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警備を開始して二時間、雪が降り始めて一時間が経っていた。風も少しずつ強くなっている。それがわかるのは車両門の柵近くにいるためだ。というのも、敷地内にいる限り、四方を囲む高い塀が防犯だけではなく、風除けにもなるからだ。幸い、最新式と言わないまでも、一世代前の強化服とフルフェイスシールドのおかげで、凍えつくような寒さを感じずに済んでいる。
車両通行門付近に異常はない。ぐるっと周囲を見渡し、あらためて敷地の広さに脱帽する。ここから反対側――スーリヤの警備する正門の方角の塀まで一五〇メートル近くあるはずだ。等間隔に配置された常夜灯の蜂蜜色の明かりに切り取られた空間は、まるで暗闇にぽっかりと浮かぶ小麦の島だ。
空を見上げれば、檸檬色の雪を降らせる黒雲の合間に、真ん丸な月が浮かんでいる。雪は大粒で、木の幹や、地面に積もり始めている。僅かに黄色を帯びているのは、常夜灯のためでも、うっすら黄色を帯びた月明かりのせいでもない。雪の結晶中に、黄砂の粒子が混じっているのだ。遠い国の砂漠。山葉が最後に白い雪を見たのは、ずっと昔のころだ。生きているうちにもう一度見ることはないだろう――そんな気がした。
「PP―2、こちらPP―1、定時連絡が遅れているぞ。なにかあったか?」
スーリヤの声がシールド内部のスピーカから響いた。慌ててHMDの隅、時刻に目をやる。すでに定時を一分も過ぎていた。すぐに答えようとしてしわがれた声になり、咳払いをして山葉は言った。
「いや、異常はない。すまない、次は気をつける」
「立ったまま寝ても、HQにはバイタルモニターでお見通しだからな」
「そんな器用だったらいいんだけどな」
小さく笑う声がして会話は終わった。しかし、気を取り直して警備にあたろうと思ったと同時に、再びスーリヤから通信が入る。今度はクローズドチャンネルだった。
「どうした、PP―1? なにか愚痴でも言いそびれたか?」
なにか冗談が返ってくるだろうという予想は外れた。スーリヤは軽口を叩かなかった。
「……さっきは悪かったな」
その謝罪がなにに対するものか思い至ると、山葉はおもむろに口を開いた。
「驚いたな」
「なにがだ?」
「お前にだよ、スーリヤ。口調に似合わず、ずいぶん律儀なんだな。賭けに限らず、ああいうのはどこでもあるだろう? 新人の洗礼みたいなものだ」
喋るのを躊躇うような、奇妙な間があった。
「なあ、あんたは疑問に思わなかったか?」
「なにに?」
「どうして俺が《窓》からわざわざ、こんなちっぽけな国に移ったのか。どうして見栄えも給料も段違いの仕事を辞めて、こんな僻地で突っ立ってるのか」
わかるはずもない。しかし入り組んだ事情があるのだろうとは思っていた。スーリヤが“疲れた兵士”にはとても見えなかったから。沈黙を読んだように、スーリヤは続ける。
「誤解を恐れず言えば、山葉さん、あんたと俺の境遇は似てるのさ。《タブラ・ラサ》ほどのエリートじゃないが、俺も《窓》から来たってんでイロモノ扱いされた。最初は同じように賭けの対象にされたよ。あんたと違うのは、俺は記憶喪失でもなんでもなかったってことだ。そして、俺は賭けに対する答えをはっきりと持っていながら、薄ら笑いで真相を聞く連中に嘘で応じたってことさ。はっ、大体、馬鹿げた賭けだよ、くだらない。他に楽しみのない酒飲み共が、しけた店でチンケな生演奏でも聞きながら、アルコール漬けの脳味噌使って捻り出したような、そんな発想だ。考えてみろよ。仮にそうだとして、どこの誰が、自分が犯罪者だって――前科者だっていうんだよ。言うわけないだろう? 言えるわけないじゃないか」
興奮した自分に苛立ったかのように、スーリヤは深いため息を吐いた。
「《窓》で確かに俺はいい仕事にありついたよ。聞いたろう? ボディガードだ。だけどその護衛対象が最低な野郎だった、スーツを着てネクタイ締めて、そのくせ女を売り物にしてるような奴さ。正直、憎んでいたよ。ふん、今思えば俺は阿呆だった。嫌ならとっとと辞めて、別のクライアントを探せばいいのにな」
声には疲れた中年のような響きと、自分を嘲るような調子が混在していた。
「……で、最終的に俺は、護衛対象の情報を売った。住居のセキュリティ関連も含めて、全部さ。いい金になったよ。ただ、売った相手が悪かった。俺は盗みにでも入るんだろうと思ってた。金目のものはいくらでもあったからな。それで痛い目に合えばいいと思った。だけど違った。連中、武器を持って皆殺しに来たのさ。あの程度のセキュリティならこそこそする必要がないとでも思ったのかな。とんでもないマッチョ思考だよ。あれはひどかった」
