今の危機と、未来の危機
「今日はありがとう、徹平くん。ごはん美味しかった~。またあの店、行こうね」
「ああ。また」
夜も更けた、マンションの廊下。隣りどうし、各々の住む部屋のドアの前に立ち、別れの挨拶をする私と徹平くん。
鍵を取り出しドアノブに差し込むと、まだ横からの視線を感じることに気づきました。
「徹平くん? どうしたの?」
「いや、小春がちゃんと戸締りするまで見届けようと思って」
「そんなあ、大丈夫だよ」
「最近、このあたりで変質者が出るって聞いたものだから。念には念をね」徹平くんは眼鏡を光らせます。「僕は、小春を任されているから」
「変質者」
その言葉は、私の脳裏にある美青年を想起させました。
「遅かったですね。ご主人様。」
戸を閉めると同時に、玄関先で寝転んでぐでぐでしている物体が話しかけてきました。
変質者。変態。
いえ、うちで飼っている、未来から来た人型ペットの猫山です。
「ごめん、バイトから帰ろうとしたら学校帰りの徹平くんが迎えに来てくれたから、そのままごはん食べちゃって……。お腹空いた?」
「いえ、謝らないでください。いいことです。どんどん親密になってください。そして未来の日本人のために結ばれてください」
誇らしげにサムズアップする猫山。同時にお腹の虫が鳴ります。
それを見て私の頬も緩みます。
買ったけど食べ損ねたお弁当を取り出し、猫山の前に出します。
「えへへ……ほんと最近、徹平くんと前より仲良くなれてきてるの」
「そのままよろしくお願いいたします。未来の変態たちのために一発」
「割と気分が台無しになりそうな言い方するよね!?」
でも今の私の幸せムードはそれくらいでは壊れないのです。徹平くんと過ごした時間を思い出しては、自然ににまにましてしまいます。
「その様子ではいい話がたくさん出来たようですね」
猫山はお弁当をもっきゅもっきゅと食べながら話を続けます。
「うん」
「結婚話は出ましたか?」
「けっ……そんな話、まだ出ないよお! 付き合っているかも微妙なのに!」
「では、いい話とは?」
「徹平くんがね、自分のしている研究のお話をたくさんしてくれたの」
「研究」
「ぜんっぜん言ってることわからなかったけどね……えへへ……」
猫山はあきれた表情をしています。
「……どこがいい話なんです?」
「嬉しかったし楽しかったの。徹平くんが、楽しそうにしていることが楽しい。好きなことを目をキラキラ輝かせながらお話してくれてるのを見るのが、とても嬉しいし幸せなの」
うっとりと語る私。
「そうですか」
「……」
「どうしました?」
「あの、あのね……猫山……」
「なんでしょう?」
私は目を伏せ、言葉を絞り出します。
「やっぱり私、徹平くんから研究を奪えないよ」
猫山がその整った顔を歪めます。
「ダメじゃないですか!!!!」
「うん、ダメなの!! どうしよお……!」
私は半泣きで返します。
未来の日本人を救うために、徹平くんの命を奪うか、もしくは結婚して彼の研究者としての道を途絶しないといけないのに……!
これじゃ全然だめです!
今になって、猫山が前に言っていたことがわかってきました。
『人生の終わりです。自分のやりたいことやキャリアを捨てて生きながらえるなんて、拷問です。生き地獄です。生殺しです。すんなり死なせてあげた方が彼のためです』
徹平くんと仲良くなって、彼を知ったことで、わかってきてしまったんです。
自分がやろうとしていることは、徹平くんという一人の人を殺してしまうのと変わらないのではということを。
「あまり時間はありません。ぐずぐずしていると完全治癒薬の開発が間に合わない未来になってしまいます。しっかりして下さい、ご主人様」
その猫山の声は妙に無機的に聞こえ、背筋に冷たいものを感じました。
◇ ◇ ◇
布団には入ったもののなかなか寝付けず、のどの渇きを感じて体を起こします。
ベッドの下に丸まっている猫山を踏みつぶさないように跨ぎ、冷蔵庫の中の牛乳を取り出してコップに注ぎます。
時計に目をやると、午前4時過ぎ。ずいぶんな時間です。
ため息をひとつついたのち、一気に牛乳を飲み干します。
なんだかいろいろ悩んでしまいます。
選ばなければなりません。
夢か、命か。
本当に大切なものは何なのか。
――やっぱり、知らない遠い未来の人たちのために徹平くんを犠牲になんてできません。
大体、徹平くん一人に背負わせすぎです。ひどいです。
カーテンの向こう側がなんとなく明るいように思え、開けると、丸い月が見えました。
猫山が来たあの夜のような、きれいな満月です。最も時間が時間なので、もうだいぶ沈んでいますが。
ベランダに出ると、涼しい風が頬を撫でました。
ごとり。
物音がし、見ると、ベランダの隅で何かがうごめいていました。
「……やっと……出てきた……」
え?
耳慣れない声。
闇の中から何かが立ち上がり、月明りに照らされる、知らない男の顔。
「るにゃだろ……? すっぴんだとこんな顔なのか……。わかるだろ、俺が、誰か」
誰? そして誰のこと!?
謎の男に腕をつかまれ、体が固まります。
「行くって言っただろ……? なあ……?」
顔の前に突きつけられたスマートフォンの画面に、知らない男女のメッセージのやり取りが見えました。
「あっ」
小さく声を上げた私の口をふさごうとして、男はスマートフォンを落としました。
そのまま身体をガラス戸に押し付けられます。
メッセージの相手は隣の――406号室の女性です!
