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狐たち  作者: nutella
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 トマト缶と呼ばれる事件をウォルフレンは思い出す。

 もちろんそれは正式名称じゃないし、事情を知る者たちにだけ伝わる、ちょっと気の利いた通名といったところである。ことの発端は実戦運用を目前にした戦闘機用パイロット補助AI《REVI027s》の性能評価試験だった。

 無人機がどんなに性能を上げようとも、空戦や爆撃の大部分を自動でできるようになっても、ここぞというときのヒトの出番はなくならない。《レヴィ》はそんなとき、パイロットの有用性と生存率を極限まで引き上げ、結果として帰投率向上に繋げるという目的のために開発された人工知能だった。具体的に言えば、AIR TO AIR戦闘時、HUDに表示するリーディングマーカーの高速化、絶対必中圏でファイア・オフされたミサイルを感知して回避する機体制御、リンクシステムの中距離ターミナル利用、任務中の装備換装の最適化などがある。

 要は人間が得意なことを人間にやらせ、苦手なことを全てコンピューターに任せようというもので、その発想自体はある意味前時代的とも言えた。ただ異なるのは、このコンピューター《レヴィ》がリアルタイムで戦況を学習し、最適なオプションをもってパイロットを支援できるということだった。三次評価試験でも想定以上の素晴らしい成果を挙げ、残すところ最終評価演習だけとなった。《レヴィ》に対する信頼と期待は高まる一方だった。正式採用はほぼ確実だと思われていた。

 トマト缶が起きたのはそんなときだった。

 最終試験を迎え、《レヴィ》とその誉れあるパイロットに下された指令は、機体を六二五〇キロメートル離れた洋上の航空母艦まで、模擬弾を積んだ複数の仮想敵をかわしながら単機で帰還せよ、という極めて過酷なものだった。それでも、確かめる術は永久にないとしても、これだけなら事件は起こらなかったのかもしれない。この演習において結果を左右する多大な意味を持っていたのは、ごく単純な、以下二つの条件だった。

 一、交戦、或いは回避行動中に於ける仮想ダメージは軽微か、それ以下に抑えること。

 二、作戦限界時間は四時間、但し、可能な限り早く帰還すること。

 実戦と見立てて考えると、とりたておかしいところのない、以前にもあったような条件だった。死に体、いわゆる損傷甚大で帰ってこられても空母の倉庫とスタッフを悪戯に浪費するだけだし、空中給油なしで作戦時間が四時間を越えれば、当然フュールはかつかつになる。加えてパイロットだって同じような状態だ。いくらアンフェタミンを服用していようとも、高G機動における集中力の低下は、一八〇分から二〇〇分を境に幾何級数的なものとなる。

 だからこれは実質、三時間後には空母甲板の離着陸エプロンに着いていて、乗組員や開発チーム、出資した各企業幹部から拍手喝采を受けていなければならない――パイロットは酸素マスクを剥ぎ取り耐Gスーツをはだけ、突き出した親指をキャノピー越しに振っていなければならない演習というわけだ。

 しかし同等の熾烈な演習のときだって、《レヴィ》はパイロットと驚異的なコンビネーションを発揮して、難なくやりおおせたのだ。不安視する者はいなかった。必ず成功する、考えるべきは実戦配備の時期だ――そう誰もが思っていた。

 そうして演習が開始され、いくつかのドグルスイッチ、いくつかの手続き確認、いくつかの儀礼的通信を終えて飛び立ったわずか七分後、《レヴィ》は発狂した。

 原因は今でも不明のままである。直接の原因はバグということで結論が出ているのだが、そのバグがどうやってもたらされたのかわからないのだ。混線信号? ウィルス? プログラムミス? そもそもいったいいつからおかしかった? 飛行前? 飛行中? はたまた新理論を用いても、初歩の初歩となるフレーム問題を解決できていなかった……?