「それで……どうなったんだ?」
「どうなったかって? 殺しに来た連中含め、みんな死んだよ。到着した警察の特殊部隊に射殺されたんだ。関係者で生き残ったのはその場にいなかった俺くらいだな。俺は事情聴取を受けた。事件への関与を疑われたが、証拠不十分で立件されなかった。しかしあんたと同じように仕事は辞めざるを得なかった。信用が命の職種だ、一度悪い噂が広まればおしまいさ。事実かどうか、かかわらずな」
「……ああ」
「馬鹿げた話だよ。俺は逃げてきたんだ。過去から逃げて、こんな辺鄙なところまで……」
そこでスーリヤは小さく舌打ちをした。
「ふん、まぁ、こんなのはいい。もう終わったことだ。俺はただ、あんたと俺の境遇が似ていると、そう思ったんだ。だから思うところもあるわけだ。慣れない謝罪をするくらいには」
「後悔してるんだな」
「なに、糞の袋が幾つか燃えただけさ」
自嘲の余韻を滲ませながら、スーリヤは言った。
「世界中あっちこっちで起きていることと、どこが違う?」
そうなんだろうか、と山葉は思った。
そうかもしれない、と思った。
二人が黙り込んだときだった。突然、ちかちかと周囲の灯りが点滅を始めた。
数秒の後、完全に消える。視界が闇に染まる。
「何だ、停電……?」
一瞬遅れて、景色が明るさを取り戻す。常夜灯が点いたためではない、フルフェイスシールドによる光量補正が行われたのだ。極めて僅かな光量を機械的に増幅しているため、新たな景色は不自然で、極彩色の、ぎとぎとした印象をもたらした。
「オープンチャンネルに切り替えろ」
スーリヤが一転、きびきびとした声で言う。
了解、と山葉はチャンネルを切り替え、スーリヤとHQの交信に耳を傾ける。どこか幼い感じのする女性オペレーターの声。声に反して、指示は的確だった。すでにHQ側でも異常を感知したようだ。
「……ということで、邸内の端末は無電源でも機能しますから、クライアントへの通知は全てこちら、オペレーター側で行います。あなた方は電源の復旧と周囲の警戒に専念してください」
「停電の原因は?」とスーリヤが言う。「降雪の影響か?」
「おそらくは。もしくは倒木という可能性もあります。埋設工事されてない電源経路が私有地の造林を突っ切っていますから」
「ふん、季節初めの恒例行事だな」
「ええ。それで、あなたたちに断線などの修理はもちろんできませんので、それはこれから業者を呼ぶとして」
スーリヤの皮肉をオペレーターは軽くいなす。
「まずは、非常用発電設備のチェックをお願いします。これはあなたの方が近いので、PP―2に行ってもらいます」
「了解」と山葉は言い、気になっていた質問をスーリヤが引き継ぐ。
「おい、非常用なのにまだ稼動していないのか? もう一分近く経っているだろう? 本来なら主電源が失われてから二〇秒前後で動くはずじゃないのか」
「いえ、自動始動装置の稼動自体は確認しています。ですが見ての通り、反映されていません。また、非常用発電設備は独立機構なので、こちらのシステム監視と互換性がありません。ですから、誰かが直接確かめる必要があるのです」
確認するのはいいが、専門知識はない――そう山葉が言おうとしたところで、まるで心の中を読んだかのように、オペレーターが付け加える。
「自己診断ソフトが機能していれば、搭載盤に原因と解決法が表示されているはずです」
「なるほど。可能な解決法だったらそれを試せ、ということだな。場所は?」
「邸宅の南側に面して、植え込みが並んでいます。その間にあるマンホールがそうです。……今、位置情報を送りました。HMDマップで確認できます。邸内の地下ガレージの隣――地下の他の部屋から、少し離れて設置されている形ですね。屋内パッケージ型発電装置は、稼動時に騒音がありますから。それから、PP―1は引き続き正門付近の警備を頼みます。特に、幾つかの警報装置は今、機能していません。たとえば塀上の、中継装置のない多段センサーは予備バッテリーくらいの電源では動きません。念のため、警戒を怠らないように」
山葉は移動を始めた。
停電前ならはっきりと見て取れた、数十メートル先の来客用のルーフ付き駐車スペースには、先と同じように使用人のものであろう車が一台だけ停まっているようだったが、増幅できる光源が雲の合間の月明かりだけという今の状況では、ぼんやりとしか写らない。フルフェイスシールドの左こめかみの辺りにはLEDライトが付いているが、なんとなく山葉は使いたくない。
