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狐たち  作者: nutella
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 犬は苦手だ。

 賢い大型犬も、従順な中型犬も、愛くるしい愛玩犬も、同じように恐ろしい。そう、苦手と言うよりはむしろ怖いのだ。飼い主が犬に顔を舐められているところなんて、見るだけで全身の腱が縮こまり、鳥肌が立つほどだ。ペットが人間のパートナーとして深く根付いた社会では、そういった反応は奇異の目で見られることがあるが、かつて山葉にとって犬との関係性というのは死活問題――文字通り、生死を分ける問題だったのだ。

 北方の汚染地帯の一部で狂犬病が猛威を振るったのは、偶然だとも、悪意ある人間による仕業だとも言われている。後者の主張によると、犯人は浄化主義者――平たく言えば、汚染地帯の住民を“吐き気を催す巨大蝗いなご”と呼び、地理的絶滅を求める、歪んだ宗教観をベースとした富裕層の団体――で、ある月夜の晩、狂犬病ウィルスを注射した四十九匹の狩猟犬を付近で放ったのだという。本当かはわからない。おそらくは浄化主義者の行き過ぎたドグマを揶揄した都市伝説の類なのだろう。

 しかし狂犬病が流行ったことは事実だった。そして伝染に拍車をかけたのは他でもない無教養な住民――彼らそのものだったのだ。いったいどこで聞いたのか、頭から水をかぶれば感染しない、というデマがあっという間に広がり、感染の拡大に拍車をかけた。しかし狂犬病に感染した動物が必ずしも水を恐れるわけではないし、それだって液体を嚥下することで嚥下筋が痙攣して激痛を感じるからというだけで、なにも水に限った話ではない。

 識字率数パーセントの世界――慢性的な飢えと病に翻弄される“そこ”では、およそ知と呼べるものは存在せず、迷信と真実が、まったく同等の価値を持っているようだった。一方は黄金で一方は鍍金めっき。しかし知がなければ質量と体積をそれぞれ量って比べることもできず、迷信と真実、どちらが本物かなど、決してわからないのだった。

 発病すれば致死率百パーセントのウィルス……まるで子供が考えたような馬鹿げた数字の、最凶の人獣共通感染症。

 口から泡を吹いて死ぬ人々を何度となく目にし、山葉の記憶には、経験と呼ぶにはあまりにも重い楔が打ち込まれていた。記憶では、犬は必ず泡だらけの涎を垂らして白目を剥き、睾丸を切り取られた男の叫びを上げ、裂けたアルミ缶の歯をかちかちと打ち鳴らし、機関車よろしく紫煙を吐いて襲い掛かってくるのだった。

 だから最初、その犬がソファのクッションの下から現われたとき、山葉は目を見開いて硬直した。瞼の筋肉が痙攣して、腋の下に冷たい汗がどっと湧き出た。やがて、犬が単なる愛玩犬であること、自分が強化服を装備していて、万が一噛まれようと大丈夫なことを順に理解すると、ようやく緊張を緩めた。犬は小型で、目が隠れるくらい毛が長かった。保護対象にも入っている愛玩犬――ローシェンという種類だと思い出す。

 彼が身を低くして立っているのは屋敷のリビングだった。高い位置にいくつもある採光窓のおかげで、室内には月明かりが薄闇を貫くように差し込んでいる。リビングは広く、中央にはローシェンが寝ていたらしい革張りのソファと、大型のテレビスクリーンがあった。その周辺だけ、控え目な刺繍の施された絨毯が敷かれている。奥はカウンターキッチンになっていて、食べかけのサンドイッチが皿の上に鎮座している。

 周囲に敵に気配は感じない。待ち伏せを予期してフルフェイスシールドの集音マイクの感度を最大まで上げていたが、今のところ聞こえてくるのは換気扇が回る音だけだ。静けさが逆に疑わしい。グローブを嵌めた両手、握った銃に、思わず力がこもる。

 一口に銃といっても、この国でいち警備員ごときに帯銃許可は下りない。今、山葉が手にしているのは、殺傷能力のないESGと呼ばれる銃だ。正式には《大出力電荷飛翔体発射装置》という長々しい名称で、普通のハンドガンを少し大ぶりにした形をしている。要は着弾と同時に極細の針を打ち込んで高圧電流を放ち、目標を無力化するという、いたってシンプルな発想のものだ。針を使うことから目に入れば大怪我は免れないだろうが、それを言うならゴム弾だって同じだ。とはいえ、弾頭には一応、深貫通防止膜が取り付けられていて、弾丸を超小型テトラポッドのような奇抜なデザインにしている。

