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狐たち  作者: nutella
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 チョコレートが割れる音が響く。銀紙に包装した状態で折ると、きれいに十六等分できるのだ。包装のはじっこをそろそろと破り、四角く割れた一切れを口に放り込む。苦味の利いた甘い香りが鼻を抜ける。

 デスクに広げた書類から目を離し、クーリロワは肘掛のついた椅子の上で上体を反らした。

 ため息をつく。

 疲れていた。エリアマネージャーに昇格したことでオフィスという名の半私室を手に入れられたが、それを補って余りある欠点は、こうして際限のない雑務が増えたことだ。まるで書類やら電話連絡やら、配置転換の請求やら、そういったごちゃごちゃしたものの海を、シュノーケルを咥えて泳いでいるようだ。そしてそのシュノーケルが送る空気ときたら、酸素分圧センサーでも壊れているのか、ひどく薄いのだ。

 くらくらする頭を押さえ、ふぅっとため息をもう一度、気休めの甘味をもう一口、再び書類とにらめっこを始める。秘書が付箋を付けておいた箇所をめくると、彼女の眉間に皺が寄った。

 彼女が目を通しているのは、先週、新任オペレーターが担当したクライアント宅で起きた爆発事件のレポートだった。

「……へぇ、そういうことね」

 それによれば、あの爆破事件はクライアント一家を狙ったというより、クライアントが所属する政党を標的としたものらしい。事件の三日後、犯行を認める声明がインターネット上の様々なコミュニティサイトに載せられた。内容は一貫しており、その政党が推し進める移民政策に対する法案を撤回しない限り攻撃は続く、というものだった。

 しかし、と最初のページを読み終えてクーリロワは思う。これはもう終わった事件だ。もっとも重要な、最初の攻撃に彼らは失敗したのだ。死なない脅しに屈服する者はいない。その上、標的がはっきり決まっているのだから、これからその法案が可決するまで、議員たちは自分と家族のセキュリティを強化するだけでいい。その費用さえ税金でまかなわれるだろう。今回のような小細工が二度も通用する可能性は低い。犯人の一人が映った動画を警察に提出したが、今のところ特定には至っていないようだ。しかしそれも時間の問題だろう。

 ぽん、とチョコレートをもう一切れ。

 次のページでは、事件そのものよりクライアント一家に焦点を当て、簡潔に記述している。案の定、当面の間国外に退避するらしい。脅迫に負けたというよりは、子供のためだろう。しかし妻と子を行かせたものの、政治家であるクライアントは国内に残っている。もし家族と共に退避したとすれば、戻ってくる頃には議席を失う――あるいはそのような立場に置かれることになるのだろう。政治闘争に情けはない。

 しかしクーリロワが一番知りたかったのはクライアントの警備に対する評価だった。読み進めても、警備員が真っ先に逃げ出したことについて責める記述がない。おそらくクライアントにとっては、二度の爆発にも関わらず家族が皆無事だった――それが全てなのだろう。クーリロワは《離れ》に仕掛けられた本命の爆弾に気付いたということで、感謝状さえ貰った。いずれは社内における地位の向上と昇進に繋がるはずだ。

 みぞおちの辺りが重かった。

 あら、嬉しくないの? おかしいわね、ぜひ誇るべきよ。あんなに”うまく”やったんだから……。そう自分の中で声がする。なのに声の主張にかかわらず――そして皮肉な声の調子の通り――そういった感情は少しも生まれない。胸に去来するのは、自分を囲むあの目つき。

 ある瞳は『人でなしめ』と言っていた。ある瞳は『またこの冷血女は』と言っていた。またある瞳は『お前があの“まだ五〇〇度以下しかない”という炎に飛び込んでしまえばいいのに』と言っていた。

「……うるさい、卑怯者」

 そう呟いた声は、硝子を擦り合わせたような音だった。ごくん、と口に残っていたチョコレートの欠片を飲み込むと、胃のあたりに刺すような痛みを感じ、彼女は身体を丸めた。チョコレートはもう甘く感じなかった。ただ苦いだけの成型粉だった。

 ページをめくる。気になる記述もあった。D―2――爆発の際取り残され、自力で脱出したと思われた次女の話だった。彼女によれば、バスルームの窓から逃げられたのは自分の力だけではないらしい。強化服を着た十五歳くらいの少年が、バスルームのドアを壊してくれたから助かった、と事後調査の聞き取りに対し、答えている。