”るにゃ”というのはきっとハンドルネームなのでしょう。おそらく二人はネットだけで交流があって――。
変態に部屋を間違えられるなんて、まるで猫山と会ったときみたいです……!
でもあのときよりずっと状況は深刻です。
一瞬見えた、物騒な言葉。
――受け入れてくれなかったら、殺すから――
どうしよう……。
頭が真っ白になった、そのとき。
「にゃあああああああああああああああああああああああおおおおおお!!!わわわわん!!!」
「な!?」
部屋の中から謎の鳴き声がして、男がぎょっと目を見開きそのまま固まりました。
私の背後に何が見えているのでしょう?
「どうしたんだ、小春!」
奇声に気づいたらしい徹平くんがベランダに出てきました。
私の状況を見て一瞬戸惑ったようですが、でもすぐに、
「わああああああああああ!」
叫びながらベランダを乗り越えてきました!
危ないよ、徹平くん!!
そのまま彼は変質者に体当たりをし、不意打ちを食らった男はよろめきました。その隙に私は男の腕の中を抜け出し、徹平くんの背後に回りました。
そして部屋の中を見て、暗い中で犬耳をつけて目を光らせ仁王立ちする猫山を見つけてビクッとしました。
なにあれ! でかいし怖い!
「くそっ」男が光るものを取り出しました。「このビッチが……!」
「わ、わたし、わたしは、ちが……」
「お、おま……」
刃物を前に、恐怖で言葉にならない私と徹平くん。
それでも徹平くんは震えながらも、その大きな身体を使って私の壁になろうとしてくれています。彼の猫背がこんなに頼もしく見えたのは、初めてかもしれません。
恐怖と不安とドキドキで、心臓がばくばくして飛び出しそうです。
男はちらちらと猫山の方を気にしているようです。
「お前、そこを動くな! いいな! 妙な動きをしたら承知しねえぞ!」
挟み撃ちを警戒しているのでしょうか?
猫山はピクリとも動かず黙っています。
……もしかして。
もしかして猫山は、このまま徹平くんが殺されたら助かると。そう思ってるんじゃないでしょうか!?
そんな……ひどい!
私が優柔不断で迷いがちだったから、役立たずと見限ったんでしょうか?
徹平くんの他に人が出てくる様子は見えません。ご近所トラブルに無関心な、冷たい世の中です。
猫山に協力してもらわないと、絶体絶命です!
徹平くんが殺されるなんて、絶対に嫌です。
それなら、それなら私の方が――!
徹平くんの前に出ようとすると、彼に妨げられ、そのまま強く抱きしめられました。
それを見た男がナイフを振り上げた瞬間、
「捨てられました!
私は瀬尾小春に捨てられました!!!!!!!!!!!!
瀬尾!小春!に! 捨てられましたあああああ!!!!!」
さっきの奇声の何十倍もの声量に男は怯み、バランスを崩し、手から落ちたナイフはしゃーっと部屋の中へ飛び込みました。
ね、猫山ってば……ここでその警報!?
「機能を間違えました。悟られないように警察に連絡しようと思ったのですが」
彼は大まじめな顔をしたまま声を切り替え、ナイフを拾い上げます。
わざとじゃないよね!?
「く、くそ、なんだこの女」
男は動揺した様子で周囲を見回した後、足をもつらせながらベランダから降りて逃げていき、最後にどさりと言う大きな音と、かすかな叫び声が聞こえました。
「よ、よかった……死ぬかと思った」
へなへなと崩れる徹平くん。
腰が抜けたのかよろよろと這いつくばりながら男が残していったスマートフォンを拾い、警察に連絡を入れます。
ベランダの下を覗いていた猫山は、こちらを向き、「番犬モードです」と犬耳を指さしてキリッとした顔で言いました。
にゃああとか最初言っていなかった?
「あの男は足もひねったようですし、そうそう逃げられないでしょう。私は直接人間に危害は加えられないので、自滅していただけて助かりました」
「そっかあ……」ほっとし、ようやく気が緩みました。「ありがとう、猫山」
「ご主人様を守るのは当然です」
それだけじゃなくて。
徹平くんを見捨てないでくれて、ありがとう。
徹平くんを……。
「もう! 徹平くん、なんであんな危険なことをしたの!? ここ4階だし!!」
安心すると、怒りがわいてきました。徹平くんの背中をぽかぽかと殴ります。守ってもらっておいて理不尽ですが、徹平くんを危険に晒してしまった後悔でつい八つ当たりしてしまいます。
「僕はご両親に小春を任されてるから」
またそれです。いつもいつも。テンプレのように。
「そんな、親の言うことより大切なことがあるじゃない。徹平くんは、徹平くんを大事にして……」
「小春より大切なものなんてあるものか!」
声を荒げ、真剣な顔で言う徹平くん。
”徹平さまが死にたくなるのは、ご主人様がらみのときだけだ”
猫山のセリフがリフレインします。
徹平くん。
徹平くん!!
大好きだよ、徹平くん!!!
感激とときめきで胸がいっぱいになって溢れて、私の中に渦巻いていたもやもやした思いをすべて吹き飛ばしました。
「結婚してください」
言ってしまいました。
徹平くんは面食らったようでしたが、すぐに優しく抱きしめてくれました。
そして、私の耳元でぽつりと言いました。
「幸せで死んでもいい……」
もう。死ぬなんて言っちゃだめだよ、徹平くん。
次回、エピローグ。
明日投稿します。