世界に生きているが、それを指摘する事は我々の神を誹謗する事でもある。一々、名前をあげつらうほどでもない偶像が崇拝者を伴って、空虚な幻想を湛えている。
この空虚な幻想は我々の行き詰まりそのものも示している。我々はこのまま行けば、幻想と現実との乖離に悩まされるだろう。そしてみすぼらしい裸の王様が、王様の姿を指摘するものを残らず処刑していく陰惨な様が現れる事になるだろう。しかし、現実を指摘する人間を全て殺したとしても、その幻想が本物になるわけではない。