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十四歳の拒食症の少女と三八歳のアルコール依存症の男性とのカウンセリングを終えるころには昼の休憩を取るのにいい時間になっていて、アリサは椅子を蹴ってデスクから離れると、背筋を伸ばし、思い切り腰を仰け反らせた。
カーテンや壁、ところどころキルトのドレープに飾られたこぢんまりした部屋には、大きめの窓からさんさんと陽が差し込んでいて、こんな日は患者も協力的な気がする。北半球の人々は南半球の人より鬱の割合が高いと言うが、やはり人の気分というのは、想像以上に天候の影響を受けるものらしい。
雑多な書類を整理し、悩んだ末、そのうちの一枚をくずかごに捨てる。ジャケットを羽織り、外で休憩を取ろうとする。と、ドアノブに手をかけたところで、こんこんと目の前で音が鳴った。ずいぶんなタイミングね。驚きながらノブを引く。
立っているのはセラピストの同僚だった。五〇代を目前にした、いかつい面構えの男やもめだが、話してみれば人懐っこく愉快な性格で、特に若い女性患者から人気があった。アリサともうまが合い、仕事が同じ時間で終わったときなど、以前はよく一緒に出かけることがあった。
しかし今、その同僚の顔に浮かんでいるのはいつもの陽気な笑顔ではない。唇を真一文字に引き結び、鼻梁は緊張のためか赤らんでいる。
なにか悪い知らせかと、アリサは身構えた。同僚は唇を湿らせ、ひとつ大きな咳払いをすると、意味もなく顎をじょりじょりと撫で擦り、
「なぁ、昼飯でも一緒にどうだ……?」
力が抜けた。
聞けば、最近アリサの付き合いが悪いからということだったが、同僚の瞳には今にでも愛の告白をするのではないかという気迫が付きまとっている。アリサは色恋沙汰に鈍感ではないし、好意を持たれているのは知っていた。だが彼がそこまで本気だとは知らなかった。
アリサはしばらく突っ立っていたが、やがて後頭部を掻くと、降参と言うように両手を上げた。すると、同僚は顔をくしゃっと皺だらけにして喜色を浮かべた。
「いいのか?」
「その馬鹿っぽい顔をやめてくれたらね。私も今出るところだし、このまま一緒に……」
そう言いかけたところで、彼女の視線は同僚の右手に向けられた。
「ねぇ、それは?」
持っているのは封筒だった。同僚は眉を上げると、緊張の汗にへたりかけたそれを差し出し、
「おお、悪い、忘れるところだった。アリサ、昨日休みだったろ。昨日届いたから俺が預かっていたんだよ」
見ると、底の部分が数センチほど奇妙に膨れていて、中に入っているのは手紙ではないようだった。そのことに気付くと、心臓の鼓動が跳ね上がった。急にある確信が胸を貫いて、アリサはひったくるようにして封筒を受け取った。差出人は書かれていない。
「いったい何だ、手紙爆弾か?」
彼女の様子に驚いたのか、同僚はつまらない冗談を言う。彼女はにこりともせず、
「ちょっと、ひとりにしてくれる?」
「え、おい、今、昼飯一緒にって――」
「ごめん、また今度ね」
閉め切ると、ドアの向こうから一言二言不満げに呟く声が聞こえたが、すぐに同僚は立ち去ったようだ。アリサはドアに背を預けると、一度大きく息を吐いてから封を切った。ひっくり返して振る。そうして一ヶ月ぶりに自分の手に戻ってきたものを見て、彼女は動きを止めた。ご丁寧にも気泡緩衝材にくるまれたそれは、陽光にきらめく銀細工だった。
狐のバレッタ。
手の中で転がす。
あのとき起きたことについて、彼女はあまり詳しくない。クーリロワがなにか重大な事件に関わっていたのは確かなようだが、自分は結局、最後まで蚊帳の外だった。あの日以来、ツォエも、クーリロワも、まるで最初から存在しなかったかのように彼女の人生から消えてしまった。
(けど、無事だったんだ……)
封筒に他のものは入っていない。しかし二人とも無事でやっているのだと、なぜか確信できた。おそらくクーリロワによるものだろう、封筒の手書きの字に目を落とす。妙に丸っこい、可愛らしい字で、グラフォロジー(筆跡学)を用いるなら、”従順かつ几帳面、他者に依存する心理傾向”とでもなるだろうか。直後、クーリロワの印象を思い出し、分析とのギャップに頬が緩む。こんなの全然、彼女らしくないみたい……。
たとえ面と向き合ったとしても、笑って話しかけられないことはわかっていた。美しく、口下手な女性に感じた親近感は、もう以前のように胸を震わせない。入間のことについて、まだ心のどこかで恨んでいるのだと思う。
そうでありながらも、ぴかぴかに磨いて返されたこの銀細工を眺めると、強張った心の筋肉が、あれから初めて、ゆっくりとほぐれていくのを感じた。
気持ちの整理がついたと言うにはまだ早い。きっと、ふんぎりをつけるのは自分自身なのだ。えらそうに患者に言っていたことを実践する番が、めぐり巡って自分にも来たのだと、そんな気がした。
アリサは部屋の奥に進むと、窓を開けた。
びゅうっと風が吹き込んだ。天気がいいぶん、空気は乾いて冷たい。青空を見上げれば陽はぎらぎらと目に痛いほど。緩衝材を解き、少しの間懐かしむように、狐の紋様を指の腹で撫でた。乱れた後ろ髪を、ぱちんと留める。跳ねている部分がないか、バレッタに沿って手櫛を走らせる。
しばらく、空を眺めていた。
やがてくずかごに手を伸ばし、くしゃくしゃに丸まった一枚の紙を取り出したとき、彼女の顔には、自分でも気付かないほどかすかな笑みが浮かんでいた。
「ほんと、お人よしよね」
呟きながら、風ではためくそれをデスクに戻して、平らに均す。右手には母から誕生日プレゼントでもらったボールペン。こまごまと文字が印刷された用紙の一番下には空白があって、彼女のサインを待っている。内容は入間が志願していたものと同じ――前線基地で不足するカウンセラー職への、応募届けだ。




