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まさか本当になにかが起きるなんて、クーリロワだって本気で思っていたわけじゃない。だからオペレーションルームから緊急の呼び出しを受けたとき、彼女はオフィスで遅い夕食の最中だった。夕食といっても、チョコレートバナナ味の栄養バーといった質素なもので、ぱさぱさとするそれをオレンジジュースと一緒に飲み下しながら、今日中とは言わなくても、早目に終わらせておきたい事務処理に取り組んでいたのだ。
しかし驚きも、すぐに別の感情に取って代わられる。
天井のキューブ型ライトが薄暗く照らす廊下を彼女は歩く。いつかのようにウェーブした金髪をかきあげ、ヘッドセットの音量を上げ、しかし異なるのは表情だった。水色の瞳は爛々と輝き、頬には興奮したように朱色が差し、グロスを塗ったピンク色の唇にはちろりと舌が這う。うなじがぞくぞくしていた。下っ腹がうずうずしていた。願いは聞き届けられ、今、ベテランのオペレーターでも彼女に指示を仰がねばならないような異常事態が例の邸宅で起きているらしい。
この高揚が、蟻の巣にじょうろで水をぶちまけるような暗い喜びに満ちていることを知っていても、そう感じることは止められない。ちょうど、土に浸み込んだ水をじょうろには戻せないように――エントロピー。時間の矢。混沌の法則。
楽しみだわ、と彼女は思う。他の誰を騙せても、私だけは騙されない。エリート? 最上等? いいわ、すぐに化けの皮を剥いでやるんだから。
だがオペレーションルームに入った彼女を迎えたのは、これまで目にしたことがないような、奇妙な光景だった。
彼女が入ってきたことに気付くと、室内のスタッフが揃って救いを求めるような目を向けてきたのだ。
これはなに……? ぎくりとして足を止める。視線を向けていないのはひとりだけだ。シャツブラウスに黒のスカート――クーリロワ含め、他の皆と同じような格好の女性オペレーターだ。クーリロワと同年代、肩で切りそろえられたブルネットの髪と、ふっくらとした可愛らしい顔立ちのために幼く見られがちだが、はきはきと物を言うタイプだった。
その彼女が今、パーティションで区切られた自分のモニタリングデスクに肘を付き、両手で顔を覆っている。背後では年配の女性オペレーターが背中を撫でている。
泣いているのだ。そう気付くのに時間はかからなかった。クーリロワはかつかつと音を鳴らし彼女たちの隣に立つ。周囲をじろりと一瞥する。デスク上の、横長の湾曲ディスプレイには六つに区切られた定点カメラの映像が映し出されているが、全て真っ暗で、それぞれ左上にライトグリーンの字で《電源OFF》と表示されている。聞かなくてもわかる、異常事態にある邸宅の映像だ。停電しているようだ。
「呼ぶのでしたらチャンネルも私のヘッドセットに合わせてくれないと、通信内容がわからないわ。それからこれ……非常用電源も動いていないということですか?」
状況の説明を――そうクーリロワがいつもの口調でブルネットの彼女に言うと、年配のオペレーターは彼女を睨んだ。目は語る、この子の状態がわからないの、と言っていた。対してクーリロワは、まるで保護者気取りね、と心の中で鼻を鳴らす。ここが保育所ではないということくらい、わからないのだろうか? 異変のたびにこんな反応をされては困る。そしてしわ寄せをくらうのは現場の人間なのだ。
「ス……スーリヤが……PP―1が、撃たれました……」
やがて、喉を引き攣らせながらブルネットは言う。クーリロワは少し驚くも、表情には出さない。スーリヤは彼女も覚えている名前だった。勤続は短いが、数少ない優秀な警備員のひとりだ。何度か新人のための表彰に名が挙がったが、いずれも本人が拒否した。理由は知らない。
「撃たれた……? 落ち着きなさいあなた、強化服の上からでしょう?」
言いながらクーリロワは身を乗り出し、通信が聞こえるようにチャンネルの設定画面を呼び出す。
「リンクシステムでバイタルチェックはしたのですか?」
「あの、マネージャー、使われたのはPB――」
「私は彼女に聞いてるの」
マウスを操作したままぴしゃりとクーリロワが言うと、“保母”は髪を逆立てて怨嗟の眼差しを送りつけた。いつかお前の両眼に融けた鉛を流し込んでやる。そんな呪いが伝わってきそうだ。