 山葉が進もうとすると、ローシェンは気を引きたいのかぱたぱたと尻尾を振って跳ね回った。甘ったれた声を出しながらフンフンとふくらはぎに鼻をこすりつける。番犬としての機能はないようだ、と山葉は真剣に思う。構ってくれそうなら誰でもいいらしい。そのままローシェンは、熱烈な勢いで強化服の匂いを嗅ぎ始める。場違いにも、自分の体臭はそこまで強烈なのだろうかと不安にさせられるほどの勢いだ。しかし山葉としては、犬が身体をこすり付けてくる度に、なにか未知の病原体に蝕まれるようで、そっちの方が気が気でない。

 仕方ない、と足でどかせようとしたときだった。ローシェンが突然ぴくりと耳を立て、山葉の背後、玄関へ繋がるドアへと鼻先を向ける。

 うなじに悪寒が走った。

 咄嗟に山葉は身を伏せた。

 直後、先ほども聞いた、金床に金槌を振り下ろしたような音の衝撃が轟いた。プラズマ加速された弾丸が、羽織ったレインコートのフードを貫通していった。キッチンの窓ガラスが砕け、寒風が吹き込む。きゃんきゃん、とローシェンが鳴きながら走り去る。

 ほとんどなにも考えなかった。

 山葉は側方へ転がりながら、音源に向けてESGを連射した。ドリルで歯を削るような金属音が鳴り、暗闇の中、一発が敵の頭部に命中し、火花が爆ぜた。そのおかげで一瞬、よろめく敵の姿がくっきりと浮かび上がる。ドアの前にいるのは迷彩服に防弾チョッキ、それから暗視ゴーグル付きのヘッドギアを装備したひとりの男だ。ESGの弾丸はゴーグルをかすったらしい。

 敵が怯んだ隙に、山葉は立ち上がった。心臓が肋骨を激しく叩いている。酸性の恐怖が毛穴から染み出し、皮膚を焼いている。しかしPBA相手に引いてはならない。引いて隠れたところで、壁越しに狙われるだけだ。

 今しかない。そう腹をくくると、山葉は敵へ向けて走り出した。

 PBAの唯一と言ってもいい弱点――それは、ハンドガンくらい小型のものでは、連射ができないことだ。バレルの冷却と充電に数秒、時間がかかるのだ。たった数秒、しかし数秒。人の生死が決まるのは、そんな凝縮された瞬間のことだ。

 山葉は全力で床を蹴り、突進する。

 一気に距離を詰める。あと数歩。

 だが計ったかのようにそのタイミングで、敵が再び銃を構える。流線型の、メタリックな加速装置の側部にはグリーンのランプが輝き、冷却と充電が終わったことを知らせている。ぎゅうっと引き金が絞られる。

 間に合わない――そう悟った眼前、聾唖者さえ叩き起こすほどの発射音。

 しかし弾丸はフルフェイスシールドの頭頂部を数ミリメートル削り取って、逸れていた。

 山葉はスライディングの姿勢をとっていた。敵は慌てて飛び退こうとするが、もう遅い。山葉は歯を食いしばり、弓のように引き絞った左足を、助走を乗せて振り抜いた。衝撃が脛を走る。両足を刈り取られ、敵は独楽のような勢いで、顔面から床に激突した。暗視ゴーグルのレンズが砕けた。くぐもった悲鳴が聞こえた。

 山葉は床に手を着いて立ち上がると、その背中を左足で思い切り踏みつけた。防御の薄い首を狙って、マガジンに残っている弾をありったけ撃ち込む。敵の身体が激しく痙攣を始めても、山葉は引き金を引くことを止められなかった。やがて、激鉄が空の薬室を叩く音に変わり、山葉は詰めていた息を吐き出した。

「はぁっ、はぁ、はぁ……」

 ぶるる、と身体が震えた。口の中はからからだった。唾を飲もうとすると、喉に引き攣れるような痛みが走った――狂った犬の痛み。

 敵を見下ろす。足でひっくり返すと、男は両鼻から出血していた。表情筋がびくびくと震えていることを見ると、殺してはいないようだ。山葉は右脇下のD字リングを探り、そこから何本か吊り下げられているナイロン製の結束バンドをもぎり取った。電化製品の配線をまとめるときに使う、ケーブルタイと同じ素材だ。

