43
なにが起きているんだ、という小倉の独り言を装った問いに、クーリロワは答えなかった。理由は単純で、その質問に対し、これ以上なにを言えばいいのかわからなかったからだ。もう嘘はない、誤魔化しもない。これで言葉が届かないのなら、できることはなかった――ただひとつをのぞいて。彼女の視線が、小倉の上着――その内側の出っ張りに向けられる。
おい、とそんなクーリロワを急かしかけ、小倉は自分が無意識にでも誰を頼ろうとしているのか理解したのだろう。途端に首に血管が浮き上がり、顔が羞恥に赤く染まる。そして誤魔化すように、
「ぐ……、そ、そうだ、カチェートッ、今すぐ本署に連絡して応援を頼めっ、理由は何だって構わん、ああそうだ、爆弾予告が入ったとか――」
遮ったのはトレンチコートだった。こちらは直感に素直で、口にする言葉も率直だった。
「教えて欲しい、クーリロワさん、私たちはどうすれば?」
「お前っ、事態がわかってるのか? こんな小娘に意見を聞いている場合じゃ――」
「いつまでもしつこいんだよっ」
肩にかけられた肉厚の手を払うと、トレンチコートは怒鳴った。クーリロワは驚いた。部下か同僚か。関係は知らないが、小倉に逆らえる人間がいるとは思わなかったからだ。トレンチコートは振り向くと、小倉の鼻先に指を突きつけた。
「ぐだぐだと同じようなことをいつまでもっ。なぁ、あんた、刑事のくせに鼻が利かないのか? それともまさか、今の季節で花粉症だなんて言わないだろうな。いいか、彼女の言葉は真実だ――少なくとも、真実のひとかけらは含んでいる。あんただって本当はわかっているはずだ。もし意固地になっている理由が、相手が女だからっていうんなら、そのくだらんプライドは糞と一緒に便所に流すんだな。この状況はなにかまずい、想像の上をいってる。俺たちが何とかできるとすれば、それは彼女の言葉に耳を貸したときだけだ。言ってしまえばこの異常事態を予測していたのは、彼女だけだったんだからな。あんたはその、“鼻”で笑っていたが」
小倉のこめかみがぴくぴくと震え、顎の筋肉が盛り上がった。鼻の毛穴からは焼けたゴムがとろけだす。まさか飼い犬に噛まれるとは思っていなかったのだろう、そんな反応だった。
しかし小倉には、長くたくましい四肢と、黒のビロードのような艶のある毛並みを持つ、別の飼い犬がいた。しかもその犬ときたら、まだ若々しく従順な上、おつむもなかなかのもので、彼自ら教育してきた自慢の猟犬なのだ。そして利口な犬というのは、飼い主がこちらを見ながら膝を叩いたとき、どうすればいいかを知っている。指笛を吹いたり、フリスビーを投げたりするときも同様。反してトレンチコートのように中途半端に老いぼれた駄犬ほど始末に負えないものはない。みさかいなく他人にへつらい媚を売り、ちょっと顔のいい生娘に顎下をくすぐられれば、くぅんと蕩けた声を出す。駄犬も昔は忠犬だったのかもしれない。しかし若かりし頃の信念とは熱病に似ていて、飼い主がきちんと鞭を持って叩き続けないと、往々にして忘れてしまうものなのだ。
「……なるほど、そういうことだな。よぉくわかったぞ」
小倉は喉が裂けるくらいに怒鳴る代わりに、底意地の悪い笑みを浮かべてかぶりを振った。そして、トレンチコートとクーリロワから目を離さないまま、背後の猟犬に、さも当然とばかりに命令をくだす。
「カチェート、本署への連絡は後回しだ。先にクーリロワ君を別室まで“お連れ”しろ。丁重にな。なに、少しの間静かに待っていてもらうだけだ、この件が片付くまでな」
今の話を聞いてなかったのか、とトレンチコートが詰め寄ろうとする。対して小倉は、まるで見えない楽団を指揮するかのように両手を宙にさまよわせ、
「いやいや実に見事な弁舌だったさ、興味深いショーだった。私まで一瞬ぎくりとしたほどだ。だがこの状況を正しく理解するにあたり、私たちはこう考えるべきだ――現実に、クーリロワ君になにができたか? 推理とやらをしたところで、決定的な事態を止めることができないのなら、そんなのは後出しのじゃんけんみたいなものだ。そして今はっきりしたように、後出しじゃんけんで捜査に“混乱”をもたらされても困るのだ。まぁ、これに限ってはこちらの醜態でもある。自分に信念を持たない奴ほど、磯辺の海草よろしくゆらゆら揺れて、こういった突拍子もない話に飛びついてしまうものなのさ」
お前のことだ、この能無しめ――トレンチコートを睨む亀の双眸はそう語っていた。次に、表情をわずかに緩めるとクーリロワに視線を戻し、