「……じゅ、銃は、PBAが使われたみたいで、バ……バイタルも、見たんですけど……」
そう言うとブルネットは首を振り、もう耐えられないというかのように嗚咽を上げた。
「PBA……? 間違いないのですか?」
泣きながらブルネットは頷く。
今度こそ本気で驚く番だった。PBAとはプラズマ・バレット・アクセラレータの略で、簡単に言えばハンドガンのバレル部分に装着する改造部品だ。撃ち出された弾丸をプラズマ加速することで、飛翔体にマテリアルライフルじみた破壊力と貫通力をもたせられる。
本来は、あまりにも一般的になった強化服に対抗するための簡易措置として発明されたのだが、そのえげつないほどの有効性からあっという間に広がった。特に名が売れたのは《窓》の紛争で多用されてからだ。たいていの障害物を貫通することから、《怒った中性子爆弾》という二つ名まである。兵士が一番恐れるのも、いまだ有効な防御策のないこれだった。
そしてスーリヤはPBAで撃たれた。ならば強化服の選択止血層なんて無意味だ。導かれる答えは、一足す一の単純さ。
殺されたのだ。
クーリロワの身体の中を、氷の欠片がからからと転がって、通り抜けていった。
(ほら、どんな気持ちかしら)
そう心の中で声がする。聞き慣れた、底意地の悪い声。
(あなたはここが保育所じゃない、って“上司らしく”思ったみたいだけど、それならひとつ言わせてもらうわ。いいこと、ここはあなたの“遊び場”でもないのよ。起きてることは現実で、誰かが死んだらもう終わり。取り返しがつかないの。ゲームじゃないし、股間を湿らせている場合でもないの。ねえ、あなただってわかっているんでしょ? 仕事と私情を混同している卑怯者が、本当は誰か)
ディスプレイ上のマウスポインタが震える。
(あなたはいつもそう。私にはわかるのよ。当然よね、隠せっこないわ。その証拠に言い当ててあげる、あなたがやってるのは憂さ晴らし。もうちょっと洗練された言い方がお好みなら――見栄っ張りなあなたのことだしきっとそうでしょうけど――《過去の希薄化》とか《一般化》とか、あるいは単に《希釈》とか? そんなもっともらしい言葉を用意してあげる。でもね、言っておくけど無駄よ、だってあなたは、)
うるさいうるさいうるさい。
きつく目をつむり、心の中で叫ぶ。そうしてむせ返るくらい甘い匂いのする唾をごくりと飲み込むと、その声は始まりと同じくらい唐突に消えた。瞼を開くと、ポインタの震えも収まっていた。
指の腹を噛む。そう、うるさいのだ。私はもう誰にも騙されない。安っぽい同情には迎合しない。こんなもの、一過性の感情で、やがて敵愾心と共に裏切られる水溶性のパレオなのだ。いつもの手だ。こうやって下衆な手練手管で油断させ、卑怯者たちは人を欺くのだ。しかし手の内が読めたのなら対処は簡単だ。裸になって笑われるのがわかっているのなら、こちらは最初から腕組みをして、身を丸めて、それなりの態度で対抗してやればいい。同情心が生まれたのなら、それを厚手の布にくるんで棒で叩き殺してやる。
そうして一度頭を冷徹さの産湯に突っ込むと、思考は明晰さを取り戻して、現状を再び正しく把握できるようになる。ブルネットはむせび泣いていて、言ってしまえば錯乱状態だ。スーリヤに岡惚れしていたのだろうか。でなければこの悲しみ方は理解できない。ふっ、と彼女は鼻で笑う。残念なことね。だけどレベルが落ちたのはどうやら警備員だけではなかったらしい。愛しの彼が殺された途端に仕事を放棄して、普段目を合わせもしない私に頼るなんて。
「彼女を医務室へ」
クーリロワは保母に言いながら、再び画面に目を戻し、マウスを操作する。
「後は私が引き継ぎます」
「……だ、大丈夫です、ごめんなさい、でも私、できます」
気丈にブルネットは言うが、そうは見えなかった。二人の視線を背中に感じながら、かちりとある項目をクリックすると、彼女のヘッドセットとPP―2――山葉のフルフェイスシールドの通信システムが繋がる。
「……ているのかっ? おい、救援を頼むっ、PP―1が胸を撃たれて……」
低いがよく通る声が響く。クーリロワはもはや意味のない監視カメラを切った。替わりに、屋敷周辺の大まかな地図とGPS情報をスクリーンに重ねて表示させる。見ると、山葉がスーリヤを引き摺って、屋敷の正面扉から離れようとしているのがわかる。
