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狐たち  作者: nutella
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 昨晩から降り積もった雪は二〇センチメートルにも達していた。昼過ぎからの快晴は積雪の表面を薄く溶かして鏡面加工に仕上げている。そうなると日光は檸檬色の反射光を乗せて地上からも照り返すので、まるで太陽がふたつになったように外は眩しい。

 病院はその敷地の広さから二手に分かれている。来院患者の対応を主とする一方は本棟と呼ばれ、風雅な彫刻や大理石、歴史的な絵画や観葉樹で飾り立てられ、高級ホテルのような趣がある。対してもう一方は別棟と呼ばれ、長期入院患者を対象とした宿泊施設だ。優美さより木造りの温かみを前面に押し出している。ここにも当然、優秀な医療スタッフが多数待機しているが、出入り口をのぞいて肥沃な人工林と、水質管理された池に囲まれているので、重苦しい印象を受けることはない。どちらかというと、山荘とか保養地とか呼ぶ方がしっくりくる。

 そして保養地の裏手にあるポーチでは、ひとりの少女が絵を描いている。

 階段の段差に座り込んで、服装は白のブラウスにロングスカートといった薄手のもの。気温は零下に近いくらいのはずなのに、彼女の額にはぽつぽつと汗が滲んでいた。傍目には滑稽なほど真剣な顔つきで、右手に色鉛筆、左手には画用紙を張り付けた画板を抱えている。

 少女は唇を引き結び、息を止めた。

 指先が白むほど焦げ茶色の色鉛筆をきつく握り、画用紙の下半分に、のろのろと縦の線を引いていく。それが済むと溜めていた息を吐き出し、右手を色鉛筆ケースにやった。ひとしきり悩んだ後、次は濃い緑を選ぶ。眉間に皺を寄せると再び息を止め、また今度も、恐ろしく慎重な動作で色鉛筆を走らせる。

 色使いも遠近感もばらばらで、お世辞にもうまいとは言えない絵だったし、おそらく真っ直ぐ描きたかったのであろう部分も、ところどころ震えていた。それを恥じながらも、彼女は手を止めない。

 しばらくするとバックポーチのドアから、ひとりの年配の女性が現われた。白衣を着ており、看護婦ではなく医者であることがわかる。後ろで結い上げた艶のある白髪は、冬の白んだ太陽の下で、銀髪のようにも映った。彼女は少女の背後で立ち止まると、持ってきた厚手のカーディガンを肩にかけてやった。少女はぎくりと身を竦めた。集中していてまったく気付かなかったらしい。振り返って誰なのか気付き、ほっと力を抜こうとする。と、そこで我に返ったように、慌てて画板の上に覆いかぶさった。

 女医はそんな様子を眺めて微笑んだ。白衣のポケットからハンカチを取り出す。中腰になって汗ばんだ少女の額を拭う。そうしながら、そっと耳打ちした。

 少女の頬が照れたように赤く染まる。おずおずと顔を起こし、自分の描いた絵と女医の顔を交互に見つめた。美しい歳の重ね方をした女性は、柔らかい皺に彩られた顔で、頷いた。すると少女はようやく、遠慮がちな喜びに灰の瞳を細めるのだった。

 陽が一瞬翳った。

 二人は天を仰いだ。空には雲が集まり始めていた。ポーチから下りて寸刻見上げた後、女医はそよ風と戯れるような、みやびやかな動作で踵を返した。色鉛筆ケースを拾い上げ、少女の肩を抱いて立ち上がらせる。そろそろ検査の時間だった。

 彼女の視線が偶然、凍った池の側に留まったのはそんなときだ。

 いつからか、車が停まっていた。ポーチから見て右手、建物の角になる位置に駐車しているので気付かなかったらしい。まるでこちらの様子をこっそり窺っているようにも見える。一見して高級車とわかるボディはシルバー、ウィンドウはフルスモークで、距離が離れているせいもあるが、中の様子はわからない。

 女医は怪訝な表情をした。それというのも、ここは車両禁止の区域だからだ。出入り口のセキュリティはなにをしているのだろう。患者の家族が間違えて進入してしまったらしい。気付いた自分が教えてやるべきだろうか。

 そんなことを考えて歩きかけ、彼女は止まった。

 手を引く少女が動かないのだ。

 振り返って気付いた。少女は空を見上げている。

 つられて、彼女も同じように上を見た。水色の空に、白い雲。

 雪が降っていた。



「……本当にいいんですか、話しかけなくて?」

 そう軍服の女が聞くと、山葉は頷いた。

「大佐からは“遠回り”で来いと指示されています。尾行を避けるためと立場上は言っていましたが……わかるでしょう? 保護プログラムを適用した以上、今のあなたを知る人はいません。ですから、もしそうしたいのであれば……」