 高度七七〇〇メートル、巡航速度一、四マッハ、発進から七分三秒後に永久凍土地帯に差し掛かった頃、《レヴィ》は唐突に球形モジュール式脱出装置をロックした。最初に異常に気付き、確認を始める管制官をよそに、《レヴィ》はおまけとばかり、操縦席の切り離し用プリマコードと分離ボルトを無力化。そうして脱出不可能な状況を作ると、十四ヵ月の試験期間を通じ、良きパートナーであったはずのパイロットの叫びを無視し、機体の制御をセミマニュアルからフルオート――人工知能レヴィに完全移行。同時に飢えた虎のような唸り声を上げるエンジンにフュールと圧縮酸素をたらふく流し込み、アフターバーナーを点火。AIが持つ無慈悲なまでの作戦遂行能力で、耐Gスーツの限界を無視した十四G超の加速旋回を決行し、更には四六〇〇キロメートル地点で待ち構える敵の第二陣を感知すると、機体保護のための各種リミッターをブルートフォースで解除し、時速三〇〇〇キロメートルで成層圏へ突入した。

 耐えうる最大Gの公称値が十二Gだったことを考えると、安全係数を差し引いても機体は会心の作なのだろう。パイロットはブラックアウトしかけた意識の中、左手でスロットルを動かし、右手で操縦桿を握り、両足でラダーペダルを踏み、コントロールを戻そうとむなしい努力を続ける。管制に異常事態を呼びかける悲鳴には水っぽい雑音が混じり、嘔吐、あるいは吐血していることがうかがえる。

 フライトレコーダーを解析するまでもない。管制は狂おしい恐怖と共に、この死の片道飛行を見送ったことだろう。最新式の耐Gスーツが生温い失神を許さぬ中、いったいどんな地獄を味わったのだろうと想像しながら。一秒でも早く死ねたなら幸運だと祈りながら。

 演習開始から二時間十五分後、《レヴィ》操る次世代戦闘機は何事もなかったかのように、目的の空母に着艦した。但し迎えるのは拍手や笑顔でなく、悲鳴だった。キャノピーは遠目からでも真っ赤に染まり、もはや、パイロットが苦痛の末に死亡したのは誰の目にも明らかだった。しかし《レヴィ》だけは不満だったに違いない。断熱圧縮によって機体の一部は融解していたが、それは交戦によるものでも回避行動によるものでもなかったのだし、パイロットもちゃんと乗っていた。加えて一八〇~二〇〇分での到着という、当初の予想を大幅に上回るレコードを叩き出したというのに、誰からも賞賛を受けられなかったのだから。

 駆けつけた作業員たちが儚い望みを抱いてキャノピーを開いてみると、そこには血塗れのコックピットがあった。ハーネスの一部は金具の根元で弾け、自由になったパイロットの上半身は揺れに揺られ、背骨が折れていた。外れかけた酸素マスクからは吐瀉物と血の混合液が滴り、両眼はマイナスGによるレッドアウトで破裂していた。

 トマト缶。

 絶句する人々を前に、《レヴィ》はこんがりと焼けた鼻先のレドームを傾げ、知恵遅れ特有の、無邪気な笑みを振りまいているようだった。特筆するべきは、《レヴィ》は敵性意志によって無茶な飛び方をしたのではなかった。与えられた条件をクリアするために機体の持つ最大の能力を引き出したに過ぎなかった。もし条件の三番目に、『パイロットの生存を最優先とする』という、当たり前すぎるほど当たり前の項目を加えていれば、トマト缶の事件はおそらく起こらなかっただろう。

 《レヴィ》に起きたバグは、途中経過の現実的実効性というものを完全に無視し、目的と条件だけを守らせるようにしたのだった。

 これにより、配備計画は凍結されることとなった。あの場に居合わせた誰もが思ったのだ。もし第一の条件――『機体の損傷を軽微に』という項目がなければどうなっていただろう? タイムアタックだけを考える《レヴィ》は空の上の上、例えば熱圏あたりから加速降下して、時速四〇〇〇キロメートル超の火の玉となって空母に特攻していたのでは? 果たして迎撃システムで撃ち落せただろうか? AIとは古い映画や小説で危惧されていた通り、人の手を越える可能性を秘めた、恐ろしい化け物なのではないのだろうか……?

 “トマト缶”という、ある種滑稽な響きを持つ言葉が使われるようになったのは、その頃だった。

 目的は達するものの、その経過を考えないということ。あるいは確かな結果を与えるものの、決して望んだものとは同じでないということ――『そりゃあちょいとトマト缶的じゃあないのか?』とか、『おいおいひどいぜトマト缶みたいなやり方だな』とか、時折使われるその言葉は、嘘偽りなく、だが望まぬ結果をもたらす陳腐な叙述トリックの比喩として使われるようになっていた。

