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「……ぐっ……あ、うぅ……」
山葉は膝を着いた。耳を伝い、額を伝い、熱い鮮血がぼたぼたと滴り、雪に穴を穿つ。立ち上がりかけ、だが脚は伸びきったゴムのようだ。ふくらはぎと大腿部の筋肉がだらしなく弛緩し、彼は無様に地を這った。クロフスはぶらりとナイフを下げ、まるで珍種の生き物を眺めるような目で山葉を見下ろしている。
「お前を気に入っているというのは」静かな声だった。山葉は両膝を付いたまま、のろのろと顔を上げた。「嘘じゃなかったんだがな」
「……うぁ…………」
口を開きかけ、彼は咳き込んだ。血が混じっていた。「終わりにしろ」とウォルフレンの低い声が響く。その言葉は山葉の頭の中でこだまして、回転して、やがてゆっくりと速度を緩めていくと、曖昧な像を結んだ。ぐるぐる巻きの糸で引き絞ったように不恰好なそれは、強烈な感情であった。彼は歯茎がぐらつくほど顎を噛み締めた。終わりにしろ、だと? 何だそれは。ふざけるな。使い古した気取った言いまわしが、穴開きの、使用済みのコンドームに対するような口調が許せなかった。ナイフとは逆の手を振り上げ、拳をコンクリートに叩きつけた。
「俺は、まだ」
声が出た。
「……まだ、負けてない」
そうだ、と思う。負けてない。負けてなるものか。ここで倒れるのなら、どうして今まで戦い続けたのか。言葉は青いプラズマを放って、激情を加速させた。怠惰に眠りかけた筋肉を呼び覚まし、散り散りになった気力を繋ぎ留めた。
「ふん、負けてないだと……?」
ウォルフレンがヘリを離れ、嘲弄を滲ませて言う。
「自分の有様を見ろ。今のお前は敗北した戦士だ。とても惨めな末路だ、俺にはお似合いとしか――」
「うるさいんだよっ」
死に際の狂気を感じさせる形相で、山葉は怒鳴った。唇がめくれあがり、端から血の泡が垂れた。
「戦士だの、淘汰だの、大の大人がごたごたとっ。俺はまだ戦える、なにも終わっちゃいない。俺は、俺はまだ……」
黙っていたクロフスの口から、咳き込むような音が漏れたのはそんなときだ。ウォルフレンと山葉の視線が、同時に向けられる。再度、喉でつっかかるような音。激しさを増す。山葉は気付いた。
それは哄笑だった。クロフスは腰に手を当て、笑っていた。
「ふっ、くはは……はははっ! あははははははははははっ」
「な、なにを笑って……」
「爆破装置が」笑いの余韻を、肩を揺すって払いながらクロフスは言う。「この病院の基礎支柱と地下地盤には爆弾が仕掛けられている」
山葉の動きが止まった。
「爆薬は、老朽化したシェルターの解体にも使われる超高温リニアカッターチャージだ。RE値は二、二四、爆速は一〇九六〇メートル毎秒、最大一四〇〇〇ケルビンの熱を出す。発火と同時に爆圧と熱風でグランドフロア及び地下階層の一割が蒸発、三割が液状化する。それで五〇〇人。次に発火十秒後、ちょうど南南東の方角――高架モノレール中央駅に向けて病院が倒壊を始める。それで一二〇〇人。屋上を含めた超高層階が地上を直撃した際に、高エネルギーの衝撃波が発生する。それで二五〇〇人……。合計で四〇〇〇人強が死亡する計算だ。そして国内最大の医療機関を狙った卑劣なテロの実行犯は――」
クロフスはナイフの先端で前を指した。
「お前だよ、山葉」
山葉の喉から、ぐぅっと奇妙な呻きが漏れる。赤い唾液が糸を引く。
「胸に手を当てて考えてみろ。お前は警察庁長官の愛娘と、空爆の生き残りの少女を誘拐した逃亡犯だ。真相究明委員会が統一革命戦線の工作員として、長らくマークしていた男でもある。テロを起こしたって不思議じゃない。だから鼻息荒くいきまいたところで結果は決まってるのさ。負けてないと思うならそれでもいい。だが俺に勝てなかった時点でお前の未来は閉じたんだ」