 山葉は目を細めて外を眺めていた。逡巡のための間が終わると、「いや」と言った。

「名前も顔も変わったんだ。やめておくよ。心遣いに感謝する、と大佐には伝えておいてくれ」

「はぁ……ほんと不器用ですねぇ」

 女はシートに深くもたれかかった。右手に持つメモ帳替わりの端末に目を落とし、

「では、治療が終了した後の引き取り先については? これはもう、だいたい候補が絞られてきてますよ。探すのは骨が折れましたが、その甲斐あって財力的にも人格的にも、みなさん素晴らしい方々ばかりです。私が養子になりたいくらいですよ」

 冗談とも本気ともつかない口調に、山葉は苦笑した。

「任せるよ。君のことは信用している」

「えぇっと、それは素直に嬉しいのですが……もっとこう、要望があると私としても……」

 そこで女は諦めたようにため息を吐き、がっくりと肩を落とした。ひとしきり『これだから男は……』という恨みがましい目つきで彼を見つめていたが、やがてポニーテールを揺らし、端末をポケットに戻した。若干前かがみになって、ステアリングに両手を休める。

「じゃあ、ひとつだけ教えてください」

「何だ?」

「片目は完全に失明したのでしょう?」

 サングラスの下に指を這わせ、彼は頷いた。

「普通なら移植や人工眼という手段もあるけどな。俺は親和性が低くて無理だと言われた。なんでも、ずいぶんと稀なケースらしい」

「でしたら能力査定で手を抜いても、誰もわからなかったはずでは」

「本当にそう思っているなら、君の昇進はまだ先だな」冗談めかして彼は言った。「あの男はとんだ狸だよ。穏やかな物腰を崩さないが、その実、とんでもないやり手だ。俺が少しでもそんな素振りを見せたら、彼女の安全を天秤にかけさせようとするだろう」

「まさかそんなこと――」女はおとがいに手を当てながら、仲むつまじく手を繋ぐ二人を眺めた。「あり得ないとは言えない、か……」

「あの子の将来を保証してくれるなら、問題はないんだ。大佐もそれを知っている。駆け引きじゃなく、取り引きがあった。公正とは言い難くても、公平な取り引きだ。それに――」と彼はシートから頭を離し、微笑んだ。「俺以上の適任がいるか?」

 女は車内の天井を見上げ、目を閉じると、同じように微笑を浮かべた。

「いないでしょうね。内部情報に精通していて、あなた以上にうまく潜入できる人材は」

「必ず成功させる。君たちが用意してくれた、完璧な経歴もある」

「領土獲得をほのめかす本社への上奏文書ですか……。オカルトじみた、未だ噂に過ぎない情報です。目的の情報に接触できるまで、数年越しの、長い道のりになるでしょう」

「君の想像より早く終わるよ」

 どうして? というように女は首を傾げた。

「予感がするんだ」

「そういえば、大佐が言っていましたよ。あなたの勘は当たると」

「当ててやらないとな」

 はい、と気持ちのいい声で女は笑った。

「そろそろ出ないと、ブリーフィングに遅れるんじゃないか」

「ええ。ですがその前に――」女はちらりと外の景色を眺めて、手元を操作した。機械音がして、彼の横でウィンドウが開く。「雪が降ってきました」

「なにが珍しいんだ? 別に普通の……」

 女は悪戯っぽい顔でウィンクすると、助手席に擦り寄った。そして彼が戸惑っているうちに、「ちょっと失礼しますね」と手を伸ばし、サングラスを取った。

「お、おい、見られたら」

 だが言葉の途中で、彼は息を呑んだ。

 雪が降っていた。

「軍事衛星の予報を見たんです。知らなかったでしょう? あなたにまだアクセス権はありませんから」

 白い雪。

 彼は呆然と空を眺めた。

「一説によると、雨水のpH濃度が関係しているようです。弱アルカリ時に何らかの条件が加わると、高地の藻が溶け込んで、大気中で黄砂の粒子を包み込むらしいのです。そして雨雲から分離させ、昔のような白い雪を降らせる、と。……綺麗ですよね」

 彼は素顔を晒していることも忘れ、バックポーチに目をやった。同じように、彼女たちも空を見上げていた。少女は気が昂ぶったのか小さく飛び跳ねた。すると大方の予想を裏切らず、ポーチの段差で滑って転んだ。女医が咄嗟に受け止める。こらっ、と大声を出し、ぎゅっと抱き締める。

 なぁ、と彼は言った。

「なんでしょう?」

 抱き合った少女の視線が偶然、彼の方に向く。

 目が合った――そんな気がした。

「いや……」彼はサングラスをかけ、前を見た。「そろそろ、行こうか」

 女はなにか言いかけたが、胸の内に抑えたようだ。無言で頷くと、アクセルを踏んだ。タイヤが雪を噛み、車体が動く。

 なぁ、君は知らないだろうな――そう彼は思った。

 俺にも、あんな時代があったことを。

 闘争の仕方を知らない無垢な手が差し伸べられたとき、俺がどんなに幸福だったのかを。



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