 ――だが、歴史ある言葉だ。

 そうウォルフレンは思う。新しくも、重い歴史のある言葉。そして今、顎ひげをしごきながら血溜りに伏す少女を見下ろして、彼はやはり同じ感慨を覚えるのだ。

 トマト缶。

 クロフスは“一緒に”してやると言ったが“生かして”とは一言も言ってない。すると、やはりこれは間違いない――トマト缶なのだ。そう、ツォエは緑のへたと赤い実がでかでかと印刷された、安っぽい缶詰を信じた愚かな少女なのだった。彼女は知らないのだ、缶をぐるりと一周して糊付けされた白地の紙には、さも真実らしくメーカー名とか産地とか成分表示とか、いかに新鮮で質の良いトマトなのかとか書かれているが、その中に本当のことなんてひとつもない。缶切りで開けてやれば、中にあるのは瓦礫と母の死体だけ。にもかかわらずトマト缶的に言えば、この病院と共に瓦礫に埋もれて死ぬという未来は、確かに“母と一緒に”なるということなのだ。生まれ変わりなどないこの世界で死ぬということは、ひとえに永遠に死に続けるということだ。ならばちょっとサービスして“永久に一緒に”と言っても、やはり間違いではないのだろう。

 望みも経過も裏切るが、しかし結果にひとつも――これがもっともやっかいなのだ――偽りがない。工具でキャノピーをこじ開けるか、プリマコードの缶切りを用意するまで、中身がどうなっているのか決してわからない。それがトマト缶なのである。

 しかし、とウォルフレンは思う。広義のトマト缶的解釈で言えば、望みが叶わなかったのはクロフスも同じなのかもしれない。自分たちは山葉もツォエも、ついでにいえばあの白衣の男だって問題なく処理できたが、それは結果論で、そこに至るまでの途中経過――クロフスが描いた筋書きは決して思うようになぞらなかったからだ。

 ツォエは山葉を撃たなかった。

 その一点のみ、クロフスは確かに負けたのだ。手引きに失敗し、幕引きも予想を裏切られたとなれば、しばらくの間苦々しい思いを味わうのだろう。クロフスはほとんど全ての領域において完璧無比としか形容のしようがない男だが、欠点があるとすればこういった些事に固執することだった。

 それともこれは、些事でも何でもなかったのかもしれない。クロフス自身が汚染地帯出身なのは、一部の人間には周知の事実だ。そしておそらくそれが、結果的に――ウォルフレンとしては予想通り――過大評価と判明した男や、少女を使った駆け引きにこだわった理由なのだろう。無意識にせよ、克服できなかった内的な問題に引き摺られていたわけだ。

 とはいえ、“出身者”たちの葛藤や苦悩など、富裕層として生まれたウォルフレンのあずかり知らぬところであるし、そもそもそんな事情はどうだってよかった。正直なところ、クロフスの言う《新たな世界》にだって興味はないのだ。自分としては、法の手の届かぬ安全地帯、サテンを敷いたゆりかごに身をすっぽり預けながら殺しを眺められるのなら何だっていい。自分の手で生死を感じられるならもっといい。

 その点、このツォエという名の少女は最高だった。美しく、可憐で、儚げで、臆病で、なにか幽玄な雰囲気をかもし出していて、それがたまらなく“そそる”のだった。駐車場で最初、逃げ出そうとしたときのあの表情。首根っこを掴み、羽交い絞めにしたときのあの表情。今まで手にかけたどの獲物より最高だった。逃げようと必死なくせに、掴まれた途端に怯えきって、声ひとつ上げず硬直してしまうのだ。その反応は、まるで弱者の象徴を全て集約したかのようで、ウォルフレンとしてはあの場で殺さないように自制するので精一杯だった。

 おしむらくは、トイレの躾が出来ていないことだ。ああ、それさえできていれば、あのまま殺していたってよかった、いや、むしろあのとき殺しておくべきだったのかもしれない。黒く柔らかい――そう、まるでサテンのような髪に鼻を押し付けて、甘酸っぱい恐怖の汗の匂いをいっぱいに吸い込みながら、陶製の白い骨で支えられた首を背後からぎゅうっと締め付けて、

 ため息。

 駄目だ、落ち着け。どうしてだ、少女趣味なんてないのに、このガキに限ってはたまらなく興奮する。一度息を深く吸って、落ち着きを取り戻すのだ。ちくしょう、涎が……クロフスに見られただろうか? いや、もう奴はヘリの座席に着いている。見ようと思っても、ローターが雪を巻き上げているし、ちょうど機体のフレームが邪魔になる位置にいる。……うん? ということは、もしかして……? 今なら大丈夫なのだろうか? つまり、その、何というか、少しくらいその死体を痛めつけたり、髪をぶちぶちと根っこから引き抜いて顔を起こして、首に手を掛けても……?

