5 楽園からの追放
さて、今言った事を全体的な世代論として考えてみたい。
小説で言えば村上春樹、映画で言えば宮崎駿がビッグネームとして頭に浮かぶが、彼らはカルチャーがサブカルチャーに転落していく中間あたりに位置しているように見える。村上春樹も宮崎駿も、リアリズムを失った部分があり、失った部分を空想的な要素で補った感がある。この二人などは、別の視点からすると、エンタメ性と芸術性の高い融合に見えるだろうが、実際にはリアリズムを失ってきており、その為に、主体にとって都合の良い空想が要素として混入する事になった。
「機動戦士ガンダム」なども、私は太平洋戦争を描いた作品に感じたが、ガンダムオタクはそういう『作品のモチーフ』といった側面にはこだわらない。彼らはモビルスーツのかっこよさや、細かな検証にこだわる。富野由悠季の作品では「イデオン」の方が文学的価値は高いだろうが、「イデオン」はオタクの守備範囲から漏れる部分がある。というのも最後に「イデオン」は全て破裂する結末を迎えるからで、主人公アムロ・レイが無双をする「ガンダム」のほうがオタク的な受け取り方からすれば受け取りやすいだろう。
「ガンダム」もそうだし「ナウシカ」、村上春樹の「僕」を主体とした小説に見られるのは、主人公に何らかの絶対的な特別性が付与され、それが問題を解決していくというものだ。この絶対性こそが、アイデンティティの飢渇に捕らわれている我々の世代には極めて魅力的なものに思えたのだった。
だが、これは妄想であり、打ち砕かれるべき妄想であると言っておかねばならない。最近、戦争映画を見て私が感じたのは、これとは逆の事態である。つまり、敗戦という衝撃は、神の国であり、特別であると思っていた自分(達)がなんら特別な存在ではなかった。嘘であった。人間とは血と肉でできている存在であって、それはただ世界の不条理を前にして見事に打ち砕かれる虚しい存在に過ぎなかったという事ではなかったかと思っている。
戦争の内部においては日本は神の国であって、自分達は他とは違った特別な存在だと固く信じられていた。死ぬ事ができれば、その幻想を誇示したまま生命を終えられただろう。だが実際には、無条件降伏を受け入れ、自分達は「神の国」ではなく、生身の、普通の人間であるという事が暴露された。人間はどこまで自己の幻想に生きられるのか。しかし現実だけでは味気ない。だから人は夢を見る。
どう思われるか知らないが、私は敗北が好きである。シオランにならって…と言いたいが、この世にはどうも先天的に敗北が好きな人種がいるようだ。私などもその一人で、私にそんな傾向があるのは、勝利は胡散臭いが、敗北は真実だと感じるからだ。勝利の酔いよりも、敗北の中の悔恨の方がよほど人間的な感情だと思っている。
旧約聖書の「創世記」は振り返ってみると、異様に良くできた話であるように思われる…。アダムとイブが、自らを知覚するのは、知恵の実を食べ、罪を犯したが為である。楽園から追放され、罪を負う事によってはじめて自分が何者であるかが自覚される。そこに生命の目覚めがある。
…万葉集に次のような歌がある。
うつそみの人にある我や明日よりは 二上山を弟背とあが見む
ここで詩人は、神ではない自分を自覚している。それが「うつそみの人にある我」なのだが、それは「二上山を弟背とあが見む」という悲しみとセットで表出されている。大切な人を失った悲しみが、天界からの転落を、この世が王国でも神の国でもない事を知らせ、そこから自己の自覚と対象の自覚が始まる。ここで初めて詩人は目を見開いて「二上山」という対象世界を知覚したのだった。このように自己・人間の発見は、黄金郷からの離反と軌を一にしている。