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「――まさか二四時間でひっくり返るとわねぇ」
木目調の平たい手すりに頬杖を付き、未だ興奮冷めやらぬ階下のロビーを見下ろしながら、しみじみとアリサは言う。服装はベージュのカーゴパンツにダークブロンズのレザージャケット。両手には買ったばかりのコーヒーのカップがある。
「“あちらさん”も、三ヶ月も前に吹っかけた喧嘩が今頃火種になるとは、流石に予想できなかったんでしょうね。まぁ、自国民の私たちにも予想外だったんだから、当然といえば当然かなぁ」
クーリロワは差し出されたコーヒーカップを受け取るも、すぐには口にせず、保温蓋の隙間から立ち上る湯気を見つめていた。湯気は香りを運び、香りは昨夜の記憶を運んだ。それから、この飲み物と同じくらい黒くて苦い後悔も。
そんな様子に気付かぬように、アリサは砂糖をどばどば入れた醜悪なコーヒーを、プラスチックのスティックでかき混ぜながら、目を細め嬉しそうに啜っている。クリームもたっぷり入ったそれは明るいミルクチョコレート色で、彼女の肌や瞳と同じ色だ。
病院二階の中央は、ロビーの様子を見渡せるように丸く切り抜かれた吹き抜けになっていて、落下防止用の手すりがぐるりと囲っている。二人が立っているのはそこだった。アリサがクーリロワに声をかけ、売店のコーヒーに誘ったのだ。
あけっぴろげな彼女の性格同様、その目的も今や明確だった。アリサは入間に会いに来ていた。そして彼女はツォエを担当したセラピストだった。では入間と会って何を話したかったのか? 決まってる、ツォエのことだ。クーリロワに声をかけたのも、彼女について聞くためだ。
山葉が信用する入間が信用するアリサなら、クーリロワも信用していいのだろうか?
だけど、と思う。いったい何を話せばいいのか。彼女はどこまで知りたがっているのか。そしてツォエは大丈夫かと聞かれたとして、まず何と答えればいいのかわからなかった。少女は薬物中毒だった? 中毒に起因する統合失調症初期の譫妄状態にあった? 聖女では、なかった……?
考えがまとまらない。そもそも、アリサにはひとつだけ怪しいところがあった。
「ねぇ、あれ」
アリサは視線を上げ、唐突に天井の一角を指差した。つられてクーリロワも首を伸ばす。指した方向には黄色の風船があった。照明器具と黒塗りの鉄骨の間の窪みに引っかかっている。しぼみかけた横っ腹にはでかでかと、《ようこそ》という文字が白でプリントされている。アリサは鼻筋を掻き掻きくすりと笑って、
「病院で《ようこそ》ってなかなかのセンスだと思わない?」
数秒の間の後、クーリロワはため息をついた。
どこを見回しても、くそ真面目に気を張っているのが自分だけのような気がして、どっと疲れを感じたのだ。アリサが話したいことはわかっている。なのに核心に触れようとしないのは、まるで死刑執行を直前に、縄が切れただの薬液を間違ってしまっただのヒューズが飛んだだのと言って延期しているような、身の置き所がない気持ち悪さがあった。
そんなときだった。アリサはロビーを見下ろしながら、ごく何気ない口調で言った。
「もし嫌だったら、断わってくれてもいいの」
意表を突かれ、クーリロワは怯んだ。そんな彼女に向き直ると、アリサは微笑んだ。周囲のざわめきが、急に静かになったように感じた。
「無神経なことをしてるって、わかってるから。事件の直後なのに、話を聞こうとして……」
アリサは手すりから離れると、飲み干したコーヒーのカップをくしゃりと潰した。そして運動神経のいい人間特有の、しなやかな手首の返しでくず入れに放った。
「でも、私のことも信頼して欲しい。初対面だし、いい加減な女に見えるかもしれないけれど」
行き交う人々、語り合う人々、肩を叩きあう人々……。
クーリロワは落としていた視線を上げた。目にかかった金髪を払うと、ほとんど口をつけてないカップを手すりに乗せ、
「……どうしてツォエのこと、知りたいと思うんですか?」
「あら、そんなに変かな。言ったじゃない? あたし、彼女のセラピストだったから――」