「それにしても興味深いトリックではあった。引いては押し、押しては引く、ときには怒鳴り、ときには泣いて……。こうやって新興宗教は信者を獲得していくんだろうという好例を見させてもらったよ。こんなに感動したのは割れた便座を新品に交換して以来だ」
「小倉さん、どうして……」
クーリロワは俯いた。俯いて、拳を握る。
くやしかった。一瞬、小倉は確かに理解したはずなのだ。なにが起きているのか。なにが起きようとしているのか。しかし今、再び目の前にいるのはいつもと同じ、いや、いつもよりもっとひどい、妄執に目を、階級に耳を封じられた男だった。真実を探るべき手には権威の白い杖を握り、歩行路の点字ブロックが導く先は自己保身の巨大ビルだ。ビルの前には顔のない警備員がずらりと並び、一度中に入ってしまえば本人が望まない限り、こちらの声は届かないだろう。
結局、無駄だったのだ。女性や、自分より少しでも下の立場の人の言葉を、小倉は信じられない。父と対面するときの態度の変化を見てもわかる。小倉という男はいっそすがすがしいほど徹底した、権威主義者なのだった。
「……そういうわけでクーリロワ君、残念だが君にはそろそろお引取り願いたいわけだ。なに、手荒な真似なんかせんよ、心配しないでくれたまえ。なにせ君は長官の娘なんだからな。ちょっと静かにしててもらうだけさ。これまでの協力には感謝する。だが後はこちらで充分やれる。ああそれから、さっきの話は聞かなかったことにしよう。父上に余計な心労はかけたくないだろう?」
そして、背後のカチェートに道を開けるように横に一歩動いた。
飛び出すなら今しかない、とクーリロワは思った。飛び出して、小倉から銃を奪うには。
しかし足は床に張り付いて動かない。視線はゆっくりと進み出たカチェートに釘付けになっている。彼の表情からはなにも読み取れない。
「カチェートさん……」
利用したという後ろめたさや引け目が、彼女を氷漬けにしていた。かろうじて凍っていないのは口だけで、それにしたって彼女は、これ以上話すべき言葉を持っていないのだった。カチェートは歩を進め、狭い病室、すぐに彼女の眼前に迫っていた。トレンチコートが間に入ろうとするが、カチェートが無言で掌を突き出すと、怯んだように足を止めた。
突き出した右手は、小指と薬指をのぞいて包帯がぐるぐると巻かれ、手首は包帯の代わりにギプスで固定されていた。ホテルで山葉と戦ったときのものだ。その痛々しさに、クーリロワは目を背ける。しかしカチェートは目を離さなかった。トレンチコートに突き出した手を下ろすと、彼女を見つめたまま、無事な方の手をゆっくりと伸ばす。
クーリロワは反射的に目を閉じる。
小倉がそうするように、腕を掴まれると彼女は思った。それとももっと悪くて、その怪我や、これまでの仕打ちに報いるように、胸倉を引き摺られるかと思った。引き摺りながら、「やめて放して」と情けない悲鳴を上げる彼女の耳元で低く囁くのだ、「つべこべ言わず言うとおりにしろあばずれめ」とか、「お前みたいな気狂いに都合してやったのが悪運の始まりだった」とか。
しかし脳裏をよぎった予想は、全て外れた。
カチェートの小麦色の指は、クーリロワのウェーブした、豊かな金髪に触れた。首筋にかかる柔らかな束をぎこちない手つきで撫で上げ、そのまま彼女の左頬に掌を添える。彼女が瞼を開くと、自分を覗き込む茶色の瞳と目が合った。彼女は驚いた。カチェートが奇妙な顔つきをしていたからだ。少なくとも、将来有望冷静沈着な若い刑事がこれまで見せてきたどの表情とも違った。
泣き笑い。
矛盾した感情を剥き出しにした、よっぽど人間くさい表情。その矛盾が何なのか、今度はクーリロワにも読み取れた。そして、相反する感情のどちらが勝ったのかも、今度は明晰に判断できるのであった。
「な、なんだお前ら、なに雰囲気出して見つめあって……」
小倉が表情から余裕が消える。二人はまるで美男美女のお似合いのカップルのようだった。問題なのは、そういったカップルがしばしば言葉以外の手段で意志を伝え合うように、この二人もそうしているように見えるということだ。
苦労して取り付けた手綱が自分の手を離れようとしている――その事実を感じ取ると、小倉の戸惑いは、電光の一瞬で激しい怒りになった。ちくしょう、いったいこの女はどこまで邪魔をすれば気が済むんだ? たぶらかされるこいつもこいつだ。きっと鞭が足りなかったのだ。自分が間違っていた。やはり能力のある犬ほど厳しくしなければいけなかったのだし、若さというのは、甘くすればするだけつけあがってしまうものなのだ。
