エピローグ
ひとけのない真夏の海辺に車を停めて、水平線に霞む残照を眺めた。
まだ焼けるように熱いボンネットに座って、太腿に肘を乗せた。
手が震えていたから、人差し指の腹を噛んでみた。皮がめくれて痛かった。少し考えて、もっと強く噛んでみた。するとどういうわけか、震えは止まった。
どうしてこんなことを始めてしまったんだろうと思った。
長い時間、彼女は落ち窪んだ目を空にさまよわせていた。
しばらくするとむずがるような唸り声が聞こえて、彼女は視線を砂浜に落とした。唸っているのは痩せこけた、ひどくみずぼらしい格好の青年だった。渚に打ち上げられた藍色の漁網に、足が引っ掛かっていた。絡んで動けないのだ。また唸り声を上げる。今度は少し、苛立ったように。
彼女はのろのろとサンダルを履いて、ボンネットから降りた。
砂浜を歩く。
空き瓶、焼夷弾の破片、破れた靴、焼けた貝殻に畸形魚……。
踝を濡らし、波打ち際に立った。隣の青年は両手を海の向こうへ突き出していた。絡んだ漁具のほどき方さえ知らず、胸を打つほどの愚かしさで、足踏みを繰り返していた。跳ね散らした水際の滴は、夕暮れどきの生温い風に吹かれて霧状に溶けた。
見つめているうちに、彼女の顔は弱々しく歪んだ。
青年の手を下ろしてやった。
両腕を回し、ぎこちなく抱き締めた。
饐えた臭いがした。胸の間に熱い息を感じた。唸り声が叫び声になった。青年は暴れ出し、彼女の鎖骨を噛んだ。ぼろぼろの歯は皮膚を突き破り、血が流れた。彼女は顔をしかめ、呻いた。
それでも離さなかった。
「……大丈夫よ」
歯を食いしばった。
回した腕に、いっそう力を込めた。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、私は間違っていない、これは正しいことなのだと、呪文のように囁いた。
この数時間後、クーリロワは国境で逮捕される。
長い後悔の日々が始まると、傷付いた心は音もなく萎み、彼女は己の殻に閉じこもるようになった。けれどやがて、失意の男と深窓の少女に出会うための事件が起きて、そのとき感じた強い憤りは、氷の仮面にひびを入れた。
氷は静かに溶け出し、淀んだ水は流れを得る。手回しオルガンは古い子守唄を奏で、そうして一度は止まりかけた物語の歯車が、また再び、ゆっくりゆっくり、動き出す。
了