山葉の手から、ナイフが抜け落ちた。しゅうしゅうと音がして、掻き集めた気力が穴の開いたタイヤのように霧消するのを感じた。
「これが……こ……こんなものが、戦士のやり方なのか……?」
「戦士など、本当はもうどこにもいないさ」
打って変わった口調で、クロフスは言った。
「武器を取るのは臆病だからだ。戦争が本来の意味を離れ、キャラメルポップコーンや貝殻の首飾りのように生産されるものになってから、皆それを忘れてしまった。今、世界中で起きていることの本質は、そういうものだ。いもしない敵を打ち倒すため、いなければ創り上げ、延々と続くロールプレイングだ。だが敵がいなければ戦士もいない……ただそれだけのことに、誰も気が付かない。ならば腐って落ちるしかない。古い人類社会は、斜陽の時代に入った」
「……古い、人類社会?」
鸚鵡返しに呟き、ふと右手を見ると、ウォルフレンがこちらを見つめていることに気付いた。目が合うと大男は片頬を吊り上げた。わからないのか? 巨人は無言で語る。簡単な方程式だぞ、こんなのは……。
やがて山葉の目に理解の色が浮かぶ。そんな馬鹿な、と思う。本気なのか。まるで子供の絵空事を、本気で実現するつもりで……。
「古い社会から落ちた果実は、あるいは熟れ過ぎて実を結ばないかもしれない。それでもこれは、人類種の落陽を迎え、ようやく手にした最後のチャンスだ。失敗するわけにはいかない。この地上侵攻は、絶対に開始されなくてはならない」
いつの間にか笑みは消えていた。クロフスの表情はこれまでになく真剣だった。山葉にはわかった。クーリロワを嘲ったクロフスだが、彼にも信念があったのだ。
「時間だ、もういいだろう」そう言って凝りかけた時間を溶かしたのは、ウォルフレンだった。「とどめをさせ」
クロフスは頬についた雪の水滴を指先で拭い、ゆっくりと距離を詰めた。臙脂色のネクタイが風に跳ねた。瞼のない真紅の眼球が山葉を見つめた。水晶の刃が彼の首筋へ、ぴたりと狙いを定めた。
「言い残すことはあるか」
山葉はごくりと喉を鳴らした。
「た……助けてくれ……」
ウォルフレンが失笑する一方で、クロフスは表情を一変させた。
貴様っ、と手を伸ばして山葉の髪を鷲掴みにすると、その血塗れの顔面に顔を近付けた。鼻が触れるほどの距離でねめつけ、
「なんだそれはっ? この期に及んで命乞いだと? いいか山葉、お前がやってるのは、一度は見初めた俺をコケにするのと――」
「ツォエだけは、助けてくれ」
「……なに?」
髪を握る手が緩んだ。
「た、頼む……あの子はまだ、子供なんだ」
クロフスの気勢が弱まる。顔には、怒りや驚愕のない交ぜになった感情があらわに、次いで一瞬後には、人間らしい色彩が消えた。なにやら心胆寒からしめる、ぽっかり開いた穴を思わせる沈黙があった。再びクロフスが口を開いたとき、その声は耳殻を凍りつかせるほど冷たかった。
「まったく、素晴らしい奴だよ」
ため息のような音量にも関わらず、途端に、ウォルフレンが慌てた様子を見せ始める。
「待て、落ち着け。まさか、俺にガキを”やらせて”くれるっていう約束を忘れたわけじゃ――」
「黙れウォルフ」振り返り、クロフスは言った。「黙ってろ」
「う……」
体格では遥かに圧倒するはずの大男が、鼻を輪ゴムで弾かれた猫のように怯む。クロフスは底冷えする視線を外すと、山葉の脇を通り過ぎた。暗い空想にふける少女の前で止まった。見下ろしながら、右手に握っていたナイフを、袖下に仕込んだ打ち出し式のシースに戻す。替わりに握ったのは、ガンホルスターに収めたPBAだった。
「お、お願いだ」
みっともない口調になっている――それが自分でもわかっていながら、山葉は哀願することをやめられない。
「その子には手を出さないでくれ」
