3 岡本喜八
戦争というのは一つの大義名分だった。そこで掲げられたのは誇り高いイデオロギーだったが、現実に存在したのは貧窮であり、暴力であり、血であり、肉であり、腐乱し蛆虫のたかった死体だった。これは必然的な事実であるように思われる。人間はしばしばそのような経験を「欲し」さえする。
私は岡本喜八という映画監督を好きになる事ができた。岡本喜八の映画は「戦争批判」であるが「戦争否定」ではない。ここで批判と否定の違いについて考えておこうと思う。
岡本喜八の映画は全てその根底に、戦争で経験したものが滲み出ている。表面的には戦争は出てこない「ブルークリスマス」でも本質的な構造は「激動の昭和史 沖縄決戦」によく似ている。人は何か巨大なものに出会って抹殺されていく。
岡本喜八の映画はたしかに、戦争というものの嫌な部分をクローズアップする度合いが強い。「沖縄決戦」を見た後『戦争は最高だ!』という人間はなかなかいないだろう。しかし、ここからすぐに「平和に対する無条件の肯定」へと話を持っていくのは私は微妙に違うように思う。厳密には、戦争に対する批判的精神は、そのまま平和に対する素直な礼賛へと繋がらない。あるとしたら「平和の方がまだマシ」という消極的な事柄だろう。
芸術というのは何よりも、その「実体性」というものが重要である。古典に位置するような作品は、その作品を読者が好きであろうが嫌いであろうが、イデオロギーとして肯定しようが否定しようが、否定し難いものを含んでいる。それははっきりした重量ある物質のような、確かな手触りである。この手触りこそが、様々な人々の意見や技術の巧拙を越えて時代の中で残っていく作品の本質にあたっている。
岡本喜八は確かに、戦争批判の映画を作り続けたが、彼はそのテーマを生涯深めていった。この事は逆の言い方もできる。つまり岡本喜八は青春期に遭遇した戦争という巨大な事実を、自分の中で死ぬまで大切に保存したわけである。仮に批判という形を取ったとしても、それに執着し続けるという事はある面では肯定も含んでいる。戦争というものが終われば、さっさと鞍替えして平和主義者になった人間よりもよほど戦争という現象を「愛着」しているとすら言えるだろう。そしてその粘着さと、それを徹底して描いていこうという映画監督としてのモチーフが岡本喜八の映画に一つの実在感を与え、その事象と執拗に闘い続ける所に誠実な芸術家の姿を見る事が可能だろう。