口角に浮いた唾液の泡をごしごしと袖で拭うと、小倉は叫んだ。
「カチェートッ、貴様の上司は誰だっ? 貴様がへまをしでかしたときかばってやったのは誰だっ? そして誰が仕事中に発情しろと言った? 俺はその女を連れて行けと言ったんだっ、待合室でもリネン室でもボイラー室でもどこでもいい、ぐずぐずしてるんじゃないっ、見つめあってないで今すぐ――」
きゅんっ。
小倉の喉から、空気袋を持ったぬいぐるみを潰したような声が漏れる。革のベルトにもたれかかった怠惰な腹には、カチェートの拳が深々とめり込んでいた。
「ぐおぉっ……」
「ずっとこうしたかったんだっ」
感情を爆発させ、カチェートが言った。突然の成り行きに、トレンチコートは呆気にとられた表情を浮かべている。しかし、小倉を助けようと声を荒げることはしない。むしろ、我に返り始めたその顔には、若干の感嘆が含まれているようにさえ見えるのだった。
小倉は腹を両手で抱えながらくの字に身体を曲げた、粘っこい唾液が顎を滴った、充血した眼はいっぱいまで剥かれ、真っ赤になった額やこめかみには、太い血管が脂汗と共に浮き出している。それでもよろよろと三人から距離を取ると、攻撃性に満ちた視線を向け、
「ぐっ、き、貴様ら俺は上司に当たるんだぞ、気でも違ったのか、よくも馬鹿な真似を」
「おいっ、落ち着けっ」
トレンチコートが焦った声を出す。小倉が銃を抜いたのだ。まさかそこまでするとは予期していなかったのだろう。しかしクーリロワは怯まなかった。心に引かれた真っ直ぐな糸は、少しも弛まなかった。宥めるように両手を広げたトレンチコート、彼女を守るように前に出たカチェート、二人の肩に手を置いて、その場に留まらせると、小倉を見やった。
「な……なんだその目はっ、私をコケにするのもいい加減に――」
そこで下手な懐柔を試みたら、なにもかも間違った方向に向かったことだろう。しかし、彼女は愚かな行動を取らなかった。彼女は掌の中のバレッタをぎゅっと握った、母狐の柔らかい尻尾を感じた。
カチェートは信じてくれた、トレンチコートもそうだ。本心からの言葉を信じてくれる人がいたのだ。そのことが、涙が出るほど嬉しかった。
だけど、涙を流そうとはもう思えない。充分に泣いた気がするのだ。それに脳裏には、アリサの言葉が蘇っていた。なにが人の心を動かすのだと彼女は言っただろう……。
よく覚えている。
クーリロワはゆっくりと首を回し、カチェートとトレンチコートを順に、そして最後に小倉を見つめ、微笑んだ。
「――ありがとう」
男たちは動きを止めた。
馬鹿みたいに揃って息を呑み、クーリロワを見つめ返した。
彼女はそれに、精一杯の笑みをもって応える。もしかしたら、久しぶりの表情に顔は強張っていたのかもしれない。自分みたいな冷血女が冷笑以外の笑みを浮かべるのなんて、気味悪いのかもしれない。それでも思いに反して、彼女の笑顔は時間を切り取った。そしてそのような奇跡を起こす魔法に食って掛かる者など、いるはずがなかった。
小倉さえ。
「くそっ……」
そう呟くと、銃を構える腕から力が抜け、小倉は壁に背を預けた。苦虫を噛み潰したような表情で一度、どん、と壁を叩く。
それだけだった。それきり小倉は、彼らの道に立つことをやめた。
クーリロワは小倉から目を離すと反対側、ベッドに横たわる少年を眺めた。いつからか、“彼女”は目を覚ましていた。ちょうど顔の部分に夕陽の残照が当たっていて、本来の色がわからなくなるくらい、黒目の部分が赤く反射していた。彼女は暴れない。輝く瞳で、じっとクーリロワを見つめている。少しの間、クーリロワは瞳の中に真意を読み取ろうとするかのように見つめ返していた。やがて、穏やかな表情のまま頷いた、そしてベッドに歩み寄った。拘束バンドの金具に触れながら、肩越しに振り返る。
「これから、少年の拘束を解きます。“彼女”はツォエを探します。ツォエは必ず山葉と一緒にいる。そして山葉は入間先生を殺した犯人と――クロフスといる。遠くはないわ。きっと、近くにいるはずです」
「しかし彼……いや、彼女はもしかすると危険では」
カチェートの言葉に、トレンチコートも同意を見せる。
クーリロワは首を振った。確信があった。
「邪魔をしない限り、彼女は敵じゃない。いえ、最初から敵でもなんでもなかった」
そう言いながらバンドを解いていく。今ならよくわかる。簡単なことだったのだ。
「彼女は娘に逢いたかっただけ。ずっと、それだけだったの」