 男を後ろ手に拘束していると、床に転がっていたPBAが目に入った。山葉が持つことも使うことも違法だが、この場合はそんなことを言ってはいられないだろう。少なくとも、同じ武器を持つことでけん制にはなるはずだ。山葉はESGを大腿部のホルスターに戻し、PBAを手に取った。グローブをした手に、ぴったりくる大きさだ。

「PP―2、聞こえますか? 無事ですか?」

 ちょうどそのとき、HQから通信が入った。フルフェイスシールド側部の触感センサーに触れ、山葉は応答する。

「クーリロワか? 今ちょうど襲撃者をひとり捕らえたところだ。ESGで失神させたから他の敵の情報は聞けなかっ――」

「二階の寝室に向かいなさい」

「なに?」

「邸内の状況はほぼ把握できました。敵は残り三人、二階の来客用寝室にいます。急ぎなさい、FA――男性クライアントもその部屋です、囲まれています」

「どうしてわかる?」

「フルフェイスシールドのリンクシステムを経由して、熱源監視センサーにクラッキングを仕掛けました。各部屋の熱情報をこちらに引っ張って、解析ソフトを使って映像化しています。あくまで緊急時の力技です」

 聞いたことがある、と山葉は思った。何年か前、ゴシップ誌のコラムで読んだのだ。タイトルは《あなたの知らない罠――監視社会の恐怖》だったろうか。安っぽい煽りだったことは覚えている。一般人にはとても想像できない手法の情報犯罪――フェムト秒レーザーを使った盗聴や、非金属性かつ、レンズのないカメラによる盗撮など――について、やたら読み手の危機感を煽る文章で紹介していた。その中に、警備会社を信頼しすぎてはいけない、という項目があったのだ。

 グレードB以上の高水準建築物は火事などの災害に備え、必ず監視用センサーを各部屋に備えているが、コラム執筆者の独自調査によれば、これこそが《恐怖の罠》なのだという。通常、センサーがとらえるのは熱情報で、これだけなら体温に病的なこだわりでもない限り、プライバシーは損なわれない。しかし問題なのはこのデータが警備会社で管理されている場合なのである。知る人こそ少ないが、実は最新の解析ソフトを使って赤外線映像を処理すると、人についてはほぼ完全なかたちで再現できるのだ。あたかも望遠鏡で覗いた星の爆発をコンピューターで解析し、数百年前の一瞬を、現代にまざまざと蘇らせるように。であるから、ごく平凡そうな女性のポルノ画像がネットの海で散見されるのは不思議でも何でもなく、警備会社から流出したデータが元である可能性が高いのだ。特に、公共施設で撮られたものについては被害者が気付きにくい。だから図書館や美術館には厚手の服を着て行くべきなのである。もし、あなたの知らないうちに、自分の裸をさらしたくないのなら……。

 しかし記事には明白な誤りがあった。物体の表面温度を測る赤外線サーモグラフィと、衣服を透過するX線を混同しているのだ。それで山葉は記事がコラムというよりはジョーク記事で、ページを埋めるのが目的なのだと考えたのだが、高性能な解析ソフトが実在し、しかも警備会社がそれを持っているというのはどうやら事実らしい。だが考えてみれば自然なことなのかもしれない。いくら安全を求めても、室内にカメラを置きたい人間などいない。しかし室内の状況がわからなければいざというとき手が出せない。少ない情報で手を出そうとすれば、今度はこちらに被害が出る。とすると、非正規の奥の手を、警備側が隠し持っていても不思議ではないのだ。

 山葉は立ち上がると、了解した、と言った。

「二階の寝室だな」

「ええ。おそらく動転して、隣にあるパニックルームと間違えて逃げ込んでしまったのでしょう。女性クライアントは未確認ですが、使用人はすでに殺されています。彼らは危険です。急ぎなさい。階段を上がって突き当たり手前、右の部屋です。今更怖気づいたとは言わせません、あなたが決めたことなのですから」