「私はあなたの仕事について詳しくありません。毎日、何人の新しい患者に会うのかも。だけど三ヶ月も前に担当した少女のために、普通訪ねてきたりしますか? どうしてツォエだけ数いる元患者のひとりとは違うんですか? 仮に“偶然テレビで観て気になって”訪ねて来たのだとしても、被害者だという私に話を聞こうとするなんて、仕事の範疇を超えていませんか?」
「……そうね」
小さな呻り声を上げながら、アリサはおもむろに後頭部のバレッタを外した。頭を振ると長い髪が肩の上で踊り、さらさらと軽やかな音を鳴らす。
「確かに仕事というより、個人的関心が強いのかもしれない」
それが投げやりのように聞こえて、クーリロワは顔をしかめる。
「どういう意味ですか、まさか興味本位ってわけじゃ」
「後悔してることがあるの」
「後悔……?」
アリサは両肘を手すりに乗せ、バレッタを指先でくるくると弄ぶ。
「いえ、むしろ罪悪感かな」
立派な尻尾を持つ動物が彫られた銀細工のバレッタは、鏡のように光を反射する。掌の中に天井があった。鉄骨、照明、ダクト、配管、浮かぶ風船、風船に浮かぶ《ようこそ》……。
「あの子のこと、クーリロワはどれくらい知ってる?」
「汚染地域出身の難民だということと、空爆の生存者だということは」
「そっか」とアリサは言う。「じゃあ隠すことない、か」
話が始まる。
私が初めて彼女を見たときの印象、今でも覚えているわ。『ああ、生き残っちゃったんだ』……って。ひどいでしょう? でもそうだったの。彼女が幸せに笑う未来が私には見えなかった。神様のサイコロによって“奇跡の生存者”に選ばれたことが、私には祝福に思えなかった。だったら他でもない私が祝福を授けるべきなんでしょうね。生を尊ぶだけの価値がこの世にはあるんだって、笑って草や土の上を転げ回る楽しみがこの世にはあるんだって教えることが。でも、できなかったな……。
クーリロワはHSPって聞いたことあるかしら? Highly Sensitive Person の略で、昔の心理学者が考えた言葉なの。名前の通り、遺伝的に繊細すぎる心を持つ人たちのことを指すんだけど、性格的なものというより、脳神経系の違いからこうなるとも言われているわ。診断基準のひとつ、『カフェイン摂取後に指先が震えるか』っていうのも、やっぱり刺激物に対する受容性――器質的な違いを示唆しているんでしょう。まあ、少なくとも人口の十五パーセント以上の割合で存在するとも言われているから、たとえツォエがHSPでも、そんなに珍しいものでもないわね。
ただね、私、思うのよ。繊細に生まれて来ることはもしかしたら、罪なんじゃないかって。……相談に乗ることが生業の人間が言うべき台詞じゃないわね。けれど最近は特に思うの。普通はこう言うじゃない? 『繊細な人は普通の人より敏感に、多くのことを感じ取れる。だからそれは短所じゃなくて長所なんだ』って。少なくとも、こうやって多様性を認めようとする。HSPとのカウンセリングでも、抗不安薬を用いるよりは、こういったポジティブな面に焦点を当てさせる。
でも、本当にそうかしら? それって正しいのかな? 私はずっと見てきたわ。心を病むまで悩むのは、いつも繊細な人たちだった。対して鈍感で横柄な人たちは鉄の巨人みたい。周囲をなぎ倒し、踏み潰して進んでいく。そんな中で生きていくのは本当に大変よ。
……ええ、たかだが九歳の女の子だもの、強い弱いで語るのは間違っているだろうし、何より酷よね。だけど考えてみて。彼女に何が起きた? “災いは道連れが好き”と言うのなら、“不幸は空から降るのが好き”とも言えるんじゃない? こっちの心構えなんて、神様は気にしちゃくれない。準備はいいか、覚悟はできたか。そんなこと、誰も聞いちゃくれない。闘争の仕方も知らないまま、ある日突然、谷底に突き落とされるの。
結局、私と過ごした四週間、彼女は一度も心を開かなかった。私と会話することより、薬を欲しがった。どこで知ったのかなって今でも不思議に思うのよ。“こっち”での常識はほとんどないくせに、病院には心を楽にする薬があるとあの子は知っていた。私は心理セラピストよ、薬剤の処方には医師の許可がいる。でも直接診断するのは私だし、長く勤めていれば大抵はただの手続き上のことなの。