だが、クロフスの行動は山葉の理解を超えていた。銃身上部に被せるように接続されたアタッチメント、そこに埋め込まれたダイヤルを回し、プラズマ加速の入力を切った。そしてトリガーに指を引っ掛けて一八〇度回転させると、
「取れ」
ツォエに差し出した。
彼女はわずかに首を動かしたが、それきりだった。クロフスは首を傾げると、もう一度促す。
「お母さんに会いたくないのか?」
母という単語に、初めて反応らしい反応が生まれた。ツォエはのろのろと顔を上げた。虚ろな眼差しが銃に向けられる。クロフスは微笑んだ。
「そうだ。俺ならすぐにでも、お前とお母さんを一緒にしてやれる。たったひとつ、俺の頼みを聞いてくれればいい。心配するな、ちっとも難しくないさ」
作り物の笑顔だとしても、クロフスの誘惑には聞く人を虜にする、ある種の魔力が込められていた。取り返しのつかない代償を求めながら、願いを叶えるための道を示すのだ。
「あの男を撃て」とクロフスは言った。
山葉は言葉を失った。馬鹿げてると思った。取り引きになっていない。ツォエがそんなことするはずないのだ。
だが、そんな自惚れた印象も、彼女のがらんどうの眼窩に吹き荒ぶ風が、すっかりかき消すようであった。クロフスは見通していた。ツォエは渇ききった口の中でなにか呟きながら、泳ぎ疲れてまどろんだ古魚の、緩慢な動作で手を伸ばす。《変な生き物》が薄く積もり始めた雪の上で跳ねると同時、彼女の両手はたどたどしく銃を握っていた。クロフスとツォエの間で、これまでなかった鎖が引き合い、しかもそれは心の一番柔らかい土壌に根を下ろそうとしていた。
「いい子だ」
ゆっくりと、銃口は山葉を向いた。
そこで、ようやく思い知るのだった。
ツォエは、ショックによるアパシー(無感動状態)に陥っていた。
振り返れば、幼稚な精神が均衡を失うには充分な出来事があった。空から落とし込まれた不幸は間断なく彼女を打ち据えたし、そこに望まぬ形とはいえ、最後に痛烈な一撃を与えたのは山葉自身だった。白々しい離別の直後には入間のむごたらしい死体が迎え、そんな最中にも離脱症状は刻一刻と重みを増す。そうやって現実と願望に翻弄され続けると、なにやら怪しげな甘言を添えた希望さえ、濁った瞳には莞爾とした導きに見えるのだ。望む方向にコントロールするのは、人心操作に長けた男にとって、赤子の手を捻るように容易いことだったはずだ。
引き金に指が触れたとき、おそらく自分がなにをしているのか、彼女自身、明確な意識を持っていなかった。
ツォエはトリガーを引いた。
銃声が響き、空薬莢が転がった。
山葉の脇腹に、弾丸がめり込んでいた。
ぽんこつの機械のように、ばちっと音がして、視界にノイズが走る。全身の力が抜ける。地面と激突し、額が切れた。恐ろしい勢いで傷口から出血が始まった。不思議に思い、ああ、と納得した。着ているのは強化服ではないのだ。クーリロワが買ってくれた服。有名なブランド品。ジャケット、セーター、保温シャツ。優しく、柔らかい生地――選択止血帯の張られる衝撃に耐える必要もない。
崩れ落ちた山葉を見て、ウォルフレンがぴゅうっと口笛を吹く。クロフスは「よくやった」と言いながら、仲の良い家族の気安さで、ツォエの肩に腕を回した。
触られた箇所に電撃が走ったかのように、彼女は身体を竦ませた。発砲の生々しい感触と砲声には、催眠を解く効果があった。
「あ……あ、え……?」
「まだだ」
低い声で、クロフスは囁いた。冷え切った少女の頬を、爪を短く切りそろえた、蜥蜴の腹のように白い指先が掴んだ。
「あいつはまだ生きてるぞ」
己がなにをしたのか徐々に理解が走る。顔が蒼白になり、擦りむいた膝が震え出す。
「わ、私、なにを……あっ、あぁ……」
銃を持った手は、山葉に向けられたまま凍りついていた。まるで、身じろぎひとつが弾丸を飛ばすと信じているようだった。