 挑発するような口調。しかし言い返そうとも思わない。山葉はキッチン横のドアを抜け、通路の先の階段を駆け上っていく。階段は途中で九〇度左に曲がっている。

 その小さな踊り場にさしかかったところで、彼は小さな悲鳴を聞いた。一瞬男性クライアントのものかと思ったが違う。女――それも、子供の悲鳴だ。だがおかしい、と思う。警護対象に子供なんていなかったはずだ。警護対象どころか、家族構成にもなかった。訪問者だって聞いてない。まさか隠し子? そんな馬鹿な。誰に隠す必要があるというのだ? 警備会社は社会福祉局ではない。たとえ連れ子だろうと愛人との子だろうと家庭環境が異常だろうと、違法行為が目の前で行われない限りはクライアントのプライベートなど一切関知しない。にもかかわらず、最優先の保護対象になるはずの子供を差し置き、愛玩犬がリストに乗っているという状況は、端的にこの家庭の異常性を示しているのではないか。

 再び、声。やはり間違いない。少女のものだ。割と幼いように思える。だけど決して幼すぎず、たとえばそう、十歳前後の……

 その途端、激しい頭痛を感じた。脳に直接リキュールをぶっかけられたかのように、視界がぐらぐらした。山葉は階段を上りきると、精緻な蔦模様が彫り込まれた木製の手すりに腕を回し、ぐったりと寄りかかった。急がなければならないのに、身体が言うことを聞かない。転げ落ちないよう踏ん張るのが精一杯だ。こんなひどい頭痛は初めてだった。

(……いや違う)

 これは頭痛ではない。それよりはむしろ、焦燥感に似ている。そして焦燥感というよりはもっと得体の知れない感覚で、恐ろしいほど強烈で、痛みと錯覚するほど激烈なのだ。まるで頭蓋骨の内側を火かき棒で擦り上げるようで、おそらく、これは、

 デジャヴ。

 そう気付いた途端、視界の奥で火花が弾け、奇妙な光景が目の前に広がった。

 右手は切り立った崖、左手は鋭角にせり出した絶壁。薄い霧が辺りを覆い、遠くでは心臓を抉られた太陽がねっとりした血を流している。

(これは、なんだ……?)

 荒い呼吸が聞こえた。呼吸は二つ。自分のものと、背後から。逃げている? 追いかけられているのか? 違う。手は繋がれている、一緒に走っているのだ。山葉が手を引き、息を切らし、死に掛けた太陽から逃げるように二人、霧の中を駆けている。やがて、背後で躓いたような気配。山葉は足を止める、そして、手を繋いだまま振り返り――

 しかしその瞬間、何の前触れもなく映像は途切れた。

 再び目の前に見えるのは先と同じもの。階段、手すり、彫り細工、廊下、壁の油絵、息絶えた吊り照明、右のドア、左のドア、その奥のドア……光源はほとんどなく、最大の光量補正でも、墨色のどぶを泳いでいるような景色だ。山葉はよろよろと立ち上がる。車酔いのような気持ち悪さが残っていたが、先ほどよりは断然ましだった。

 首を振る。はたして、聞こえたと思った少女の声も、幻聴の類だったのだろうか……? 幻聴には二種類あると聞いたことがある。一方は頭の中からとわかるのだが、もう一方は、明らかな空間の方向性を持って聞こえてくるらしい。だから後者の場合、現実の音と区別がつかないのだと。

 だが自分が統合失調症なのかどうか、ここで考え込むような時間はなかった。もう一度首を振り、雑念を払う。そして絨毯が敷かれた幅のある廊下を進んで行く。すると、前方がL字になっているのがわかった。その角の手前、山葉が今立っている位置から数メートル先にある右側のドアが開け放たれていた。クーリロワが言った来客用寝室だ。

「た……頼む、殺さないで……」

 近付くと、中から啜り泣きのような声が聞こえた。男性クライアントのものだ。しかし反射的に動こうとした山葉を止めたのは他でもない、クーリロワだった。

「待ちなさい、なにか様子がおかしいわ」

 途中からは山葉へというより、独り言のようだった。

「なに、これは……仲間割れ? いえ、それなら装備が違うのはどうして……」

「なにが見えている? 室内の状況は?」

「敵が三人いると言いましたが、その内のひとりが、他の二人と対立しているように見えます。膠着状態で……」

「俺はどうすればいい?」

 クーリロワは初めて戸惑ったような声を出した。一刻も早くクライアントを救出せねばならない。しかし膠着状態というのは、言い方を変えれば一触即発なのだ。

(いったいなにが起きている……?)