だけど今回に限っては許可が下りないことはわかっていた――もし私が許可を求めたとして、の話だけど。なぜかわかる? だってツォエは難民だから。お金なんかない。じゃあ誰が治療費を、入院費を払っているの? 何のために払っているの? 政府よ。政府が払っていたの。真相究明委員会が空爆に関する一次証拠を得るために。抗鬱剤だろうと何だろうと、子供に薬なんか使って幻覚とも妄想ともつかない証言をされるわけにはいかない。だけど同時に、九歳――戸籍もなくて、本当に九歳なのかもわからない少女に期待される部分が少なかったことも事実だった。
私がなにも成果を挙げられないまま二週間が過ぎた頃、治療の打ち切りが仄めかされた。びっくりしたわよ。早すぎるって。時間をかければ彼女は重要な証人になるかもしれないのに。だけどそういうことだった。難民の証言なんて、最初からいらなかったのかもしれない。私が医者に処方箋を求めるときのように、ツォエを治療させたのは単なる手続き上のことだったのかもしれない。そして治療が打ち切られたとして、ツォエがどうなるのか私には想像もつかなかった。社会福祉局の能無しどもに、どこに飛ばされるのかまったく予想できなかった。だから私、ツォエに言ったの。『お願いだからなにか覚えていることを喋って』とか、『何でもいい、そうしたら引き伸ばせるから』、とかね。
今になって、無責任なこと言ってたって思うわ。引き伸ばして、どうするつもりだったのかしら? 引き取る? ……ううん、そんな考え、頭をかすめもしなかった。
確かに仕事と自分のプライベートな人生は分けるべきよ、そもそも私たちにそんな義務ないもの。患者に深入りしすぎておかしくなってしまう先生だっていた。でもそれとは違う次元で、私は線引きしていたんだと思う。ツォエのこと、別の世界の人間として見ていたんだと思う。
彼女、もしかしたらそういうところ見抜いていたのかもしれない、汚染地帯出身ってことで私が距離を取っていたこと。歩み寄る振りをしながら、私の両腕は彼女に向けて一度も開かれなかった。優しく微笑みかける振りをしながら、私の両手は固く握り締められていた。汚染地帯出身者は害悪――ずっとそんな風に教育されてきたからとも言えるけど、この年にもなってひどい言い訳じゃない、それ? だからこれは、私の人間性の一部なんでしょう。でもね、だからこそ思うの。ちゃんと彼女と向き合えてたら、何か変わっていたかなって。
アリサは一旦そこで言葉を区切ると、後頭部の髪を一束集め、ぱちん、と再びバレッタで留めた。
「……それで、そうこうしてるうちに社会福祉局の担当のハゲとデブから連絡が入った。どういうわけかあいつら、里親を見つけてきたわ。汚染地帯出身の子に、よ。信じられなかった。だけど私も深く考えずに喜んだ。ツォエはすごく運がいいんだと思った。なのに当の本人は全然喜ばなくて、少し苛立ったことも覚えている。もちろんそんな様子見せなかったけどね。私の強張った笑顔を、彼女はじっと見つめていた。そうね、なに考えていたのかなあ。厄介払いできて喜んでる、っていう風に見えたのかもしれない。結局その後に起こったことを考えると、そう思われても仕方ないけれど……」
「でも、どこに引き取られるのか知っていたわけではないでしょう?」
黙って聞いていたクーリロワが口を挟む。アリサはかぶりを振る。
「それはソーシャルワーカーの管轄だから、私には知らされなかった。だけど知っていたとしても喜んだでしょうね。『すごいお金持ちじゃないの、良かったわねツォエ』って。だってさ、誰に想像できる? チャリティにいそしむかたわら麻薬取引に精を出すとんでもない夫婦に引き取られたなんて。だけどあの子が薬を欲しがっていたことを考えると、偶然なのか私にはわからなくなる。私から治療経過と報告書をもらっていた社会福祉局の奴らが繋がっていたのかなって邪推したくもなる。ねぇ教えて、クーリロワ。考えたくないことだけど、もしかして彼女も……」
クーリロワは頷いた。
「そう……やっぱり、ね」
アリサは少しの間、考え込んでいた。左手をぶらぶらと振って見えない筆を中空に走らせ、
「誰にも未来なんてわからないし、こうなるってわかっていたら当然止めたわ。でもやっぱり、責任の一端を感じる。だからどうしても知りたかった――ツォエがどうしているか。昨晩電話したとき、入間は言ったわ、山葉って男は大丈夫だ、絶対に子供を傷つけるような人じゃないって。だけど私は、直接行動を共にしたあなたに聞いて、確信を持ちたいのよ」
