ピクルスとコーヒーカップ
いつのまにか11月になってしまいましたね。
今日も僕はいつも通りコーヒーを“彼女”のもとへ運ぶ。
もしこの店に来る人々を「常連客」と「それ以外」と分類するのであれば、彼女は前者に含まれるだろう。月水金曜日の朝は必ず店を訪れてコーヒーとツナサンドを食べて行くし、土曜日の午前中はここでコーヒーを飲みながら文庫本を開いている。コーヒーは必ずマンデリンを頼み、座るのは奥の窓際、目の前にある駅のホームが一番よく見える席だ。
僕が彼女について知っているのはそれくらいで、一週間の半分以上の日に顔を合わせているといっても、コーヒーを飲む客と、コーヒーを運ぶ店員―ツナサンドは特製なので、マスターが運ぶ―、という関係以上のなんでもなかった。
なんなら、僕らの関係はコーヒーカップという無機物によって繋がれていると言っても良いだろう。彼女がコーヒーを頼まなくなれば、その関係はあっさりと終了するのだ。
「ねえ、あの人、何をしているんだと思う?」
と彼女が言った。
珍しい、と僕は思った。もう百回以上彼女の前にコーヒーカップを置いてきたが、意外とかわいいその声を聞くのは初めてだ。
「あそこ、ホームに座っている老人。土曜日の午前中、いつもあのベンチに座っているの。そして正午きっかりにでていく。電車に乗るわけではなくね。あなたはどう思う?」
そう続けて彼女は僕が置いたコーヒーを啜る。
「さあ…日向ぼっことか」
と適当に答えた僕を彼女は呆れた顔で見つめる。こんなに想像力のない人間は初めて見たわ、とでも言いたげな顔だ。
「ここまで想像力のない人だとは思っていなかったわ」
概ね予想と同じようなことを言い、来週までに考えておいてね、と付け加えて文庫本を開いた。
その日から僕たちは、少しずつではあるものの、言葉を交わすようになっていった。あの日を境に、僕らの関係は変化したと言えるだろう。ほんの少しではあるが。
ちなみに例の老人については、「あの駅のあのホームは若い頃に生活苦で別れた恋人と再会の約束を場所である。一生懸命働いて余裕が出てきたものの、忙しく人生を生きる中で過去の出来事として忘れてしまっていた。それを思い出し、今更来る可能性の低い、“彼”が来るのを待っている」という結論に至った。
ある土曜日、彼女にコーヒーを運んだときに聞いてみた。
「なんでいつもツナサンドなんですか?」
「ここのツナサンドは特別なのよ。絶対何か隠し味があると思うの」
確かにうちのツナサンドはおいしい。挟んであるツナサラダの作り方はマスターだけが知っていて、絶対に教えてもらえない。
「確かにマスターしか作り方を知りませんね。でも、それにしたって他に食べないんですか?」
彼女はしばらく黙っていた。もう答える気がないのだろうか、とカウンターへ戻ろうとしたとき「ハンバーガー」と彼女が言った。
「え?」
「以前、ハンバーガーを注文したわ。でも、あろうことか、ピクルスが入っていなかったのよ。だからそれ以来頼んでいないわ生まれてから一度も、ピクルス抜きのハンバーガーなんて食べたことがないもの」
「ピクルス?好きなんですか、ピクルス?そんなに??」
「そ、そうよ。好きなのよピクルスが。…悪いかしら」
僕の言い方が茶化すようになってしまったせいか、彼女は少し恥ずかしそうに言って、窓の方に顔を向けてしまった。彼女のあんなに照れた表情は初めて見るが、悪くない。
「いや、馬鹿にしてるつもりはないですし、全くなにも悪くもないですよ。僕も好きですからね、ピクルス。おな…」
同じものがすきだなんてうれしい、と無意識に続けようとしていることに気がついて止めた。一体僕は何を言おうとしているのだろうか。開きそうになる口をどうにか抑えようと、ピクルスの甘酸っぱさを思い出してみた。たかだかコーヒーカップで繋がっているだけの相手に、そんな恥ずかしいことが言えるわけがない。
そうだ、言えるわけがない。
開こうとした口を無理やり抑えたせいで、なんだか笑いを堪えているような顔になってしまい、チラッとそれを見た彼女はますます恥ずかしくなってしまったようだ。
「ふん!いつまでもピクルス女をからかっていないで、早く働いたらどうかしら」
そう言って文庫本を開いて読み始めた。
僕も、本当に馬鹿にしているわけじゃないですから、と伝え、カウンターへ戻った。カウンターの中で、ピクルスの入っていないハンバーガーの味を思い出そうとしてみたが、生まれてこの方ピクルス抜きのバーガーは食べたことがないのでわからなかった。
彼女と同じだ、と僕は思った。思わず口角が上がりそうになったので、一生懸命ピクルスの味を想像した。
次の土曜日、僕は彼女が来る時間を見計らい、ピクルスを入れたハンバーガーを用意しておいた。量は完全に僕の好みに合わせてしまったが、これだけ入れれば文句はないだろう。真ん中に一枚、それを囲むようにして四枚乗せるのがジャスティスだ。
しかし、結局その日彼女は現れなかった。仕方なく、僕は用意したハンバーガーを自分で食べた。あふれ出る甘酸っぱさの奥に、彼女の照れた顔が浮かんだ。
一週間後、再び僕はピクルス入りのハンバーガーを用意して待っていた。そして、いつも通り彼女が入ってくると、マンデリンとハンバーガーを運んだ。
頼んでもいないハンバーガーを差し出された彼女は驚いた顔で、
「なにこれ」
と言った。
「ハンバーガー、僕のおごりです。もちろん、ちゃんとピクルスは入ってます。僕の好みに合わせた量ですけどね」
彼女はしばらく僕の顔とハンバーガーを交互に見ていたが、やがて、
「呆れた」
と息をついて、ナイフを手に取った。戻る間際に見えた彼女の頬は、ほのかに赤く染まっている気がした。
僕と彼女の関係は少しずつ変化している。しかし、進展しているとは言えない。やはり僕らを繋いでいるのは彼女の頼むコーヒーであるし、それが入っているコーヒーカップであった。
だが、少なくとも彼女がコーヒーを頼み続ける限り僕らの関係は終わらないだろうし、だとすれば僕はこれから先も彼女のもとにコーヒーを運び続けていたいと思う。
僕は余ったピクルスを口に放り込み、いつも以上に感じる甘酸っぱさに口をすぼめた。