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薄れ掛けた意識を引き戻したのは、男の悲鳴だった。
脳内でいくつかの記憶が引き出され、繋がり、山葉はそれが、ウォルフレンという男の声なのだとわかる。顔を上げようとする。しかし重い、動かない。あまりにも動かなくて、頬が地面の雪と凍り付いているのかと錯覚するほどだった。うつ伏せでぴったりと雪に接地していたせいで、全身は氷に包まれたように冷え切っていた。この怪我でどうして自分がまだ生きているのか不思議だったが、もしかするとそれが血管を収縮させ、出血を弱めたのかもしれない。
――また悲鳴。あるいは雄叫び。金属がぶつかる音。
苦労して肘をつき、上半身を浮かす。切られた目が熱い。そこだけ燃えるようだ。半分になった視界の隅では、クロフスと少年が戦闘を始めていた。しかし山葉には、さしたる印象を与えなかった。彼の目が釘付けになっているのは、別のものだった。
こんなはずじゃなかった……。
ツォエは口から血を流し、倒れていた。仰向けで薄く瞼を開いたまま、右の頬を雪のクッションに預けていた。刺創の出血は、未だに少しずつ、彼女の周囲を赤く染めている。
姉さんの生まれ変わりのような君を、また失ってしまった。
判断を誤った。
選択を誤った。
君は入間先生のように、唐突に、呆気なく、無惨に、殺されてしまった。未来を奪われ、動くことを止めた。冷たい地面に横たわり、虫は今、君に群がり、食らい尽くそうとしている。
「うぅ……ツォエ……」
彼女の傍へ移動しようとする。薄く積もった蜂蜜の雪を掻き分けながら、匍匐前進で動こうとする。しかしたった数度、無様に雪を掻いただけで、彼の動きは止まった。身体が言うことを聞かない。これまで彼を突き動かしてきた力は、呆気ないほどの唐突さで、尽きようとしていた。まるで彼とツォエの生命が、深く結び付いているようだった。彼女の死は山葉の死を意味しているようだった。
こちらに向けて駆けてくる金髪の女が見えていた。白のスニーカーに水色のジーンズ、淡いグリーンのパーカー。春の日差しのように明るく、生き生きとした色彩。誰だろうか。朦朧とする視界には、それすら判然としない。ひょっとして、死に際の幻覚だろうか。
どうでもいいと思った。
どうせ全て終わったのだ。無駄だったのだ。景色は徐々に、厚い砂嵐に飲まれていく。それが巻き上がった雪による現実の光景なのかどうかさえ、彼にはもうわからない。
やがて筋肉は活動を放棄した。上体を支える肘の関節がぐらぐらと揺れ、崩壊が始まる。まるで落ちていくようだった。自分を形作る骨が、冷たい墓石の上、ばらばらと崩れていくようだった。
叫び声が聞こえる。女性の声。
聞いたことがあるような気がした。つい最近のこと。
懐かしい声は奈落の底、反響する。
更に深く、奈落の底の底へ。
落ちていく。もっと深く、落ちていく。
落ちて。落ちて。落ちて。
(――それから、どうなったのか)
悲鳴。
絶叫。
絶叫の余韻。
哀れな鳥のシルエットが、吐き気を催す放棄ダムの汚水が、自由落下の速度で迫ってくる。
落ちていた。頭から真っ逆さま、重力に引かれ、風を切っていた。内臓がひっくり返る。脳裏をよぎるのは恐怖、後悔、走馬灯……。彼は思い出す。確かにそうだった。確かに自分はあのとき、ダムの門から落下したのだ。
(……《死の虫》に襲われて、俺は足を踏み外した。姉さんが差し出した手は、間に合わなかった。指先をするりと抜けて、俺は落ちた。二〇メートル下の、ダムの底へ。汚染物質の凝りで出来た、毒の沼へ)
虫は俺に噛み付いた。腹に食い付いたそれは、自らの意志でない限り、決して離れないだろう。死の使いからは逃げられないのだ。だけど結果的に俺は生き残った。
同情? ――違う。
気まぐれ? ――違う。
憐憫? ――違う違う違う。
わからない。
それにしたって、考えることに意味なんてあるのだろうか? すべての努力は水泡へと帰してしまった。もう立ちあがる理由なんて残っていなかった。ならいいのだ。諦めてしまっても。絶望に意識が呑み込まれていく。力を失った肉体が、地面に激突しようとする。
終わりだ……このまま、俺も死んで……。
「まだ生きているわっ」