血を抱いた空が、じっと結末を待った。
黄色の綿毛を乗せた風が、コートの裾から覗くワンピースのフリルをはためかせた。
ぐずぐずする少女に、クロフスは背後で苛立った声を上げた。早く撃て、早く殺せ、大好きなお母さんを見捨てるつもりか……。そうして不道徳な儀式を仕上げようと、ツォエの心臓に爪を立てる。崖っぷちに追いやられるほど彼女は怯えて、取り乱した。恐怖に神経を寸断されて、四肢は凝り固まった。動かない。動けない。それがますますクロフスを激昂させるのだった。なるほど、そういうことなんだな。この人でなしめ。母親なんて、本当はどうでもよかったんだな……。
ツォエは泣き出した。
かわいそうだと山葉は思った。偏見を取り払ってみれば、そこにいるのは泣き虫の、優しい少女だった。願いは単純でいつもひとつだったのに、その願いはクロフスの魔術によって、白く輝く粉に変えられたのだ。馬の鼻先に吊られたニンジンの如く、彼女の眼前で恩着せがましく、みだりがわしく、見せつけがましく風に舞い、甘言を唆す。お嬢ちゃんは好きだったろう、と粉は言う。我慢しちゃあいけない、我慢は“身体に良くない”からな。ほら、唇の上に可愛らしい白髭ができるくらい、鼻一杯吸い込めばいい。そうしたらまた前みたいにいい気持ちになれる。心配事は塵ひとつ残さず吹き飛ばされて、往く世は夢中歩行の足取りを追うが如し……。
ツォエは泣く。
しかし、と焦点レンズの明晰さを欠いた思考のもう一端で、山葉は思うのだ。どうして彼女はこんなに悲しそうなのだろう? これは彼女にとって躊躇う選択なのだろうか? 撃てばいい。俺は君を裏切った、君を置いて行こうとしたんだ。それに、ほら、目を凝らしてみろ。君の目の前にいるのは《死の虫》にまとわりつかれた男ひとり、君が泣いたところでおそらく結末は変わらない。だったら君は、別れ際の失望のなすまま、引き金をもう一度、ぎゅっと引けばいい。
ツォエは泣く。
なぁ、泣くなよ。わからないのか? この世はどう考えたって、聖女とか聖母とか聖人とか、そんな種類の人間が生き延びられる場所じゃなくなってしまった。腕力も財力もないのなら、自分の心に強さがなければならない。そうだろう? そうなんだ。絶対、そうなんだ。それなのに君はその甘えた弱さを捨てきれず、ほんのちょっと人差し指に力を込めるという、それだけのことに引け目を感じてしまって――
(幸せになれるのか?)
唐突に意識の底から浮かんだ平坦な声は、山葉をぎくりとさせる。なんだって? 幸せに、だって? 今はそんなことを言っている場合じゃないだろう、生存至上主義だと言われても知ったことか。今優先されるのは、何にも増して君の、
彼女は泣く。
……ああ、ああ、わかってる、覚えてるよ。確かに俺は考えた。ツォエには普通の人生を送って欲しいって。だけど……そうだ、何てことだ。君はこれまで一度も“普通”を持たなかった。そして同じように君は、近代的教育法がいかに重要かと説く自尊心を持ってない。ということは、およそひとりの人間が自己という、巨大なくせ不安定な塔を建てるための基礎工事が、煉瓦ひとつ、脚組みひとつ為されていない。自己を組み上げられなかった人生なんて機械と同じだ。ガソリンとも灯油ともつかない、何かつんとした臭いのする唐草色の液体をごくごくと飲み、ぎちぎちに錆びくれた関節に義務という名の機械油を差し、ただ、初期インプットされた自己保存というプライマルタスクに沿って剣を振る。それにしたっていずれ冷静になるときが来るのだろうが、結局は自分の尻尾を追いかけているだけで、同じ疑問に立ち戻ることになる。
生き延びて、生き延びて、だけどそもそも、何のために……?
戦って、敵を打ち倒して、だけどそもそも、何のために……?
