2 戦争と人間の物質化
さて、オウム真理教の話から入ったが、私はその前後にいくつかの書物や映画を見ていて、またそれまでの自分の思考なども合わせて、色々な事を考えた。そうして思ったのが、このオウム真理教という集団の崩壊過程は、今の日本それ自体にも十分当てはまるのではないか、という事である。高潔な理想を謳いながら、内実は血であり、泥であり、隠蔽工作であり、暴虐である。これは人間の通過するものとして必然なのかもしれないという思いすら頭に浮かんできている。
考えているのはそうした事なのだが、今はこれを「オタク的なもの」という言葉に集約させてもらう。オタク的なものとは、オタク一般を誹謗するものではなく、「自己陶酔的なもの、自己の幻想を絶対視し、それを排除するのを許さないもの」というような定義で考えている。これは今の日本全体を象徴するようなものなのだが、毎度毎度、「現代日本は」と言っていても話が広がりすぎるので、「オタク的なもの」というのに集約させてもらう。
…それよりも個人的な理由としては、私自身が「オタク」なので、そのあたりの界隈を例に取ると話しやすいという点が大きい。また、今からやるのは「オタク的なもの」の批判であるが、私自身十分オタクであるし、「リア充」も自己陶酔・幻想絶対化があればこの定義の中にはいる。また、オタクでも自己批判を加えられる精神力のある人はこの定義から外れる。そのあたりは象徴的なものとしてイメージしていただきたい。
どこから話を始めてもいいわけだが、近況的なものから行くなら、最近、昔の日本映画を見ていた。主に戦後のもので、黒澤明、岡本喜八、小林正樹、鈴木清順、木下恵介、五社英雄、などのものだ。特に好きになったのが岡本喜八だが、その話はまた後でする。
今名前を上げた人は基本的には日本映画黄金時代の人達だろう。黒澤明を中心として、これらの人達が海外に与えた影響も大きい。私はこうした映画を見て、特に戦争を経験した世代が心に大きな傷を受けているというのを感じた。それは見てはならないものを見たという感じがある。それが彼らの作品をして単に審美的なだけのものではなくさせている。現代のアーティストがやれば浮ついた、軽薄なものになりそうなものに重しのような重点を与えているのは、戦争というどうにもならぬ現実に出会った経験のためではないかと睨んでいる。
これは歴史的なものとして考えられそうだ。戦争ーー第二次世界大戦は、昔のような貴族や戦士同士の争いではなく、民間人を巻き込んだ総力戦だった。また、現代の特色であろうが、人間を物質化する度合いが強く、人間は物として単位になり戦局に投入される。人間が作った社会そのものが大きくなり、大衆がメディアで繋がり、殺傷力の高い武器兵器が開発され、各国民は宣伝で一つに見事に到達される。神という軛から外れた人間がその総力を高めた結果が戦争という一つの破滅だったと私は考えている。
この問題は平和においても間接的に続いている。我々が日頃感じる無意識的なストレスの正体は、人間社会が増大し、そのシステムがあまりに見事にできているがゆえに、そこから外れる事への畏怖である。一つの歯車として機能できないのではないかという恐怖がある。人間の物質化は戦争から平和になっても持続していく。本質的なメカニズムは変わっていない。例えば、電車の運転手にかかっている無意識的なストレスはどんなものだろう? 彼は毎日、多量の人間の生命を背負って電車を運行させねばならない。しかしそれは今や「普通」の事だ。