 山葉は壁に張り付くと、そっと寝室の中を覗いた。

 広い。ワンルームにしては大きめの造りの山葉のアパートさえすっぽり入ってしまいそうだ。床には厚い絨毯が敷かれ、シーツの乱れたダブルベッドや、品の良い調度品が置かれている。大きな木枠の跳ね上げ窓にはカーテンがかけられ、廊下よりましとはいえ、やはりかなり暗い。そして部屋の中央では、、三人の侵入者がなにか殺気立った様子で屹立していた。暗視ゴーグルと防弾チョッキを装備した二人に対し、小柄な方はフルフェイスシールドに強化服という、山葉の出で立ちに似ているものだった。

(クライアントは……)

 いた。

 奥の壁際、ウォークイン・クローゼットの前。写真と同じ、ダークブロンドの髪と、若くはないも、目鼻のくっきりしたハンサムな顔立ち。しかし今は見る影もない。ぼさぼさの頭を抱えてうずくまっている。まるで溺れた鼠のようだ。山葉は小さく毒づく。よりによってそのうずくまっている位置というのが、ドアから一番離れているのだ。隙をみて助けようにも、これでは無理だ。

 しかし一瞬後、山葉はそんなことは些細な問題なのだとわかった。

 追い詰められた男性の目つき――まるで際限なく空気を注入されている風船のようだったのだ。空気は恐怖、ゴムの膜は理性。それは今、膨らみすぎて、眼窩の下で破裂しそうになっている。まずい、と山葉は思う。そういったとき、人間が選ぶ行動はいつも、絶望的な博打なのだ。

 均衡が崩れたのは、突然だった。

 あっという間の出来事だった。止める暇もなかった。

 男性クライアントが立ち上がり、ドアへ向けて突進し、PBAが火を噴き、白銀が走り、空気が軋み、悲鳴が上がり、木片が飛び、血が飛び、気が付いたら終わっていた。

 山葉は身を乗り出しかけた姿勢のまま、なにもできなかった。

 我に返れば、寝室では三人の男が血を流し、床に転がっていた。無傷で立っているのは小柄な襲撃者のひとりだけだった。いつの間に抜いたのか、左手にぶらりと下げた大型のサバイバルナイフからは血が滴っている。グリップは握りに馴染むよう、わずかに湾曲していて、ぎざぎざのセレーションがエッジの根元についている。

 一瞬で殺したのだ。山葉にもほとんど見えなかった。

 心臓が、こめかみの血管を痛いくらいに打っていた。

 勝てない、と山葉は直感した。

 これはなにかまずいものだ。これは意志を持った狂犬病なのだ。噛み付かれたら死ぬ。そして死ぬのが嫌なら、ただひたすら、距離を置いてやり過ごすしかない。ちょうど嵐が来たとき、人にできることがないように。

「クーリロワ……? 見ているか……?」

 返事はない。彼女は言葉を失っていた。しかし山葉にはわかっている。《氷の女王》とまで呼ばれる彼女のことだ、すぐに何らかの決断を下すだろう。彼女にはさまざまな噂があるようだが、有能だということを山葉はもう疑っていない。


『――あれはいずれ死人を出しかねない。鉄の嵐にこそ突っ込めと言うような女だ』


 クーリロワを評した運転手の台詞が、脳裏をよぎる。今回もそうなるのかもしれない。怖かった。まだ死にたくはない。だが頭の冷静な部分では、どんな指示を出されても、自分は従うのだろうとわかっていた。

 死にたくないから逃げる――それだったら子供の頃となにも変わっていないことになる。人生をかけて闘争の仕方を学んだというのに、ここにきて、姉の名誉を汚すことになる。

 外界を謝絶する黒の殻の中、山葉は小さく笑った。

 自分は今、人生の岐路に立っているのだと、そんな予感がしていた。普段なら予感なんて聞いても、鼻を鳴らすだけだろう。だけどこの感覚はあまりに強烈で、確信を抱くには充分だった。

 この岐路において、自分はおそらく選択を誤るのだ。それがどういう結果を意味するのかは、まだわからない。きっと深く後悔するのだろう。泣くのかもしれない。もっとありえるのは、冷たく床に横たわり、死の虫に食い殺されることだ。だけど間違っていると知っていても、やらなければいけないことがある。皆そうではないのか?

 ふと、彼は思った。

 もしかすると、それを誰よりも知っているのはクーリロワ――君じゃないのだろうか?

 そう考えるのはおかしな話だった。山葉はまだ、彼女の顔さえ知らないのだから。



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