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粒子群の世界を彼は視ていた。
空気を可視化して琥珀と一緒に濾したように、透明な粒子が風景と重なってきらきらと輝いた。思考をそのまま投射した世界は見惚れるほど美しく、それでいて、これが正しい知覚の方法なのだと信じさせるだけの説得力があった。ありとあらゆる事象の函数は感覚の大がまに落とし込まれ、演算補正を繰り返し、瞬時に適正な値を算出した。現状を認識した脳は多量のエンドルフィン、エピネフリンを分泌させて苦痛を中和し、手なずけられた報酬系は強烈な多幸感をもたらした。それはたった数分ともたない誤魔化しであったが、充分だと彼は思った。
襲い掛かる敵の動きさえ、粒子が描く函数に組み込まれていた。雄叫びと共にクロフスが振りかぶった加分子補強の刃を、微細振動の刃で受け止める。ブレードが噛み合い、凄まじい爆砕音。目を潰すほどの閃光。押し合いになりかけた均衡で、山葉は無理に逆らうのではなく、力を緩めて受け流そうとする。と、クロフスはそれを予期していたかのように、予備動作のない強烈な右上段蹴りを放った。ちょうど、山葉の傷付いた目の死角になる方向だ。
水銀入りの風船を叩き潰すような音が響いた。靴裏にこびりついていた雪の結晶が爆ぜ散り、視界を覆った。爪先に伝わる感触にクロフスは、にぃっと片頬を吊り上げた。が、雪の結晶が晴れるにつれ、その表情は驚愕に取って代わる。革靴の先端がこめかみを刈りかけたところで、山葉の腕ががっちりとブロックしていた。
「……ちぃっ」
予想が外れ、忌々しげに顔をしかめる。舌打ちをしながら次の攻撃に移る。フェイントを織り交ぜ、本命は頚部を狙った横薙ぎ。山葉はこれを、上体をのけぞらせてかわした。同時に重心を落とし、回避をそのままスイングバックの動作に変える。そして関節稼動が許す最大の力で、クロフスの横っ腹――肝臓にあたる部分を殴った。
骨が折れる手ごたえがあった。クロフスは苦悶の呻きを上げ、それでもナイフは落とさない。掌で回転させて逆手に持ち直すと、山葉の肩甲骨に向け、突き立てようとする。
山葉は顔を上げさえしなかった。無造作に振り上げたナイフの腹で受け止め、流れるような後ろ回し蹴りを放った。蹴りはクロフスのみぞおちに直撃し、フェンスまで吹き飛ばした。金網にぶつかり、一瞬、クロフスの膝が落ちかける。それを堪えたのは彼のプライドと信念だったのだろう。吐瀉物を撒き散らしながらなにか聞き取れない叫びを上げ、再び襲い掛かる。
今度は心臓を狙った直線突き。攻撃が実際に繰り出される前から、はっきりと山葉には視えていた。答えはすでに頭中にあるのだとすると、戦闘は力学とタイミングの問題でしかなかった。真っ直ぐ突き出されたナイフをセレーションに引っ掛けて、思い切り下に引いてやる。すると軌道を力づくで変えられ、クロフスがバランスを崩す。同時に山葉は両脚をたわませてバックステップ。そして、まるで何もない空間に一輪の花を生み出す手品のよう、火花を散らす一対の超高硬度金属の真下から、固めた拳が現れる。
ブーツの底が地面を蹴った。雪の結晶が爆発した。
山葉は船の舳先のように尖った生白い顎を、全力で打ち抜いた。鉛直と水平方向のエネルギーが回転モーメントとして合成されると、クロフスの身体は腰を軸に一回転した。回転しながら山葉の脇を過ぎていき、粘つく液体のしぶきを八方に散らした。ぐしゃっと鈍い音を立てて、地面に激突する。
「うごぉっ、おおぉぉ……」
見ると、殴った山葉の手の骨が折れていた。顎を打たれたクロフスのダメージはそれ以上のはずなのに、ひとしきり唸ると両手を着き、痙攣する脚で立ち上がろうとする。無地のワイシャツには、赤の花が咲き乱れていた。怒りのためまくりあがった唇は、彼が門歯を二本失ったことを教えた。だが痛みや怒り以上に、クロフスは衝撃を受けているのだった。
「……な、なぜだ、なぜ俺の攻撃が当たらないっ? なぜ打ち負ける? 俺は《適合者》だぞ? 俺の未来が書き換えられているとでも……山葉、貴様はいったい……」