生きるのに理由はいらない? それ自体が何ものにも変えがたい贈り物? ……もしそうだとしたら馬鹿げてる。子供にさえ容赦のない、苦難に満ちた“これ”が贈り物というのなら、そんなの堆肥と混ぜて庭に埋めてしまうべきなのだ。スプリングの飛び出たベッドだってこれよりはましだ。もしも埋めた場所が気になるなら、盛り土して鉄パイプを突き立てて、ちりめん紙でも振りかければいい。
彼女は泣く。
涙は心のひだに落ち、広く波打ち反響する。するとなぜだか急に、姉のことが思い出された。俺を嫌った姉。憎むようになった姉。大好きだった彼女は人が変わったようになり、祖父と一緒になって暴力を振るうようになった。それでも愛していた。愛情の源泉は干からびず、昔の優しい記憶はどんなことがあっても色褪せなかった。俺はいつだって姉さんのことが大好きで、
(嘘だ)
嘘。嘘。嘘。真っ赤な嘘。
俺は知っている、俺は自分の記憶を塗り替えた。クリーム色のよく伸びる、丸くて温かいもので作り変え、自分自身を欺いた。その裏に潜んだ感情は本当のものとは違う。なぜなら俺は、
(憎んでいた)
俺は姉を憎んでいた。祖父に左足首の腱を切られ、“仕事”以外ほとんど何もできなくなってしまった姉さんを、心から憎悪するようになった。彼女は象徴でもあった奔放さを失って、見境無く吠え掛かる老犬みたいに怨念をぶちまける、魔女になってしまった。血の代わりに濃い恨みが体内を流れ、それを濾すのは怒りの肝臓。いじけた拍子でびっこを引いて、あばら家を這いずり回り、まるでみの虫みたいに惨めったらしくて、そのくせ、内に秘めた不満は残さず俺に向けた。祖父と一緒になって酷烈さに慰めを見出し、罵って、吃音を責めて、手を上げて、もうこんなことしたくないって、あんたのせいだって、あんたなんかいなくなれって――
彼女は泣く。
ああ、でも、そうだった、泣いていた。俺を罵った後、叩いた後、必ず姉さんは泣いていた。俺はそんな風に矛盾した感情を爆発させる彼女を憎み、何もできない自分を恨んだ。さながら俺たちは、尻尾で固結びにされた二匹の蛇だった。逃げ場を失い、絡まり合い、互いを絞め殺そうとした。あのまま俺たちはどこともつかぬ終末へ落ちて行くようだった。やがて結び目の始まりがわからないくらい二匹の尾がこんがらかってしまったとき、落ちきった果ては墨色の霧で満たされた古井戸の底。四方を苔むした花崗岩で閉ざされ、膝頭まで冷たく浸す水、上からは制帽を被った恐ろしい顔つきの男たちが、回転する赤い光を背後に、にたにたと凶悪な笑みを浮かべて覗きこんでいる。姉さんは怯え切って我を失い、狂乱して、俺に救いを求め、みっともなく泣き喚き、そのくせ、本当にどうにもならないのだと悟ると、その瞬間、とうとう落ち着きを取り戻した。そして、まるで昔のように俺に語りかけた。静かな愛情溢れた、俺がこよなく愛した、とっておきの微笑みで。それは胸の中の弦を激しくかき鳴らした。戸惑った、卑怯だとさえ思った。どうせなら最後まで憎ませて欲しかった。なのに、あの微笑が全てを赦したのだ。
記憶のテープを何度も何度も巻き戻し、擦り切れるくらい読み込んで、微笑みの意味を探ろうとした。――果たして後悔? 懺悔? 悔恨? 神学が言うところの《不完全な贖罪》……? けれど当時は全てがまばたきの一瞬で、考える余裕はなかった。絡んだ蛇の姉弟が、毒の霧や冷たい井戸水に体温を奪われ、共にまどろみ始めたとき、取りうる選択肢は残酷さを増し、幅を狭めていた。そしてそこには薄闇に輝く銀色、一本のナイフがあった。
ならば、救いが示す道は現実に、ひとつしかなかったことになる。
ああ、と小さなため息が漏れる。
あの微笑の意味が、言葉の意味が、初めて理解できた気がした。
(――姉さんは気付いたんだ)
まるで天啓のよう、唐突に閃いていた。
最後の最後、彼女は悟ったのだ。絡み合った蛇――一方を切り離さない限り、両者を待っているのは破滅の運命なのだった。尾のかわりに自分の命を断ち切ることで、彼女は俺を自由にしようとした。そして自由になった年若い一匹が生きていけるように言葉を与え、そうすることで、残った尾も解きほぐそうとした。最後の言葉。よく磨き抜かれた石英のように小さく光り、手元を照らし、だから確かにそれは、