 深呼吸。

 おい、くそ、まただ。俺はなにを考えている? 落ち着けと言っただろう。駄目だ、今回は諦めろ。クロフスは約束を破ったが、今回は仕方ないのだ。なにせこのガキときたら、弱者のくせに、生意気にも歯向かってきたのだ。クロフスはもちろん、山葉にさえ想定外だったようだ。誰だって恐怖と安堵を交互に与えれば言うことを聞く。加えてクロフスには一種、カリスマというか、どんな人間でも虜にするような雰囲気がある、口にする言葉はすべて正しいのだと否応なく思い込ませるような、強烈な空気がある。濃密過ぎる酸素がときとして人を酔わせるように、判断力を奪うのだ。にもかかわらず最後の最後、ツォエには通じなかった。その事実はトマト缶的解釈を許さぬほど圧倒的で、かつ侮辱的だ。安っぽい“絆”が勝つなど、決してあってはならないというのに。ならば反逆者は有無を言わさず胸を刺し貫かれて当然なのだし、そこに疑問や願望を挟む余地などないのだ……ないはずなのだが……待てよ、ひょっとすると、

 息を呑む。

 そうだ、今、気付いた。だからこそとは言えないか? つまり、躾のなっていないガキをじっくりゆっくり嬲るという、愛溢れる教育の必要性が、だからこそあったのでは? クロフスは焦りすぎて、やり方を間違ったのでは? 言い換えればツォエは、この俺のような理解ある人間に殺される、“義務”があったのだ。クロフスのような殺しを楽しめない、あくまで戦闘という行為にしか喜びを見出せない野蛮人には勿体無い獲物だったのだ。ナイフなんて野暮も野暮。邪道もいいところ。俺なら腹の真ん中に鉄芯を打ち込まれた標本箱の甲殻虫のように、じっくり検分して、愛して、楽しんでやれた。しかし今からでも遅くないはずだ、肉に温かみが残っているうちに叩いて、柔らかくして、あやまちを正すのだ。俺がこの手でもう一度、殺し直してやるのだ。

 ごくり。

 おっと、そういえば。これからここを爆破させるというのに、ヘリが誤作動を起こしてはたまらない。クロフスだって、オートパイロットの入力をしろと言ったのだ。オートパイロット。AIとは違うが、それでもコンピューターだ。すまし顔でなにをたくらんでいるかわかったものじゃない、信頼のおけぬ下衆なバイナリコード。トマト缶的事態の発生は可能な限り低くする必要がある。だからこれは仕方ないことなのだ――九〇秒ほどかけて、オートパイロットの自己診断プログラムを走らせることは。そして九〇秒あれば充分だ。その間にツォエを“教育”して、太陽が東から昇るように、物事をかくあるべき状態に戻してやるのだ。

 舌なめずり。

 それに運がよければ、彼女はまだ生きているかもしれない。末期の呼吸には間に合って、弱りきった生命の処女を奪わせてくれるのかも。そっと首に指を這わせ、ぎゅっと絞ってやろう。コツは力を入れないことだ。気を許した針鼠のように指先は柔らかくして、体重をかけていく。長く楽しむときは頚動脈を締めるような愚かな真似はしない。そんなのはひどい失望だ、すぐに失神してしまうからだ。あくまでゆっくりゆっくり喉を締め上げ、たまに喉の窪みに添えた親指をぐっと押し込む。そうすれば痛みで薄れた意識は急浮上して、また擦れた悲鳴――まるで可憐な少女のものとは思えない、ねじくれた背骨に病む老婆のような――を上げ、いっそうあがく。強烈な痛みを与えれば死に掛けた肉体でも生存のための反射が働き、“生き”がよくなるものなのだ。