山葉は喋らなかった。息を整えながら、クロフスが立つのを待った。すると、徐々に理解の色が広がる。
「そんな馬鹿な……まさか、貴様までもが”そう”だというのか? ふ……ふざけるなよっ、検出テストでは不合格だったはずだ。お前は凡人なんだっ、いまさら……」
びくびくと顔面が痙攣した。
「――――認めないっっ、俺は認めないぞぉおぉっっ!!!」
山葉は腰を落とし、深く構えた。そうして、三度の突進を迎える。
視界はますます暗くなっていく。終わりが刻々と近付いていた。
首を軽く捻ると、頸部の皮を裂いて水晶の刃が抜けた。山葉は左足を軸に反転し、その腕を掴んだ。肩を支点に思い切り曲げる。ごきん、と小気味よい音が響いた。
「おっ……おぉっ、おおおぉっ……」
クロフスの右肘から先が、奇妙な方向に折れ曲がっていた。手からナイフが落ちる。顔が苦悶に歪む。山葉は追撃する。距離を取らせるつもりはなかった。獰猛な振動がクロフスの指を、前腕筋を、腰骨を、シャツのボタンを、眉を、大腿部を、第五、第六胸骨を、臙脂のネクタイを、上唇を、喉を切り裂いていく。
「がっ……あっ、うおおぉあぁぁああああぁあぁぁっっ」
まだ浅い。致命傷には至らない。山葉はぎゅっと腰を捻ると、力を振り絞った。息を止める。瞬間的に心臓が、酸素とエネルギーを乗せた大量の血液を筋肉に流し込む。ブーツの中で、爪先が地面を噛む。そうして繰り出したのは、全力の突きだった。だが、
ぎぃん。
硬い反発音。
肉の裂け目から、ばちばちと火花が飛んでいる。刃の先端は、クロフスの胸に数センチ埋まったところで止まっていた。皮膚下に埋め込んだ防弾プレートで、心臓をカバーしているのだ。今の山葉の力では微細振動の補助があっても、貫通させることはできなかった。
山葉の表情が痛恨に染まり、一瞬の隙が生まれる。それをクロフスは見逃さなかった。機械の眼が破滅的な決意の赤にきらめいた。
「――っらあぁぁ!」
前蹴りが山葉の腹に命中した。足の踏ん張りも利かず、彼はもんどりうって転んだ。すぐに立ち上がろうとするも、片膝立ちになったところで膝が笑い、それ以上動けなくなった。燃料を使い切ってしまった――そう感じた途端、神経を束ねていた骨がばらばらになった。どこからも力を運べず、ここへ来て、とうとう体力は限界だった。彼は目を閉じ、舌を噛んだ。痛みをアンカーに、全身に散らばった力を掻き集めようとした。
「ちくしょう、ふざけやがって……」
クロフスは荒い息をつきながら、反対方向によろよろと走った。ぶつかるようにして、フェンスにしがみつく。振り返るその表情は、陰鬱な歓喜に震えていた。彼の手には携帯電話にも似た、多機能端末が握られていた。すでにコードは入力され、起爆の実行を問う最終確認の画面が、淡い輝きを放っている。
「……俺が死ぬ覚悟もない臆病者と思っているんだろう。だから小生意気にヘリを狙った、違うか? 舐めんじゃねぇっ、や……やってやる……やってやるさっ」
山葉はまだ動けない。螺旋を描く意識はあらゆる補正を拒んだ。
ナイフをきつく握り締める。
それだけが闘争の意志だった。
不服従の発露だった。
ははっ、とクロフスが笑う。
「――終わりだ。貴様らみんなおしまいだ。死んで……地獄で後悔しろっ!」
ボタンに触れようとした瞬間だった。
ばきぃん。
クロフスの手が砕け、飛び散った。
端末が地面に転がった。
「なっ……」
開け放たれた屋上の扉の前。
カチェートが硝煙立ち昇る銃を構えていた。奇しくも、完璧な両利きの青年。
そして彼の背後からは次々と、武装した男たちが現れる。
「な、なな、お、ぉお、こ、こ、この……」
クロフスは周囲を見渡した。
人々の視線。
不審の、怒りの、軽蔑の眼差し。
「――――この、人でなしどもぉぉおおぉおおぉぉっっっ!!!!」
山葉は走った。
掻き集めた最後の力。
どうすべきかわかっている。
クロフスが振り回した手をかいくぐり……。
粒子群が導く場所へ、彼はナイフを突き出した。