 有毒煙を吸っていること。鼓膜が破れるほどの衝撃を頭部に受けていること。一度目の爆発から継続してショック状態にあること。それらを統合して、D―2の話の信憑性は極めて低い――そうレポートは示唆していた。

「…………」

 チョコレートを齧ろうとして、やめた。

 もう食べたいと思えなかった。半分以上残っていたそれを、脇のくずかごに捨てる。

 ぴぴぴ、とデスク脇に置いた携帯電話が鳴る。電池切れの警告だ。昨晩に充電したばかりだった。もう五年も使っていることを考えると、バッテリーが寿命なのだろう。クーリロワはデスクの引き出しを開けると、二日前に買っておいた新品のバッテリーパックを取り出し、封を切る。バッテリーカバーを開けたところで、彼女の手が一瞬止まった。彼女の目は、カバー裏に張られた三センチメートル四方の小さな写真を見つめていた。

 懐かしい写真だった。仲のよかった女友達三人と肩を組んで写っている。高級レストランで誕生日を祝ってもらったときのものだ。皆、満面の笑顔で、少し顔が赤い。調子に乗ってワインを何本も空けたせいだ。たかだか四年前の写真。もう誰とも連絡を取っていない。

 拳を握る。この捨てられない写真を目にするたび、昔の自分に引き戻されてしまうようだった。純粋で、初心うぶだったころ。使命に取り付かれる前の自分に……。

 だけど、と再び意地悪な声がする。

(戻ってどうするのよ、また同じことを繰り返す?)

 人は過去を振り返り、あのとき自分はもっとうまくやれたと思い込む傾向がある。それは正しくないのだと、クーリロワは知っている。結果を知ってから、もっと賢い、別の選択肢があったと言っているだけで、同じ条件、同じ時間に置かれれば、何度だって同じ過ちを繰り返す。騙された。利用された。しかし信じたいことを信じるのはいつだって自分の心だ。

 爪を噛む。透明なマニキュアがはがれる。会えない友人を思う。自分を思う。自分が摘み取った人生を思う。戯れにむしり取られた、まだ青く硬い苺のように、無意味に終わった命。それとも意味はあったのだろうか? いや、そう考えること自体がひどく間違っていて――

(お腹、痛い……)

 こんこん、とノックがあり、はっとクーリロワは顔を上げた。手早くバッテリーカバーをはめ込むと、居ずまいを正す。どうぞ、と声をかける。

 入ってきたのは秘書だった。黒檀のような美しい肌を持つ三〇代の女性だ。いつもどおりの無愛想で、片腕には書類を収めたフォルダを抱えている。

「プリントアウトを頼まれていた書類です」

 クーリロワが問いかける前に言う。

「補充人員のリストと、各派遣先の詳細です」

「ありがとう。助かります」

 オペレーターという仕事柄、必然的に長時間集中してモニターを見つめる作業が多くなる。そのため、それ以外はできるだけモニターを使いたくなかった。光る画面をずっと見つめていると、頭痛がしてくるのだ。もっとも、こんなわがままはディストリクトマネージャーになったからこそできるのだった。

 クーリロワにフォルダを手渡すと、秘書は無言でその場に待機した。質問があれば今答える、という意味だ。クーリロワは爆発事件の書類を脇に押しやった。

「補充は三人、ですね」

 こくり、と頷く秘書を脇目に、一人目の経歴を眺めていく。

 四十二歳と平均年齢をオーバーしているが、悪くない経歴だと思った。陸軍で十五年勤め上げ、退役して出版会社に勤務してからも、予備召集兵力として、二ヶ月に一度の軍事演習に参加している。研修もわずか六日で規定評価を得ていることを見れば、優秀な部類に入るのは確かだ。初期派遣先は丘陵部西、地熱発電施設だ。妥当な配置だろうと思う。

 二人目はとりたて注目すべきところがなかった。二十三歳と若いが、すでに三度も他の警備会社を転々としている。理由は本人のみぞ知るだが、あまり期待はできそうにない。初期派遣先は湾岸部南、アルミ精錬施設。見込みのない新人が真っ先に送られる場所だと本人が知るのはまだ先だろう。