「HQ、どうしたんだ? 応答してくれ、このままじゃまずい、スーリヤが――」
「聞こえています、まず安全確保の後、状況を報告しなさい」
一瞬の間。声が変わったことに気付いたのだ。
「……誰だ?」
「ディストリクト・マネージャーのクーリロワです。今から私が指揮を執ります。いいですね?」
「クーリロワ……?」
再び、間があった。今度のはなにか考えているような間だった。理由に気付かないクーリロワではない。どうせ運転手あたりが《氷の女王》がどうたらと吹き込んでいたのだろう、いつものことだ。
「状況はどうなっていますか?」
GPSマーカーの動きが止まり、物陰に隠れたらしいと読み取ると、彼女はもう一度聞いた。
「襲撃者は、いや、ここではSOAと言えばいいのか? 数は――」
「覚えきってない略号は無理して使う必要はありません。襲撃者で結構です」
「わかった。襲撃者は複数だ、おそらく、最低でも三人はいると思う。俺の考えだと四人だ。それより、救援は? スーリヤを早く――」
「根拠は?」
「なに?」
「四人といった根拠です」
突っ込まれるとは思っていなかったのだろう。「それは、」と山葉は口ごもる。それでクーリロワはわかる。これといった根拠は特にないらしい。危険性を過大に言っておいて、後で逃げるための布石にするつもりなのだ。
「正面扉で見た足跡の感じと、この侵入の素早さからいって、四人ではないかと思ったんだが……」
「それを総合的に判断するのは私の役割です、あなたではありません。敵はひとりかもしれませんし、一〇人かもしれません。勝手に思い込んで行動されても困ります」
「……わかった、すまない」
へぇ、とクーリロワは冷笑する。飼い主に噛み付かないくらいの分別はあるってわけ。
「それで、応援ですが、最寄りの詰め所から送っても、十五分程度かかります。司法機関にも通告しますが、あてにはしないでください」
警察は警備会社がもっとも嫌がるものだ。指揮系統を押さえられるし、事件解決という名目でクライアントの情報の大部分を共有させられる。こちらの面目は丸つぶれ、クライアントも個人で警備保障を頼むのは大概、後ろめたいことがある人種だ。いい顔をするわけがない。その上まがりなりにも警備員がいるということで、こちらがいくら緊急の支援を求めても後回しにされることが多い。しかし今回はもう死者が出ている。通告義務が発生しているのだ。
「到着までの間、俺はどうすれば?」
「わかりませんか? 私たちの最優先目標は可及的速やかにクライアントの安全を確保し、保護することです」
勘のいい男だった。山葉は言外の意味を察したようだ。
「……だが、PBAを持って待ち伏せをされたらどうすればいい? 防弾が役に立たないんだ。それに、俺の武器はESGと電磁警棒くらいしかない。正直、単独でどうにかするのは難しい。だったら闇雲に突っ込むよりは、退路を封鎖する方向で進めて、長期戦に持ち込んだ方がいいと思う。例えば、ネゴシエーターがいればリスクを減らしながら時間を稼いで……」
ほら始まった、と彼女は思った。本音を言えば、いかにそれらしい理由を付けて危険を回避することしか頭にないくせに、恐るべき言い訳の多彩さだ。こうして次から次へと出てくる出まかせには戦慄すら覚える。自分がしていることこそネゴシエーションの一種だと気付かないのだろうか? きっと他の人間なら、そのもっともらしい言葉に騙されてしまうのだろう。だがここでは通用しない。胸のうちなどお見通しなのだ。そして次の言葉もわかっている。同僚をだしに使うのだ。ハイレートのギャンブルがいたずらに射幸心をあおるように、傷付いた人間を持ち出して、愚かな人々の同情心を射抜くのだ。彼女が耳を澄ませていると、やはり山葉は言った。
「――それに、この状態のスーリヤを残してはいけない」
予想は大当たりというわけだ。まったく何て単純な男。クーリロワは口に手をやり苦笑しかけ、しかしそのとき、スーリヤという人間がもう二度と、今後永遠、太陽がふてくされてブラックホールになろうとも、“絶対に”起き上がることはないのだと思い出すと、顔を歪めた。胸に刺すような痛みが走る、同時に先の心の声が蘇り、