落下が止まった。冷たく、倒れかけた身体を、熱を持った肉体が支えていた。
「教えてください、どうしたらいいんですか。出血が止まらないの。呼吸もすごく弱いわ。早く手当てしなくちゃ」
「クロ、ワ……?」擦れた声で呟く。「ツォエ……生きて……、そん、な……、嘘だ……」
ぱん、と頬を張られる。胸倉を掴まれる。
「しっかりしなさい山葉っ、ツォエを守るんでしょう? ひとりしてかっこつけて、あれは何だったの? 立てっ、立ちなさいっ。この子、まだ脈はあるわ、生きているのよ」
「生き、て……」
ああ、ツォエ。
まだ生きている。手遅れじゃない。
彼の体の中心に、小さな火が灯った。
歓喜の灯火。新たな力。一縷の希望。それらは渦を巻き、全身へと広がった。
景色が彩度を取り戻す。ばらばらに崩れた骨が、歪な形を取り戻す。
「早くしなきゃ助からないわ、胸の止血はどうやって――」
「む……胸を……き、傷を押さえるんだ……」
彼は声を絞り出した。口内の血を飲み下す。
「……ぬ、布を当てて、ふ、ふ、服の上からでいい……で、出来る限り、強くだ」
ぎぃん、と硬い音が響く。素手の少年が、腕の金属骨格でナイフを受け止めていた。皮膚と肉はずたずたに切り裂かれている。クロフスは野蛮な笑みを浮かべている。
「……肋骨が、お、折れてもいいくらい、つ、強くやるんだ……顔も横にして……ち、ち、血で窒息しないように……」
クーリロワはツォエの元に屈むと、ジーンズのポケットからハンカチを取り出し、傷口に当てた。刺創は深く、傷付いた肺は気圧差を失って萎み、呼吸はほとんどできていない。体重を乗せて押すと、口から血の唾液が吹き出た。クーリロワは眉間に皺を寄せながら、青ざめた顔を横にする。
「すぐに誰かが来るわ」
頬を赤い飛沫に染めながら、彼女は言った。
「山葉、お願いよ。それまで耐えて。あいつを……クロフスをとめて」
「……お、俺が……クロフスを……」
「あなたなら」と彼女は続けた。
「勝てるわ。私にはわかる。あなたはあんな奴には負けない。あんな卑怯な奴には絶対負けない。だから頑張って……もう少しだけ、この子のために戦って」
全身が震える、堪えようのない激情が、命のひとひらを燃やす。
出血は止まったわけではない。毎秒、彼の肉体は死に近付いている。
全身が重い。感覚が遠い。片目は潰れ、残る視界もノイズにまみれている。
「……はぁっ、はぁ……はぁっ……」
山葉は手を伸ばした。傍に転がっていた微細振動ナイフを拾った。
大きく息を吸う。がくがくと震える膝に爪を立て、身を起こす。終わりを迎えようとしている戦いに、目を向ける。ローターの生み出す気流に髪を逆立て、クロフスが咆え、圧し負けた少年がたたらを踏む。最高の聖女と評されたツォエの母の命――正確には彼女の意思の残滓――それは今、燃え尽きようとしていた。
下から振り上げたクロフスのナイフが、左脇の動脈を切断した。血が噴き出す。人工の聖女――その瞳の力を得たクロフスは、《死の虫》そのものだった。人の類型を得て、虫は強大だった。無双の強さで死の嵐を振りまいた。逃げられないのだ、と山葉は思った。それはどこまでも追いかける。追いかけて、襟首を掴み、振り向かせ――
(結局、いつかは直面するんだ)
そして彼は先ほどの疑問の答えに気付いた。
(死からは誰も逃れられない。あのとき、虫は俺を見逃したんじゃない。気まぐれを起こしたのでもない。俺を見つけられなかったんだ)
なぜならそう、そのとき俺は、すでに死んでいたから。死んで色を失ったものを《死の虫》は見つけられない。俺は水面に叩きつけられた衝撃で、仮死状態だった。姉さんが毒のプールから引き上げ、めちゃくちゃに胸を叩いてくれるまで……。
しかし、本当にそんなことがあり得るのだろうか――汚染された水にどっぷり浸かり、後遺症もなく、一命を取り留めるなんてことが?
――違う。
彼は思った。後遺症はあったのだ。
(あれから間もなくして、俺の生活は一変した。祖父の憎しみはますます激しくなった。姉さんはしわ寄せを食うように殴り倒された。足の腱を切られ、奔放さを犯された。やがて彼女は、祖父と同じ目つきで俺を呪うようになった。それというのも全て、俺が吃音を患うようになったせいだ)
――では、どうして吃音を?