 熱い息。

 それはいつだって最高に興奮するひと時だ。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すうち、やがて、どうしたって抵抗は弱まっていき、つぅっと透明な涎が口の端から垂れる。砂糖水を煮詰めたように甘い蜜。それを零れた血と一緒くたに舐め啜ってやろう。ああたまらない。天上の滴としか言いようのない、「死にたくない」と泣き叫ぶ生命の味。本能とか苦痛とか走馬灯とか、全部強者の気まぐれでごちゃ混ぜになった最高のカクテル。ヴァージン・ブリーズ末期の悲鳴風。涙もつぅっと流すはずだ、霞んだ視線を虚空に送り、きっと思考は『助けてママ』とかそんなくそったれな叫びで満たされていて、叶うことなら心臓を切り出してその音色と一緒に聞いてみたい、まったく何てことだこの少女に限ってはちくしょう興奮する股間が熱く硬くそそり立っているのがゆとりのある軍服越しでも窮屈になるほどで先端は湿っていてもう我慢なんて出来るはずもなく――

 美しい。

 生命の神秘を思わせる、喉もとの密やかな窪み。

 うっすらと静脈の浮いた首筋。

 近寄って、跪き、右の手で撫でた。指の先でなぞった。

 親指と人差し指の間の水かき部分を添える。添えて、力を込めていく。

 ぼきん。

 すると、手首が折れていた。

「あ…………えっ……?」

 なにが起きたのか理解できない。ある種滑稽な、場違いな音だけが意識にこだまする。枯れ枝を踏み抜く音、ぽきん。チョコレートを割る音、ぼきん。

「おっ、お、おおぉぉお……」

 喉の奥から悲鳴が漏れ出す。右手はふてくされた子供のようにあらぬ方向に首を曲げ、折れた骨のでっぱりが皮膚を内側から突き上げている。激痛が襲いかかろうとしていた。ウォルフレンは地面に両膝を着いて体を丸め、手首を抑えた。唾液が顎髭を濡らす。

 ちくしょう、なんて痛さだ。悲鳴と痛みを殺す一番簡単な方法は、怒ることだった。彼は怒った。かっと目を見開く、噛み締めた顎の筋肉が膨れる。誰だ? 誰が俺の手をこんなにした? 決まってる、山葉だ。奴しかいない。くそっ、黙ってくたばっていればいいものを、まだ動くか。ナイト気取りのイナゴ野郎め、絶対許さん、同じ目に、いや、これよりもっとひどい目にあわせて――

 だが顔を上げ、怒りは霧散した。山葉はほとんど動いていなかった。こちらに手を伸ばし、うつ伏せに倒れたままだ。

 直後、陽が遮られた。

 逆光になって、彼の目の前に、誰かが立っている……。

 脇の下に、汗がどっと吹き出た。

「おい、まさか……」

 少年がいた。

 ヘリの生み出す気流と、興奮に耳を塞がれて、気付かなかったのだ。少年は淡いブルーの検診着姿、右手首には厚いガーゼ、首には包帯が巻かれ、ところどころ赤く滲んでいる。肩を弾ませ、額を汗に濡らし、どこか幼さの残る顔立ちで、自分を睨みつけている。掌の中で握り潰された紙のように、ウォルフレンの顔が恐怖に歪む。

「お前、どうやって抜け出して……」

 信じられない、いったいどこの馬鹿が拘束を解いたというのだ? こんな予定はなかった。こんな、手首がぽっきり折れる予定など。

 しかし動揺をよそに、頭の回転は素早かった。クロフスを呼ばなければ殺される。膝を擦りむいた子供が泣きわめいて両親を求めるように、恥も外聞もなく声を上げなければ。

 しかし、口を開きかけたところで彼は気付いた。少年の動きがどこか鈍いのだ。それで、ぴんとくる。口元が徐々に緩んでいく。おいウォルフ、よく考えてみろよ、本来なら痛みに喘いでいる数秒のうちに片がついていたはずじゃないか。にもかかわらず、最高と評された聖女の怒りを買いながら、お前はまだ生きている。

(とすると、もしかしてこいつは今……)

 さっと全身に目を走らせる。――やはりそうだ。肩で息をしている。目は落ち窪み、指先は震え、膝は笑っている。間違いない、死にぞこないなのだ。それがわかった途端、皮膚の裏側に張り付いていた恐怖が、季節風にさらわれた谷間の霧の如く晴れていく。

 そうだ、俺はなにをびびっていたんだ。落ち着いて考えてみろ、こいつはついさっきまで今際のいまわのきわにいたんだぞ。さっきの一撃で限界だったのだ。燃え尽きる前の蝋燭がなんとやらの、空元気だったのだ。その証拠にほら、どうしてぼうっと突っ立っている? 追撃は? どうして俺にとどめをささない? 理由は猿でもわかる。動けばそれだけで火が掻き消えてしまうからだ。