『――起きてることは現実で、誰かが死んだらもう終わり。取り返しがつかないの』
一瞬、視界が水っぽく歪む。彼女は人差し指の腹を噛むと、サブモニターに表示されるフラットな心電図をちらりと見やった。
「残念ですが」と彼女は言った。「彼はすでに死んでいます。できることはありません。それよりクライアントの救出を優先してください。長期戦が低リスクとは限りません、襲撃者の目的がわからない以上は」
「助からないのか?」
「……いえ、もうどうしようもありません」
「そうか」
その声の静かさに、クーリロワは心臓を握られるような錯覚を覚えた。
「ですから、あなたがそこにいて、できることはありません」
「わかった」
「……ですが」
気が付くと彼女はそう口走っていた。
「ですがもし、あなたが、ネゴシエーションが本当に効果的だと思うなら、私としても、退路を塞ぐという方針で考えてみてもいいかもしれません」
なにを言ってるのだろう。自分の言葉に自分で驚く。どうしてこんな生温いことを。徹底的に追い詰めるんじゃなかったのか。
いや、だけど確かにそうだ、とクーリロワは思った。追い詰めてやりたいのは本当だ。化けの皮を剥ぎ取ってやりたいのも。だけど別に誰かに死んで欲しいわけじゃない、前回の爆弾事件だってそうだ。無闇に突っ込めばおそらく山葉の言う通り、PBAの的になって殺されるだろう。自分はただ、なんというか、どんな言い訳をするのかが見たかっただけなのだ。兎のようにすばしっこい“理”の通る逃げ道を、鷹の視点からひとつずつ潰し、そうやって残すところプライドか命か、という選択に迫られたとき、あの《タブラ・ラサ》のエリートがどんなみっともない言葉を吐くのか知りたかったのだ。
「どうしますか? 状況をかんがみて、この決定に関してだけはあなたに任せると言っているのです。通常ならありえないことですよ」
返事はない。沈黙があった。恩着せがましかったか? いや、とクーリロワは苛々と首を振った。どうしてこちらが下手にでなければならないのだ。いったい、なにをぐずぐずしているのだろう。答えはお互いわかっているのだから、早く動き始めなければ……。
しかし、沈黙の糊を剥がしとって山葉が出した返答は、彼女の想像とは違った。
「いや、突入するよ」
落ち着いた声だった。
「クーリロワ、君の言うとおりだ。敵の目的がわからないのなら、確かに長期戦にもリスクがある。封鎖して襲撃者を捕まえても、クライアントが殺されていたら無意味だ」
「な……」
ぱちぱちとまばたきをしながら、クーリロワはGPSマーカーが並ぶスクリーンの前に立ち尽くした。青の光点がひとつ、すでに移動を始めていた。舌を飲み込んでしまったかのように、彼女は声が出せない。信じられなかった。どうして逃げない? こちらが譲歩の道を示してやったのに、跳ね除けるつもりなのか。こんなの、予想と違う。本来なら山葉がさっきまでの非礼と反抗的な態度をもう一度詫びて、彼女の慈悲にすがらなければならないのだ。そうしてから自分のちゃちなプライドを守るために、「実は俺は、今日が初日だから」とか、「俺の実戦で培った経験と勘がこうしろと囁いて」とか、そんな病葉の搾りかすみたいな言い訳を、ぶつぶつ呟くはずだったのだ。
クーリロワは周囲を見渡した。ブルネット、保母、そして他のオペレーターたち、みな悪者を見るような目つきを彼女に投げかけている。
指先が震える。
拳を固め、震えを握り潰す。握り潰すと同時、そこから、中に赤い煙を蓄えた泡のように、怒りが弾き出された。
上等よ、と思う。謝罪か感謝のひとつでもあれば“仲良く”してやろうかと思ってたけど、そっちがその気ならいいわ。最後まで、とことんやらせてみようじゃない。
「気が変わったわ」
クーリロワはブルネットに視線を合わせると、言った。
「あなた、できるといったわね? 手を貸してください。今から、邸内の全ての災害用熱源監視センサーをクラックします」
ブルネットはなにか言おうとしたようだ。しかし、クーリロワの視線に気圧されると、口を閉ざし、鞭を前にした犬のような、怯えと戸惑いが入り混じった顔つきで、こっくりと頷いた。そうだ、と彼女は心中で頷く。考えてみれば犬だって、逆らってはいけない相手くらいわかるのだ。