目の前では、二人の戦いが決着を迎えようとしていた。
それにもかかわらず、この理由を知ることは全てに勝り重要に思えた。
彼は考え続けた。意味があるはずなのだ。
なぜ吃音なのか。なぜ落下の、汚染の後遺症が言語に障害を……。
『――粒子の思考と呼ばれています』
息が止まった。
『――その代わり、普通の人にとっては最も容易な、言語によるコミュニケーションが困難に……』
全身が震えた。
この会話を俺はした、と思った。同じことを聞いた、と思った。
『――歴史的な背景に即しているというだけで、これが性別を限定するものでも……』
山葉は少年を見た。
目が合った。
理解した。
“彼女”は自分がクロフスに勝てないことを、最初から知っていた。勝敗など、眼中になかった。ただ、彼が理解するのを待っていたのだ。そして今、あの夕暮れの日と同じように、彼女は再び賭けに勝った。彼女の表情から、ふっと険しさが消えた。目を閉じ、動きを止めた。
それが最期だった。
ナイフが少年の首を貫いた。クロフスはそれを捻り、引き抜いた。
呼吸を止めた肉体が地面に転がった。
「はぁっ、ふぅ、はぁ……手こずらせやがって」
獣は喜悦にまみれていた。ごくりと唾を飲み込むと、振り返った。
「クーリロワ、覚悟はいいか。次はお前を……」
言葉が途中で止まる。立ち上がった山葉を認め、クロフスの表情に一瞬、警戒の色が浮かんだ。しかし、すぐにそれは嘲笑へ変わった。
「ふっ、ははっ。ははははっ。山葉、俺を笑わせるな。頭をそう強く叩いた記憶はないんだがな、俺はどうやらやりすぎてしまったようだ。まったく愚かしい、お前ほどの男が、なんてざまだ」
山葉は、ツォエが落とした銃を構えていた。
「ふん、無駄だ、弾切れだよ。そのガキが全部撃ち尽くした。そんなことさえ思い出せないのか? はっ、所詮、お前も……」
ダイヤルを目いっぱい回し、加速装置の電源を入れる。
きいぃぃぃん、と出力が上昇していく。手が震え、照準が揺れる。彼は奥歯を噛んだ。
「おい、無駄なあがきはよせっ。弾切れだと言ったはず――」
山葉はゆっくりと首を横に振った。同時に、苛立ちを見せ始めていたクロフスの表情が変わる。視線は、山葉のジャケットに向けられていた。先の戦いで切り裂かれ、胸元がはだけている。そこには、いつかの銃が見え隠れしていた。彼の後悔の象徴。銃身を切断され、弾倉も引き抜かれ、最早使い物にならない鉄の塊。
それでも、ひとつだけ使えるものがあった。
「まさか」とクロフスが言う。「チャンバー(薬室)の残弾を……」
どうしてなのか。発射機構が完全に寸断されているため、放置されたのだろうか。……だが、どんな理由だろうと、今更構わなかった。
クロフスが舌打ちをする。内なる聖女の命に従い、回避動作を取る。
しかし、山葉の狙いは最初から違った。
一瞬遅れて気付いたクロフスが、驚愕の表情を浮かべる。
「なっ、き、貴様、やめっ……」
硬質の発射音。
最大出力でプラズマ加速された弾体が、クロフスの脇をすり抜け、一直線に撃ち出される。
閃光。
振動。
ヘリが爆発した。凄まじい轟音が響いた。後尾がぶち折れ、ローターが回転しながら宙を切り裂いた。至近距離、背後から熱線と爆風を受け、クロフスは吹き飛んだ。ヘリから火柱が立ち、黒い煙が立ち昇った。火柱を中心に、地面の雪が放射上に融けた。衝撃でばらばらになった金属片が宙を舞い、三〇メートル以上離れた給水塔に派手な音を立ててぶつかった。
それから少しの間、熱膨張した金属が爆ぜる音だけが響いた。
やがて、じゃり、と砕けたガラス片の塊に手をつき、ゆっくりした動きでクロフスが立ち上がった。燃えるヘリの残骸をしばし見つめ、振り返った。ネクタイは千切れ、ワイシャツの左肩の部分は融けて皮膚に張り付いている。なによりおぞましいのは顔面だった。左半分が焼け爛れ、一部は炭化し、黒くなっている。焦げた瞼に縁取られ、赤い機械の左目が丸いガラス玉のようにくっきり剥き出しになっていた。
「……山葉」と彼は言った。「殺させてくれ」
山葉は銃を捨てた。微細振動ナイフに持ち替える。最高の聖女でさえクロフスには敵わなかった。しかし彼はもう、怖れていなかった。怖れる理由など、どこにもなかった。
どうして自分が空爆を生き延びたのか、ようやくわかったのだ。
あの場にいた聖女だけが知っていた。
誰が娘を救えるのか。誰が娘の言葉を信じてくれるのか。
そして、誰が同じ未来を視てくれるのか。
それは言語でも映像でも伝えられないものだった。あのときと同じ感覚が、冷たい水のよう、すぅっとうなじを撫でていく。
常人には決して得られない、凄まじい理解の感覚。理解というプロセス、”その働き自体”を理解する。あらゆる認識が、どのような内的な昇華を経て概念へ至るのかを理解する。あたかも万年のときを経た岩盤の断層が、人間の意識構造を比喩するように、その下層部――無意識階にたゆたう鏡の焦点が、最下層の大海でどのように結像するのかを理解する。
そして、精神の大海が一様に、全ての塔と繋がっているのだとわかったとき、なにものも恐れる必要はなかった。
全身の肌が粟立つ。これこそ、どうしても思い出せなかった最後の記憶――そして、思い出せないのも当然だった。これは通常の思考の枠外にあった。特殊で、孤高で、神聖で……。
強くナイフの柄を握り、微細振動が働き出す。
山葉は開戦の儀式のようにその手を突き出し、クロフスを一線、見据える。
「……貴様」
彼は逆の手で、自分の無事な方の目の端を、とんとん、と叩いた。
そして機械の眼を見つめながら、爪先で横一線、切る仕草をする。
「俺を、」
クロフスがそのサインの意味に気付く。
「俺を、挑発するかぁぁあああぁぁっっっ!」