「くくっ……ははっ、はははっ……」

 相手から目を離さぬまま、ウォルフレンはじりじりと立ち上がる。クロフスを呼ばなくてよかった、そう思う。きっと鼻で笑われたことだろう。冷静さはなににも勝るのだ。そして冷静な眼差しは未来を見通す。生気溢れ、力ある者が勝利する未来だ。そこに機械の瞳がしゃしゃる必要なんてない。さあ、早速痛む手首の仕返しをしてやろう。勝利が約束されているからといって、強者は決して油断したりしない。愚か者とは違うのだ。あくまで慎重にやるのだ、じっくりそろそろ、後ろ足をたわめた猫のように――

 ぱちゅん。

 そんな音が体内を駆け巡った。なにごとかと視線を下げてみると、少年の素足が股間に突き刺さっていた。

 それは睾丸が破裂した音だった。

 折れた手首など比較にならない衝撃が下腹部を襲った。

「あっ、あっ……あおおぉぉぉおおおぉぉおおおっっっ!!」

 まるで、下っ腹の内臓全部を巨大な手で握り潰されているようだった。とてつもない吐き気がして、ウォルフレンはくの字になってその場に嘔吐した。膝を着き、睾丸が中に混じっていないかと必死で探す。闘争心は消し飛んでいた。もはや明らかだった。自分はとんでもない思い違いをしていたのだ。自分こそが獲物だったのだ。こんな痛みの中で戦えるはずがない、勝てるはずない、恐ろしい、今すぐ助けを、クロフスを呼ばなければ――

「はぐぅっ」

 だが、叫ぶ暇は与えられなかった。少年が左手で首を掴み、持ち上げる。身長差も体重差も無視していた。つま先立ちしなければ地に足が着かない高さまで持ち上げられ、ぎりぎりと締められる。強張った太い指で、少しでも締め付けを緩めようと襟元を引っ掻く。ツォエにしたときと同じように、自分の顔の血が行き場を失って、真っ赤に膨れ上がっているのがわかる。迷彩服の下に着た簡易強化服の血流維持機能さえ、まるで意味をなしていない。両目は眼窩いっぱいに飛び出し、胃液の混じった唾液が髭を光らす。

 見下ろす少年の姿が黒い砂嵐に覆われ始めたころ、ウォルフレンは視界の隅に何者かを認めた。クロフスだった。先の悲鳴で気付いたのだ。酸欠に喘ぎながら、折れた方の手をぶるぶると震わせ、そちらに向けた。

「だ……だすげ……頼む、クロブ――」

「どうしてだ」

 少年に向けて、クロフスは言った。

「どうして貴様がここにいる」

 答えが得られないことを知りながら、クロフスは動かない。やがて、なにかに気付いたかのように、その視線が屋上の壊れたドアに向けられた。

 クーリロワがいた。

 肩で息をしながら、クロフスを睨んでいる。

「……お前か」

 表情が激変する。

「お前の仕業か、クソアマがぁっっ」

 その怒りに呼応するように、少年は歯を食いしばった。ウォルフレンを掴む力が更に強まる、ぶちぶち、と迷彩服の繊維が、すさまじい握力の巻き添えをうって断裂する。ウォルフレンの両手が激しく痙攣しながら少年の手首にかけられ、引っ掻き、赤い筋を残す。

「……だ……だのむ……はや……」

 クロフスは瞥見べっけんすらしなかった。ウォルフレンなど最初からそこにいないかのように振舞った。歪んだ表情でクーリロワを見据えながら、ゆっくりと袖のナイフを抜いた。

「上等だ、クーリロワ。この親子ともども俺の手で殺してやる。お前はその後だ」

 その後、クロフスは少年に向き直り、なにか言ったようだった。しかしもうウォルフレンには聞こえなかった。生命の灯火は尽きようとしていた。苦く、饐えた臭いのする死を口いっぱいにほお張っていた。自分自身の今際の際、頭の中を占めるのは純粋な恐怖だった。

 恐怖と、まとまった意味をなさない思考の羅列――死にたくない死にたくないどうして俺がこんなところでぜったいいやだしにたくないおれはしなないこわいこわいくろふすおれをうらぎるのかひどいちくしょうおれはいやだこんなみじめにはぜっ

 ぼきん。

 枝が折れた、チョコレートが折れた、首の骨が折れた。悲鳴はぶっつり途切れ、両腕が垂れ下がった。少年が手を離すと、巨人は雪を巻き上げながら、地に伏した。



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