 三人目に目をやったところで、クーリロワの手が止まった。

 黒目黒髪の精悍な顔付き――どこか張り詰めた感のあるその顔写真を、じっと見つめる。

 前歴には《タブラ・ラサ》北部支局第一次即応部署勤務、とある。本当なら、世界有数のPMCで、生え抜きの実戦部隊にいたということになる。にわかには信じがたい。もっとうまい嘘を吐くべきだ、そんな印象さえ受ける。

「これ、補充リストの三人目……山葉という男の前歴は本当なんですか?」

「はい」

 そう答える秘書の反応を見て、この質問を予期していたのだろうと察する。

「それで?」

「人事部の責任者が直接在籍確認をしました。経歴に偽りはないようです」

 書類に目を落とす。初期派遣先を見る。丘陵部北、個人宅だ。

「この派遣先は確か」

「ええ、つい先週警備保障の契約を結んだところです。脅迫電話を受けたことがきっかけですね。クライアントが言うには、単なる金銭目的の脅しだろうと」

「クライアントは病院の院長でしたか?」

「正確には跡取りです。妻の父親が個人病院の院長で、夫――つまりクライアントはその跡取りということで婿養子に入っているようです」

「脅迫相手について、警察に連絡は?」

 秘書はかぶりを振る。

「できるだけ内密に済ませたいと」

 短い沈黙。

「本当だと思いますか?」

「なにがですか? 婿養子の話ですか?」

「脅迫の内容です」

「専門外です。わかりかねますが……」

 秘書は逡巡の後、頷いた。

「ただ、私個人の意見としては――はい、真実だと思います。脅迫を受けていることと、それが金銭目的というのは。ですが、そこに至る経緯には、きな臭いものがありそうです。なにか隠していますね」

 クーリロワも同感だった。おそらくクライアントは、嘘は言ってない。しかし、重要なことも言ってない。多かれ少なかれ、警備を依頼するような個人のクライアントは後ろめたいものを抱えている。しかし今回に限ってはどこか切羽詰った印象を受ける。そもそも、金銭目的なら最初に人質をとるか、なにも言わずに強盗でもするべきなのだ。わざわざ脅迫電話をするから警備が厳重になる。逆を言えば、こうして当然浮かぶ疑惑を繕う余裕がないほど、クライアントは切迫した状態にある。警備員の存在自体、強力な犯罪抑止力になるが、もしかするとそれでも足りないかもしれない。近いうち本当になにか起こりそうな、嫌な予感がする。

(初期派遣先がここか……)

 常識的に言えば、新人を送るべきではない。自分の休暇中に人事が裁量権を行使したのだろうが、無機質な書類の裏に潜む”状況”を読み取れていれば、決して利口な判断とは言えないはずだ。

 しかし、だからこそ……。 

 クーリロワは三度書類に目を落とす。山葉という男。黒目黒髪の才覚者。上等の中の最上等。

「あの……」

 秘書が言う。躊躇いがちな、彼女らしくない口調だった。

「なにかしら?」とクーリロワは顔を上げる。

「あの、私、なにか変なことでも言ったでしょうか?」

「え……?」

 そこで彼女は、自分が冷笑を浮かべていることに気付いた。

 氷の影を張り付けた、暗い心の笑み。

 無表情を取り繕っているが、秘書が怯えているのが感じられた。

 顔を逸らし、クーリロワは言った。

「……これで問題ないわ。ご苦労様、行っていいわよ」

 秘書が去っても、彼女の笑みは消えなかった。むしろそれは、ますます冷たさを増すのだった。

 壁掛け時計を見る。二〇時五四分。そろそろ山葉とやらの警備が始まる時間だった。

 なにか起こればいい――そう彼女は思った。

 間違った考えなのはわかっている。しかし、そう考えることを止めることはできなかった。そう、なにか起こればいい。そうすれば化けの皮を剥いでやれる。どうせこの男も同じなのだ。臆病者。卑怯者。いくじなし。大そうな経歴を引っさげておいて、抜き差しならない状況に陥れば、真っ先に逃げるのだ。他の人間も、皆そうだった。臆病でないのなら、こんな時期に《タブラ・ラサ》をやめなかったはずだ。

 試してあげるわ、と思う。そうだ、これは研修をすっ飛ばして実務に入った新人に対する適性試験みたいなものだ。いざとなれば弱音を吐くのはわかっている。だけどそのとき、どんな顔をするのか、どんな声色で自分の正当性を主張するのか、考えるだけで楽しみだった。



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