クーリロワにはわかった。これまでのアリサの言葉は、全て本心だったのだ。
すると、答えることに戸惑いはなくなった。頷くように顎を引く。
「山葉は、ずっとツォエを守ろうとしていました。問題を抱えているのは確かです。だけど、彼はいつも一番に彼女のことを考えていました。ツォエならきっと、大丈夫です」
どこか無責任な慰めに聞こえたのかもしれない。「だけど」と口を開きかけたアリサを遮って、クーリロワは続けた。
「入間先生があなたとの予定を蹴って外出したのは誰かから電話を受けたからです。私はそれ、山葉からだと信じています。ツォエのこと中毒だって知って、助けてもらおうとしているに違いありません」
アリサは何か言いかけ、止めた。小さく手を上げた。
「信じてる、か……。そう言われたら私、何も言い返せないわねぇ」
「それにツォエを一番傷つけたのは私です。ひどいこと、言いましたから」
目を伏せたクーリロワを眺め、アリサは静かに言う。
「やっぱり、汚染地帯出身だから?」
クーリロワはかぶりを振った。
無意識の精神の作用まで語るのなら、「絶対に」とまでは言い切れないとしても、自分の振る舞いや思考が下卑た階級意識によって定義されているとは、やはり信じたくない。なにより、後悔する気持ちは本物なのだ。もっと優しくしてあげるべきだった。無知を嗤うべきではなかった。もう一度面と向き合う機会が与えられるなら、謝らなければいけない……。
深刻な顔つきでそんなことをたどたどしく話し終えると、アリサはおもむろに口を開いた。
「ひとつだけ、言えることがあるわ」
そこで一歩近付き、一回り背の高いクーリロワの顔を下から覗き込んだ。反射的に身を硬くする。
「……あのね、謝ったり、優しくする前に、まず笑ってみなさい。そんな張り詰めた顔ばかりしてちゃ駄目よ。人を笑顔にするのはいつだって、他の人の笑顔なんだから」
叱声のようなものを予期していたクーリロワは、間の抜けた顔つきになった。
「笑顔、ですか……?」
「そうよ。それが人の心を動かすんだから」
考えたこともなかった。だけどそういえば。私も山葉も、ツォエの前でどれだけ笑っただろう? 嘲笑や冷笑ではなしに、純粋に周囲を励ます、優しい笑顔というのは? 状況というのも確かにあった。だがずっと重たい雰囲気だった。冷たく、重く、古びた井戸の底のような。暗くぽっかりと空いた口で、誰かが落ちてくるのを待っているような。
「ツォエね、私の前ではいつも無表情だったけれど、一度だけ違う顔をしているのを見たことがあるの。ぬいぐるみを撫でているときだったな。すごく安らいで、優しい顔をしてたわ。きっとこれがこの子の本当の顔なんだ、って思った。結局、私じゃぬいぐるみの代わりにもなれなかったけどね」
と、そこでアーモンドの瞳に悪戯っぽい色が光る。
「だから何が言いたいかというとね……もったいないのよ。ツォエもあなたも美人なんだから、いつも笑顔じゃなきゃさ。そうすれば男性なんてより取り見取りよ? そうやって怖い顔してるのは表情筋の怠慢なんだから」
もともと暗い雰囲気が苦手なのだろう、ほらほらこうやるのよこう、とアリサは笑う。クーリロワは少しの間無言で見つめ返していたが、やがて、ぷっと小さく吹き出す。
「あの、ごめんなさいアリサ……髪、バレッタで留めたところ、跳ねてるから……」
「え、嘘っ」
慌ててアリサは頭を押さえる。すぐ、押さえるより外した方が早いと思ったのだろう、バレッタをむしり取ると、後頭部を乱暴とも言える仕草でぎゅうっと撫で付けた。
「なによ、もう……私を笑えって意味じゃないのになぁ」
恥ずかしそうに口の中でもごもご呟きながらも、表情は穏やかだった。
「ちょっと、付けてくれるかしら」
銀色に光るバレッタを渡され、クーリロワはアリサの後ろに回る。しなやかに長く伸びた髪を一束取り、金具で挟もうとしたときだった。
「それ、可愛いでしょ?」とアリサが言う。
手元を眺め、“それ”とはバレッタに彫られた動物のことだとクーリロワは気付く。
「綺麗な尻尾の動物ですね……何ですか?」
「狐よ、狐。デフォルメされてるからちょっとわかりにくいかなぁ。でもお気に入りなの。それにほら、ツォエのぬいぐるみと同じよね」
――ああ、そういえばそうですね、偶然ですか?
