別れの情景Ⅴ遠い山並
別れの情景のⅤです。ぜひ感想をお聞かせください
――いつも考えていた。
この悲しみはどこへ行ってしまうんだろう?
「それで?」
と彼女は言った。
「それで?」
どこか疲れた、けれどはっきりした声だった。
彼は少しひるんだようだった。けれど、思い直して、また話し始めた。
「だから、何度同じことを言わすんだよ。いい加減、わかれよ」
「私に行かれたら、困るんでしょ。それはもうよくわかったわ。何度も聞いたから……それで?」
「だから……」
「行くなっていうんでしょう。それもよくわかったわよ。それで?」
「それでって、それでおしまいだよ」
「おしまいなのね。よくわかったわ、それじゃ、私はもう行くわ」
「何を言ってるんだ」
「何をって?」
「わかったと言ったじゃないか」
「よくわかったわよ。私がいなくなるといろいろ困るっていうこと。私に行かせたくないこと。私に行くなって言っていること」
「じゃあ、なぜ行くんだ」
「行きたいからよ」
「行くなって言ってるんだ。」
彼は強い調子でそう言った。
「私は行くのよ」
「何様のつもりなんだ。駄々をこねるなよ。帰ってゆっくり話そう。言いたいことがあれば家で聞いてやる。こんなところで、大声をあげていたらみっともないだろう。」
「大声をあげているのは、あなたでしょう。私は別に話したくない。行くなって言ってるのはあなた。行きたいのは私。そして、この肉体は、この人生は、私のものなのよ。私だけが自由にできるのよ」
「許さない」
「知ってるわよ。どうぞ、ご自由に。許さないのはあなたの勝手。許してほしいなんて一言も言ってないわ。言っても、どうせ無駄なことぐらい、もう十分に知ってますから。いつも怒鳴り散らして,私が黙るまで罵声を浴びせて……もう私は反論する気なんて全くないわ。好きなだけここで怒鳴っていて……」
彼は何と言っていいかわからない様子だった。彼女は彼女の腕をつかんでいる彼の手をゆっくりと外した。彼は怒ったような顔をして彼女を見つめた。いつも見慣れた、怒り顔だった。
彼と暮らしてもう三年だった。彼が「愛している」と言ってくれた時はうれしかった。誰かにそんなことを言われたことはほとんど初めてだったから。「一生大切にする」と言われたこともある。彼は覚えているだろうか?
彼女は彼の向こう側に広がる山並みに目をやった。二人のいる小さな公園からは、この田舎町を囲む山並みがよく見えた。山並みの上の青空には今日もほかほかした雲が浮かんでいた。子どものころよく思ったものだった。あの山並みの向こうにはどんな風景が広がっているんだろうって……彼と暮らすようになってからも彼の怒り顔に追い出されるようにベランダに出て、山並みを見ては思ったものだった。あの山並みの向こうには何があるんだろう。
彼女は、一瞬、我を忘れて、山並みとその上に広がる空の美しさに見とれた。
それから、もう一度、彼の顔に視線を戻して、彼女は言った。
「どうするの? 私を殴る? それとも紐で縛っておく? それともいっそ殺す? あなたにはそれはできるわ。でも、私の決心を変えることだけはできないわ」
「何を言っているんだ。どうして俺の言うことがわからないんだ?」
彼女はまるで軽蔑するように、そして少し寂しそうに笑った。
「あなたはいつも同じこと言うのね。俺のことをわかれ、理解しろって……わかってるのよ。わかってる。嫌というほどわかってる。わかってないのは、あなた。あなたはどうしてもわからない人だから、あきらめてあなたの言う通りに行動してきた。怒鳴られるのがいやで、話を合わせてきた。私はもう嫌というほどわかってるの。あなたがどういう人だか……でも、あなたは何一つわかっていないでしょう、私があなたをどんなにわかっているかも。いつも考えていたわ。……私の悲しみはどこへ行ってしまうんだろうって」
彼女はうつむいて足下の砂混じりの乾いた地面を見た。そして自分に言い聞かすように言う。