『……山葉さんは宝物、ある?』
憎しみを覆した大事な言葉。募り募った憎悪は、それと同じくらいの愛情に変わった。闘争の仕方を学んでも、無味乾燥に果てなく続く道を辿るとき、何のために戦うのかという問いの根底には、あの優しげな幻想を揺り戻す、耳打ちするような囁きがあった。汚染地帯に咲いた一輪の花が散華を迎えたとき、花弁を彩るのは以前と同じ、深く大地に根ざした無償の愛で、そこに至った全ての日々が、唐突に、黄金にも換えられぬ宝物になった。
ツォエは泣いていて、そうして今、山葉は、この奇妙な相似が自分の想像する以上にさまざまな意味を重ね合わせたものなのだと、ようやく納得できるのだった。ここにも愛憎が分かちがたく絡み合っていて、解きほぐすためには姉がそうしたように、最後の言葉が必要だった。自分が倒れていいのは、それを伝えてからだった。
彼は呼びかけようとした。声は出ない。血のりが喉にべったり張り付いて、声帯が食道か気道あたりと接着されたようだった。ツォエ、ともう一度。喉は開いたが、今度は弱々しい咳が空気を震わせた。死にかけた身体があった。大きく息を吸い、全身の力を掻き集める。割れた唇を開き、腫れあがった舌を回し、もう一度、
「――ツォエ」
声は届いた。ツォエが泣き濡れた視線を向けた。目が合うと、彼女の表情からわずかに、恐れの色が薄れたようだった。
「う、撃っても、いい……」と彼は言った。「もし君が、ほ……本当にそうしたいのなら……ク、クロフスを信じるなら……俺を撃ったって、い、いいんだ……」
死に損ないの男が口を利くことが気に入らないのだろう。クロフスの顔が引き攣る。
「だ、だけど、その前に、ひ……ひとつだけ、わかって欲しい……」
「さっさとやるんだツォエ。そいつを黙らせろ、聞き苦しいんだよ」
「お……俺が君の傍にいる理由について、き、聞いたよな……?」
涙は止まっていた。ツォエは間を置いて、おそるおそる頷いた。
「……はじめは確かに、ざ、罪悪感だったかもしれない……君の存在は、あ、足枷だった……一緒にいて、そ、そのうちそれは、同情に変わった……だ、だけど、」
山葉は顎を伝う血の泡を掌で拭った。肩を上下させて、ぜいぜいと荒い呼吸をした。いくら深く吸っても、息が苦しかった。視界の隅が暗くなり始めていた。
「だけど、わかるだろう……同情なんて、み、惨めな感情で命を捨てられる人間なんて、い、いないんだ……」
「おい早くしろ、聞いてるのかっ」
「こ、これは同情じゃない……今は、違うんだ……な、なぜならツォエ、俺は……」
ツォエは睫毛に雫を散りばめた灰色の瞳で、山葉を見つめていた。続きが、最後に残した一言があるとわかっていて、待っていた。背後の恫喝には耳も貸さない。鼻をすすり、瞼は腫れ、頬には泥と髪がべったり張り付いている……そんなみずぼらしい外見なのに、彼女が山葉に対して見せる生来の誠実さには、すっかり見とれてしまうような美しさがあった。急に気持ちが膨れ上がって、胸がいっぱいになった。
「君が好きだ」
息を吐き、目を閉じた。
束の間、風が止んだらしく、空にはためいていた黄染めの帯が、ゆっくりと結晶を撒き散らした。
ふいに穏やかな気分だった。クロフスが約束を守るかわからない。だが立ち上がる力すら失った男にできるのは、やはり、膝を着いて祈ることくらいしか残されていない。ある信仰に身を捧げる人々に共通した、自分勝手で、押し付けがましい挺身に浸りきれたとき、ツォエの手によって死ぬことに、躊躇いはなかった。両腕をわずかに開きさえして、この憂慮に満ちた人生を終わらせる、なめらかな円錐の金属を待った。
しかし長い沈黙の果てに彼女が選んだ行動は、山葉の予想を裏切った。
「……何のつもりだ?」
クロフスが頬を引き攣らせた。
ルビーの双球は、自分に向けられた銃口を見ていた。震える息を吐きながら、少女はクロフスを睨みつけていた。子狐は弱々しくも、牙を剥いたのだった。
山葉は見ているものが信じられず、首を振る。口を開くが、声がうまく出てこない。
「陳腐な結末だが」