そう言おうとしたところでクーリロワの喉は痙攣した。
全身に、粘っこい嫌な汗が噴き出していた。
「狐……?」
「ええ、彼女の持っていたぬいぐるみよ。あれ、ひょっとして知らない? ぼろぼろだったけど、ずいぶん大事そうにしていたわ。だけどあなたが知らないなら、もしかして壊れちゃったのかなぁ」
ぼろぼろの、狐のぬいぐるみ……。
知らないはずがなかった。よく覚えている。どんなにツォエが大事にしていたのかも。
「ねぇ、どうかしたの?」
髪を握ったまま硬直した彼女に、アリサは振り返る。指で作った輪の中を、黒い川水のような髪がするりと抜けていく。いえ、とクーリロワが力なく首を振るも、その声は擦れている。アリサには聞こえなかったかもしれない。
そうだ、ツォエはぬいぐるみ――《変な生き物》を大事にしていた。
しかし、大事にしていたのはなぜか。
そしてアリサが心理セラピストとして彼女を担当していたのは、何時のことだったのか。
それらを考えたとき、うなじにぞっと鳥肌が立った。
もしかして、エレベータの前にいた医者が言ってたのは……。
もしかしたらではなかった。
ほとんど彼女は確信していた。そんな馬鹿な。だがつじつまは合うのだ。どうしようもなくしっくり来るのだ。今や、全ての疑問を埋める答えはただひとつしかないように思えた。
「入間先生は、」
「え、入間……? アイツがどうしたの?」
どこか不安の混じったアリサの声。しかし気にかけていられない。このことを入間は知っているだろうか。そうクーリロワは思った。そして即座に答えが返ってくる。カウンセリングルームで少年について言及したときのあの反応、間違いなく入間は知っている。そしてもし知っているのなら――
(山葉に話す? 彼なら知る権利があると――知る必要があると思って?)
そして、話したらどうなる? 話して、山葉がもし彼女と同じ結論に達したら? そしてもし、達した結論を衝動的に入間に教えたら……? “彼ら”はそれを放っておくだろうか。
(そんなわけ……)
頭の中で、がんがんと激しい警鐘が鳴っていた。粘つく汗の正体がわかった。無意識で先に気付き、今ようやく意識に達した恐ろしい可能性。
(まずい、どうすればいいの……このままじゃ)
「――このままじゃ先生が危ないわ」
気付けば唇が勝手に動き、はっきりとそう呟いていた。アリサの表情が変わる。
「ちょ、ちょっと……危ないってなに? さっきからどういうこと? ねぇお願い、なにか隠してることがあるなら私に言って」
動揺して詰め寄った彼女に押され、クーリロワは手すりに背中をぶつけた。
肘が当たり、置いていたコーヒーがロビーへ向けて落ちていく。
「あっ」
妙にゆっくりと映る落下を眺めながら、冷静な部分の意識がぼんやりと思う。
――保温蓋を外していないから、きっとまだ、ものすごく熱いはず。
そして一秒後、男の悲鳴。