「いつも考えていた。悲しみはどこへ行ってしまうんだろうって。私の悲しみ。どんなに悲しくても、それは私の胸の内にあるだけ。死んで墓にしまわれるだけ。誰も気づくことなく、誰も気にすることもなく、ただ死んでいくんだろうかって
私が泣いていたとき、あなたは『泣くな』って言ったの。だから、私、泣かないようにした。辛いときも、苦しいときも、悲しいときも泣かないようにしたの。私が沈んでいると、『気が滅入るから、明るく振る舞え』ってあなたは言ったの。だから、私、明るく振る舞うようにしたわ
私が笑ったとき、あなたは言ったわ。『うるさい』って。『俺を笑ってるのか。俺が落ち込んでいるのがそんなに面白いのか』って。あなたはいつも言っていた。『わかってくれ』って。『どうして俺の気持ちがわからないんだ』って。そう、あなたはいつも言っていた。『何がしたいかではなくて、何をしなければいけないかを考えろ』って。『もういい加減な大人なんだから、少しはちゃんとしろ』って」
「いつも考えていたの。悲しみはどこへ行ってしまうんだろうって。私の中で生まれて、望まれない子どものように、私の中で死んでいく。私はいつも考えていたの。私は誰のための私なんだろう。私の悲しみは一体。誰のためにあるんだろう。あなたの言う立派な人間って、いったいどういう人間なんだろう。……それから、そう、それから、そんなふうに日々が流れて、毎日、毎日、小さな我慢をして、毎晩苦しくて、毎朝辛くて、自分を責めて、長い時間が流れて、それで、やっと私にはわかったの。私は立派な人間になんかなりたくないってこと。私は、立派な人間になんかならなくていいんだってこと。私が悪いんじゃない。私は私でいいってこと。いいえ、私は私でなくちゃいけないんだってこと。私は私でありたいんだってこと」
彼女は、地面を見つめたまま,少し口をつぐんだ。それから眼をあげると彼を見ないで言った。
「私がやらなかったら、一体、誰が私の悲しみを見守ってやれるのかってこと。せめて、せめてこの私だけは私の悲しみの行方を見守ってやらなくちゃいけないのよ。悲しいときには泣いて、うれしいときには笑ってやるの。そう、私がほんの少しも立派な人間でなかったとしても、この私だけは、そういう自分、ありのままの自分を抱きしめてあげたいの。そうでなかったら、そうでなかったら……」
不意に目頭が熱くなったのを、彼女は必死でこらえた。声が震えている。
「私の悲しみがかわいそうすぎるもの」
「悲しみがかわいそうだって? 一体何を言ってるんだ。ばかばかしい。もう少し強くなれよ。そんなんじゃ、いつまでたっても誰も相手にしてくれないぞ」
「私ね。私が悲しくてため息をついた時に、あなたに言ってほしかったの。『かわいそうに。何を悲しんでいるんだい?』って。でも、あなたは言ったわ。『ため息なんかつくなよ。こっちまで嫌な気分になる』 あなたは自分のことしか考えられない人。あなたは自分の気持だけが大事な人。あなたにとっては自分の気持ちだけが社会の正義なのね。あなたには私にとっては、私という存在がどんなに大切であるか、私の気持ちというものがどんなに大事であるかわからない。あなたにとって大事なのはあなたしかいないからよ」
「結局、お前のことを大事にしなかった俺が悪いって言いたいのか。大事にして欲しいなら、そう言えばいいじゃないか。何も言わないで、突然、出ていくなんて……」
彼女は首を振った。
「この日が来るのが怖くて、ずっと黙っていた。でも……さよなら、もう、いくわ」
彼女は歩き出した。
「おい、待てよ」と彼は言った。「話はまだ終わってないだろう」
「あなたが納得するまで終わらないんですもの、終わるわけないわ」
彼女は振り向きもせず歩き出した。
心が空っぽになったような気がした。遠い山並みと、その上に浮かぶ雲たちが、悲しいほどきれいだった。
彼女は悲しみと二人ぼっちで歩き出した。
二人の出会いや同棲を始める話を盛り込もうかと思ったのですがあえて書かない方がいいかと思いこの形にしてみました。「望まれない子供のように生まれては誰も知らないまま消えていく私の悲しみがかわいそうすぎる」というところがこの物語の中心です。