代わりに喋ったのは、ウォルフレンだった。静観を止め、腕組みを解いた。右手首のバンド状端末をちらりと見つめた後、荒い縄を撚り合せたような、骨太の指で操作する。と、ヘリのローターの回転速度が上がった。フラップがぱかぱかと顎を上下させる。三つのマルチローターが起こす突風が、夕陽に染まった血染めの粉雪を舞い上げた。
「さあ、充分だろう、クロフス。封鎖もこれ以上は限界だ。ここのセキュリティ担当は間抜けだが、どうやら馬鹿ではないらしい。免疫システムに便乗させていたバグ(虫)が探知され始めている。すぐにでも状況を開始しなければ――」
ぱぁん、と銃声が鳴った。
ウォルフレンをかすめた弾丸は、北側のフェンスに火花を散らした。
「こっ……」
巨人は身動きを止め、驚愕に目を剥いた。
「このガキ、撃ちやがった」
対照的に、クロフスの反応は薄かった。手のひらで顎を撫でさすると、抑揚のない、奇妙なほど平坦な声で言った。
「……俺を殺すつもりなのか?」
ぞっとするような言葉の切れ味に、目に見えてツォエは怯んだ。そしてそれは山葉も同じだった。恐ろしい予感に駆られて、腹を押さえながら、立ち上がろうとする。
「だ、駄目だツォエ、そ……そ、そいつは」
いつ暴発するかもわからない銃眼と数メートルの距離で見つめ合いながらも、クロフスはまったくの無表情で、かわそうという素振りさえ見せない。それどころか、「やってみろ」と挑発する。
「うぅ……」
「どうした、撃て」
手を振り、大声で威圧する。
「俺をっ、撃ってみろっ」
撃つというよりは撃たされたと言った方が正確かもしれない。それでも彼女は目をつぶらなかったし、銃身は両手で握っていた。トリガーが引かれた。
マズルフラッシュ。
連続する発砲音のスタッカート。
しかしどの弾丸も命中しなかった。当たるどころか、かすりもしなかった。信じられない、といった表情で彼女は空になった銃を撃ち続けた。かちかち、と激鉄が熱の残る空間を叩く。
「ど、どうして……ちゃんと狙ったのに……」
「フリンチングだ」
クロフスは淡々と説明しながら、少女との距離を詰めていく。
「発射の直前に銃口を下に向けている。リコイル(反動)の印象が強すぎたんだろう。あまり気に病むな。初心者にはよくあるんだ」
「や、やめろっ」山葉が叫ぶ。「逃げるんだツォエッ、は、早く逃げ――」
音はなかった。
ツォエの胸に、深々とナイフが刺さっていた。
彼女の反応は鈍かった。ゆっくりと胸を見下ろす。
「……ぁ…………」
驚いたように目を開き、肺に達した刃が抜かれ、桜色の唇から血がこぼれ、倒れる寸前、山葉に目を向けた。視線が交差して、道端で向かい過ぎる他人のように、ふっと外れる。どさ、と背中から雪の寝床に倒れ、から、と撃ち尽くした銃が転がった。
「ふん」
クロフスはすでに興味を失っていた。血振りすると、残った血を曲げた腕の間に挟んで拭った。踵を返し、ヘリに向かった。ポケットから軍事使用の多機能端末を取り出す。高耐久性を目的としていて、操作はタッチパネルを廃し、四インチの画面下、物理キーだけという無骨な構成だった。
「――爆破する。行くぞ、ウォルフレン。オートパイロットの入力をしろ」
「おい、ガキは最後に俺にやらせてくれるはずじゃ……」
振り返った機械の眼の冷たさに、ウォルフレンはたじろぐ。
やがて納得のいかない表情のまま、しぶしぶと軍服の袖をめくり、端末を操作する。だがクロフスがさっさとヘリに乗り込むと、その動きは鈍った。手を止め、仰向けで血を流す少女に視線を向けた。そのなぶるような目つきはひどく好色で、多分な名残惜しさを含んでいた。
ウォルフレンは濃い髭に覆われた赤い唇を手の甲で擦りながら、なにか熱っぽく思案していた。
その一方、山葉は膝立ちで、腹の銃創を押さえたまま動けない。自分がツォエの名を叫んでいる気がするが、それが頭の中のこだまなのか、現実の声なのかわからなかった。怒りと悲しみ――単純でいて、あまりにも強い感情の渦に、自分自身がすっかり呑み込まれたようだった。渦の中で聞こえるのは、死に掛けた男の悲鳴だった。
俺のせいだ。
負けた。
終わったのだ。
なにもかも、無駄だった。
痛みも現実感も失い、意識が暗くなっていく。
陽は翳り始めていた。