車両用のアスファルトの道を外れ、刈り込まれた芝を突っ切り、更に丈の短い観葉樹をかわして進んで行くと、やがて屋敷の裏手に着く。左手、地下ガレージへ向け傾斜した車道の向こう側を見やると、腰ほどの高さの植え込みが連なっている。その間に紛れるようにして、すぐにオペレーターがマンホールと呼んだ入り口を見つける。
どちらかというとハッチという表現が近いと山葉は思った。白塗りで、押し込み型のレバーを回すとガチンと音がして上に開く。中は薄暗い。しかし真っ暗ではない。わずかだが降りた先に明かりがあるのだ。梯子を伝い降りて行く。
光源は発電機の操作盤と、いくつかの非常灯だった。アナログの調整つまみに並び、大型のタッチパネルが光っている。発電機本体は一メートル×三メートル四方の鋼鉄の筐体で、レバーを回して前面を開けば内部を覗けるようになっている。筐体の上部からは送電ケーブルや、MGTを動かす燃料となるLNG(液化天然ガス)の供給パイプが突き出ている。近くに立ってみると、低い駆動音が地響きのように鳴っているのを全身で感じられる。
(一応、動いているみたいだが……)
早速操作パネルをチェックする。動力回路を可視化したらしい、こまごまとした図が表示されているが、理解するのは難しかった。わかったのはパネル中央に浮く、《自動始動装置作動/セーフドライブモードで運行中です》という一文だけだ。
セーフドライブという単語に馴染みはない。どういうことかと考えているうちに、オペレーターから通信が入る。
「PP―2、復旧はできそうですか?」
「いや、一応稼動はしているようなんだが、セーフドライブモードというのになっている。今、自己診断ソフトを呼び出すところだ」
山葉は逆に聞き返す。
「クライアントとの連絡は? 繋がったのか?」
「いえ、今のところ端末のコールに返答がありません。時間が時間ですから予期していたことではあるんですが……」
「俺が直接行って来よう」スーリヤが割り入って言う。「“念のため”だ」
オペレーターは少しの間迷っているようだったが、他に方法もないとわかっているのだろう。
「シールドは外しておいてください。不必要に怯えさせることがありますから」
そんなやり取りを尻目に、山葉は作業を続ける。パネルに何度か触れていくと、やがてそれらしい表示に切り替わる。多種多様な項目がずらりと並んでいる。スクロールしていくと、探していた項目を見つけた。これだ、と口の中で呟き、自己診断ソフトを起動させる。画面にプログレスバーが表示され、徐々に一〇〇パーセントに近付いていく。やがてパッと文字列が映し出され、山葉はそれを低い声で読む。
「エラー/NB/701……」
その後には原因と解決策らしい説明が続いているが、目を通してもさっぱりわからない。山葉は首を振った。どうやら蹴っ飛ばして直る類の故障ではなさそうだ。
業者に任せるしかない――そう伝えようとしたときだった。
「ドアが開いている」
唐突にスーリヤが言った。張り詰めた声だった。
「ドアが?」鸚鵡返しに、オペレーター。「屋敷の玄関のことですか?」
その問いに彼は答えない。
「おい、まずいぞ……これは、足跡だ」
「足跡? 落ち着いてくださいPP―1、それなら自分のものでは――」
「あんた寝惚けてんのかっ? 俺はずっと正門前にいたんだ。おまけにこの跡は軸線多層型だ。……くそっ、戦闘靴だぞっ」
「スーリヤッ」
ほとんど無意識のうちに、山葉は叫んでいた。
「ライトを点けているならすぐ消せっ。狙い撃ちにされるぞ」
「山葉さ」
スーリヤがなにか言いかけると同時に、銃声が轟いた。
聞き慣れた特殊な発射音。背筋が凍る。
「おいっ、無事かスーリヤッ、応答しろ」
硬直から解けたオペレーターも同じように呼びかける。しかし無事を知らせる報告の代わりに二人が聞いたのは、なにかがぶつかる、小刻みな振動音だった。玄関の前は小さな階段になっていて、石畳の道と繋がっている。そこから転げ落ちたのだ。音はそれきり止んだ。呻き声さえない。苦悶に満ちた呼吸もない。
(撃たれてる……)
山葉は梯子に飛び付きながら、言った。
「HQ、PP―1のバイタルはっ? モニターしているんだろう?」
返事がない。聞こえていないのか。それどころではないのか。山葉は大きな声でもう一度急かす。やがて返ってきた声はどこか夢見心地で、それでいながら平坦だった。
「バイタル……反応、ない、です」
世界中のあっちこっち、またひとつ、かくして糞の袋は燃え上がる。